夏休み。素晴らしい響きである。
手違いで危険物が家に届いてから、それを処理するために少なくない時間を消費してしまったが、俺はようやく安息の日々を手に入れたのだ。
『────またね?』
……まぁ、まったく心配が無いとは言わないが。少なくとも、先日苺プロダクションを辞めてからここ数日、件の危険物による影響は確認できていない。そう画策したのは他でもなく俺なのだから当然と言えば当然なのだが、この夏に体験した非現実的な事件を思えば易々と安心することは難しかった。
ヤツが俺の家を訪れたとき、ソイツが所属するグループは崩壊寸前で。だからこそ自分が、とどめを刺し得る行動を取ることに躊躇が無かった。しかし巻き込まれる形とは言え、俺が体裁を保てる道を示したことで内部分裂は一応の解決を見せ、ゆえにその中心にある危険物も手前勝手な言動を自制する必要が出てきたのだ。
『B小町のセンターなんて言われてもさ、メンバーには避けられてるんだよ。笑っちゃうよね』
そんな弱音を吐いたソイツは、互いに不干渉などとは言ってられない状況のグループでリーダー扱いされている。以前同様俺の家に来ればどうなるかは火を見るより明らかだ。結論、あの連中がアイドルグループとして存在する限り、再び俺が危険物の暴発に巻き込まれる恐れは無いということである。
「お兄ちゃん、小町遊びに行ってくるからー」
「おーう」
ソファの上でだらけながら、マイシスターこと小町の声に応じて掛け時計を一瞥。最近は共通の趣味が高じてか、昼過ぎに妹が友人宅へ遊びに行くことが増えている。妹が相変わらず夏を満喫しているようで、お兄ちゃんとしては大変喜ばしい。
「…………」
なんとなく。本当になんとなくではあるが、ある種の既視感を覚えた。この後良くないことが起こるような、根拠のない予感。虫の知らせとはこういう感覚だろうか、などと思いながら起き上がり、冷蔵庫を開けて茶を注ぐ。
「…………」
意識してしまえば不気味なほどの静寂の中。暑さとは別の理由で汗を滲ませながら、ゆっくりとグラスの中を胃に落とす。たっぷり数十秒かけて容器を空にした俺は、己を包む不穏な感覚を振り払うように声を発した。
「……なんつってな。夏の暑さにやられて中二病再発とは、俺もまだまだ──」
ピンポーン。
「青いなー……なーんて……」
その瞬間、俺は急速に血の気が引くのを実感した。
「……くそ、しょうもない用件だったら相手が誰でもぶっ飛ばしてやる……!」
相手が誰でもぶっ飛ばせないんですけどね、ちょっといらっしゃるタイミングが良くないですね。怨嗟を漏らしながら、己を鼓舞するように玄関へ向かい。
バタンと一息に扉を開く──などと言う愚は犯さず、当然ドアスコープ越しに誰が来やがったのかを確認した。
「…………誰?」
そこには、見知らぬ少年が立っていたのだ。
年齢は一見して小町と同じくらいに見える。順当に考えれば妹の同級生と言ったところだろう。……まさか、そういうことか?
急に胃がムカついてきた俺は、今までの不安もどこへやら、力強く玄関のドアを開けた。
「誰だ。何の用だ」
ドアスコープ越しに見えた少年。金髪で容姿の整ったその子供は、俺が姿を見せると目を丸くした。
「あーっと……お邪魔だったかな。すみません、お取込み中でしたか?」
「事と次第によってはな。ちなみに妹は外出中だ。帰宅の予定はない」
「何か勘違いされてるような……僕はあなたに用があって来たんですよ、比企谷八幡さん」
「なに……?」
こういう者です、と。慇懃ではあるものの芝居がかった所作で少年は名刺を取り出した。不信感を隠さず受け取り確認すれば──なんとなく、彼の要件を察してしまった。
その紙に書いてある所属団体名だの少年の名前だのは正直言ってどうでも良い。だが無視するには彼が持っている大雑把な肩書が非常に厄介だった。
いや、名前にもなんとなく見覚えはあったが。
「──芸能関係者」
「芸能人と言った方が的確かも知れませんね。良ければ上げてもらえませんか?」
「……………………良くないが。入れ」
数秒逡巡し、それでも俺は少年を自宅に入れた。
例の爆弾に繋がる導火線を放置する方が恐ろしく思えたから。
「で、何しに来た」
既視感は続いている。L字タイプのソファで、いつかのように茶を出してやりつつそう切り出す。俺の
「察しはついていると思いますが……アイのことについて。星野アイ、知ってますよね?」
