あの人が死んで、僕たち家族は崩壊した。
あの人が死んだ時、僕と姉さんは起こった出来事に動揺し、あの人から流れる大量の血液に驚き、混乱し、狼狽えた……と、思う。あの時の僕は幼くて、その時自分がどういう心境だったかを詳しく思い出すことは難しい。
それでも……母さんが、見たこともないほど取り乱していたことは鮮明に思い出せる。僕と姉さんは離れたところから見ていることしか出来ず、事切れる寸前に、あの人が母さんに何事か伝えていたことは分かっても、2人がどういう言葉を交わしたのかは想像すら出来ない。
とにかく……あの時、あの人は死んだのだ。
母さんは──少しばかりの活動休止を挟みつつも、すぐに仕事を再開した。世間の口さがない風聞に何を思った様子も見せず……アイドルとして、それまで同様にファンを魅了していたのだ。
あの人が死んだ直後こそ、母さんは多くのバッシングに晒された。アイドルなのに隠れて男を作っていた。だからファンに刺された。自業自得だと、そんな風に攻撃された。
でも、母さんは仕事を続けた。活動を再開してひと月経つころには母さんを擁護する声も生まれ、半年も過ぎればファンのほとんどは悲劇から立ち直った母さんを肯定し、応援した。母さんを悪く言う人間は母さんを、もしくはアイドルそのものを嫌っている人間なのだとファンのほとんどが認識した。
悲劇のヒロインは、愛する人を失ってなお、ファンのために活動を続けて。その末に、一度は離れかけたファンの心を掴んだのである。母さんの伝説は再び、その幕を開けたのだ──。
傍目には、そう見えていたのだろう。
母さんは家に居るとき、ぼーっとしていることが多くなっていた。僕が、姉さんが呼びかければ、いつもと同じように。あの人がいた時と同じように、笑いかけてくれた。
僕は、その時なんの心配もしていなかったと思う。僕にとってあの人は、母さんに向けるものと同じ感情を向けることが難しい人だった。あの人が死んだこと自体は、ショックこそ受けてもそう悲しくは無かったのだ。
それでも、母さんがどれだけあの人を好きだったかは十分すぎるほど知っていた。だから、母さんがどれだけ悲しんでも不思議ではなかったし、だからこそ、変わらず笑顔を向けてくれるようになった母さんに、むしろ僕は深く安心していたのだと思う。
けれど……姉さんは、母さんの様子に違和感を抱いているようだった。僕に同じようなことを感じないかと何度も聞いてきたけど、僕はまるで姉さんに共感できなかった。だって、ほら。母さんは笑ってくれているんだから。
あの人が死んで。悲しみに暮れていた母さんもしばらくして立ち直って、以前にも増して精力的にアイドルとして活動して、成功して。僕や姉さんに変わらず笑顔を向けてくれて、そうして1年経って、2年経って……。
ある時、母さんが泣いていた。以前はあの人と一緒に使っていて、その時は1人で寝ていた部屋で。多分僕は、母さんと出かけたかったのだろう。姉さんの制止をきかず、子供らしいワガママを優先して、母さんの部屋を訪れたのだ。
母さんが泣いているのを見るのは、記憶にある限り3度目だった。とっくにあの人が死んだことを受け入れて、僕たちを愛して、仕事をして、いつも笑っていた母さんが。泣いているという事実を認識するのに、それなりの時間を使った。
その横で──姉さんは、母さんにこんなことを言ったと思う。なにせ昔の記憶だ、それに直後の出来事が衝撃的過ぎて、言葉の内容を鮮明に思い出すことは出来ない。とにかく、姉さんは言ったのだ。
『ママ……泣かないで? わたしたちが居るから……悲しいのは、分かるけど……』
姉さんはきっと、僕と違って知っていたのだ。母さんが何度も、1人で泣いているところを、見てきたのだ。だから母さんを心配して、自分たちがついてるからと慰めた。
姉さんの行動が間違っていたなんて欠片も思わない。けれどきっと、その時に一番言ってはいけないことを言ってしまった。慰めの言葉が致命的に間違ってしまっていた。
『分かる……?』
