お兄様の声が響く。
“ねえ、ショチ。”
“君は「チェス」という遊びを知っているかい。”
その声は聞き慣れぬほどにあまく、拝聴する者へ知らぬ知識を安らかに授ける。
かつて世話になった乳母の子守歌よりも愛情深く、おだやかなお兄様の玉音は、すべての民に忠誠を誓わせるほどの叡智と慈愛に満ちあふれている。
我が兄、我が国の王子、比類なき君主「トラソル=ポカ」は、亡くなられた我らが父、先王「トナ=ポカ」にも勝る美男子にして賢き王、慈悲深き勇者として皆に讃えられるだけでは足りぬほどの才を持ち、もはや讃える言葉が足りぬと詩人が己の才覚の足りなさを恥じて筆を折るほどの素晴らしい御方であった。
その玉音もまた万民へ偉大さを知らしめる、厳かなる美声である。
“手駒たる戦士を指揮し、「王」たるものを守る遊戯だ”
“敵に捕まった捕虜は戦場に帰らず、花と散る。”
そう聞こえるはずなのに、……なぜだろう。
今は、それほどの素晴らしい玉音である、とまでは感動できない。
“私はだね、ショチ。”
“おまえがただの「兵士」の駒ではなく、”
“我がポカ王族にふさわしく強き、「女王」の駒であることを願っている。”
ポカ王族の血を引く者は、すべからく魔法の力を強く持つ。
己の名に「ポカ」をつけて名乗ることを許されぬ、王室を離脱したポカ王族の末裔とて、また庶民との混血児であろうとも例外ではなく、ポカ王族の末裔は皆強者である。
特に、この私は異国の王族の血をも引く姫君なのだ。
純粋な魔法力であれば、ポカ王族でもお兄様に次ぐほどの高みにある。
であれば、チェスなるゲームにおいて最強の駒である「女王」の駒のようだと、お兄様直々に認められるには値する女なのであろう。嬉しいことだ。
“だって、君も思いたくないだろう?”
嬉しいはずなのに、どうしてなのだろうか。
“君が「兵士」と同じ、ただの弱い女だなんて。”
あの一瞬だけ、お兄様は。
らしくもない顔で、声色で、瞳で、妹たる私へ、見知らぬ感情を告げていた。
あらゆる民を魅了する素晴らしき玉音に、どこか陰りがあった。
いいや、それ以上に、私は。
お兄様のことを、心のどこかで。
なぜか、「顔を合わせるのも恐ろしい」と、思ってしまったのだ。
あの玉音から間もなくして。
私はお兄様から、数知れぬ異世界の中でも名の知れた、有数の禁足域である「幸福の花園」に咲くと言い伝わる、異世界人の心に宿る「幸福の花」を密猟せよ、と。
そう命じられたのだ。
ポカ王国の姫、「ショチ=ティア=ポカ」ではなく。
密猟私掠組織、『
ありふれた
ひとの幸福を奪え、などと。
だが、
「今度こそ!
もう逃がさないよ、ショチ!」
小生意気な少女が不敵に微笑み、私を睨みつける。
お兄様と私にとっての最大の誤算。それは魔法国際法では禁足域であるはずの幸福の花園に、我が物顔で外遊する異国の姫がいたことだ。
ティア王国の王位継承者、「ショコラ=ティア」姫。
なにも知らぬ花園の民に「魔法少女」などと讃えさせる、魔法国際法をなんだと思っているのかも疑わしい馬鹿女が、ティア王国最大の汚点がいたことだ!