「そんなヤツは知らん。仮に知っていたとしても知らん」
名前を呼んではいけないあの人、とばかりに忌避感を見せれば……彼は苦笑を深めつつも意外そうに続ける。
「聞いていた通り、気難しい人みたいだ。彼女、容姿が優れているでしょう? 誘惑されて何も思わなかったんですか? もしかして、男色の気があるとか」
「ざけんな、そんな趣味は無い。外見が良い女の誘いは乗らないとおかしいってか? そっちは随分思考回路が単純みたいだな」
「ハハハ、手厳しいな……それに、もしかしなくてもかなり警戒されてる。そんなにアイとは
「アイツから俺をどういう風に聞いたか知らないけどな、こっちはお前らなんかに……芸能人なんかに関わりたくないんだよ。貴重な夏休みの大半を奪われたし、現在進行形でそれは続いてる。単刀直入に、用件だけ話せ」
迂遠な物言いの少年に強く言えば、少年はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「前置きした方が分かりやすいと思ったんだけど……それじゃあ、単刀直入に。──命の価値って、どこにあると思いますか?」
「…………意味が分からん」
彼の言葉を咀嚼して、どうにも意図が読めなかった俺は一言口にする。そうですよね、と応じてから、少年は気を悪くした様子もなく茶を一口含んだ。
「だから、少し成り行きを聞いてほしかったんです。……実は、次の舞台に向けての
「いい迷惑だ……」
俺のことを吹聴するどこぞのアイドルも。それを真に受けて初対面の一般人宅を訪れるコイツも。若いうちから芸能人なんてやってる人間と俺とでは、根本的に物の考え方が違っているようだ。
「そう言わずにお願いしますよ。それを聞けたならすぐにお
そう言って神妙な顔を見せる少年。……正直追い出しても良いんだが、それでまた斜め下の行動力を以て粘着されても面倒くさい。後顧の憂いを断つために、ある程度は譲歩して話を聞いてやることにする。
「……はぁ。で、命の価値がどこにあるかって? そんなもんGoogle先生に聞けよ、一般人の回答が知りたいならそれでいくらでも出てくんだろ。"みんな平等に尊い"って返してくれるはずだ」
「そんなお行儀の良い回答は求めてませんよ。分かってるでしょう? 比企谷八幡さん、僕はあなたの考えが聞きたい」
「生憎だが。会って間もない奴に、積極的に自分の価値観垂れ流せるほどコミュ強じゃないんでな。同調なり反論くらいはしてやるから、まずお前の考えから話せよ」
ひとに名を尋ねるなら自分から……という訳でもないが。彼がどういう答えを求めているのか分からない以上、問いの意図から外れる持論を展開して時間を浪費したくもない。まずは解答例を聞かせてもらわないとな。
俺の発言に対し、一瞬目が泳いだように見えた少年だったが。意を決したように頷き、真っ直ぐに俺へ視線を寄越した。
「これは僕が演じる役からの視点になりますが。命の価値とは──その存在がどれだけ幸福であるか、というところで決まるものだと」
「……続けてくれ」
「シャーデンフロイデという言葉はご存じですか? 人の不幸は蜜の味、でも良いですけど。
「それに関しては頷いてやっても良いな。学校行事のノリで付き合いだしたカップルが別れて教室内がギスってるとこなんざ、傍から見てて愉快以外の何物でもない」
「……続けます。結論、幸不幸は天秤に釣り合うようなものであるとして。誰かが幸福を感じるとき、誰かが不幸にあるとするならば。あるいは──
……あれ、おかしいな。一気に雲行きが怪しくなった。ネットスラングで言うところの
「つまり、なんだ……幸福な人間を絶望に陥れれば陥れるほど、それをやった奴は幸福だって言いたいのか?」
「命の価値、という主題に沿って具体的に言うのなら。幸福な人間、あるいはそう成り得るであろう人間を
うん、予想した通りの内容で良かった。全然良くねぇよ! サイコキラーの発想じゃねぇか!! そりゃ困るだろ、中学生にやらせる役回りじゃねぇよ……役者のことなんてまるで知らんが。そんな俺でも、役に成り切ることで作品を演じる俳優なんかの話は小耳に挟んだことがある。こいつは多分、そういうタイプなのだろう。
「率直な意見を、聞かせてください」
