いよいよ地区大会1回戦当日を迎えた。
この1回戦に勝利し2回戦、決勝と勝ち進めば、春の甲子園出場がほぼ確実に決まる。
「いよいよだね…!」
球場入りする聖ジャスミンナインの顔は緊張でこわばる。
そんな俺たちに監督が声をかける。
「ほらみんな、リラックスして?
そんなに緊張してちゃ勝てるものも勝てなくなるよ!」
「環ちゃんはずいぶん落ち着いてるでやんすね…?」
「そりゃ〜ね。
度を超えた緊張なんてマイナスに働くだけだし。
それにみんなも頑張ってきたんだから、案外余裕で勝っちゃうかもよ?」
「はは…そうだといいですけど」
俺の返答に監督は、さらに声のボリュームを上げる。
「瀬尾君、暗い暗い!
別に取って食われるわけじゃないんだから。
相手は君たちと同じ高校生、試合すればなんとかなるよ!」
「しーっ!
監督、そんな大きい声を出したら聞かれるでやんすよ!?」
矢部君はキョロキョロと辺りの様子を伺う。
だがそこにタイミング悪く現れた帝王高校の選手たちと出くわしてしまった。
「おいおい、俺たちに勝つ気かよ?」
「身の程知らずとはこのことだな」
「ハハハッ」と遠目から、わざわざ俺たちに聞こえるように笑う帝王の選手たち。
その嘲笑からは明らかな悪意、そして心の底から俺たちを見下しているということが見て取れた。
「ちょっと!
その態度はないでしょ!
これから戦う相手をリスペクトする気持ちはないの!?」
憤慨する監督。
他のみんなも、相手側のあまりにも酷い態度に怒りが込み上げているようだ。
とその時、
「いやぁ、すいませんでした」
帝王の選手たちの中から1人の男がこちらに向かってきた。
「僕は帝王高校のキャプテン、蛇島 桐人と申します。
うちの部員が失礼しました。
ただ彼らもこれから試合だということで、はやる気持ちが抑えられないようで…
どうかお許しください」
…蛇島 桐人。
1年生でありながら実力主義の帝王高校でキャプテンを務める、プロ注目の内野手。
投手陣の核が山口なら、野手陣の要が蛇島と言えるだろう。
「…こちらこそ熱くなっちゃったね、ごめんなさい」
監督の怒りが収まったのを見計らって、蛇島は笑顔を浮かべる。
「今日はいい試合をしましょう。
では、これで失礼します」
去っていく蛇島の姿を見ながら矢部君はつぶやいた。
「帝王にもいい人がいるんでやんすねぇ」
…そうだろうか。
確かに物腰の柔らかい、名門校のキャプテンにふさわしい人物に見えた。
だが監督と言葉を交わしていた時も彼の目は笑っていなかった。
そして、鈍く冷たい光を宿した彼の視線を受けた時、俺の背筋には悪寒が走ったのだ。
あいつは何かおかしい、危険だ…と。
…これが杞憂ならばいいのだが。
俺の心配をよそに試合の開始が近づく。
そして監督が口を開いた。
「…時間だね。
さあ、みんな!
