杠凉凪は酒好きである。
家系的に肝臓が強いのか、はたまためちゃくちゃな飲み方をして身体が慣れたのか。ともかく、結構な量が飲める。
が、そんな杠とて切っても切れないアルコールが引き起こす現象がひとつ存在する。
「あたま、痛い……」
二日酔いである。
気持ち悪くはないのだが、頭痛だけはどうしても抜けきらない。それなら飲まなければいいじゃん、と言われればおっしゃる通りなのだが。
「すみませーん。カフェオレ、ホットでください。あ、お砂糖はなしで」
しかし、これからスカーレットとミーティングだ。頭痛を収めることができずとも、多少なりとも頭が動くようにはしておきたい。
そして運よく、今日はトレセン学園にキッチンカーが来ている。このキッチンカー、不定期でちょくちょくトレセン学園へやってくるので気になっていたが、機会がなくて今まで買わずじまいだった。
「少々、お待ちください」
ロングの黒髪を後ろで束ねた店員がミルクを温めながら手早くハンドミルでコーヒー豆を挽く。沸かしてあったお湯を注ぎ、温められたミルクに抽出したコーヒーが注がれる。
「お待たせ、しました」
「どうもー」
代金を払ってカフェオレを受け取る。こういうのは熱いうちにいただくに限る。息を吹きかけて軽く冷ましてから、火傷しないようそっと啜る。
あ、おいしい。
コーヒーの良し悪しはわからない。基本的にインスタントコーヒーばかりの人間だから。でも、インスタントと比べて格段においしいことはわかる。香り? それとも酸味とか苦味のバランス? たぶんそういうの。ともかく、おいしい。
こんなにおいしいなら、また次に見かけたら買うとしよう。
「あの、なにか?」
他にどんなメニューがあるのかな、と顔をあげると店員さんとばっちり目が合う。さっきからじっと見られているのは感じていたが、なにか頭頂部についていただろうか。一応、手で払ってみるけれど特になにもついていない。
「いえ……。気に入っていただけたかな、と」
「えっ。あ、これ! すっごくおいしいですよ!」
「それは、よかったです。トレセン学園の近くにお店もありますので、よければ」
「へえ……」
他愛のない会話をしてから、キッチンカーの店員さんと別れる。カフェオレがおいしかったし、今度行ってみようかな。でもこういうのってだいたい今日の夜にはもう忘れてるんだよね。うん。
まあ、覚えていたら行こう。
「はーい。スカーレットおまたせー」
トレーナー室の鍵が開いていた。だからもういるだろうとあたりをつければ、案の定。誰もいないだろうに、律儀に背筋を伸ばして座っているスカーレットが待っていた。
「遅いっ!」
「スカーレットが早いんだよ。まだ約束の5分前だよ?」
確かに寄り道はしてきたけど。でも、ちゃんと社会人の基本たる5分前行動は守ったつもりだ。
「新年早々、スカーレットは優等生だねぇ」
「新年会で醜態を晒してた人に言われるとは光栄ね」
「スカーレットさ、もうちょっと大人をいたわってくれてもいいんじゃない?」
杠的にもあれは失態だった。一方で梓峰には本性が既に見抜かれていたような気もする。
「じゃあ聞くけど。新年会から数日経ってるのに、どうして顔色悪いわけ?」
「いやぁ。社会人になると給料が入りまして。一人暮らしでお料理とか面倒だし、ちょっと高級なおせちといいお酒を通販で買って、だらだら飲んでたら今日になってた」
「あの新年会をやってから、まだ飲んでたの!?」
「ほら、迎え酒って言葉もあるし……」
一人暮らしの自炊は面倒。おせちなんて手間がかかるものを手作りするなんて、もっての外だ。しかし、今はネット通販というものがある。ちょっと調べてかるーく吟味すれば、おいしいおせちが家へ届くのである。
「ま、私のことはいいじゃん。スカーレットはお正月とか楽しめた?」
「私はパパと初詣に行ったわ」
「お、いいじゃん。季節のイベント楽しんでるね」
ちなみに杠は一歩も家から出ていない。ずっと手酌で燗をつけた日本酒を片手に、おせちをつついて日がなサブスクで適当に映画をずっとだらだら流していた。
寝正月バンザイ。ごめんね、神様。めちゃ寒い外に出て、あの人混みの中で初詣しにいくのはめんどくさかったよ。
