まずはホテルに潜入する為の第一関門・崖登り。
誰もが軽々と登っていく中で、特別群を抜いて早いのは岡野さんだった。飛んで、跳ねて、上へ上へ。
「置いてくよ~」
その速さはと言えば、このように軽い調子でクラス一同を煽ってもなお余裕がある程である。
「やっぱ身軽だな岡野は……」
「あぁ、こういう事やらせたらクラス一だ」
磯貝君と木村君が岡野さんの煽りに苦笑するが、彼等とて崖を登りながらそんな軽口を叩けるだけの余裕はある。3人中1人しか動けない教師陣とは大違いだ。イリーナ先生も烏間先生にしがみついてぎゃんぎゃんと文句を言っている。女とはいえ大人を背負っておきながら身軽な生徒達の速度についていっているばかりか、殺せんせーと生徒達の訓練について会話している余裕もあるあたり烏間先生は流石だが、それ故にイリーナ先生の情けなさが際立ってしまい、目に余るものがあった。いやでもイリーナ先生が活躍するのって多分こういう場面じゃないからな。むしろ入ってから彼女の手を借りることになる気がする。
崖上に辿り着いた私たちの視界に映るのは飾り気のないホテルの通用口。警備員までは置かれていないというが、流石に監視カメラと電子ロックの扉が置かれている。
『この扉の電子ロックは私の命令で開けられます。また、監視カメラも私達を映さないよう細工できます』
こちらについているのは世界最高峰の人工知能だ。電子制御であるならばロックもカメラも敵ではない。律の言葉に嘘はないと証明するかように、電子ロックのランプが赤から緑へ変わる。
「さっすがぁ」
『ですが、ホテルの管理システムは多系統に分かれており、全ての設備を私ひとりで掌握するのは不可能です』
「……流石に厳重だな。律、侵入ルートの最終確認だ」
烏間先生の指示に律は頷くと、一同のスマホにホテルの内部マップを表示させる。ホテルは全10階。そして、一同の最終目標地点は最上階である10階。エレベーターを使えれば楽ではあるが、流石にそうもいかない。エレベーターにはフロントが渡す各階ごとの専用ICカードが必要だからだ。
従って、残る手段はホテル内に設置されている階段しかない。しかし、その階段もばらばらに設置されている為に最上階に行くまでかなり長い距離を歩く必要がある。
「テレビ局みたいな構造だな」
ああ、テレビ局ってテロリストに占拠されにくいよう複雑な設計になってるんだっけ。そりゃあ悪い宿泊客が愛用するわけだ。
烏間先生の号令でホテル内へと侵入した私たちはそれほど間を置かず、頭を抱えたくなる事態に直面した。
入って早々、最大の難所。ホテルのロビーである。このロビーを通らなければ上に行けない構造。当然、警備のチェックが最も厳しい場所となる。が、予想以上に警備が多い。入り込んだ裏口と、非常階段は非常に近い位置に設置されているが、しかしだからといって迂闊に通ろうとすればいずれかの警備の目に留まる。2、3人だけならまだ誤魔化せなくはないが、いくら人数が普段より半数ほどに減っているとはいえ、十数人いる生徒全員が通るのは不可能だ。かといって、人数を絞って潜入するには敵の数・能力が未知数だという不安要素がある。数の利を捨てればそれだけ危険も高まってしまう。
どうするべきか。頭を悩ます一同の中で、やけにあっけらかんとした軽い調子の声が響いた。
「何よ。普通に通ればいいじゃない」
そう言ったのは……いつの間にやら、それ以前に露出の多い衣装のどこに隠していたのか、空のワイングラスを手で弄るイリーナ先生だ。やっぱりこういう場面はこの人だよな。
「状況判断もできねーのかよビッチ先生!」
「あんだけの警備の中どうやって――」
とん、とイリーナ先生は烏間先生の肩を叩く。
「だから普通によ」
誰もがその動作に呆気に取られて見守る中……イリーナ先生はふらふらと危なっかしい足取りでロビーの中心部へと歩みを進めていく。
当然、警備の者達はそんなイリーナ先生に気付いたが……しかし、その容貌を視界に入れるなりその鬼のような険しい顔が、鼻の下が伸びきった情けなくもだらしないものへと変わった。