これまでなにをやらかしてきたのか、おかあさまの伝手で送られる叔父の手紙だけでも山のよう。ティア王国の王たる叔父は溺愛がすぎて大変お目がお曇りのようだが、ポカ王族の厳しい教育を受けた私の目は誤魔化せない。
あいつが自分と同じ、いや、おかあさまと同じ「ティア王族」の血を持っていたなどと、とてもではないが信じがたい。
「“
呪文と共に現れる、ショコラ姫の土色の蛇。
はじめは土で出来た蛇かと思えば、意外や意外、正体はチョコレート。
なんだ食べものかと嘲笑うなかれ、魔法属性としては屈指の面倒くささを誇る。
炎魔法を受ければ溶けて液化し、炎を呑み込む水魔法もどきに。
水魔法を受けても混ざりきらず、土崩れる現実を知らぬ土魔法もどきに。
風魔法も、彼女のチョコレート魔法には通じた試しがない。
辛うじて通じる魔法があるとすれば土魔法だろうが、土魔法は労働者が常用する魔法であって、一般庶民ではない者では使い慣れない。
王族である私が土魔法を使いこなせない以上、チョコレート魔法を土魔法で受け止めることもできず、不利なはずの炎魔法で立ち向かうしかない。
こうして幸福の花の密猟を妨害されること数度、そろそろ両手で指折り数えきれなくなる。ひとつひとつ思い出すだけで腹立たしい!
ああ、なんてこと。
またしても私は、こんな生意気な。
なんの苦労も知らないヤツに負けるのか?
「ショチを捕まえて!」
コアトルが伸びる。
我が柔肌へと噛みつかんと顎を広げてくる。
ちろちろと踊る舌に至っては、ヤツに嘲笑われたようで腹が立つ。
いちいち芸の細かい魔法の使い方をする余裕があるなど信じがたく、そんな馬鹿女の余裕綽々な笑顔など見るだけで踏み潰したくなる。この魔法に捕まえられて魔法界に連れてかれてしまえば、「自分が本当は何者であるか」を気づかれてしまう。
そうなれば祖国での私の立場はない。
ただの「兵士」として敗北してしまう、そんな王族に価値はない。
“だって、君も思いたくないだろう?”
ああ、胸に響く。
あれほどの麗しき、お兄様の玉音が、今は。
聞こえるだけで恐ろしいと、そう思えてならないのだ。
“君が「兵士」と同じ、ただの弱い女だなんて。”
それなのに、まだ、私の胸に響く。
わけのわからぬ恐怖に慄き、身を強張らせる私へ。
お兄様は「王族にふさわしい成果を残せ」と、私の背中を押すのだ。
今日も私は、異世界人の幸福の花を奪い、そして。またしても異国の汚点であるショコラ姫なんかに追い詰められている。捕まれば、私は人質になってしまう。
いや、お兄様がたを守れぬ死んだ駒になってしまう、それだけは嫌だ。
「このっ……!」
ポカ王室の、ポカ王族の恥さらしになることだけは。
自分がまさか眼前のアホ女より下だなんて、そんなことは。
おかあさまにだって、おとうさまにだって語らいはできない。
迫るコアトルを叩き落とすか?
いいやチョコレートの魔法は溶ける、ならば。
「“
魔法の炎の蛇を放ち、チョコレートの蛇に巻きつかせる。
高熱に身を焦がされ溶かされるショコラの蛇は液化してもなお蛇の形状を保ち、追跡を諦めない。だが私のコアトルがまとわりつき、動きを鈍らせる。
「ああっ!?」
「笑わせるな。
コアトルの魔法は、こう使う!」
燃やしたり、溺れさせたり、吹き飛ばすだけの魔法の蛇ではない。
なぜ蛇の形状をしているのか。魔法で捕虜を拘束するだけでなく、蛇らしく絡みつかせれば敵の魔法さえも無力化しうるからだ。おなじコアトルの魔法であれば、このように無力化させることもできる。
王族であれば、かならず最初に学ぶはずの知識のひとつだろうに。
「ここまで『貴様に追い詰められる』とは思わなかったが。
慢心したな、ショコラ=ティア。
私を内心で侮り、王族の生まれでありながら!
「うっ、」
私の魔法力を限界まで搾り出し、特別に焼き尽くしてやろう。
いくらティア王族の血筋を引くショコラ姫とはいえども、両王族の血を引く私の魔法力には遠く及ぶまい。みょうちきりんなチョコレート魔法……チョコレート魔法?
