『ウオッカ。一番人気です』
『クラシック最初のGⅠ。気合十分ですね。間違いなく獲りに来ますよ』
実況と解説が名前を読み上げる。堂々とした振る舞いでウオッカが進み出る。観衆の前でガッツポーズを決めると、歓声とどよめきが会場を揺らす。
『二番人気、ダイワスカーレット』
『前回のチューリップ賞では惜敗しましたが、実力は十分。優勝は射程圏内ですね』
手短にパドックアピールを済ませる。前へ出ると、勝負服のスカートをはためかせるようにくるりと一回転。キャットウォークを歩くパリコレばりの歩きを見せるとターフへ。
芝の調子を確認。ここ数日、晴天が続いていたこともあってかバ場はすこぶるいい。脚を取られるようなことはなさそうだ。
「チューリップ賞の時とは逆だな、スカーレット」
「どういう意味かしら」
わざわざ話しかけてきたウオッカに返事をする。つま先の土をさりげなく落とした。
「チューリップ賞の時はおまえが一番人気だった。でも今回はオレだ」
事実だ。チューリップ賞ではスカーレットが一番人気だった。ホープフルステークスからの連勝と注目度で圧倒的にウオッカを上回っていた。
今回は違う。前回のチューリップ賞でそのダイワスカーレットを下したウオッカが勝つのではないか。そう予想されるのは必然だし、一番人気を持っていくのは当然の流れだった。
「確かにチューリップ賞の逆ね」
認めなくてはいけない。チューリップ賞で敗北を喫したことは。それはもう、紛れもない事実なのだから。
「でも、人気順が逆なら、結果も逆じゃないのはおかしいわよね?」
「へっ。ほざきやがれ。勝つのはオレだ」
優等生らしくない言葉選び。優等生らしくない煽り。
注目されていたライバル同士の間で始まった場外の戦い。レースは始まっていなくとも、すでに火花はバチバチと散っている。
「あれ、ダイワスカーレットだよな……?」
「緋色の優等生って話はどこに行ったんだ?」
言葉遣いに遠慮の欠片もない煽り。チューリップ賞では保っていた敬語も剥がれ落ちている有様に観衆はただただ衝撃を受ける。それは単なる余裕の無さなのか。はたまた、隠していた本性を剥き出しにしたことによる闘争本能の露出なのか。
抜き身の刃。そう例えられるような鋭さが今のダイワスカーレットにはあった。
「スカーレットもウオッカも気合十分なのですね」
にこにこと微笑むアストンマーチャンがその間に割り込んだ。
「いいですよ。とってもいいです。マーチャンだけでは起こせない嵐なのです」
ウオッカもダイワスカーレットも一種、殺意にすら思えるほどピリピリした気迫を纏っている。桜花賞に出走できた強者たちであるウマ娘でさえ、その間に割り込むどころか近づいていこうとさえしない。
その最中へマーチャンは笑って割り込める。
「マーチャンのウルトラスーパーマスコット計画は順調そのものなのです」
「いくらマーチャンが相手でも譲らないわよ」
「おいおい。オレだって譲る気はないね。勝つのはオレだ」
「ええ、ええ。いいのです。本気のぶつかり合いだから立ち上がる火柱があるのです」
スカーレットの言葉でさえ。ウオッカの言葉でさえ。マーチャンは笑ってするりと流す。闘志を剥き出しにした言葉を笑って受け止める。ふんわりと笑っているマーチャンは切れ味抜群の闘志を向けられている事実にどこか嬉しそうでさえあった。
「いいレースにしましょう。みんなが目を離せなくなるような。忘れられないようなレースに」
マーチャンは踵を返してゲートへ向かう。
「願わくば、波の音さえかき消せる炎にならんことを」
最後に一言だけ残して。
意味、わかった? ウオッカにスカーレットは視線を投げる。
わかんね。そう言わんばかりにウオッカは肩を竦めるだけだった。
鉄柵の中でスカーレットは短く息を吐く。枠番は8。18人のウマ娘たちが順番にゲートへ入っていく真ん中あたり。
隣のウオッカも呼吸を整えている。お互いに話そうともしない。言葉を交わす時はもう終わったのだ。あとは走るだけ。