この試合、勝ちにいくよ!」
「はい!!」
そうだ、今そんなことはどうでもいい。
とにかくこの試合で勝つことだけを考えよう。
甲子園に行くのに避けて通れない、最大の難関を乗り越えるために。
☆
両校のスタメンが発表された。
先攻は俺たち聖ジャスミン学園、後攻は帝王実業高校となった。
聖ジャスミン
1番 センター 矢部
2番 ショート 小山
3番 ライト 瀬尾
4番 サード 大空
5番 レフト 美藤
6番 セカンド 夏野
7番 キャッチャー 小鷹
8番 ピッチャー 太刀川
9番 ファースト 川星
帝王実業
1番 ライト 下田
2番 ショート 村井
3番 サード 木下
4番 セカンド 蛇島
5番 ファースト 綾部
6番 レフト 上川
7番 ピッチャー 山口
8番 センター浦野
9番 キャッチャー 嶺
以上となった。
打線の中で注意すべきはやはり4番の蛇島だろう。
走攻守の揃った選手だが、特に低めの変化球を拾ってヒットゾーンに運ぶ打撃技術は高校生としてはトップレベル。
だが常に長打を警戒しなくてはいけないタイプのバッターではない。
蛇島個人を徹底的に抑えようとするよりも、塁が埋まった状況で蛇島を迎えないように注意を払うべきだろう。
そして1番の問題は、超高校級のフォークを武器とする山口をいかに攻略するか…だ。
そのためにはなんとか出塁してランナーを警戒させ、あの落差の大きいフォークを投げる回数を制限させる。
そしてまっすぐを打ち返すしかない。
それほど落ちる変化球を打つのは難しいのだ。
だからこそ頑張ってくれ…頼んだよ。
「1番 センター 矢部君」
「いくでやんすよ〜!」
矢部君はバットを何回か振ってから打席に入る。
構えたバットは大きくグリップを余して持たれており、彼なりの試行錯誤が見て取れる。
山口は投球動作に入る。
ワインドアップから左足を大きく振り上げる。
マサカリ投法だ。
その独特なフォームからの初球。
矢部君は投じられた半速球を打ちにいく。
だがそのボールは手元で大きく落ちた。
「ブンッ」
…空振り。
「あれが山口のフォークボールか…」
本当にすごい落差だ。
でもまさか、第1球からフォークを投げるとは…
カウントを稼ぐ時に投げていた小さく落ちるフォークならあるかもしれないとは思っていたけど、あれはボールゾーンまで落ちる三振を狙う時のフォークだ。
…なぜあのボールを選んだのだろうか。
俺たちにあの伝家の宝刀を見せつけるためか?
フォークを意識させてストレートを活かそうとしている…とか?
でも山口にとっては、ストレートはあくまで見せ球でありカウントを稼ぐ球だ。
フォークで三振を奪うための布石にすぎない。
…少なくとも今までの試合ではそうだった。
単純に先頭打者を確実に打ち取ろうとしたのかもしれない。
「ストライク!
バッターアウト!」
初球で意表を突かれた矢部君は簡単に追い込まれ、三振に倒れた。
「面目ないでやんす…」
続く小山君も早いカウントのフォークに手を出しショートゴロ。
これで2アウト。
そして俺の打席になる。
「3番 ライト 瀬尾君」
打席に入りバットを構える。
1球目は高めのストレート。
とっさに強振に切り替えてバットを振る。
「キィィン!」
打球はレフトのファウルスタンドに飛び込む。
つい欲張って引っ張りすぎた…
電光掲示板を見ると球速は124km/hと表示されていた。
…山口にしては遅いな。
今のストレートだろ?
山口は間髪入れず投球に移る。
「くっ…!」
もう少し考えさせてくれよ…!
球種は小さく落ちるフォーク。
だかコースが甘い。
真ん中低めだ。
今度は素直に…打ち返す!
「キン!」
打球は二遊間へ。
だが勢いが足りない。
蛇島が追いつきジャンピングスロー。
「アウト!」
これで3アウト。
蛇島の上手い守備にやられた。
…でも今日の山口は何かおかしい。
さっきの小さいフォークは、今までの試合なら打ってもファウル、もしくは内野ゴロになるであろうコースに制球されていた。
でも今のボールは甘いコースにきた。
ストレートにしてもボールに勢いがない。
「山口のボールどうだった?」
「う〜ん……
ひょっとしたら今日の山口は調子悪いのかも。
スピードもコントロールも予選の時ほどじゃないと思うよ」
「不調でもあの落差のフォークでやんすか!?