とにかく、わけわからん属性の魔法に翻弄されてきたが、それも今日までだ。
あらゆる異世界の中でも辺境がひとつ、国家間で定められた禁足域の「幸福の花園」なんかに王族の娘が足を運んで
そうだな、遺体の横に幸福の花でも添えてやろうか。
『
ここで死なせてやったほうが、ティア王室の恥を晒さずに済むだろう。
「さあ、“
「負けない、……私も! “
魔法使いの心臓。
すなわち、魔法使いの魔法力すべてを象徴する魔法。
炎魔法により太陽にも負けぬ輝きを得た我がヨロトルの熱量が、チョコレート魔法のせいで気味が悪い泥団子にしか見えないショコラ=ティアのヨロトルを溶かしていく。
「くだらない!
そんな真似をしたところで、我が“
溶かして、溶かして、
「そう簡単に、貴様ごときには、」
溶けて、溶けているのに、
「……防げぬ、はずで、」
そう、
さきほどからチョコレートが燃えて焦げて溶けて形を崩しているのに、チョコレートは崩れた先から泥団子の形へと練り直されるばかりで消滅しない。蒸発しない。
チョコレートの
むしろ、私の
「なのに、なぜ、……馬鹿な!?」
これほどの魔法力の差があるのに、この程度の魔法力が打ち消せない。
まるで「幸福の花園」にある下水道の中へ、葉巻の吸い殻を捨てたときのような、どれだけ吸い殻を捨てても下水道とやらが詰まらないかのような虚無感がある。
いたずらに下水道を詰まらせようとして、なんの意味もないと気づかされる子供のいたずらを思わせる、気恥ずかしくも空しい努力にも思えてくる。
あきらかに、私のほうが!
魔法力は上回っているのだと、この肌で感じ取れるのに!
「そんなはずがない。だって、私は!」
両王族の血を引いた私が?
よくわからない魔法を持つ、あんな馬鹿なんかに!?
「遊んでばかりの!
王族の責任を知らない、貴様なんかが!」
ぎちぎちと杖が鳴る。
魔法力を限界まで絞り出す心臓の魔法たるヨロトルは、いちどでも発動すれば笑えるほどに他の魔法が使えなくなる。炎魔法であれば火は出させず微熱にもならないし、水魔法であれば雫も出せずに湿気を出すだけで、風魔法となれば風が出たかもわからない。
つまり、一度出した
決して中断などできない。
それが最強にして禁断の魔法ヨロトルなのだ。
王族が問答無用で反逆者に勝利せしめる秘儀でもある。
なのに、なんで、どうして。
“だって、君も思いたくないだろう?”
迫る。敵の
“君が「
私の。王族の。
魔法力すべてを飲み乾されて、炎が消えていく。
“
「いやあ、まいったな!」
へらへらと。
重苦しい音を素通りして、軽く高い声がきた。
聞き慣れた男の声。
己の貧しさをごまかさない、どこにでもいる平民らしい格好の男が、
「意外と“お熱い”ひとですよねぇ。」
けらけらと。
チョコレート魔法で不滅の、王族の”
ティア王国の姫君へと杖を向けて目線を外さず、しかし、
「“ショチさま”ってさあ?」
からからと。
私へと話しかけて、「大魔法など興味もない」とばかりに大笑した。
こいつの微笑みを見るたびに、こいつが間に合うたびに、不思議と心が落ち着くのはなぜだろうか。また負けたのに、また助かることが確信できるからなのか。
“だって、君も思いたくないだろう?”
私の胸を響かせる焦燥感は、わけのわからない感情で埋もれていく。
「あいかわらずの女上司様で、俺は痺れますよ。」
“君が「
「いやあ、」
「ほんと、かっこういいなあ、って。」
「……馬鹿じゃないのか、おまえは?」
男の名は、「ポチ」。
産まれは平民、育ちも平民。名の意味は「左」。
使える魔法は土属性のみ。生まれもつ魔法力も常人程度。
ただし、所属は『
私掠組織の連中が(勝手に)雇った、悪名ある魔法使いでしかない。
いわゆる用心棒というヤツで、ただ強いだけの男だ。
「報酬が欲しいのか? いくらだ?」
平民にしては、まあまあ強いだけのくせに、
「いやあ、今
「……そうか。」
ああ、まったく。
アニメの絵で見た
ナワトル語で「トラソル」の意味は「不浄・悪徳」です。
「だからどうした?」って、……さあ?