前置きとやらはそこで終わりらしい。しかし俺は答えに窮した。普通に反論すべきか、彼が演じるだろう役に配慮して答えるか……ここでふと我に返る。なんで俺が、急に家に押し掛けた常識知らずの芸能人に配慮しなけりゃならない? 真っ当に論破して良いだろこんなもん、たとえその結果、彼が舞台に失敗してもそれは俺のせいじゃない。ここに来たこと、わざわざ色んな人に話聞いた上で一般人の考えを鵜吞みにしたことが悪いのだ。
「下らないな、としか言えん」
「下らない、ですか」
彼の目が怪しく光る。そう錯覚した──適当な発言は許さない、そんな雰囲気だ。
その様相ごと鼻で笑い、俺はその先を述べる。
「幸不幸だの命の価値だの、
「自分が、存在しない……」
反芻する少年がどう感じているかなんて興味はない。とっとと話を終わらせちまおう。
「幸福メーターに踊らされた殺人マシーンが出来上がるだけだろ、そんなもん。
「…………」
押し黙る彼に配慮せず、言いたいことを最後まで言わせてもらった。
「他人を殺すことが楽しくて、そこに幸福を見出すのならまだしもな。殺す対象の幸不幸で、リザルトに点数つけてる時点で欺瞞だ。それが間違ってることを自覚してて、どうしても正当化したくて、それっぽい理屈で性懲りもなく繰り返そうとしてるだけなんだよ。どう考えても不幸で、命と言うには軽率……軽すぎる。辛いならやめちまえとしか思えねぇよ」
「辛いなら……ですか?」
「だってそうだろ。これは想像だが、そいつは
茶の入ったグラスを傾けて、これが俺の出せる回答だと。こう締めくくった。
「一度事故で誰かを殺しちまったから、それをどうにか正しかったことにして。正しかったことにしちまったから、嫌々繰り返そうとしてる。命の価値ってお題目に沿って答えてやるが、その殺人マシーンは不幸だし、価値は無に等しい。底値ですらなく、重さなんて言葉とは対極にあるだろうな」
ひとつ、息を吐く。長々喋らせやがってと思いつつ、グラスを手に取って……空じゃねぇか。あとコイツが来る前にも飲んでたからトイレ行きたくなってきたな。早く帰ってくんないかな。
「もういいか? 俺から言えるのはこれくらい……」
思わず、ギョッとしてしまった。
──泣いていたのだ。その少年は、涙を流していた。
「……すみません、もう一つ。僕の話を、聞いてくれませんか……?」
「……一回トイレ行ってきていいか?」
「──以上が、今回こちらに訪ねた理由。その発端です」
「…………」
雉を撃った後、どうにも帰る様子のない少年……というか、泣いてる年下を追い出せなかった俺の自業自得かも知れんが。結局俺は二杯目の茶を注いで、彼の話を聞いていた。その感想はと言えば。
いや重いよ……なんなんだよ芸能界。もう滅べよ。それでみんな幸せだよ。少なくとも俺はこんなに胃が痛い思いしてないよ……。
要約すると、彼の話は以下の通りである。
彼は所属する劇団のメンバーから性被害を受けていた。長年続いたそれに耐えかねた彼は、加害者女性と婚姻関係にあった男性にそれを暴露する。現状から脱却出来ればと、それだけを願って。
しかし、それを受けた男性は予想外の行動に出た──夫婦での心中である。
これだけでも悲惨だが、事態は好転しなかった。カミキは関係者だけで行われた葬式の場で、劇団の演出家である男から言葉をかけられた。
『2人はお前のことを大事にしていた。だから、お前が背負っていくんだ。2人の命を。生きてるお前が、これからもずっと』
カミキと、彼に手を出していた女性の関係は、もちろん大っぴらにされておらず、つまり関係者の中では、亡くなった夫婦とカミキの関係は良好に映っており。その演出家はきっと、カミキが傷心して早まった真似をしないよう励まそうとしたのだろう。
だが、これがカミキの心をさらに傷つけた。
己に爛れた欲望の視線を向けた女性。容姿にしか価値を認めない
そう思い詰めて、カミキは絶望したが……彼にはまだ、1人だけ。自分を認めてくれる、唯一の希望と言って良い女性が──女の子が、居たのだ。
「僕は……アイのことが、好きでした。自分と同じだと思った。自分を、受け入れてくれると思ったから」
カミキはアイに、自身が亡くなった女性に何をされてきたかを打ち明けていたそうだ。その上で……アイとなら心が繋がれると信じて、体でも繋がろうとした。自身を苛み続ける過去の記憶を上書きするには、愛し合った人と同じ行為をするのが手っ取り早いからだ。