ゲートが、開く。
同時にアストンマーチャンが一気に抜け出した。先頭集団から飛び出し、一気に距離を離す。
追いつかなければ。焦って回転速度をあげようとした脚をぐっと堪えて溜める。
――アストンマーチャンは初手から逃げてくる
杠の言葉を思い出す。最後のミーティングで交わした作戦会議の言葉を。
――でもこれは気にしなくていい。理由はあとで説明するね
自分のペースを守って走り続ける。焦りは厳禁。先頭集団に位置していられるならばいい。
自分のペース、自分の位置、自分の走り。まだ桜花賞は始まったばかり。仕掛けるところは今じゃない。唯一、気にしなければいけないのは最後まで自分の走りで走り切ること。
走り切ることができるよう、刻一刻と変動する状況の中で自分の走りができるように適応し続けること。
――最悪、大外に出てもいい。スカーレットがスパートをかけやすい状況の維持をして
大外に出る。確かに前は塞がれることはない。けれど、その分だけ走らなければいけない距離が増える。微々たるものではあっても、その微々たる差が勝敗を左右してしまうのが、レースの世界だ。全員が強者ばかりだからこそ、その微々たる差は大きく作用する。
それでも杠は外へ出てもいいと判断した。
「(本当に?)」
スカーレットの中で疑念が生じる。大外から回るというのはリスキーな判断だ。
今の状況を俯瞰する。前は塞がっていない。内枠をそのまま走ればいいのではないか。そもそも杠は新人トレーナーじゃないか。
果たして杠の判断は本当に正しいのか?
杠をトレーナーとして契約することを決めたのは自分だ。けれど杠の実力を買って契約したわけじゃない。出走するためには必要で、自分と契約する相手として丁度いい相手がいなかったから杠にしただけ。
スカーレットが迷いながら走っている中で、レースには大きな動きがなく続いていた。アストンマーチャンが先頭を走る。スカーレットは先頭集団の半ばを維持したまま。
レースの展開が動いたのは第三コーナーを曲がって直線に入った瞬間のこと。
アストンマーチャンの速度が落ちた。
――アストンマーチャンはペースを保てない。第四コーナーに入るより前に失速する
ペースを維持することができない。だからアストンマーチャンが大逃げをしたところで気にする必要はない。杠がアストンマーチャンの大逃げを気にしなくてもいい、と言い切った理由だった。
杠のレース展開予想は当たっていた。
――直近のフィリーズレビューは勝ってるけど、上りもペースも伸びてない。むしろ朝日フューチュリティステークスの頃より落ちてる。調子は明らかに崩れてる
だから最終局面へ入るより前にアストンマーチャンは落ちてくる。
杠の言葉は現実になった。落ちてくるなんてものではなかった。明らかにアストンマーチャンは失速している。
――スパートはチューリップ賞の時より早めにかけよう
「(信じるわよ、トレーナー)」
『第四コーナー前。ダイワスカーレットが真ん中から外へ……おっと、仕掛けました!』
実況の驚愕がレース場に響く。スパートとしてはずいぶん早いタイミングの仕掛けだった。掛かったと捉えられてもおかしくないくらいに。
後方に流れていくアストンマーチャンを横目にスカーレットは脚の回転をあげる。
「(外へ回ったおかげで前は開いてる)」
内枠には前からペースを崩して落ちてくるアストンマーチャンがいる。内枠を走り続けていたら彼女を避けるという動作が必要になっていた。
だが、外へ出ていたスカーレットにはその必要がない。
――ウオッカの強みは最高速に到達する時間が早いこと
だからチューリップ賞では先に最高速へ乗ったウオッカが制した。同じ距離からスパートをかけたスカーレットは最高速に乗るタイミングがウオッカよりも遅れてしまったから。結果、最終直線で作っていたリードを詰められることになった。
じゃあ私は遅いって言いたいワケ?
