4月末 、ある日の放課後。
俺はいつもより遅くまで学校に残っていた。
日直の仕事を片付けるのに手間取ってしまい、外はもう暗くなっている。
さっさと帰ろう、とカバンを左肩に担いだときあることを思いついた。
グラウンドを横切ろう。
本来、放課後に部活動以外でグラウンドに入ることは禁止されている。
練習の邪魔になったり、思わぬ怪我……例えば選手と衝突したり、飛んできたボールにぶつかったりするのを防ぐためのルールだ。
だがこの時間になれば部活動はもう片付けを終えており、練習をしていない状況であれば邪魔になりようもない。
それに校門から出て家に帰るのは遠回りだ。グラウンドを突っ切れば近道できる。
……そうしている間にも時間は過ぎる。
さすがにもう誰もいないだろう、と俺は教室を後にした。
☆
……いた。
誰もいないと思っていたグラウンドに1人だけ。
その人物はボロボロのネットに向かってボールを投げ込んでいた。
右手にはグラブがはめられている。左投げだ。
ソフトボール部か? いや、違う。
あの綺麗なオーバースローの投球フォームは下手投げしか許されないソフトボールの投手ではない。
「……!」
つい近づいて魅入ってしまった。
スピンの利いたノビのあるストレート、そして躍動する、その姿に。
「あの、あたしに何か用ですか?」
じっと見すぎたのか、声をかけられた。女の子だ。
帽子を取り黒髪のショートカットを揺らす彼女は、ボールを投げていた姿に比べてひかえめでおとなしい印象を受けた。
「いやこの学校に、女子野球部あったかなと思って」
「……ないですよ、野球部」
「えっ!? でも今やってるのって野球の練習だよね?」
「それは……どうしても野球がやりたかったから」
そして訪れるしばしの静寂。
その間俺達は、お互いに様子を伺い合い何も話さなかった。
どうやら何か事情があるようだ。
重い空気に耐えられなくなった俺は「じゃあ、がんばってね」とだけ言い残し、帰路を急いだ。
☆
次の日。
あれから部活で帰る時間が遅いクラスメートに話を聞いてみたところ、あの子はグラウンドを使う運動部の連中が帰った後に毎日自主練習をしているらしい。
そうでもしなければグラウンドが使えないのはわかるが、時間も遅いし出来る練習も限られてくるだろう。
彼女はなぜそこまでして、野球をやっているのだろうか。
放課後、生徒はみんな帰ったはずの時間に、俺は再びグラウンドに向かっていた。
そこではやはり彼女が練習をしていた。
「毎日ここで練習をしているんだね」
そう声をかけると彼女は振り向いた。
「あっ、昨日の……。えっと……?」
そういえばまだお互いの名前も知らなかった。
自分の自己紹介を無難に終え、次は目の前の彼女の番となる。
「あたしは
クラスは1年6組です」
6組といえば、スポーツ推薦で入学してきたエリート集団のはずだ。
その一員が放課後に一人だけで野球……?
疑問に思い、そのことについて聞こうとしたその時、
「ヒロ!!」
と、怒気に満ちた叫び声がした。
俺と太刀川さんは振り返る。
すると、そこには鋭い眼光でこちらを睨む女子生徒がいた。
ウェーブのかかった髪に、知的な雰囲気の少女。しかしその表情には怒りを浮かべている。
俺は視界にすら入っていないらしく、真っ直ぐ太刀川さんの方だけを見ているようだった。
あの……、と太刀川さんが何か言おうとするよりも早く、彼女は太刀川さんに詰め寄り、肩をつかむ。
「ヒロ! あんた、部活休んで何野球なんかやってるのよ!!」
思い出した。彼女は、入学式で新入生代表で挨拶をしていた子だ。ソフト部で推薦をもらった特待生で、名前は確か……。
「小鷹……さんだよね? その口ぶりだと2人はソフト部でチームメートなの?」
「あんた誰? ……ヒロとどういう関係なの?」
「この人は最近知り合った人で、あたしが野球やってるのとは関係ないよ!」
「……まぁいいわ。ヒロ、なんで野球をやっているの?
野球は中学生まで、高校生になったソフトボール部で頑張るって約束……忘れたの?」
「忘れてなんかいない!
だからあたしはこの学校に進んだんだ。
……1ヵ月頑張ってみたんだよ」
「だったら、これからも……」
小鷹さんの言葉を遮るように太刀川さんは叫んだ。
「でも!! 練習に身が入らなかった。……辛かったんだ。
それで気づいた。やっぱりあたしは野球がやりたいって!!」
この心からの叫びに小鷹さんは驚きを隠せず、少々取り乱しながら言った。
「ソフトやめて野球をやる? 野球をやったところで何になるの? 何を目指すって言うのよ!?」
「……甲子園に行く」
「なっ……!!」
その言葉にはさすがに俺も驚いた。
なぜなら高野連の規則で女性選手は公式戦には出られないはずで、当然甲子園なんて夢のまた夢のはずだ。
「あたしは小さい頃から野球をやってきた。
男にだって負けなかった。
そうしているうちに甲子園への憧れを持ったんだ。
でも、自然なことだよね?
野球やってるなら、野球が好きだったら誰だって……あの場所に立ってみたいって思うはずなんだ!」
しかし、小鷹さんは食い下がる。彼女にとっても譲れないことなのだろう。
「でもこの学校には野球部はない!
1人だけしかいないなら同好会ですらない!
だからあんたは、野球なんてできないんだ!」
「……2人ならいいんだね?」
「……は?」
「えっ……!?」
思わず出た言葉。俺なんかが制度やら規則なんてどうにかできるはずがない。
でも。この一人ぼっちで、それでも夢をあきらめない少女を。俺は応援したかったんだ。
驚く小鷹さん、そして自分の耳を疑っているかのようにこちらを見る太刀川さん。この2人に向かって俺は言った。
「1人だけじゃないよ。
俺も今日から、野球同好会の一員だ」