恐ろしいでやんす…」
確かに矢部君の初球、あのフォークの落差はすごかった。
でも…
「矢部君の打席以外では大きいフォークを投げてないよね?」
「確かに…」
「何かフォークを多投するのを避けるような理由があるのかな?」
「なんにせよ、フォークを使いこなせないんなら山口も怖くないわ」
「…そうだね。
でも、もう攻撃は終わった。
切り替えて1回裏を0点に抑えよう」
「おー!」
聖ジャスミンナインが守備につく。
太刀川さんはロジンバックを手に取る。
ロジンを置いた太刀川さんの指先から白粉が舞う。
1番は下田。
左打者だ。
バッターに対し太刀川さんはボールを投げる。
「ボール!」
初球は外角へのボール。
コースは悪くない。
2球目も外角へのストレートを続ける。
「バシッ!」
これもきわどいコース。
しかしこれもボールの判定。
結局3ボール1ストライクとなり、5球目の真ん中低めへのシュートでセカンドゴロ。
続く2番、3番も打ち取ったものの、ボールが先行する難しい立ち上がりとなった。
「今日の審判は判定が辛いわね…」
小鷹さんがベンチに戻りながら太刀川さんに声をかける。
「そうだね…
でもバッターの見極めもよかったんだよ」
帝王の得点パターンはランナーをためて蛇島が返す、というものだ。
そのため帝王の上位打線は、選球眼がよく打率がそれほど高くないわりにフォアボールをもぎ取って出塁するケースが多い。
「あまりコースを狙いすぎるのも考えものだね」
「そうね…
バッターの力量を見て、こちらが優位ならどんどんストライク取ってくわよ!」
2回表。
ジャスミンの攻撃は4番の大空さんから。
ストレート、フォークが外れ2ボールとなっての3球目。
投じられたのはストライクからボールになる大きいフォーク。
「…っ!!」
大空さんはスイングを始めたバットをなんとか止める。
「ボール、ボール!」
「おおっ!」
「見極めたにゃー!」
続く4球目も外れフォアボール。
ノーアウト1塁。
バッターは美藤さん。
……シュッ!
山口は1塁に牽制球を投げる。
ランナーは戻りセーフ。
そして改めて美藤さんへの初球が投じられた。
ランナーがいるためクイックで投げる山口。
しかしあのマサカリ投法では速くは投げきれない。
投じられたのは外角高めへのストレート。
外れてボール。
ランナーを警戒してわざと外したのだろうか。
キャッチャーが捕球してすぐに1塁に送球する動きだけを見せた。
やはり帝王バッテリーはランナーを警戒しているようだ。
それも必要以上に。
となれば…
監督がサインを出す。
山口がモーションに入ったその時、大空さんがスタートを切った。
「走ったぞ!」
チームメイトの声に山口も急いでボールを投げる。
しかし球種は小さいフォーク。
直球より遅い分捕手に届くのも遅れる。
これだと刺すか刺されるか際どいタイミングになりそうだ。
捕手のミットにボールが収まれば…だが。
「ふっ!」
美藤さんはバットを振った。
そのスイングは鋭く、単独スチールを援護するものでないことは一目でわかった。
「キィン!」
外角へのフォークにバットを当てる。
グラウンダーの打球は一二塁間へ。
美藤さんは流し打ちが上手く、必然的にレフト方向への打球が多くなる。
それがデータとしてわかっていたのか、帝王の守備は三遊間を狭めセカンドが2塁ベースに近いところを守っていた。
そして投じられたのはアウトコースへのフォーク。
このボールを引っ張るのは難しいと考えたのだろう。
だが美藤さんなら、遅い変化球を好きな方向に打つくらいはできる。
一二塁間のヒットゾーンが広がっていれば、引っ張った打球がヒットになる確率も高まるんだ。
蛇島が飛びつくが、わずかに及ばない。
打球はライト前まで転がり、1塁ランナーはサードまで進んだ。
ノーアウト1・3塁。
そして次のバッターは、この試合から6番に座る夏野さん。
ノーアウトでランナーが3塁にいる場面で、ヒッティング、スクイズ、犠牲フライ狙いと何でもできるバッターが打席に立った。
山口はランナーをちらりと見てから投球に移る。
1塁ランナーはスタート。
夏野さんはストレートを見逃す。
判定はストライク。
キャッチャーはサードランナーの進塁を警戒して2塁への送球を諦めた。
2球目は外角高めに外して1-1。
3球目は内角への変化球。
併殺を狙ったのであろうこの球を見極め、2ボール1ストライクとなった。
そして4球目。
山口が足を上げると同時にランナーがスタートした。
夏野さんはバントの構えを見せる。
スクイズ。
一塁手と三塁手は前進。
山口が投じたのは内角高めのストレート。
少し上に外れたボール球だ。
帝王守備陣の高速チャージを見て、夏野さんは瞬時に判断を下した。
寝かせていたバットを引きヒッティングに切り替えたのだ。
「バスターだ!!」
ベンチからの声も虚しく、バットは高めのボールをとらえる。
打球は前進した一塁手の頭上をフラフラと通過し、フェアグラウンドに落ちた。
スタートを切っていたため2塁ランナーもホームに還ってきた。
2点タイムリーヒット。
貴重な先制点を叩き出した。
「よしっ!