――スカーレットは最高速を維持できる時間が長いんだよ
ウオッカの強みが瞬発力なら、スカーレットの強みは持久力だ。加速は緩やかでも、最高速を維持できる時間が長い。
ホープフルステークスの頃からスカーレットは走り切ってもそこまで息があがっていなかった。スタミナと持久力に優れているということだ。
――大丈夫。最高速に乗ったスカーレットに追いつけるウマ娘なんて誰もいないから!
呼吸が早くなる。身体が酸素を求めている。身体に受ける風の抵抗が大きくなる。
『ダイワスカーレットは先頭へ。後ろからウオッカが追いかける!』
『ウオッカ少し苦しいか? まだダイワスカーレットだ! まだダイワスカーレット先頭だ!』
チューリップ賞よりも早く仕掛ける。
杠はこの一点に賭けていた。
ウオッカが釣れてスパートをかけはじめたら上々。スカーレットの早すぎるスパートにはスタミナが追いつかなくなる。釣れなくともそれはそれ。先に最高速に乗ったスカーレットは最後までその速度で走り切れる。遅れてかけたスパートでは追いつけない。
「あああああああああああっ!」
ゴールが目の前に近づいてくる。後ろからひと際速い足音がした。ウオッカが迫ってくる。
チューリップ賞の最終直線がリフレインする。あの時も先んじていたのはスカーレットだった。最終コーナーを先頭で抜けきり、最終直線で一気に突き放しにかかった。しかし外から走り込んできたウオッカに並びつけられた。
そのまま躱され、ほんのわずかに先んじてゴールへ入られた。
「アタシが、いちばんなんだから!」
違う。あの時とは違う。後ろから聞こえるウオッカの足音は迫ってこない。ウオッカにダイワスカーレットは捉えられていない。並び立つものは誰もいない。
走れ、走れ。誰にも捕まえられない緋色の閃光になれ。
最高速を維持する時間が長くなった分、前回よりもスタミナが削られる。身体にかかる負担も増した。脚が熱を持ち始めた。肺腑が足りない酸素を求めて喘いでいる。崩れそうになるフォームを必死になって矯正する。
『まだダイワスカーレット! まだダイワスカーレットが先頭! ウオッカが捉えきれないか! ウオッカ捉えきれないっ!』
並び立つものはいない。自分だけが走っているような錯覚にさえ陥りそうになる。
ゴールラインをスカーレットが越えた。
「(見たか。アタシが勝った)」
レース場が割れるような大歓声。掲示板はまだ表示されていない。着順はまだ確定していない。確定していなくとも、ダイワスカーレットが勝ったのだと誰もが認める一着だった。
右のこぶしを天高く突き上げる。ダイワスカーレットの勝利宣言へ応えるように、再び歓声が渦を巻いた。
そういえば、どうやって声をかければいいんだろう。
コースから戻ってくるスカーレットを待っている杠はふと考える。すごく傲慢な話だけれど、チューリップ賞より前は勝って戻ってくるのが当然になっていた。だからお疲れ様、くらいの簡単なことしか言わず、ウイニングライブや記者会見などこれからのことばかりを話していた。
今回は違う。雪辱を晴らした一戦だった。今までの勝ちとは毛色が違う。
おめでとう? よく頑張ったね? お疲れさま? どれもしっくりこない。
「スカーレッ、トぉぉぉぉぉぉぉおお!」
いろいろ考えていたはずだった。だというのに、いざ優勝レイをかけて戻ってきたスカーレットを目の前にすると、全部吹き飛んでいた。
「キャラ変わってるわよ。優等生はどこへいったのよ」
「よかった、よかった! ぶっちゃけ作戦とか気取ったこと言ったけど超不安だった!」
レースの展開を完全に読み切ることができるなら、勝敗は走る前からわかっているのと同じだ。レース前のスカーレットには自信満々に語って聞かせたけれど、レース中はずっと祈り通しだった。
頼むから読み通りになってくれ。
読み通りにならないなら、作戦なんて無視してくれ。
というかもう、作戦とかどうでもいい。スカーレットが勝ってくれるならなんでもいい。
と、こんな有様。トレーナーにあるまじき祈り方をしていた。
「え、なに。もしかして泣いてる?」
「泣いてない、泣いてない。ふふ、勝利の栄冠に涙は似合わないんだぜっ!」
「なにそれ」
「それに、これでようやく禁酒が終わったから心置きなく飲めるし、最高」
「……ホントにいつか肝臓を壊すわよ」
壊さないんだなぁ、これが。
アルコールの分解には水を必要とする。つまり、水さえ飲んでおけばアルコールは分解され続けるのでいくら飲んでも酔わないのだ! そう、理論上は!