母さんは、俯ていた顔をゆっくりと僕たちに向けた。──あの時の母さんの表情は、何度も夢に見てしまうほどに深く脳裏に刻まれた。それほどに……僕は、母さんの顔に恐怖していた。
『わたしの気持ち、分かってくれるの?』
笑顔だった。大きな2つの瞳から、涙を流しながら。母さんは笑っていた……他人を見るような表情で、僕たちに微笑んでいた。
その顔を。その口から発せられる言葉を。僕は生涯、忘れることは無かった。……忘れられるはずなど、無かったのだ。
『どれだけ愛してもらってたか、知らないくせに?』
きっと僕たち以外の誰もが見惚れるような笑顔で。母さんはその口から毒を吐いた。
『一回だって、それを返さなかったくせに……わたしの気持ち、分かるんだ?』
姉さんがどんな顔で母さんを見ていたか。その言葉を聞いていたか、僕は知らない。姉さんも僕のそれを知らないだろう。だって、僕らは2人とも、母さんから目を離せるはずがなかった。
笑顔のまま、母さんは俯いた。そしてゆっくりと、音もなく立ち上がって。
『……ごめんね』
立ちすくむ僕たちの横を通り過ぎるとき、そう呟いて。母さんは外に出て行ってしまった。
それが……僕と姉さんが聞いた、母さんの最後の言葉だった。
母さんは──自ら命を絶ったのだ。
ある時から、僕は復讐に生きた。それしか生きる意味を見出せなかった。
母さんを間接的に、あの人を直接殺した男を殺す。そして──
1つ目はそう難しくない。名前と年齢は知れているのだ、やりようはある。しかし、2つ目のことを考えればすぐに行動するのは難しかった。あの人を殺した人間を殺し、足がついてしまえば、2つ目を達するための時間が足りなくなる可能性があった。
対象の、最低2人を見つけ出し、可能な限り同時に殺す。そのためにあらゆる手段に手を出した。法に反する行為も辞さなかった。
10年以上の月日を費やした。けれど、その末に──僕は、成し遂げたのだ。
もうやり残したことは無い……未練は、無いとは言えないけど。
遅かった。本当に……あまりにも、遅かったけれど。僕は、あの人の愛に触れる機会があった。あの人が遺したものがあった。姉さんも、おそらく母さんすらも知らない、あの人の遺した愛のカタチ。
それを誰かに知って欲しいという、そんな身勝手な未練は残っている。でも、そのためにこれ以上生き恥を晒すこともないだろう。
自分と言うものが無かった。姉に依存し。母に依存し。それを失ってからは、その穴埋めを仇に求めた。
天国が、地獄があるのなら。きっと僕は地獄に落ちるはずで、死後家族に会うことは叶わないだろう。でも、それで良いと思えた。どうか母に、姉に──あの人に。死後の安寧のあらんことを。
眼下には荒れた海。飛び込めば間違いなく死ねる筈だ。運が良ければ岩肌に頭を打って即死、悪ければ数分苦しみ抜いて溺死だろうか。
……まぁ、どちらでも良い。いま、恥知らずが息絶えよう──。
「用は済んだみたいだね」
思わず、振り向いてしまう。
「もう、やり残したことは無いよね?」
笑っている三日月を背に──1人の少女が立っていた。
「待ちわびたよ、ようやく君を──」
周囲に無数の烏が居た。それに驚き、少女の言葉を聞き逃してしまう。
「お前は……」
誰だ? そう続けようとして、しかし言葉が出なかった。出会ったことは無いはずだ。けれど、なんとなく懐かしい気配がする。
僕の途切れてしまった誰何を、その少女は察したらしかった。
「ふふ、誰だろうね? でも、そうだなぁ……君の、親みたいなものだよ」
少女は笑った。不思議と、その様相に心が落ち着く。次の瞬間──彼女を囲っていた烏が飛び立ち、僕に向かってきた。
数秒経たず、月光を映さない黒の羽根に視界を埋め尽くされる。
声を上げることも出来ず、微睡むように僕の意識も闇に包まれていく。
暗黒と己の境界が無くなるような、それを感じることが出来ていたその最後の瞬間──笑んでいた月の弦から飛来した、輝く何かが僕を貫いた。
次に僕の意識が覚醒した時。僕は──おしゃぶりを咥えていたのだった。