我ながらよく打った!」
夏野さんは手を叩いて喜ぶ。
状況に応じて対応を変えられる柔軟さと判断力。
そして確かな技術。
夏野さんの強みが出た打席だった。
しかし続く小鷹さんが併殺、太刀川さんは三振に打ち取られ3アウト。
大量得点とはならなかったが、2点を先制。
2点という数字以上に大きな得点となった。
太刀川さんがベンチに戻る頃にはナインの盛り上がりも落ち着きを見せ、配球や打撃についてみんなが言葉を交わしていた。
「やはり今日の山口は調子が悪いようだな。
あれなら打てないこともない」
「それにコントロールも定まってないからフォアボールで出塁できるかもー!」
美藤さんが腕組みをしながら言うと、大空さんもそう続けた。
「注意すべきは落差の大きい、空振りを取るためのフォークだな。
あのボールだけは、打とうとしてもバットになかなか当たらないだろう」
確かに矢部君や太刀川さんが三振を喫したのは、落差の大きいフォークだ。
何か対策を考えないと…
「帝王もこれ以上の失点は許したくないだろうから、大きいフォークを投げる回数が増えるかもね」
「ランナーが3塁にいるならともかく、1塁や2塁にいる場面だったら盗塁や暴投、捕逸のリスクを背負ってでも投げてくるかもしれないわね…
そうなるとアウトカウントが溜まった状況でしかランナー3塁の場面を作れない」
「とにかくチャンスを一回で仕留めないといけないッスね!」
リードして迎えた2回裏。
太刀川さんは先頭打者の蛇島にツーベースヒットを許す。
5番打者を歩かせてしまったものの、6番はショートフライに打ち取り1アウト。
そして7番の山口を4-6-3のダブルプレイに打ち取りピンチを切り抜ける。
審判の厳しい判定、そして太刀川さん自身の制球のばらつきのため苦しみながらも無失点に抑えた。
3回表、ジャスミンの攻撃はラストバッターの川星さんから。
…だったが山口の大きいフォークの前に三振に倒れる。
「…あのフォークはエグいね」
「あんなの狙っても打てないよ…」
打順は一巡して1番の矢部君に打席が回る。
山口が大きく足を上げる。
マサカリ投法から繰り出されたのは、カウント球のストレート。
その球を矢部君はセーフティバントで投手と三塁手の間に転がす。
投球直後でバランスを崩していたのか、山口はボールを掴もうとするものの手につかない。
その間に矢部君は1塁を走り抜けた。
内野安打で1アウト1塁。
次のバッターは2番の小山君。
この試合を迎えるまでチームの切り込み隊長として活躍してきた小山君に、帝王バッテリーも警戒を見せる。
ここで1塁に牽制。
大きいリードをとっていた矢部君は頭から滑り込んで1塁に戻る。
ランナーに釘をさしてからの初球。
球種はストレート。
これが外角に決まりストライク。
この投球の間に矢部君は2塁へ。
キャッチャーも懸命に送球をするが間に合わない。
1アウトランナー2塁、カウントノーボール1ストライク。
2球目。
山口が投球を始めると同時に矢部君が動く。
自身の盗塁で2塁ランナーとなった矢君部だが、簡単には止まらない。
果敢にスタートを切る。
初球よりもきわどいコースにストレートが決まる。
判定はストライクとなった。
しかし完璧に山口のフォームを盗んだ矢部君は悠々と3塁へ。
「すごいッス!
矢部君、超速いッス!!」
「…これは評価を改めないとね。
矢部はただのオタメガネじゃないわ……足の速いオタメガネよ!!」
「美麗ちゃん…何気にひどいッス!!」
矢部君の好走塁がチームを盛り上げる。
…盛り上がりはした…だがその内容が…
確かに小鷹さんの中の矢部君像に、ポジティブな要素は加わった。
だが、ネガティブな部分が消えていない…!