※あくまで杠個人の感想です。絶対に真似しないでください。
「スカーレット!」
ウオッカだった。一着のスカーレットは優勝のレイをかけられて撮影されたりとあったため、戻ってきたのは最後。ウオッカは先に戻っているはずだ。
その彼女が未だ控室へ戻っていないということは、ここで待っていたのだろう。
「今回はオレの負けだ。でも次はオレが勝つからな!」
「ふふん。いくらでもかかってきなさい。次も勝つのはアタシよ」
「なら次はオークスに出るんだ?」
「あ……いや。そういや次はダービーなんだよな、オレ」
「なによ。じゃあ、勝負できないじゃない」
「んー……。でもまあ、どっかでまたやるだろ」
んな、楽天的な。思わず杠は突っ込む。
けれど、ウオッカが言っていることもあながち間違ってもいない。デビューの時期が同じということは、走るレースも被りやすい。ましてやウオッカもスカーレットもGⅠを獲るレベルのウマ娘であり、適性距離も同じと来ている。
わざわざ次の対決レースを決めなくとも、どうせどこかでぶつかる可能性は高い。
「ウオッカ君。そろそろウイニングライブの準備をしたまえ。マーチャン君はもう終えたよ」
「あ、すいません! すぐ行きます!」
ロフストランド杖が床を叩く。アグネスタキオンだった。スカーレットに次の宣戦布告をするウオッカを急かしに来たらしい。
「(やっぱりすごいな、この人)」
ウオッカとアストンマーチャン。アグネスタキオンのチーム・ベテルギウスにとって虎の子であろう二人を送り出しておきながら、スカーレットに一着は持っていかれた。
けれど、アグネスタキオンは落ち着いたものだった。
「(私だったら地団太踏んで悔しがるのに)」
まだまだだなぁ、と自分を省みる。桜花賞の勝利で浮かれまくっていた自分とは雲泥の差だ。もう次のレースのことを見ているのだろうか。
「タキオンさん。私、勝ちましたよ」
「ああ、見ていたよ。おめでとう、スカーレット君」
スカーレットのことをさらっと労ったアグネスタキオンは杠の前で立ち止まった。
「杠君も。お見事だったよ」
「えっ、私ですか?」
「新人という枕詞はもう外した方がいいだろうねえ」
薄く笑いながらアグネスタキオンは立ち去っていく。ウオッカは杠に一礼してから慌てて追いかけていった。
「ねえ、スカーレット聞いた? もう新人外していいって! いやあ、これで私もトレーナーの仲間入りですよ、ええはい!」
アグネスタキオンに認められた。あの、アグネスタキオンに。
正直、レース前に勢いで啖呵を切ってしまったので心象がだいぶ悪いだろうと思っていた。まさかこうして認めてもらえるとは。
「あれ、スカーレット?」
なんだかスカーレットが静かだった。さっきから全然しゃべらない。これだけ調子に乗った杠がいると、だいたいなにかしたツッコミをいれてくれるものなのに。
「どったの?」
「……なんでもないわよ」
「なんでもない、って。今からレースに向かいます、って顔してたけど」
レースは終わったというのに。しかも勝利という最高の結果で。
スカーレットの顔はびっくりするほど険しかった。
「そんなことより、記者会見とウイニングライブの準備でしょ」
「そうだけど……。あ、待ってよスカーレット!」
どうして肩を怒らせているのかわからない。ともかく、スカーレットを杠は追いかける。地面に引きずりかけている桜花賞優勝レイの端を掴んで持ち上げた。
悪くない重みがあった。
桜花賞結果。
一着 ダイワスカーレット
二着 ウオッカ
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七着 アストンマーチャン
ウオッカのヒミツ
バーで「あちらのお客様からです」をやるのが憧れ