「あんたはどうなのよ。家で食っちゃねしてばっかりじゃなくて、実家に顔くらい出したんでしょうね」
「あー、実家に帰ってないや」
「ちゃんと顔くらい出しなさいよ」
「お母さんみたいなこと言うじゃん。やめてよ、もー」
いきなり仕事始め早々、説教みたいなことをされたくない。資料や仕事用のタブレットを机に広げながらぶちぶちと文句を言う。
別にいいじゃないか。どんなお正月を過ごしていたって。誰かに迷惑をかけているわけではないのだから。
「さて、と。とりあえず自走はチューリップ賞。これでいいんだよね?」
「ええ、そうよ」
「なら、目指す路線はティアラ路線ってことでいいんだね?」
探るようにスカーレットを観察する。トレーナーは杠だが、杠は出走するレースを決めていない。むしろスカーレットが主導してこれに出たい、と言ったレースに出している。
ホープフルステークスだってそうだ。スカーレットが出走したい、と言ったから出した。
「そうね。ティアラを獲るって認識でいいわ」
「……これ言うべきじゃないかもしれないんだけどさ。ティアラでいいの?」
「なにか文句があるわけ?」
「文句、ってほどじゃないんだけどね」
クラシック三冠とトリプルティアラ。両者の違いとしてまずあげられるものが、距離だろう。クラシック三冠には菊花賞がある。
3000メートルの長距離レース。それはクラシック期のウマ娘たちにとっては未知の距離。とはいえ杠の見立てでは、スカーレットなら今後のトレーニング次第で長距離も走れるようになる。
「中距離のホープフルを獲ったじゃない? どうしてクラシック三冠じゃないのかな、って思ってさ」
まだクラシック三冠の菊花賞までは半年以上もあるのだ。
ホープフルステークスも大きく呼吸を乱さずに走り切ったのだから、スタミナに重点を置いてトレーニングすれば、射程圏内へ捉えられるはず。
「別になんだっていいじゃない。それにあたしが獲ったトリプルティアラ。あんたはいらないの?」
「めっちゃくちゃ欲しいですっ!」
「ふふん。それでよろしい」
はぐらかされたことには気づいていた。さすがに中学生の誤魔化しに気づかないなんてことはない。学生あがりとはいえ、こっちは大人なのだ。
でも詮索はしなかった。人には人の事情がある。出走に問題あるならば止めるが、スカーレットの能力ならトリプルティアラを狙っても問題はない。
「じゃ、トリプルティアラの方針で準備進めておくからね」
「……」
あれぇ?
なーんで返事がないのかしら? え、なにかご機嫌を損ねたりした?
「あのー、スカーレットさん? なーんで静かなんですかねえ?」
「なによ、その気色悪い話し方」
「いやぁ、ねぇ。イエスもノーも返事なければ気になるじゃん?」
「意外だったのよ。トリプルティアラを目指すことについて、もっとなにか言われると思ってたから」
「えー。だってさ、スカーレットならどうせ勝つっしょ?」
「負けるつもりで出走するウマ娘なんていないわよ」
「そりゃそっか。ま、次のレースも期待してるからさ。さくっと勝っちゃってよ」
期待。辞書でこの単語を引くと、ある人がそれをすることを他の人が心待ちにして待つこと、とある。
待つだけ、である。
だが、しかし。そうそう悪いものでもないと杠は思う。杠が必死になるまでもなく、勝手にダイワスカーレットは勝利を積み重ねる。それはダイワスカーレットの戦績になると同時に杠の実績にもなる。
現状だけでも素晴らしい戦績だ。デビュー戦から東スポ杯、そしてジュニアGⅠであるホープフルステークスの勝利。新聞も週刊誌もダイワスカーレットの名前はいたるところで見るようになった。杠の名前もセットのように載っている。
実績は勝手に積み上がっていた。
「チューリップ賞は桜花賞の前哨戦。きっちり勝って、桜花へ繋げましょ?」
「当たり前よ。それに、今回はアイツも出るから」
「ああ……。ウオッカちゃんね」
阪神ジュベナイルフィリーズの勝者。そしてスカーレットが取り繕うことなく付き合える友人であり、ライバル。
彼女も狙うのはティアラ路線だろう。当然、チューリップ賞でも剣を交えることになるが、今後もオークス、秋華賞と戦うことになる。意識するな、と注文する方が無理な相談であろう。
