寮への帰り道。全身にどっしりと圧し掛かる疲労感に耐えかねて、スカーレットは大きく伸びをする。
最近、杠トレーナーの気合が入っている。
それはもう、とても。なにかこう、大きく変わったということはない。いつも通りにスカーレットの練習メニューを組む。トレーニングをする。
ただ、肌で感じる雰囲気がなんとなく違う気がするのだ。
「(なんか調子狂うのよね)」
一生懸命にやってくれるのは助かる。スカーレットとて、一番になりたいのだ。特に次のレースである桜花賞は絶対に落とせない。チューリップ賞では辛酸を舐めた。また同じことを繰り返すなんてごめんだった。
とはいえ、だ。
「(それはそれとしてあそこまで頑張られても、ねえ)」
本人はいつも通りに振る舞っているつもりなのだろう。でも、丸わかりだった。
あくまで利害関係。スカーレットにとってレースに出走するためにはトレーナーの存在が必要不可欠で、杠にとってはスカーレットの出す実績がほしい。そこから始まった関係だったはずなのに。
寮の部屋にはだれもいなかった。ウオッカはまだ帰ってきていないらしい。これは好都合だ、とスカーレットはアロマディフューザーにグレープフルーツのオイルを垂らす。ウオッカはこの手の匂いがするものがあまり好きではないようで、いつも微妙な顔をして文句を言われる。
別に気にしているわけではないが、いちいち文句を垂れ流されると香りで癒されていた気分も台無しになる。せいぜい五分くらいしか楽しめないのが玉に瑕だ。
ディフューザーを切って五分ほど経過しただろうか。廊下に足音がすると、ドアの前で止まった。
「おかえり」
「おーっす。ただいま……」
ウオッカの声に覇気がない。カバンを落として、部屋着に着替えることもなくベッドへ倒れこんだ。顔を埋めたまくらのすき間からうめき声のようなものが漏れて聞こえてくる。
「ちょっと。せめて着替えてからにしなさいよ」
「んあー? いいじゃねえか。どうせオレのベッドなんだし」
わかっていた。どうせ注意したところでウオッカが言うことを大人しく聞いてくれるようなタイプではないことくらいは。あまり清潔だとは思えないからついつい口を出してしまったのだ。
「アンタねえ。そんな調子で桜花賞は大丈夫なわけ?」
「はん、余計な心配だっつーの」
「それにしてはやけに疲れてるように見えるんだけど?」
「トレーニングの疲れじゃねえんだよ」
ごろんとウオッカは寝返りをうつ。
「どうせ知ってるだろうけどさ。マーチャンが桜花賞に出走しただろ?」
「ええ。さすがに戦う相手くらい把握してるわ」
杠が「うっそでしょ、ここで有力候補が追加で登場とか私を殺す気!?」と悲鳴をあげていた。その後、うつろな目でなにやらぶつぶつと呪文を唱えていたが、トレーニングに戻ったスカーレットは杠がなにを言っていたのか知らない。どうせあまり大したことは言っていないと思っている。
「なんつーかさ。うちのトレーナーが苦労してんだよな。マーチャン、なんの相談もせずに勝手に決めちまったから」
「タキオンさんはなんて?」
「とりあえずどっちも出す、って」
「ふぅん」
チーム内で争うのは戦績だけ見ればあまり旨味がない。東スポ杯ではスカーレットとドリームジャーニーの二人がチーム・アルネブからは出走したわけだが、杠は「よく梓峰チーフは認めてくれたと思うよ」なんてしみじみと言っていた。
「つーかなんだよ。おまえ、仲いいのか?」
「私とだれの仲がいいのよ」
「や、うちのトレーナー。タキオンさん、ってやけに親し気じゃねえか」
「……別に。よそのトレーナーなら、さん付けにするしかないじゃない」
そっかそうだよな。ウオッカは納得したようだった。
「オレは負けねえからな。スカーレッ、ト……」
急にウオッカの言葉が途絶えた。会話がいきなり切れてしまった。すぐにスヤスヤと寝息が聞こえてくる。
「着替えろって言ったじゃない」
明日の朝になればウオッカの制服はシワだらけだろう。だから着替えろと言ったのに、人の言うことを素直に聞かないからこれだ。
「万全のアンタに勝たないと意味がないのよ」
制服のシワまで面倒を見てやる義理はない。でも風邪をひかれては困る。体調を崩していたために、本調子ではありませんでした。だからウオッカはダイワスカーレットに負けた。そんなことを言われては困るのだ。
アグネスタキオンから教えを受け、万全の調子で走るウオッカに勝つ。そうでなければ、意味がない。
桜花賞は非常に注目度の高いレースである。
理由は簡単。桜花賞、オークス、秋華賞。トリプルティアラの第一関門となるレースがこの桜花賞だからだ。
「それにしたって、人多すぎじゃない……?」
人がごった返すとはこういうことか。そう思わせるほど大量の人が阪神競馬場に詰めかけていた。
予想はしていた。予約販売が開始した瞬間に予約サイトが接続過多でサーバーが落ちた。いざ復旧したかと思えば、当選倍率は8倍まで膨れ上がった。S席でもなければ基本的に当選するとさえ言われていた会場チケットがこの倍率。前代未聞と言うほかない。
「マーチャンが煽ったもの。妥当な結果じゃない」
「あー、あの娘ね。あの娘、メディア露出すごいもんねぇ」
ウオッカ対ダイワスカーレット。その対決で燃え上っていたところに投入されたアストンマーチャンという油。それはもう、良く燃えた。大盛り上がりだった。
