阪神レース場。
クラシックG1ティアラ路線の一冠目、桜花賞の開かれるレース場は兵庫県宝塚市にある。あの宝塚歌劇団、そして春季グランプリ競走である宝塚記念の宝塚である。
「おいトレーナー。いい加減説明してくれよ」
スタンド席に座ったドリームジャーニーは、ウンザリするほど見飽きたタブレットから目を離すと隣に座る梓峰を睨む。返事はない。代わりにスッと掌が向けられる。
「おい、さっきからなに喰ってんだ」
「…………かすうどん」
梓峰は汁も飛ばさず丁寧に麺を啜り、咀嚼を終えてから彼女の質問に答えた。
「そうじゃねぇ。なにが悲しくて阪神くんだりまで来なきゃいけねぇんだって聞いてんだ! 明日は弥生賞だろうが」
そう、クラシックへの前哨戦である弥生賞。これにドリームジャーニーは出走予定なのである。ちなみに弥生賞は千葉県の中山レース場で開催されるので、阪神レース場は無関係。
「けれど、今日はダイワスカーレットのチューリップ賞でもある。チームメンバーを応援するのも、大切なことだよ」
「納得いかねぇな」
そう。言わんとすることは分かる。しかし納得は出来ない。
金曜日に関西へ移動。宿泊して土曜日はチューリップ賞。チューリップ賞後はそのまま関東に戻り、翌日の日曜日に弥生賞へ出走――――――どう考えても移動分が無駄なのだ。
「杠サブトレーナーに全部任せても良かったじゃねぇか」
「任せてるよ? ダイワスカーレットの担当は杠クンだからね。それに君は学ばなくちゃいけない」
梓峰の言葉に、ぐっと言葉を飲み込むドリームジャーニー。東スポ杯、朝日FSと立て続けに重賞勝利を逃しているドリームジャーニーにとって、G1ホープフルステークス勝者であるダイワスカーレットはチームメンバーとしては紛れもない「格上」だ。
「……けどよ。スカーレットと私の走りはちげーぞ」
「うん。誰もダイワスカーレットから学べとは言ってないけど?」
「は?」
健康チェック、よし。
体重、増減は想定内。
ゼッケン記号、名前。
「よーし、調子もよさそうだね。蹄鉄は問題ない?」
「えぇ。問題ないわよ」
自己チェックを終えたスカーレットがそう報告する。本格化を迎えたウマ娘は超人的な能力を発揮するが、靴や靴下の素材はそうもいかない。念のため目視で確認する杠を見つつ、ダイワスカーレットはため息。
「アンタねぇ。そんなジロジロ見たくても大丈夫よ」
「ま。念には念をいれてね」
トレーナーの仕事は何か。
ウマ娘にトレーニングをつけること? ウマ娘を勝たせること?
どれも違う。トレーナーの仕事は、トレーナーバッジを持つ者に「許可されていること」とは――――――レースの出走登録を行うこと。それだけ。トレーニングをつけることは教官にも出来るし、ウマ娘を勝たせるのは結局、ウマ娘自身の能力なのだから。
「よし、勝とうスカーレット」
「当たり前でしょ? 今日も勝つわよ」
控え室を出てパドックへと向かう。チューリップ賞は今日のメインレースということもあり、それなりに人が詰めかけている。電光掲示盤がぱっときらめき、出走メンバーの情報が表示される。
「それでは、1番の方から順番にパドックアピールをお願いしまぁす」
間延びした、急かさぬように配慮した係員の声。いかに興業として洗練されたトゥインクル・シリーズと言えど、走るのは常に経験の浅い
「(うん、でもホープフルの時よりは少ない)」
とはいえ、心配ごとがないわけではない。スカーレットは優等生として振る舞おうとする。ならば、パドックアピールは彼女にとって負担だろう。
「次、ダイワスカーレットさぁん」
「はい!」
少し硬い返事をして、スカーレットがパドックへと進み出ていく。アピール時間はおよそ10分、分刻みのスケジュールに遅れは許されない。彼女の緊張を解してあげることはできない。
トレーナーに出来ることはなんだろうか。
本当に最後の最後、出走ウマ娘全員がパドックアピールを追えた後、コースへ移動する間の僅かな時間。そこで一言二言くらいなら言葉を交わせるかもしれない……けれど、そこで交わした言葉に意味はあるだろうか。作戦を変更するならともかく、集中を高めつつある担当の心を乱すだけなら意味がないどころか妨害にすらなる。
