中華のどこか、温かい場所。月が青く澄んだ夜。二人分の人影があった。川船で肩を寄せ合う。酒は無い。身重に酒は毒だからだ。光源は頼りない灯火のみ。しばしば揺れる火の動き越しにも、二人分の人影は揺らがない。
「天子は太陽である、とは誰の言葉か…貴方の言葉か?誰であれ、これは言い得て妙だ。いいや、誰が言った所で意味さえ変わらなければ好い。私には天子様には太陽でいて貰ったほうが都合が好い、というだけだよ。」
「この話は置いておこう…私は、まだ貴方を許した覚えはないぞ。私も、貴方に許して貰えないままだ。いや、後者に関しては私が望んだからなのだが、な。」
「…穏やか過ぎて、忘れそうになる。私は生まれて初めて後悔した。あの日、私は深く後悔したんだ。」
「あの日…忘れもしないあの日。燕に帰った私を出迎えたのは、貴方の首のない骸であった。」
「あの時の絶望と言えば、言えば、否、言えぬな。何とも、癒えん。傷はそのままだ。」
「首は何処だ。貴方の首は何処にある。」
「私は発狂した。貴方の骨の髄が見える、その不格好な断面を視て。私は嘔吐せず、涙せず、慟哭せず。ただ淡々と発狂した。」
「自分の中身が根本的に造り替えられていく感覚を味わった。帰ってきた晩、そのまま貴方の隣で寝た。丁寧に胸の上で手が組まれていた。布団がかけられていて、なにか華やぐ香りもした。私は怒りでも悲しみでもなく、唯々嫉妬に駆られた。」
「貴方の死を見届け、その死と首を託された何者かへの嫉妬。貴方の顔を忘れられなくなった。普通ならば逆なのに。次第に薄れていくはずなのに。腐らない死体の不可思議も、次第にそれこそが正常なのだと思うようになり、私の中で貴方への想いは不道徳なまでに増幅していった。来る日も来る日も。私の失態を責める為に訪れた太子と衛兵に、貴方と暮らした家を囲まれる段に至るまで。」
「槍を突きつけられて縄打たれる瞬間まで、私はじっくりと貴方の全身をくまなく目に焼き付けていたんだ。服を剥ぎ、その白く透き通った肌を温かい湯を染み込ませた布で拭った。私も服を脱ぎ、貴方の首のない裸体に抱き着いては、ある筈のない温もりを貪っていたのだ。酒の味を忘れていたほどだよ。本当だよ。」
「あぁ、本当に。貴方の肌はね、甘いんだ。甘かったよ。汗などかくはずも無いのに、それでも貴方のカラダは熱だけは失わなかった。確かに、私の身も心をも内側から煮詰める熱があった。」
「貴方が首を差し出してまで私を救ってくれたことを知るのに、それほど時間はいらなかった。貴方は聡明だが、人に言えぬ程度には情に脆く、気持ちが先行する嫌いがある。私と同じで、貴方もまたこっち側だった訳だな。無くなった匕首も、秦王の豹変も、術を操る釣り師も…まったく、今思えばどれも不可解極まりないことばかりだ。」
「だが、そんなことを言っていては老いを知らぬ貴方の傍には居られまい。私に何の相談もなく断行したことに怒りは沸くが、それ以上に私が馬鹿だったのだ。過ち、結果的に貴方は一命を賭してくれた。苦痛と快楽が同時に訪れる感覚はああいうことを言うのだな。人は皆、狂うであろうな。違いない。二度と味わいたくないものだったが…。」
「だが、お陰で全てを理解した。縄打たれ、貴方から引き離され、目の前で家ごと首のない貴方を焼かれて、ようやく何が好くて何が悪いのかわかったんだ。私の意志か、貴方の意志か。お誂え向きに自害の為にと太子は私に匕首を差し出してくれた。自分の得物で自らの命を奪え、という皮肉だったのだろう。」
「…いや、これも貴方の導きか。運命、天命…言葉は色々だが、要するにそういう鬨が来たのだ。私は匕首を振るい、その場で太子と衛兵を全て斬り殺した。向こうの刃が私の肌に届くことは無かった、恐ろしいまでに匕首は切れ味が良かった。刃に毒を焼き入れて尚、あのような切れ味には到底届かなかったと思うのだが…これもまた一種、変容の対価だと思うことにしておこう。お陰で私は全てを振り切るに足る力を得たのだから。貴方さえいれば好いのだと、揺るがぬ意志を固めることが出来たのだから。」
「黒焦げの貴方の胴体を…残して私は、匕首と太子の首だけを手に秦に向かった。」