杠も例の動画は見た。世間が煽られるわけだ、と納得させられた。
「あの娘のせいで私の睡眠時間が削れたんだよなぁ……」
「最近、ファンデーションが少し濃くなったのはそれのせい?」
「そうそう」
目の下にくまができてしまったから、それを隠すために少しだけ化粧を濃くしていた。ひとりの女性として、他人から美人に見られたい。そのためにマイナスとなる要素は見せないように隠す。
「気合入ってるのね」
「あったりまえじゃん。このために断酒したんだよ? 一か月も、だよ? 金輪際ないからね、こんなこと」
「少しは肝臓を労わってあげた方がいいわよ」
「平気よ、平気。私は鋼の肝臓を持つ女なんだから」
成人してから無茶な飲み方を何度もした自覚はある。一方で急性アルコール中毒になったことは一度もない。生まれつき肝臓が強いらしい。杠の小さな自慢だった。
「ま、雑談はこれくらいにしておこうか。スカーレット。いけそう?」
「消費量が増えたファンデーションくらい買い戻せる賞金を携えて帰ってくるわ。一着なら足りそう?」
「おお。それは、助かるなぁ。化粧品代ってバカにならないからさ。私が使ってる化粧品ってそこそこのブランドだから高いんだよね」
強気にスカーレットは笑う。杠は内心の不安を押し殺して笑い返す。
パドック前。この先はウマ娘だけの場所。杠が立ち入ることができる領域ではない。足を止めた杠。その背後からカツカツと杖をつく音が響いてくる。
「やあやあ。杠君。また会ったねえ」
「……アグネスタキオンさん。やっぱり会いましたね」
「硬いねぇ。もっとフレンドリーに呼んでくれたまえよ。同じトレーナーじゃあないか」
カフスを肘にあてたロフストランド杖をつきながらアグネスタキオンが歩いていた。その後ろにはウオッカとアストンマーチャンを連れている。
桜花賞に出走するウマ娘は全員が強い。きちんとレースで結果を残したウマ娘しか、出走登録ができないのがGⅠだからだ。ぽっと出のウマ娘が出られるような甘いレースではない。
レースの出走登録ができるかどうか。そこから既に勝負は始まっていると言ってもいい。当然、出走登録が完了したということは数多のウマ娘たちを倒してきた強者たちだ。
しかし、すべてが等しく強いかと言われれば疑問符が浮かぶ。すべてが等しく強いわけではない。同じではないから、順位がつく。たったひとりの勝者が生まれる。
繰り返しになるが、桜花賞に出走するウマ娘は皆強い。しかし、全員が同じく強いわけではない。
ダイワスカーレット。ウオッカ。アストンマーチャン。桜花賞を獲るのは、この三人のうち誰かになる。
そして今、この場に優勝候補である三人が揃った。
「……タキオンさん」
「やあ、スカーレット君。気力十分そうだね」
「今度は私が勝ちますから」
「そうかい。まあ、ケガなくやってくれればいいよ」
スカーレットの勝利宣言をさらりとアグネスタキオンは流した。
カチンときた。
なんだ、その物言いは。まるでスカーレットは相手にならない、みたいな言い方は。まるで眼中にないみたいじゃないか。
「スカーレットは勝ちますよ」
気づけば口走っていた。
「私は未熟です。新人で右も左もわかりません。でも、スカーレットの才能は本物です」
もう何度も間違えた。
一度は無責任な立場から成果だけ手に入れようとした。
二度目はスカーレットの才能に甘えた。新人一年目でよくもまあ、ここまでやらかしを連続したものだと思う。
「(私のトレーナー人生は間違いだらけだ)」
躓いた。失敗した。
折れそうになって、それでも逃げようと思わなかったのは、ダイワスカーレットの才能を信じられたからだ。
「ウオッカもアストンマーチャンも強いウマ娘です。だからといってスカーレットが劣る理由になんかならない」
言ってることがめちゃくちゃだ。筋も理屈も通っていない。ただ思ったことを口にしているだけ。ひどく稚拙で青臭いことばかりを言っている。
どれだけ幼稚だったとしても構わない。この言葉だけは言い切る。
「だから、ダイワスカーレットは勝ちます。勝つんです」
それがダイワスカーレットを
「いってらっしゃい、スカーレット」
「いってくるわ、トレーナー」
できることはすべてやった。あとはスカーレットのことを信じてレースの推移を見守ることだけ。トレーナーのために用意された最前列の席へ向かうことしかできない。
だから後は見送った。
今までも不安はずっとあった。勝利を確信し、安心して見守れたレースなんて一度たりとなかった。
今回は今までとまた違う。初めて怖いと思った。あれだけの啖呵を切っても怖いものは怖かった。
でも前回とは違うことがひとつだけある。
やるべきことはすべてやった。
あとはどんな結果になろうが、杠はその事実を事実として受け止めるだけだ。
「杠君。君、梓峰君からトレーナーの適性がある、みたいなことを言われたことはないかい?」
「……そうは思えませんけどね。それがなにか?」
「いや。なんでもないさ」
ただ同感だと思っただけでね。意味深に笑いながらアグネスタキオンは言った。
トリプルティアラの先駆け。桜花賞が今、始まる。
ダイワスカーレットのヒミツ
紅茶派。ミルクたっぷりのアッサムが好き