2005年5月5日 東雲の研究所を男が訪れていた。
逆三角に引き締まった肉体。口元の傷と漆黒の髪色が目立つ男は東雲からの依頼を終えたところであった。呪具の強奪のために必要な戦闘員として少なくない額が支払われている。暫くは金に困らない。呪具もいくらか報酬として受け取った伏黒甚爾の懐は暖かかった。
「メグミは元気ですか?」
「…お前には関係ねぇだろ。」
そう吐き捨てる。どこからか嗅ぎつけたらしい。いや、やる気なら最初から
「おやおや 相伝の術式を受け継いでいる可能性があるのでしょう。禪院の血筋を見てみたいものですが。」
「禪院に売るんだよ。最低8億だ。お前も欲しけりゃ金にしろ。」
──このバケモンが興味を持っている。禪院の血を欲しがっているのは間違いない。もう矜恃も捨てた。オレにはもう関係ないことだ。自分も他人も尊ぶことはないと──
「そうですか。私はあなたの性能も高く評価していますよ。天与呪縛による
空気が変わっていく。先刻まで穏やかに報酬のやり取りをしていた二人とは思えない剣呑さ。
こいつの目当てのもんは呪具でも呪物でもなく、天与呪縛の可能性。つまりは──
「──何が言いてぇんだ?」
「禪院の血を引くフィジカルギフテッド。呪力が完全にゼロの特異な体質。是非とも欲しいですね。」
拳による奇襲。
それを完璧にガードした東雲は続く連撃をさばきながら引き下がる。
「おやおやおやおや ごきげんですね」
「金はもう貰ったからなァ!」
左腕に装備した装甲が砕け散る。右腕に装填した呪具を三発。最高速に達した黒い針が甚爾の腹部に迫る。
針を指が空中で挟んで受け止めた。肌には傷一つつかない。
「とろいとろい。お前を殺れば8億どころかお釣りも出るだろ。」
「『呪い針』。触れるだけで内臓がひっくり返るくらいは効くのですが…。」
甚爾は口から呪霊を吐き出す。隠し持った呪具庫の中にはよく効く呪具が選り取りみどりだ。体に呪霊を巻き付けながら刀を一本取り出す。それは装甲を難なく切り刻む特級呪具。釈魂刀。
「おやおやおや それは厄介ですね。」
縦横無尽。壁を、地面を蹴りながら動く影は装甲に斬撃を与えていく。
建物から黒づくめの仮面達が飛び出した。それは東雲の前に現れて盾となっては刻まれていく。袈裟斬り。逆袈裟。血飛沫が舞う。
飛び交う血にまみれながら東雲は距離をとった。
『
投網のように前方に広がる黒い触手群。それは動き回る甚爾のスピードには追いつけずに、徒労に終わっていく。
「──困りました。隠れられると見つかりませんね。」
甚爾の肉体には呪力がなく、呪力感知では姿を捉えられない。そのうえ本人のスピードも加えれば、透明人間のようなものだ。
手持ちの呪具で
「おやおや゛っ─」
「はい おしまい」
背後から一突き。そのまま切り上げて胸部を裂く。ゴリゴリと触感を手に感じながら、さらに片手に握った短刀で首を四度ほど刺突すると、甚爾はようやく一息ついた。
血を払いながら呪具を収めていく。後は知り合いにでも報告すれば運動の代金くらいは貰えるだろう。呪霊に携帯電話を吐き出させようとしている時だった。
「…マジか」「フィジカルギフテッドの実力…素晴らしい。」
どこからか現れた仮面は先程トドメを刺した声の主と同じだった。甚爾の強化された視力と魂を観測する目はその正体を見破った。
「──本体は…いや、
「やはり分かりますか。あなたを無傷で捕らえることは難しそうですね。」
目の前の男も、今しがた倒した仮面の戦闘員も皆──東雲本人であった。
「少しばかり捥げても問題ないでしょう。死装束を集めて──おや」
甚爾は東雲のカラクリを理解してはいないが、その不死身性はある程度推測できた。
──めんどくせぇ。これ以上はタダ働きになるな。そんなのごめんだね。
武器を収めて一瞬で離脱する。呪力感知では捉えられない。透明人間はすぐに見えなくなり、甚爾は逃走に成功した。
「逃げられましたか。これ以上は協力してもらえそうにありませんね。どうしましょうか。」
東雲は切り替えが早かった。すぐに次の案を考えていく。
「呪いと縛りの可能性を見れただけでもよしとしましょう。縛りのデメリットを打ち消す程のメリットを手に入れることもできそうですね。まずはデメリットを移すことができるように──」
思索は続いていくようだった。
「いたい…」
「いかがですか ヒノデ」
「こいつぁ難しいっすよ 旦那。」
仮面の男二人が小さな子供を覗き込んでいる。子供は頭部を凹ませ、飛び出た目玉と口から血を滴らせていた。目の焦点は合うことはなく、小さく痛みを訴えている。
「呪いが深すぎて自我まで持ってかれてますぜ。 ほらごらん。自分が誰だか分かるかい?」
鏡を子供の前に向ける。自らの顔を見てもそれを認識することはなかった。叫び声が上がる。
「いぎゃいゃああああ」
「祈手の娘とはいえ儀式実験の生き残り…このまま使うにはあまりにも手間っすよ。こいつは潰した方がいいんじゃ──」
東雲は子供を優しく抱き上げる。子供はなおも叫び声を上げながらじたばた抵抗していた。
「い〜〜〜〜〜っっ!!」
そのまま両腕で子供を抱き込む。抱擁は子供の混乱を止めたようだった。
「喜びしか知らぬ者から祈りは生まれません。」
「生を呪う苦しみの子…君にしかできないことが必ずあります。」
「君の名は
子供はまた抵抗を始めた。叫び声は長く続いていく。
「ほら明華。お薬の時間だよ。おいで。おいで〜。」
ヒノデと呼ばれた仮面の男は明華に呼びかけていた。明華は実験室の機材の隙間に隠れて声を発している。
「いかがですかヒノデ」「いいいいいいいい」
「…ずっとこんな調子っすわ」
東雲は掌印を組む。そして──呪力で式神を作り出した。それは黒い色の粘液で形作られている。独特なフォルムと頭から生えた翼が特徴的だった。
「明華 今日はお友達を連れてきました。」
「ふるべのこと。単純な式神術での再現ですが、影法術の──」
「ふる…ふるた…ふるたん!」
匂いを嗅ぎ、鼻を付き合わせた明華は式神を認識した。式神による誘導で隙間から這い出てきた明華はそのまま式神を甘噛みしている。
「おや!気に入りましたか? 口に入れてはいけませんよ。」
「ふるたん…。」
明華は式神に口付けた。あごの下に潜り込んだ式神を優しく見つめる。
「明華…好きなものが出来たのですね。 たった今から君の世界は変わってゆきます。生の全てを呪っていた君が最初の喜びを見つけたのです。」
「これからの一歩一歩が君を創ってゆくでしょう。今日が君の誕生日です。」
東雲は明華を優しく撫でていた。実験室の電灯が二人を優しく照らす。