あれだけのプレイを見せたのに、まだ…足りないのか……!!
矢部君が仮に溺れている人を助けたとしても、好感度がプラスに振り切ることはなさそうだ。
不憫だ…
ベンチにガッツポーズを向けている矢部君がこれを聞いたら、どんな顔をするんだろう。
…知らぬが仏と言うし、都合の悪い真実は伏せておくべきだな。
だからせめてこの言葉を贈ろう。
「ナイスラン、矢部君!」
矢部君の奮闘でランナー3塁となってからの3球目。
「…!!」
投じられたのは内角へのストレート。
小山君は腰を引いてボールを避ける。
…簡単に3球勝負はしてこないか。
続く4球目。
山口の手から「ビュッ」と勢いよくボールが放たれた。
「ーーーっ!!」
「ミヤビン危ない!」
ベンチから声が飛ぶ。
小山君は仰け反り、尻餅をついた。
ヘルメットはその拍子に脱げ、小山君の傍らに落ちた。
胸元…いや顔に近いところへの危険なボール。
当たればただでは済まないであろう球だった。
「よかった…怪我はないみたいだね」
「うん…変化球がすっぽ抜けたのかな?
球速が遅かった分なんとか避けられた感じだったね。」
小鷹さんは声を荒げる。
「なんて球を放るのよ!
打者を怪我させないっていうのが内角を攻める時の最低条件でしょ!
あんなの当たったら危なかったわよ!!」
小鷹さんは安堵より怒り、腹立たしさの方が大きいといった様子だ。
彼女は攻撃的なリードを持ち味とする捕手だ。
だが俺は、小鷹さんが打者に危険が及ぶようなブラッシュボールを要求する姿を見たことがない。
小鷹さんにとってのインコースへのボールは、駆け引きの道具であり、投手を奮い立たせるサインなのだろう。
だからこそ、あのような危険なボールは許せなかったのだ。
小山君はユニフォームに付いた砂をぽんぽんと払い、ヘルメットを被り直す。
そして再び打席に立った。
そしてこの場面で監督がサインを送る。
小山がそれを受けて頷いた。
バットを構えて、迎える5球目。
2ストライク2ボール。
バッターを抑えるために決め球を投げてくるであろう場面。
山口がボールを投げたその時、「走ったぞ!」という声が響いた。
3塁ランナーの矢部君がここでもまた、スタートを切ったのだ。
山口が投げたのは落差の大きいフォーク。
小山君は小技が上手い。
でもこのレベルのフォークをバントして、ランナーをホームに迎え入れることができるかというと、その確率は高くはないだろう。
あんなにも大きな変化をするボールなのだから。
それなのになぜ矢部君が走ったか。
スクイズでないなら、あれはただの暴走でしかない。
そう、普通ならば。
「くっ…!!」
小山君は内角へのボールを2球続けられ、外角のボールが遠く感じていたはずだ。
そんな状況で外角のいいコースへのフォークを投げられたら、バットに当てるのも難しい。
だが小山君は当てた。
なんとか腕を伸ばしバットの先にコツンと当てたのだ。
打球は投手の右横へのボテボテの当たり。
しかし矢部君にはそれで十分だった。
勢いのない打球を山口が追い、遊撃手が前進する。
その間に矢部君がホームベースに滑り込む。
ホームイン。
1点追加し3-0。
打球は遊撃手が処理しショートゴロ。
2アウトランナーなしとなった。
ネクストバッターズサークルからホームインした矢部君の方に向かう。
「すごい走塁だったね、矢部君!」
「ふっふっふっ…
瀬尾君、オイラの俊足見たでやんすか?
これが男・矢部 明雄でやんす!」
そして打点を挙げた小山ともハイタッチ。
「ナイスバッティング!」
「ふぅ…なんとか前に転がせたよ。
監督も思い切った指示出すよね」
監督のサインは3塁ランナーのギャンブルスタート。
小山君の仕事はなんとか打球を前に転がすことだった。
スクイズでなかったのは、山口の全力のフォークをバントするよりは、ヒッティングで迎え撃つ方がゴロを打てる可能性が高いという判断だったのだ。
その重要な役目を果たした小山君はベンチに戻る際、すれ違いざまに囁いた。
「山口君のフォークはすごいボールだったけど…
プロのすごい投手の変化球ってさ、消えたような…とか止まったように感じる…とか言うじゃない?