「(ならせめて、私はスカーレットの邪魔をしないようにしよう)」
トレーナーは、道を作ることしか出来ない。走るのはいつだってウマ娘。
大丈夫、梓峰チーフだって太鼓判を押してくれた。ネットに弱そうでストーカーしてそうな*1チーフトレーナーだけれど、これまで何人もの重賞ウマ娘を、それこそG1ウマ娘だって輩出してきたトレーナーだ。彼が問題ないと言うのだから、スカーレットのトレーニングは間違っていない。
そしてなにより……。
『ダイワスカーレット、一番人気です』
『頭ひとつ抜けていますね。年末の王者の貫禄が感じられますよ』
教本通りのアピール基本動作をこなすダイワスカーレット。個性はないが、基本動作だけあってぎこちなさは目立たない。うん、やっぱり基本動作をするように言って正解だった。
……チューリップ賞に向けてのミーティングで、スカーレットは何かを隠していた。それが何かは今の段階では分からないし、踏み入るべきことではないのだと思う。多分。
なんにせよ、彼女はチューリップ賞。そしてその先にあるティアラ路線を目指している。杠はトレーナーとして、その道を整えてやるだけだ。
「よお、ついに対決だな。スカーレット」
そんな声が聞こえたのは、その時。
「ウオッカ」
「へへ。待ちわびたぜ? 優等生サンよ」
「……こちらこそ、楽しみにしていましたよ? 2番人気のウオッカさん?」
優等生らしく言葉を選びながら、掲示盤に表示された人気を指し示すスカーレット。一番人気の表示が灯る「ダイワスカーレット」の文字を見て、なにおうとウオッカは応じる。
「すごいな、2人は早くもバチバチなのか」
「お前知らないのかよ、あの2人は栗東寮の同室で同クラス、毎日競いあってるって噂だぞ?」
「緋色の優等生スカーレットさんと掟破りのウオッカさん……素晴らしいライバル関係に期待です! 記事にしなくては!」
早くも始まったジュニアG1覇者同士の鍔迫り合いに、パドックに詰めかけた観客は興味津々だ。
「ふん。オレは一番人気なんか要らないね、欲しいのは1番、それだけさ」
「1番……いいえ、それは私のよ」
しかしそこに、違和感。気付いたのは杠だけだろう。ダイワスカーレットは、まぁ言っては悪いけど沸点が低い。いや子供だしいいんだけれど……でも、彼女が拘っている「1番」を引き合いに出されて、あんなに落ち着いて返事が出来るものだろうか?
「いや、成長したってことかな。うん」
そう自分を納得させていると、パドックアピール終了の掛け声がかかる。ここから先はいよいよ観客サービスなし、ガチンコ勝負の始まりだ。
整列したウマ娘たちの元へそれぞれのトレーナーが寄っていく。作戦の最終調整や他ウマ娘の様子の共有、もしくはただ「勝とう」と伝えるために。
「……スカーレット」
声を出す。去年から何度も繰り返してきた筈の呼び掛けなのに、どうしてか震えそうになる。
チューリップ賞。話題性も観客も、ホープフルステークスより少ない重賞。
けれどここは、紛れもない三冠路線の入り口。
幸運なのだと思う。間違いなく。
豪運なのだと思う。誰よりも。
「新人の私が言っても説得力ないかもだけど、あなたは強い」
そう。誰よりも強い。
新人の私には、勿体ないくらい……うん。正直、誰が担当してもここまで来られたんだろうなと思ってしまうくらいには。
「だから緊張せず、自分の走りを……スカーレット?」
「え……ごめ、なんか言ってた?」
全く失念してた、と言わんばかりの表情で。実際なにも耳に入っていなかったのであろう様子で。
……まぁ、なんだ。そんなこともあるよ。
「ウオッカのこと、見てたんでしょ。負けられないよね」
「…………当たり前でしょ。負けるもんですか」
私は、一番になるんだから。
関係者優先エリア*2に向かうと、そこに梓峰とドリームジャーニーの姿はなかった。
「今日は
結果として、チーム〈アルネブ〉でこの場所にいるのは杠ただひとり。