「咸陽の門を潜り抜けたあたりで、見計らったように現れた秦王に謁見し、太子の首と貴方の首を交換した。秦王は渋っていたが、それでも貴方の首を帰してくれた。道理の無い王ではなかったと、遅れながらも理解した…謝罪こそしなかったが。私を諫めた貴方の気持ちに納得したよ。」
「それから…それからは、もう貴方も知っての通りだ。燕に忍び込み盗み出した黒焦げの貴方の胴体と、秦王から取り返した首を縫い合わせた。そうしていつも通り貴方の横で一夜を明かせば、それだけで次の朝には綺麗な貴方が私の隣で眠っていた。」
「は…ははッ…あれには心底驚いた。何がどうなってるのやら、だが酷く安堵した。貴方が帰ってきてくれたから。それで全て丸く収まった。何も不満はないのだ。」
「…ま、まぁ、話せばこの通りだ。何が言いたかったのか、何を言葉にしようとしているのか、私にもよくわからないのだ。ただ、気がつけばこうして平穏な日常を手に入れた自分の現が、夢か真かと…戸惑うばかりの日々なのだ。今一度貴方を奪われれば、その時こそ私は生きる希望を失うことだろう。」
「酒に酔うていた頃と、何も変わっていない。隣には貴方が居てくれる。月は今宵も青く澄んでいて、夜風は川面を滑り私と貴方の火照りを醒ましてくれる。酔うものが変わっただけか?否、初めから貴方に酔うていたような気もするな。」
「ともあれ…あぁ、貴方の言う通り今宵の月も澄んでいるな。フフフ…晴天の夜に恵まれ深く刻まれた影、あの月の窪みに酒を並々と注ぎ、いと高いあすこから貴方を肴にして干してみたいものだ。」
「花を肴に呑むのも中々乙なものだが…なに?花は無いだろう、だと?いいや、私の隣に咲いている。枯れぬ花が咲いているぞ。水面を覗き込み、存分に愛でるといい。この花は比類なく美しい。お陰で私は…他の花にはおろかどんな宝物を前にしても、瞳からその花以外の物を視る色を失ってしまった。」
「頬が赤い、か……少し浮ついた言葉を並べ過ぎた。あぁ私と貴方、二人の遊侠の徒はただ歪な春を揺蕩うばかりであるなぁ。」
「ハハハッ!好い気分だ!今夜の私は笑い上戸だッ!……照れ隠しだ。そう、まじまじと見るな。」
「然はあれ、焼ける岩の如く重たい話も千秋去れば羽毛の様なもの、貴方との今よ永久に在れ。嵐を避け、雨を避け、山を避け、谷を避け、暑さを避け、寒さを避け、と…壮士の面目が丸潰れだ。だが、それでもいい。好いと思える。」
「私は刺客として名を遺すこともなく、誰に記憶されることも無い。だが、それで好い。私が望んだ。貴方に出逢ってしまったばかりに、私が貴方を選んだばかりに。」
「だが、貴方に選ばれ、貴方を選んだが故に得たものもまたあるのだから不思議だ。堕落。退廃。冒涜的な安寧と快楽…羅列するのも憚られる、貴方が私に注いでくれた全て、私が貴方に注がずにはいられない全て…その全てが狂おしいまでに温もりに満ちていようとは、私と同じ境遇に置かれなければ理解できまい。」
「どうして忘れていたのか、懐かしいことのように過去の偉人の業績を思い出す感覚は今でも慣れないが…。だが、こうして思い出すということはつまり、彼らも私の同族と言うことかな?…ふむ、となれば貴方は私にも勝る遊侠の求道者だな。」
「…難しい話は此処までにしよう。明日も早い…そうだ、明日は土いじりをしてから久しぶりに剣の稽古でもしてみようか。」
「貴方もどうだ?手取り足取り、隅から隅まで教えてやることにしよう。む?明日は釣りの先約があるだと?」
「…そうだった、そういえばあの御仁も私と同じ穴のムジナであったか。ふむ、ならば明後日にしよう。稀代の軍師との知恵比べは、今の私でも流石に分が悪いからな。」
「ふふっ…稚いというか、なんというか、ぬるま湯の日々にすっかり馴染んでしまったな。私も、骨抜きにされたものだ。っと…ぅう、少し風が冷えて来たな。まさか我が身に子を宿すとは…秦王を殺そうとしていた頃は思いもしなかったことだな…。」
「ささ、今日のところはここまでにして眠るとしよう。明日の朝も、早く起きた方が遅い方を起こすこととして。飯当番は起こされた方にしよう。」
「いつもどおり。あぁ、いつもどおりだとも。」
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。