そういう感じじゃなかったんだ。
落差はあるけど、手も足も出ない、お手上げだってボールじゃなかった。
瀬尾君のスプリットとかチェンジアップをいつも見てるからかな?
だからね……」
瀬尾君だったらホームラン打てるんじゃないかな。
そう言ってベンチに戻る小山君。
才能豊かな彼だからそう感じたのだと思うけど…
そう言われるとやってやろうという気分になる。
「3番 ライト 瀬尾君」
バットのグリップに滑り止めのスプレーを振りかけ、感触を確かめてから打席に向かう。
…2アウトでランナーのいないこの場面。
パスボールもワイルドピッチも起こりえない状況では、フォークを多投して確実に抑えにくるだろう。
先ほど小山君にも投げたあのフォークを。
そんな配球をされれば普通は手も足も出ない。
だが今の山口は万全の状態ではない。
おそらくは登板過多による疲労、主戦投手としての責任の重さ、チーム内外からのプレッシャー…それらが積み重なっているのだろう。
だからこそ、落差の大きいフォークは要所要所でしか使わなかった。
いや、使えなかったのだ。
ストレートに力はなく、肝心のフォークは細かい制球が定まらず、失投、すっぽ抜けの危険がある状態。
そこで、できるだけ投げる回数を減らすため「追い込まれるとあのフォークがくる」と印象付け、打者の早打ちを誘おうとあえて矢部君の第1打席であのフォークを見せた。
そして、それ以外はどうしても抑えたい場面に使用を制限していた。
フォークという負担が大きい球種をコンディションが整っていない投手が使用することのリスク。
それを鑑みての配球だったのだろうが…
1球目。
フォークが外れてボール。
一目でボール球だとわかる軌道だった。
2球目も外れて2ボールとなり、続く3球目。
ストレートが内角に投じられる。
「ストライク!」
この球はいいコースに決まった。
そして4球目。
山口が投げたのは山なりのカーブ。
タイミングが外されたためスイングを諦める。
2ボール2ストライクとなり、次で5球目。
緩急を活かしてストレート…という選択もあるかもしれないが…
それともボール球で誘ってくるか?
……いや、制球に不安がありボールにもいつもの力がないのだから、1番頼りになる球種を選択するだろう。
あの落差の大きいフォークを。
でもあのボールは何回か見ている。
簡単にはやられないぞ。
5球目。
山口がマサカリ投法からボールを繰り出す。
やはりフォークを選んだのだろう。
ストレートに比べ、球速が落ちるボールがこちらに向かってくる。
コースは真ん中高め…失投か?
一か八かスイングをミート狙いから強振に切り換える。
フォークじゃないよな?
落ちるな、落ちるなよ……!!
力を込めたスイングは真ん中高めのボールに向かって進む。
そしてバットは空を切ることなくボールを…とらえた。
「やっぱり失投かっ!!」
体重移動、腰の回転、そして手首からバットに乗せた力をボールにぶつける。
「キィィーン!!」
レフト方向への打球。
快音を残してボールは伸びていく。
外野のフェンスを越え、そしてスタンドに飛び込んだ。
「ホームランだ!!」
ジャスミンベンチがワッと沸く。
失投の可能性は頭にあったものの、フォークを狙っていたなかで上手く身体が反応してくれた。
小山君の打席での内角、危険なコースへの失投。
あれもおそらくはフォークボールが抜けたのだろう。
あのボールがあったからこそ、相手バッテリーの意識のどこかに「もうあんな球は投げられない、今度こそしっかりと投げないと…」という力みが出たのだろう。
そのせいで腕を振り切れなかった分、甘いコースにボールがいってしまったのだ。
俺はダイヤモンドを一周する。
そしてホームベースを踏んだ。
仲間と喜びを分かち合いながら、帝王ナインの方をちらりと見る。
どうだ、これが逆境を乗り越えてきたチームの力だ。
うちがここまでやるなんて思わなかっただろ?
「みんな、試合はここからだ!
もう一度気を引き締めていこう!」
「オオッ!!」
…試合はまだ序盤。
まだどうなるかわからない。