顔を洗う。髪に櫛を入れて、結いあげる。薄くメイクをして刻む。メイクブラシを洗面所へ置いた。
いつもの通勤ルート。まだ一年も経っていないけど、通い続けて一か月もしないうちに道は完全に覚えた。
足取りは重い。敗北は重い事実として杠の肩にのしかかっていた。私がスカーレットの一番を止めてしまった。
それでも進まなければいけない。敗北も受け入れて、その上で次へ繋げていかないといけない。
それがトレーナーなのだ。
杠凉凪は思う。
「(私は考えが甘かった)」
レースの世界を侮っていた。デビューから始まり、東スポ杯にホープフルステークス。連戦連勝に舞い上がっていた。
「(どこかで思っていた。スカーレットは私なんかいなくても、勝手に一番になれるんだって)」
杠凉凪はなにもしてこなかった。
そう、なにも。
ただよくあるトレーニングのメニューを組んだだけ。コースに合ったトレーニングを選んだだけ。
それではトレーナーである必要はない。ダイワスカーレット専用のメニューを組んでこそ、意味がある。だれでもできる一般的なトレーニングメニューなら、トレセン学園で用意されている全体向けのメニューを採用すればいい。
「(ずっと思ってた。私なんて必要ないんじゃないかって)」
でも、気づかないフリをして目を逸らした。スカーレットが強かったから。スカーレットが東スポ杯とホープフルステークスまでなんの障害もなく勝ってきたから。
ダイワスカーレットに走らせておけばいい。私なんていらない。
「(でも違った)」
ダイワスカーレットは強い。でも最強じゃない。同世代に、そして上の世代に下の世代に。肩を並べるか、それ以上に強いウマ娘がいっぱいいる。
ダイワスカーレットだって負けるのだ。才能に溢れていても、中央には同じように才能に溢れたウマ娘たちがごまんと集まってくる。
「(私はスカーレットのトレーナーなんだ。私がスカーレットの力にならなきゃいけなかったんだ)」
トレーナー室のドアを開けるのが怖い。もう何回、道を誤ってしまっただろう。また間違えることになるのではないだろうか。
でもここでトレーナー室に入らなかったら、それこそ私はその責任から逃げたことになる。
「(逃げるな、
ドアノブを掴む。思いっきって回し、トレーナー室へ入る。
「遅刻ギリギリだよ。間に合わなければ減給ものだね」
梓峰が口にした内容は注意。そのくせ軽い口調で注意する気なんてこれっぽっちもなさそうだ。
「チーフ。桜花賞の出走登録を出させてください」
「覚悟は決まったのかい?」
「……わかりません」
決まりました。言い切るべきなのだとは思う。でも嘘を言いたくない気持ちが先行した。
覚悟なんてわからない。そんな重い言葉を軽々しく使えるほど杠は人生経験が豊かではない。
「でも、どんな結果も受け入れます」
だからこれが精一杯。責任を果たす。梓峰の言葉を借りた形でしかないけれど、今はこれが自分のできることだから。
「いいとも。決裁は……ま、後でいいさ。書類だけ先に書きなさい。印鑑は押してあげるから」
「はいっ!」
デビューからホープフルステークスまで。もう何回も出走登録は提出してきた。書き方を教えてもらわなくとも、前に提出した控えを見ながらであれば杠ひとりで書ける。
誤字がないよう、慎重に。読みやすいように丁寧な字でゆっくりと書き上げてチーフの元へ書類を持っていく。
「うん、うん……。うん、大丈夫だね」
印鑑ケースからチーム・アルネブの決裁印を取り出す。デスクの引き出しから朱肉も引っ張り出してきた。
「杠君。覚悟、という言葉を辞書でひいたことはあるかな」
「それは……ないです」
「悪い事態を予測して心の準備をすること、だそうだよ」
スマホで調べたわけでもなく、梓峰は諳んじた。
「どんな結果も受け入れる。それは立派な覚悟だ」
朱肉に落とされた印鑑が書類に落とされる。そして出走登録を杠へ差し出した。
「スカーレット君ともよく話しておきなさい。桜花賞の後のこともね」
「もちろんです」
「よし。じゃあ、提出してきなさい。忘れないうちに」
「了解ですっ」
書類はできた。決裁印も打ってもらえた。提出すればスカーレットの出走登録は終わり、桜花賞への切符を手にすることができる。
「スカーレット」
まるで杠のことを待っていたかのようだった。トレーナー室から出た廊下にスカーレットが立っていた。
「ちょうどよかった。桜花賞の出走登録。いいよね、出すけど」
ウオッカのヤツも出るのよ、桜花賞。
スカーレットは出るとも出ないとも言わなかった。ただ、その一言だけだった。意図は十分過ぎるほどに伝わったが。
「それじゃ、リベンジマッチだ」
「上等よ」
「今度はさ、私もちゃんとトレーナーするようがんばるから」
「なら、次はアタシが勝って見せるわ」
勝てるように全力を尽くすよ。
それがトレーナーである杠の仕事だ。
いや、仕事とはもう言うまい。仕事ではあるけど、それだけじゃない。スカーレットの勝つ姿が見たいのだ。あの熱狂をもう一度、世間へ叩きつけてやりたい。
ダイワスカーレットと杠凉凪は最大の敵をウオッカに定めていた。完膚なきまでに負けた相手のリベンジマッチ。そしてトリプルティアラのための最初の一冠。
実際、世間の注目はウオッカ対ダイワスカーレットの対決だった。
今回もウオッカが勝つ!