「アイは、一度は受け入れてくれた。スケジュールも調整していた。でも──彼女は、やはり僕とは出来ないと。突然考えを翻したんです」
「……その理由が、俺だった、と」
ここに来て、ようやく繋がった。初対面で俺を食事に誘い、あろうことか肉体関係を迫ってきたアイドル。そいつも実のところ、迷っていたのだ。目の前の少年と性交することが、本当に正しいのかと。だから無関係の無害そうな人間……ライブ客でありながら己に興味がなさそうな、都合の良い男を判断材料にしようとした。
結果は、俺にとって最悪の一言に尽きるけれど。
「絶望しました、僕にはもう彼女しか居なかった。だから──痛い目に遭わせてやろうって、そんな風にすら考えていましたよ」
自嘲するカミキのその言を聞き逃せず、俺は眉を顰めて掘り下げる。
「痛い目に、って……どうしようってんだ」
「簡単な話です、復讐としてアイのファンに、彼女の住所を教えてやろうって思ったんですよ。どうなるかは想像に難くないでしょう?」
俺は目を見開き、声を荒げそうになって……どうにか、それを抑えた。一度深く息を吐いて、どこか露悪的な様子のカミキへ再度口を開く。
「思った、ってことは、そこでとどまった、ってことだろ。理由は?」
そこでどうしてだか、カミキもまた目を見開いた。予想外の反応だとばかりの表情を見せて、それを誤魔化すように少しだけ口を早める。
「僕は一度、取り返しのつかない失敗をしました。告げ口をして、それできっと救われるのだと願った。でも……最悪でも離婚するだろうくらいに考えていたお2人は、もう帰らぬ人になってしまった。──僕の復讐が、次はアイを殺してしまうかも知れない。だから、踏みとどまった。その代わりに、ここに来たんです。アイを唆した男が、どんな人なのか、知ろうと思った」
……頭が痛い。ただの高校生には荷が重すぎる。なんなんだこいつら、周りの人間はどうなってんだ……? あのオッサンみたいな存在が蔓延ってんだろうなと考えたら、ある程度疑問は氷解したが。
ただ、一つだけ確認しておきたかった。いかに関わりたくなくとも、頭痛が、吐き気が酷かろうとも。わざわざ俺が骨を折って体裁を取り繕った成果物に対して、危害を加える可能性のある人間を易々と看過は出来ない。カミキは踏みとどまったと言っているが、今後もそうしてくれるとは限らないのだから。
「で、これからどうするってんだ。俺と話して何か分かったのか? 考えは変わったのか? ──まだ、星野に復讐しようって考えてんのか」
涙の跡は残っているのに。それを恥じた様子もなく、微笑してそいつは宣った。
「──いいえ。その考えは無くなりました。どうしてアイは変わったのか……その理由は十分理解できました。何せ、僕自身変えられてしまいましたから」
八幡さん、と。その少年は柔らかく俺の名を呼んだ。
「もしかしたら僕は、開き直りたかったのかも知れません。自分を傷つけた誰かが死んでしまった時。その重さを背負わなければならないなら──最初から、その重みにこそ価値を見出せたのなら。仮にアイが死んでしまっても、それを己の価値にして生きていけば良いのだと、そう思い込みたかった」
八幡さん、と。また俺の名を呼んで、彼は……頭を下げたのだ。
「ありがとうございます。僕は……二人を殺したことは間違いないけれど。無意味に誰かの、輝かしい未来がある命を奪わずに済みました。──アイの命を、危険に晒さずに済んだ。謝って許されることでは無いでしょうが、それでも……すみませんでした」
渋面を浮かべずにはいられなかった。
「俺に謝ってどうすんだ、こっちは無関係の一般人なんだよ。勝手に俺を
驚きを隠せない様子で、少年は頭を上げて、俺を見た。……その視線に居心地の悪さを覚えて、俺は窓の外に視線をやりながら吐き捨てる。
「自分の暴露でそうなったから、自分がやったんだと決めつけて、勝手に罪悪感に苛まれて──結果、それを正当化しようとした。だが間違ってると気づいたなら、そもそも自分が殺したんだって前提を正せば良い。劇団の責任者と、警察……裁判所か? 詳しくは知らんが、然るべき機関に打ち明ければすぐに答えは出るだろ。劇団の大人が、抵抗できない子供に暴行働いて、自滅したってな」
「──比企谷八幡、さん」
噛み締めるように名前を呟いて。少年は──。
「お兄さんって、呼んでも良いですか?」
「ふざけんなぶっ飛ばすぞ」