比企谷小町。比企谷八幡の妹であり、ここ一年ほどはアイドルグループB小町、特にリーダーを務めているアイの、自他ともに認めるファンである女の子だ。
昨年、中学2年時の夏休み。体調を崩した友達の代わりに兄を連れて鑑賞したライブにて、アイのパフォーマンスに心奪われた小町。それ以来彼女は、自身を推しにめぐり合わせてくれた友人と共にいくつかのイベントに参加したりと、いわゆる推し活にのめり込んでいた。
そんなこんなでアイを応援して一年、彼女の耳に悲報が入る。B小町が解散するという報道である。目前に迫ったドームライブにて、応援してきた彼女らはアイドルを辞めるのだ、と。
彼女は茫然自失という言葉の意味を知った。しかし、そこから再起するきっかけになったのもまたB小町についての朗報である。予約することすら叶わなかったドームライブのチケットを、何故か兄が持っていたからだ。
小町は喜びと悲しみを同時に胸に抱きながら決心した。アイが、B小町が。彼女たちが最後までアイドルとしてライブに臨むのだから、自分もその瞬間まで、ファンとしてサイリウムを振り続けよう。
そう決めていた筈なのに──あらゆる意味でそれは裏切られた。
アイは……恋人が欲しいと、最後のライブで公言したのである。正直なところ、小町としてはその点に関して思うところはない。むしろ同じ女の子として応援する気持ちすらある。小町にとってB小町は、アイは。そのパフォーマンスによって元気をくれる女の子たちであって、恋人などではない。小町は俗にいう『アイのガチ恋勢』ではないのだ。
しかし、ただ応援するだけで話は終わらない。その候補として──自身の兄が、幸運にもチャンスを手に入れたのだから。
ドームライブを終えて。小町にとってアイは、客席からサイリウムを振り、その分元気をもらうだけの存在ではなくなった。ワンチャン兄の恋人に成り得る。非現実的な偶像から、手に届く可能性のある存在になった。
小町にとって、兄は。比企谷八幡は──クズである。そこを誰に詰られようと擁護することは出来ない、ロクでもない人間である。口から出る言葉は、一から九まで仕様もない。そうでなくとも中身がない。
しかし、同時に愛すべき家族であった。近しい人間にしか理解されなくとも、良いところもたくさんあるのだ。稀に紡がれる言葉が、どうしようもなく心を救ってくれるのだ。いつの日か、それに気づいてくれる女性が現れるとなんとなしに確信しているくらいには、小町は兄を慕っている。
だからと言うわけではないが。もし彼氏が欲しいという人間が居るなら、小町にとって兄を勧めるのは当然だったし。それが誰あろうアイだと言うのなら、兄にこそそのチャンスを掴んで貰いたいのである。
まぁ、実際のところ、それが現実になるなど毛ほども思っていない。だが連絡先を手に入れることが出来るファンが居るなら、それは自身を含めて身近な人間が良いに決まっている。兄を撃ち抜いた弾丸にそれがあると信じて、小町はアイの連絡先を熱心に探していた。
はて、いつの間に眠ってしまったのだろう? 小町はそんな疑問を覚えた。起き上がってすぐに、脳裏には我が家を訪れた推しのアイドルが思い浮かぶ。まさか現実な訳が無いので、寝ている間に夢を見ていたらしい。
リビングでカプセルを観察している間に寝落ちし、兄が部屋に運んでくれた、というところだろう。未だちぐはぐな己の記憶にとりあえず辻褄合わせをして、小町は兄と居た筈のリビングへ歩いた。
「お兄ちゃんおはよ~。小町変な夢見ちゃった」
捻くれているくせに、身内には甘い兄だ。自分が欲しい訳でもないのに、
「アイがね、急に玄関に──え??」
「ん……♡」
「────ッ!?」
そこには、兄がいた。目が合う。普段気だるげに細められているそれが、覚えのないほどに開かれていた。取り付けられている顔面も、見たことがないほど赤く染まっている。
はて、しかし兄の身体がしっかりと視認できない。深く布団を被っているかのように、八幡の姿は隠されている。
その正体を予想してみよう──いや、まぁ。小町の眼球と脳はしっかりと仕事をしてくれて、何が兄の姿を隠しているのかはすぐに分かったのだが。
黒髪の、おそらく女の子が。兄であるところの八幡に、覆いかぶさっていた。
さらに言えば、あまりに近い顔と顔が。いま二人がどういう状況にあるのかを想像させてくれる。
「……あれ、どうしたの? 八幡──あっ」
すると、何やら気が削がれたように、謎の女子が身を起こした。眼下の八幡の顔を見て、その視線を追って──小町に、気づく。
それは言うまでもなく、小町も少女の顔に、その正体に気づくことと同義だった。
二人は邂逅した。小町にとっては、推しのアイドルに。アイにとっては、好きな男の子が、愛していると言って憚らない妹に。
「──────ッ!!??!!??」
小町は金切り声で叫んだ。
「はじめまして、小町ちゃんだよね? 星野アイと申します……いぇい☆」
アイは意に介した様子もなく、八幡の腹に乗ったまま。彼女の代名詞と言えるポーズを決めた。
「──とりあえず、お前はいい加減どけ……!」
「あーん」
八幡が絞り出すように言いつつ腹上のアイを押し退けて、アイがわざとらしく声を上げると。室内に響いていた音は、尻すぼみに鳴り止んだのだった。
「あらためてよろしくね? 小町ちゃん」
「「…………」」
L字型のソファ──にも関わらず、3人は横並びに座っていた。八幡を挟んで右にアイ、左に小町。小町は誰がどう見てもテンパっており、目を真ん丸にして兄と推しを交互に見ていた。
