「比企谷、さん……
「──するワケねぇだろ!!」
言葉の意味を理解した瞬間、今度こそ飛び上がってテーブルの向こうに避難する。壁を背にカサカサ蟹が如く横移動する俺は客観的に見て気持ち悪かっただろうが、そんなモンは必要経費だ。
「むぅー、そこまで嫌がられると傷つくなぁ。これでも結構お誘いされるんだよ?」
未だ頬に伝う雫を拭う様子も見せず、位置を逆転させた俺を振り返って恨みがましい目を向けるアイドル。っつーかしれっと業界の闇を暴露するな。
「お前らの世界でどれだけ下の事情が緩いかは察するけどな、俺を巻き込むな! アイドルの火遊びなんぞに付き合ってられるかっ!!」
「心外だなぁ。こっちは大真面目なのに」
「なお悪いわ……」
こっちの焦り様を見て冷静になってくれたのか、アイは袖でごしごし涙を拭って落ち着きを見せた。こっちは立ったまま警戒を続けている。平気でテーブル越しに顔を拘束してくるようなヤツだ、まったくもって油断できん。
「ねぇ、どうしても無理? 興奮しない? わたし、割りと良いカラダしてると思うんだけどな」
頬杖をついて彼女は俺を見上げた。前を緩めたパーカーから鎖骨、それを通り越して奥まで見えてしまいそうだが、意図的に見せているのは明らかだった。痴女め……。
「この場で興奮できるとしたら、お前に対する警戒とか威嚇以外にあってたまるか」
「ウソ。そんなにあからさまに視線を逸らされてもねー」
くっ、勝手に肌色に吸い寄せられそうになる己の眼球が憎い……!
「……興奮したからってだけでそう簡単に事に及ぶかっつーの。それが許されるなら少子化なんて騒がれてない」
「うーん、薄っぺらい理由だなぁ。……わたしに興奮は出来るけど、どうしてもセックスしたくないのはホントみたいだね。なんでだろ……?」
腕を組み、難しそうに眼を閉じて考え込むアイドルを模した痴女。……どうやら一旦は諦めた様子だが、俺が固辞している理由に考えが行っているようだ。というか、本当に俺が嫌がっているのが何故か分からんらしい。どうやら社会的常識なんかとはかけ離れた感性の持ち主らしいな……。
くぅ~……。
俺と痴女の間を数秒の沈黙が流れたが、すぐにそれは破られた。音源は、腕を組んだ女の腹から漏れ出ているようだった。
「いいかげん食事にしよっか! ご飯につきあってって誘ったの忘れてたよー。はい、これメニュー」
「…………おう」
これまでの会話を忘れたように、にぱっと笑って品の良いメニューを差し出してくる女。そこに他意はないように思えて、俺は渋々腰を下ろしてそれを受け取る。
──このアイドルとの時間は、まだ終わってくれそうに無かった。
「……ずいぶん恐る恐る食べるんだな」
「……うん、ちょっとね」
メニューには小難しいことが書いてあったが、写真を見て和風定食に見えるセットを頼ませてもらった。これもまたミラーリングの実践なのか同じものを頼んでいたアイは、しかし食の進みが良くないようだった。
すでに粗方食べ終えている俺に対し、彼女は半分食べたかどうかというところだ。
「……っ」
肉やら野菜やら魚やら。それらを口に運ぶ動きはスムーズなくせに、白米を口に入れるときだけ意を決したように目を瞑る。……俺に見せつけるように、わざとやっているようにも思えたが、どうにもその動きは真に迫っているように映った。
「……お前、年齢公開してるのか?」
彼女が食べるスピードに合わせてやるなんて考えは全くない。美味い料理を自分のペースで食べ進めながら、俺は何気なくそんなことを聞いた。
「え? うん。14歳だけど……」
「14ねぇ……中2か?」
「ん-ん? 3年生」
一つ下。俺と小町のちょうど間に生まれた女子。
「────。セッ……クスしろだとか。そういう訳分らん要求は呑めん。でもまぁ、吐き出したいことがあるなら聞いてやらんこともない」
汁物を挟んで飲み込んで。息を落ち着けて言ってみれば、そのアイドルは意外そうに目を
「飯の対価だ。連れ込まれたとはいえ年下に金出させてさようならってのも収まりが悪いからな……。身近な人間に話しづらいことがあるなら今吐き出せば良い。店を出れば、俺はお前のことなんか忘れてやる。ライブに行くことなんざ有り得ない。だからまぁ……悩みとか愚痴とか。そんくらい聞き流せる都合がいい人間だぞ」
初対面の人間を密室に……まぁ大声出せば店の人間は来るだろうが。他人の視界から外れた場所に連れ込んで、肉体関係を迫るような中学生だ。多少なり闇を抱えているのは間違いないだろう。それに、信頼できる大人が付いていないのは確定的だ。
だから、その鬱憤を晴らす手伝いくらいはしても良いだろう。今後、俺みたいな被害者を出さないためにもな。もし二人目が毒牙にかかったとして、迫ってくるアイドルを拒むことが出来るのかは
「…………」
とりあえず言葉を締めて飯の残りを食べる。チラリと対面の様子を窺ったが、どこか迷っているように視線を米に送っていた。そりゃそうだ、普通は出会ったばかりの信頼もクソも無い人間に、自分の悩みを打ち明けたりしないだろう。芸能人なら特に。……この女に常識を当て嵌めるのは前提としておかしい気がするが。
「まっ、話すかどうかはお前の自由だ。俺は井戸の穴を用意してやった、他に話が広がることのない穴をな。それを信用するかどうかは俺には関係ない。ただ、飯を食わせてやったからと恩を取り立てようとしても無駄だからな」
俺が誘導したいのはこの着地点だ。さっきメニューを見て思ったが……値段が……高いです……。さすがに多少なりともこの女にリターンを提示しなければ怖すぎる。もし後日支払いを要求なんぞされてみろ、その時は親に話が行くのは必至だ。断固今日の出来事は今日でケリをつける……!
「井戸の穴ってなに……?」
俺が内心でみみっちい計算をしていると、悩みの種本人がぽけっとした表情でコテンと顔を傾けた。あざとうぜぇ……。
「王様の耳はロバの耳って聞いたことくらいあんだろ」
「ないよ?」
「……とにかく、愚痴でも何でも他人に黙って聞いてやるって言ってんだよ」
「そっ、か……」
そこでついに、アイは箸を置いて居住まいを正す。ちょうどこっちは食べ終えたところだったから、最後に水を飲みこんで視線を合わせる。さて、どんな話が飛び出すのか……俺には関係のない話だが。聞くだけだしな。
芸能界のちょっとした闇とかなら、多少は野次馬根性で楽しく聞いてられそうに思えるが、さて。
「白米食べるの、苦手なんだよね。昔お母さんがグラスを投げて、その破片が入っちゃってたことがあってさ。それ以来、食べるの怖いんだぁ」
いや重いよ……。