「私が高校受験をした時の話なんだけどさ」
「……なんの話?」
「まあまあ。ともかく、志望校がずっとC判定でさ。当然、焦るわけだよ。でも無神経に周りは言うんだよね。焦る気持ちはわかるけど本番は落ち着いて、って」
慰めてくれていたことはわかっていた。けれど、必死に頑張ってもなかなか成績が追いつかないというのは、周囲以上に自分本人がもどかしいものだ。
「ふざけんなー! って思ったね。焦らず落ち着け、なんて言われてできるなら苦労しないっての!」
「それがあたしのレースとどう関係あるのよ」
声色に苛立ちを隠さず、スカーレットが詰め寄る。まあまあと杠はなだめながら、ぬるくなったカフェオレをすする。
「本番、ずっと落ち着かなくてさ。周りのシャーペンが走る音とかにびくびくしちゃったんだよね。で、落ちた」
それはもう、あっけなく。発表された合格者一覧に杠の番号はなかった。
「笑っちゃうでしょ。なんだかんだと直前の模試ではB判定くらいまでは持ち上げたんだけどさ。びくびくしちゃってまともに頭が働かないのなんの」
あっはっは、と笑い飛ばす。当時はわりとヘコんだりしたものだったけれど、今はもうそこまで傷にはなっていない。
「それでね、よゆーで受かる! って思ってた滑り止めの学校は緊張こそしてたけど落ち着いて受けられた。そのおかげか、難しいと思われてた選抜コースで合格したんだよ」
自慢話ではなかった。これは杠の失敗談だ。スカーレットもそれは理解してくれているのだろう。いつものトゲがある言葉は飛んでこなかった。
「長々と話しちゃったけどさ。周りを気にするなとは言わないし、無理だと思う。特に周囲の出方次第で展開を変えないといけないのがレースだし。でもあんまり意識取られると、そのまま足元掬われるからさ」
「あんまりアイツのことを気にするな、って言いたいのね」
「うーん、ちょっと違うかな。気にするな、までは言わない。緊張もほどよくした方がいいものだし。でも、意識しすぎると実力が発揮できなくなるからさ。なにくそ、負けるもんか! くらいにしておいた方がいいよ」
「……胸に留めておくわ」
「うんうん、それくらいでいいよ」
所詮、杠は新人トレーナーである。自分の言葉に重さがないことはわかっているし、仕方ないことだと割り切っている。ちょっとでも胸に留めておいてくれるなら、それで十分だ。
「じゃ、桜花賞に向けてがんばっていこう! れっつ、トレーニング!」
「はいはい。調子いいんだから」
着替えてくるわね。言い残してスカーレットは部屋を出ていく。
ぴろん、と端末が鳴った。メッセージの通知音。
――杠君。スカーレット君のトレーニングメニューを見せてくれないかな
「はい? わかりました、っと」
心配性だ。でも、仕方ない。新人のトレーナーがどんなメニューを組んだのか。チェックするのは上司として当然の判断。ドリームジャーニーのトレーニングや出張で外へ出ていながら、職務をこなそうとするあたり真面目な人だと思う。
「さてさて、ファイル共有!」
ファイル共有用のリンクを送信してから、おじさん世代の梓峰がちゃんとできるか不安になる。しばらく送信されないメッセージ欄を見守る。
数分後。しゅぽん、とメッセージが送られてくる。
――悪くないね。鉄板のトレーニングばかりだ
「よっしゃ、やった!」
ちょっとうれしくなってから気づく。悪くない。でも良いとも言われていない。
「なにかまずいことがありましたか?」
――阪神レース場をスカーレット君が走るのは初めてだ。それを前提として組み込んだ方がいいよ
「えっ。でも坂路のトレーニングは組み込んだんだけどな」
チューリップ賞の舞台である阪神レース場は最後に上がりの坂がある。だから坂路のトレーニングはきちんと組み込んだ。
それにスカーレットはホープフルステークスに出走している。坂という意味では、むしろ中山レース場の方が傾斜がキツイ。すでに坂路は経験済み。なにより、そこでスカーレットは勝利している。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
だってダイワスカーレットは絶対に勝つから。
????のヒミツ
トレセン卒業後に喫茶店で修行してカフェを開いた