小町にとって、この状況は理想とすら言えるだろう。ゆえに、考えるまでもなく非現実的なことであり、最初から考えることすら放棄していた現象である。気絶から復帰した今もなお、彼女は夢現の境にいた。
「うーん……警戒されちゃったかな?」
少しだけ眉を下げて。それでも口元は笑んだまま、アイは八幡に水を向ける。
「いや、混乱してるだけっぽいが……おい、小町。聞こえてるか? 聞こえてるな?」
言葉と共に、八幡は鬱陶しそうに左腕を揺らした。その時になって、小町は初めて自分が兄の腕を抱いていたことに気がついた。
「え、う、うん。聞こえてるけど……ぇ~……?」
普段通りの兄の声。それを受けて多少は心が落ち着いてくるが、頭の中は輪をかけてこんがらがっている。ナンデ? アイナンデ!? 思考回路はショート寸前であった。
「……とりあえず、アイ。お前の口から説明してくれ。多分俺が説明してもこいつは信じないしな」
「え~? お兄ちゃんなのに」
「むしろお兄ちゃんだからだっつの。うちの妹はお前のファンだから。俺が説明したら妄想だと思われるから」
「ふーん」などと言いながら、アイは小町と視線を合わせるように前かがみに。兄を挟んで目が合うと、小町は「あぅ……」と小さく漏らして、八幡の腕に隠れるように身を寄せた。この場の誰よりも、その顔は赤く染まっている。
「でもなぁ、わたし順序だてて話すの苦手なんだよね」
「あれだけ俺と言い合ってよくそんなこと言えたな……」
「事務所のみんなと相談して、がんばったんだよ?」
「さいで……」
誇らしげに胸を張るアイに、呆れた様子で苦笑する八幡。事ここに至って、ようやく小町の脳に今の状況が正しく刻まれ始める。推しのアイドルと兄が、気安い様子で話し合っているのだと。
「緊張してるみたいだから、やっぱり八幡が説明してあげて? もし間違ってたらわたしが言うからさ。小町ちゃんもそれで良いよね」
「へっ、ハッ。ハイッ!!」
そうして小町は、兄の口から。それを楽しそうに首肯する推しの姿から、二人の関係を知った。
アイは──本名を星野アイと言うらしい彼女は、兄である比企谷八幡のストーカーであったのだと。
「…………え?」
思わず口から漏れ出た疑問符に、無情にも彼女の兄は間を置くことをしなかった。
初めてのライブ鑑賞で、アイは八幡に一目惚れし。その帰りに偶然街中で見つけ、食事に誘ったと。あること無いこと騒がれたら社会的に抹殺される可能性もあると考えた兄は、それを受けてともに食事をした。
その場のやり取りで、アイは八幡に対して執着心を持ってしまった。昨年の夏休み、アイは一度この家を訪れている。アイが所属している芸能事務所である苺プロダクションでバイトしないかと誘われ、断るなら毎日アイが押し掛けると脅しをかけてきた。
「えっ。えっ」
すでに小町のリソースはパンクしかけていたが、救いを求めるように視線を送ったアイは、兄の発言を否定してはくれなかった。むしろ「はやいね、もう1年なんだー」などと楽しそうに笑っている。
八幡の話は続く。そのバイトでアイを取り巻く環境が劣悪だと知った彼は、状況を打破すべく作戦を立て、決行した。その末にB小町は活動を新たにし、アイと距離を置きたかった兄はバイトを辞めることになった。
しかし、ここでアイの想いは止まらなかった。むしろ加速した。アイドル活動の中でそれぞれに弱音を打ち明け合ったB小町の中で、当然のようにアイは八幡への想いを暴露した。円満に解散すべく、そしてその後メンバーが思い思いに活動できるよう相談し、社長が夢に見ていたドームライブの結実を以てB小町に終止符を打った。
「────はいぃ?」
小町の耳には、こう聞こえた。B小町は、アイが兄への想いを実らせるために解散したのだと。それだけが理由じゃなくても、少なくとも決定打となったのは二人の関係そのものだったのだと。
そうしてアイドルを辞めたアイは──こうして、目の前にいる。小町が寝ている間に兄と言葉を交わして、その末に……互いの想いを受け入れ合ったのだ、と。
「じゃ、じゃあ、カプセルの中に入れた連絡先は──?」
「さっき言っただろ、入ってねぇよそんなもん。ただのパフォーマンスだったんだ……最初に言っとくべきだったな。お前が推してたアイドルは──とんでもない大嘘つきだぞ」
「えへへ」
「褒めてねぇよ」
いやーまいった、などと茶目っ気たっぷりに頭を掻くアイ。それを一蹴する兄。小町は二人のやりとりをまざまざと見せつけられて──。
「……はいぃ????」
なーんにも理解できてはいなかった。
結局この日、小町が我を取り戻すことは無さそうだと断じた八幡に応じて、アイは比企谷家を後にすることに。
「じゃーね、八幡。小町ちゃんも……またねっ☆」
ウインクし、舌を出し。軽く手を振る推しに、小町はふらふらと手を振り返す。満足そうにアイは、ドアの向こうへ消えていった。
「…………はいいいいっ!!??」
「うるさっ」
小町はやはり、奇声を上げて兄を見た。大きな目の中には渦が巻き、混乱の極みと言って過言ではない。
その後夕飯の席で。テレビの前で。自室のベッドの上で。小町の脳内ではずっと、推しが自宅を訪れて。それどころか兄と好き合っているなどと言うマンガのような出来事が正気を侵し続けていた。
1シーンをパシャリとスマホで切り取った兄が、推しに対し「宇宙猫」と題して画像を送っていたことを、この時は知る由もなかった。