『……以上、本バ場入場の様子をお伝えしました。GIIチューリップ賞、発走まで今しばらくお待ちください』
アナウンスがスタンドに響き、まばらな拍手が広がっていく。
ラジオ・テレビ放送などのスケジュールの都合から、レース開催は分刻みのスケジュールが組まれている。従って、基本的にバ場への入場は時間に余裕を持って行い、バ場状態を確認できる返しウマも早めに終わらせるのが通例だ。
「さてと。スカーレットは……よしよし」
ゲート前、静かにストレッチをしている担当の姿を杠は確認する。スカーレットは強いのだから、落ち着いて冷静に実力を発揮さえすれば勝てる。
とはいえ、勝てると分かっているからと言って安心して見ていられるわけではない。自分が走るわけでもないのに心音が大きくなるような気がして、杠は胸を押さえた。
「大丈夫、大丈夫。私はもうG1トレーナーなのよ、
自分なんかが心配しても仕方ないのだけれど、何かが引っかかるような気がしてならない。それを押さえ込むように目を瞑り、息を深く吸って、吐いて、吸って……ゆっくりと心を鎮めていく。
「やぁやぁ。お初にお目にかかるよ、杠サブトレーナー」
「ひゃい!?」
そんな最中に耳の間近で声が聞こえたものだから、驚かないハズがない。思わず飛び退く杠に、声の主は肩を竦めて見せる。
「おや、そんなに驚かなくてもいいじゃないか……いや、もしかすると瞑想の邪魔をしてしまったのかな? だとしたら失礼したね」
「あ、あなたは……」
レース場に白衣という奇妙な組み合わせ、真っ白なその装束の上に輝くのはトレーナーバッジ。そしてカフ付きのロフストランド杖を突いている人物なんて、世界を探しても彼女くらいしかいないだろう。
「チーム〈ベテルギウス〉のアグネスタキオン……といっても、どうやら知っているようだが」
そりゃ有名だもの。杠は社会人として正しい作法で名刺を取り出し、渡しながら内心で慌てる。なにせ〈ベテルギウス〉は今イケイケの新興チーム。そしてなにより、ウオッカとアストンマーチャンという去年のジュニア級王者を2名も抱える大注目のチームである。
そう。彼女、アグネスタキオンはウオッカのトレーナー*3なのだ。
「それで、ダイワスカーレットの調子は良さそうだが。どうかな?」
「ど、どうと言われましても?」
んん? これってどういう質問なのだろうか。杠は混乱する。チーフが居たら助け船を出してくれたのだろうが、生憎今日の彼は外している……いや、いつまでも頼り切りでどうするのよ凉凪! 杠は己を叱責。とりあえず相手は中堅トレーナー、しかも脂が乗ってきた感じなのヤベーヤツ。新人ペーペーの杠が出来ることはただ一つ――――――なんか良い感じに誤魔化せ!!!
「えーと、良い感じですね」
いや語彙力! もっとこう、すごく良い感じの言い回しなかったの?! 自問した所で他に良い言葉が出てくるわけもないのだけれど……こちらの困惑が伝わってしまったのか、アグネスタキオンは眉をひそめた。
「……ん? あぁ、そうか。
それからくるりと白衣を翻してしまうアグネスタキオン。なんかこのままだと心証だけが悪くなってしまいそうで、杠は言えることだけを言うことにした。
「その!」
「うん?」
「……スカーレットの仕上がりは十二分です。負けませんから」
パドックでの違和感が完璧、とは言わせてくれない。それでも、スカーレットなら十分に制覇を狙えるはず。そう言えば、振り返ったアグネスタキオンが口を開く。
「まぁ、私としては……全バ無事に走りきってくれればそれで構わないよ。結果は分かりきっているからね」
| =チューリップ賞(GⅡ)入線速報= | |||
|---|---|---|---|
| 1着 | 6 | 11 | ウオッカ |
| 2着 | 4 | 7 | ダイワスカーレット |
| 3着 | 1 | 2 | ストームワルツ |
アグネスタキオンのヒミツ
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