だが、それも致し方のないことなのかもしれない。絹糸のように滑らかに、さらりと揺れる黄金の髪。惜しげもなく晒された艶めかしい陶器のような白い肌と赤みの差す頬のコントラストはそれだけで芸術品のように美しく、僅かに潤む碧眼はまるで丁寧に整えられた宝石のよう。この上なく目を引きながらも決して下品にはならない深紅のドレスは、出るところは出て締まるところは締まる、彼女の抜群のスタイルをこれ以上ない程に引き立てている。
容姿、仕草、表情、視線、声音……その全てに意識を釘付けにして離さない、麻薬のような妖艶さ。
そして……それらをより際立たせるように、彼女のしなやかで形の良い指先が乗った鍵盤から、極上の音色が響き出した。
「め……メチャクチャ上手ぇ……」
その姿に釘付けになっていたのは警備員だけではなく、私たちもだった。
「"幻想即興曲"ですねぇ」
殺せんせーが解説を加える。その腕前はピアニストという偽りであるはずの身分が、嘘とわかっていても思わず本物と信じ込んでしまいそうになる程に高く……けれど腕前以上に、魅せ方がうまいのだと。
「色気の見せ方を熟知した暗殺者が、全身を艶やかに使って音を奏でる。まさに"音色"……どんな視線も惹きつけてしまうんでしょう」
殺せんせーの解説を他所に、甘やかな声と仕草で見事に警備員たちを自身の元に集め出したイリーナはさり気なくサインで『20分稼いであげる。行きなさい』そう促した。それに従い非常階段へ抜けていく一同は、しかしどうしてもその視線はイリーナの方に向いてしまう。
全員無事にロビーを突破したところで、誰もがほっと息を吐いた。それは安堵と称賛の溜息だ。
「……すげーやビッチ先生。あの爪でよくやるぜ」
「あぁ、ピアノ弾けるなんて一言も……」
「普段の彼女から甘く見ないことだな」
階段先を警戒しながらも生徒達の話は耳に入れていたのだろう烏間先生が淡々とした声でそう返す。
「優れた殺し屋ほど万に通じる。彼女クラスになれば……潜入暗殺に役立つ技能なら何でも身に着けている。……君達に会話術を教えているのは、世界でも1・2を争う色仕掛けの達人なのだ」
その言葉に、E組の生徒たちは息を呑んだ。正直、普段の姿が姿だった為に完全に舐めてみていた部分があったのは否めない。ホテルに潜入するとなった時足手纏いになるだけじゃないか、と思う者もいただろう。しかし実際は、一同のピンチを真っ先に救いなんの損害もなく先に進める一手を打てたのは彼女だけだった。それ故に嫌でも実感せざるを得ない、プロの大人の技術の威力。
「ヌルフフフ、私が動けなくても全く心配ないですねぇ」
その言葉に、一同は表情を緩めて顔を見合わせると頷いた。
私も気合を入れないと、万が一の時は、呪術師という正体がバレるリスクを負ってでも彼らを守らなくてはいけない。それにここ、泊っている客が客だからか、そこそこ負のオーラが溜まっている。ほとんどが4級の雑魚だが、もしかするかもしれない。
「……さて、君等になるべく普段着のまま来させたのにも理由がある」
ロビーを抜け階段を上り切った先。烏間先生は今までのように隠れて進むのをやめ、いたって普通に歩き出した。
入り口のチェックを抜けてしまえば、客のフリが出来るらしい。なんでもここは芸能人や金持ちのボンボン達。王様のように甘やかされて育った子供が悪い遊びに手を染め遊び惚けているのも、ここでは珍しくもなんともないらしい。だから、中学生の集団だろうと普通にホテルに紛れ込めるのだと。うえ~、ボンボンとか悟だけで十分なんだけど。
「そう。だから君達もそんな輩になったフリで……世の中をナメてる感じで歩いてみましょう」
その言葉にいっそわざとらしすぎる程悪ぶった表情を浮かべだす一同に殺せんせーは緑と黄の縞々模様を浮かべて「そうそうその調子!」と煽る。
「その調子……なのか? というかお前までナメるな」
「ははは……」
呆れてため息を吐いている烏間先生の横で私は苦笑いを零す。