いいや、前回は惜しかったが今回はダイワスカーレットだ!
そんな論調に一石が投じられることになる。
フィリーズレビュー直後。圧勝したアストンマーチャンが桜花賞への出走を宣言したのだった。
フィリーズレビュー直後のことだった。勝利したアストンマーチャンが配信をした。
「次の出走予定は桜花賞なのです」
一瞬でコメントが爆増した。
当然の反応だった。すでにアストンマーチャンと同じチームのウオッカが桜花賞への出走を宣言しているところだ。同じレースに出る、ということはチームの中で争うことになる。
「みなさん、桜花賞はウオッカさんとスカーレットさんの一騎打ちだと思っていませんでしたか? いいえ、三つ巴なんですよ。待ってろ、ウォツカ。待ってろスカーレット。勝つのはマーチャン、なのですよ。なのでみなさん、マーチャンの応援をお願いしますね?」
両頬に人差し指を当てて、軽くしなを作る。かわいい、と思わせる仕草をアストンマーチャンはよく知っている。
――面白くなってきました!
――これ、マジで桜花賞わからんな
――桜花賞のチケット予約販売は明日からだぜ! みんな忘れんなよ☆
――抽選の倍率イカれるだろ。こんなん生で見たいに決まってる
大量に流れるコメント。その余韻すら計算していたかのように切り抜きの動画は終わっていた。一瞬、スマホの画面が暗転。直後におすすめの動画が表示される。
「どうするんすか、これ……」
「フィリーズレビューに勝ったら次の出走レースを決めさせてほしい。要求は飲んだが、まさかウオッカ君のレースに当ててくるとはね……」
苦々しい表情を手のひらで覆い隠しながらアグネスタキオンが呟く。
「止めれます、かね?」
「無理だろうね」
さらっとタキオンは言い放つ。
まだアストンマーチャンの出走登録はしていない。けれど、ここでアストンマーチャンの出走を止めることは世間が許さないだろう。
片やダイワスカーレット。華々しいデビューを飾り、東スポ杯からホープフルステークスという1か月しか空いていないタイトなスケジュールにも関わらず連勝をしたウマ娘。
片やウオッカ。こちらもデビュー1年目にも関わらず、圧倒的な差し脚で阪神ジュベナイルフィリーズを勝利したウマ娘。
そしてアストンマーチャン。朝日フューチュリティステークスを目を見張る速度で劇的な逃げ切りを見せたウマ娘。
誰が勝つのか。この勝負に世間は間違いなく注目する。既にこの動画でさえ、アップロードされて一時間と経っていないにも関わらず、10万再生だ。
「少しアストンマーチャン君と話してくるよ」
フィリーズレビュー直後にこんな素振りは見せなかった。それなのに、ここに来て急にこの配信。タキオンすら知らされていなかった桜花賞への出走。
トレーナーとしてタキオンが物申す権利くらいはある。
トークアプリでアストンマーチャンのアイコンを選択。コールをかける。数コールで反応があった。
「やあ。アストンマーチャン君。私は止めたはずだったんだがねえ」
『ええ。マーチャンは桜花賞の出走を止められました』
フィリーズレビューの直後に桜花賞の出走をしたい、ということをタキオンは聞いていた。記者会見でそれを発表したい、とも。
『でも、これはマーチャンが決めたことなのです。それにフィリーズレビューでマーチャンは勝ちました。約束ですよ』
「フィリーズレビューに勝利したら、次の出走レースを決めたい。善処するが約束はしていないねえ」
あまりにリスクの高い約束だった。だからタキオンはその場で確約をしなかった。
「止める理由はウオッカ君とレースが被るからじゃあないよ。他ならぬ君が一番よく理解しているはずだ」
スマホごしにアストンマーチャンが無言になる。
アグネスタキオンは出走レースが被ることをそこまで気にしないトレーナーとして有名だった。同じレースに同じチームからの出走は戦績に影響するため一般的ではない中で、気にしないというのはずいぶんと異端なのだ。
だからタキオンがマーチャンを止めた理由は他にあった。
「君の体調は芳しくない。しばらく療養に専念するべきだ」
春に入ってからというものの、アストンマーチャンの体調が露骨に悪化した。医者にも見せたが原因は不明。ただ、季節的なものだろうということしかわからなかった。
『春とは仲良しではないのです。ただ、それだけなのですよ』
「仲が良くとも悪くとも、君の体調が万全でないことは確かだ。フィリーズレビューに勝てたが、君の実力がどれだけ活かされていたのか甚だ私は疑問だよ」
アストンマーチャン、フィリーズレビューを圧勝、なんて生地では銘打たれていた。
タキオンはそれをなにが圧勝なものか、と鼻で笑い飛ばした。
「
勝利だけ見れば十分な結果かもしれない。が、朝日フューチュリティステークスの時と比べてラップライムに伸びがまったくない。上りタイムでさえ、怪しい。トレーニングの成果がなにも反映されていないのだ。
『波の音が、したのです』
「……波の音?」
『だからマーチャンは桜花賞に出なければいけないのです』
通話が切れる。通話終了の画面がすぐに暗転して、タキオンの顔がスマホに映った。
「いやはや。なんとも。素直にトレーナーの指示を聞いてはくれないものだねえ」
それを自分が言っていると思うと少しおかしかった。
右手でロフストランド杖をつく。
アグネスタキオンの左脚は走れない。もう二度と。
アグネスタキオンのヒミツ
日常生活でも杖が手放せない