史徒奪名録   作:ヤン・デ・レェ

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09「妃子笑」傾国の貴妃1

 

 

 

 

「嗚呼、嗚呼、許してくれ。」

 

「玉環よ、どうか朕を許してくれ。」

 

 

玄宗皇帝に見送られて、華美な装いの女が一人、薄暗い奥の部屋に姿を消した。続いて、男…否、宦官が二人彼女の後を追って部屋の中に消えて行った。

 

 

 

 

 

女は逃げることのできぬ様にと縄打たれた。埃一つ落ちていない、艶やかな石の床に腰を下ろしてその時を待った。

 

「陛下より、貴女の身を傷つけることは禁じられておりますれば。」

 

そう言って宦官の片割れが女に近寄り、彼女の衣の帯を剥いだ。衣の帯は絹で出来たものだった。透き通るような絹だ。皇帝から贈られた無数の宝物の中の一点だ。恐らくこのように繊細な絹の帯では、かの巨漢安禄山の息の根を止めるには物足りまい。

 

だがこの死に際して尚も馥郁を纏った女を殺すのには余りあるほどだった。

 

女の美しい首筋に二周と巻き付ければ、もうそれで全てをお仕舞にできるのだ。あれほど玄宗が寵愛を傾けた彼女、その女の死を託された忠臣高力士の手で絞め抜かれれば、よもや何の誤りが起こり得ようか。

 

「どうか、お許しください。これもまた、陛下のご寵愛を受けたが故。恵み豊かであればこそ、その災いもまた計り知れぬもの。どうか、お許しください。」

 

皇帝陛下への忠義厚きこの大力持ちの宦官の手は震えることもなく、淡々と絹を女の首に巻いてやった。冬の寒さから女の身を守るために、玄宗が白貂の毛皮を女の首に巻くように。

 

「最期に妃子笑が食べたいの。」

 

背中の広い宦官の手が停まった。何故、今更そんなことを言うのか。宦官の疑問に答えたのは、もう一人の宦官だった。

 

「ここにございます。」

 

その宦官が捧げ持つように抱える銀の深い器には、確かに妃子笑と砕いた氷とが盛られていた。

 

「食べさせて頂戴。」

 

「仰せのままに。」

 

その細身の宦官は、これから死ぬ女と共に朝廷に登り、今日まで一日も欠かすことなく女の傍で仕えて来た者だった。玄宗に寵愛される女は、外ならぬ玄宗から度々この宦官から引き離されそうになり、その度にその美貌を歪ませた。

 

拗ねた傾国に勝てる者は居なかった。例え、大中華帝国の頂点に立つ男であったとしても、である。

 

玄宗は終ぞ、その宦官から女を奪うことが出来なかった。だが、この宦官には何か優れた点が何一つ見当たらなかった。楽器も一切弾けず、膳役の気配りも未熟で万事要領が悪く、野心の色を尋ねるような大人しい、気持ちが優しいばかりの愚鈍な存在だった。顔も大層醜いらしく、女は玄宗に決してその宦官の顔を見せなかった。結局、玄宗は男としての優越感に浸るために度々この宦官に目を懸け、時には嘲笑の種とした。

 

そんな、毒にも薬にもならぬ宦官が、今ここに在っては高力士をも退けた。否、女の眼が言っていたのだ。

 

「出て行け」と。

 

今生最期の食事。甘い果実で喉を潤す、その為のほんの僅かな時間ならば仕方あるまい。それくらいの慈悲の心はある。

 

高力士はそのように、己に言い訳をした。怯んだことを悟られてはならなかった。

 

後宮で天敵の居なかった女の、ぬくぬくと安穏な生を謳歌していただけの女の眼光ではなかった。

 

あの安禄山とて、今この瞬間に高力士を貫いたような覇気を、それこそ女を知る前の玄宗とて持ち得なかった肌を炙られるような威圧を放つ眼差しなど…高力士は何も見ていないのだ。それこそ、空を知らぬ鸚鵡の様な女をこれから殺すのだから。ただ、それだけの女を殺すだけなのだから。

 

高力士は己を騙した。再びあの瞳に捉まれば、女を縊ることが出来なくなる…そんな恐怖を抱いたことを。

 

高力士は黙ってすごすご退いた。大きな体を縮こませると、女の眼光から逃れる様に俯いてそっと戸を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。
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