不夜城なる言葉がある。
しかし夜更かしはお肌の敵である。退社後にタイムカードを押さずにもう一度勤務したなら労働基準法違反である。なので最近、不夜城はめっきり減った。
にも関わらず、健康が第一に叫ばれるスポーツ業界にも不夜城は存在する。
「おつかれ、
大手出版社の本社ビル。週刊トゥインクルの編集部はその中層階に入居している。日刊の新聞ほど締め切りがタイトでない編集部は、今日が締切日でないこともあって人影はまばらだ。
「......あっ、すみません。仕事と言うわけではないのですが」
差し出された紙コップを受け取って、
「いよいよ明日はホープフルステークス……君イチオシのダイワスカーレットがG1ウマ娘になる日だ。もう帰って明日に備えた方がいいんじゃないのかい?」
「なる日って、編集長。レースに絶対はないですよ」
「しかしシンボリルドルフにはあるんだなぁコレが!」
ノリノリ、という擬音語がぴったりな壮年の編集長に、乙名史は冷や汗。やっぱりこの間の記事で「ダイワスカーレットは最強になる」は強く出すぎただろうか。
最強。
この言葉の重みは、ことレース界隈においてはひときわ重い。
数百年におよぶ歴史を持つレース史において、誰が最強か? 仮に国内、それも戦後に限ったとしても意見は割れる。それこそ、下手すれば居酒屋のひとつやふたつは吹き飛びかねない喧嘩が起きる。
そんなレース界隈に乙名史は「最強」の2文字をぶちあげた。目の前の編集長ーーーーかのシンボリルドルフを敬愛し彼女の娘トウカイテイオーの強火追っかけ、もとい番記者となってノンフィクション本まで出版した男ーーーーにとっては、目の前で中指立てられたようなものである。
「いやなに! 記事の出来は大変よかったよ、反応も上々だったしね。しかし最強となれば、こんなところでは躓けないからねぇ?」
しかし編集長も仕事に私情は持ち込まなかった。乙名史は安心しつつ編集長に同意する。
「えぇ、次の時代を担うウマ娘。その誕生を見届けるのがホープフルステークスですから」
まして今は「英雄」と呼ばれたウマ娘一強の時代に終止符が打たれたばかり。
次の時代の「最強」が誰なのか。みんな知りたがっている。
「ダイワスカーレットさんは、勝ちます」
そして乙名史は、一足先にそれを見つけていた。
「ただ……いえ、なんでもありません」
「うん? そうか。まぁ君も早めに帰れよ!」
そう言いながら去っていく編集長。乙名史は彼の持ってきてくれた紙コップにもう一度口をつけてから、視線をモニターに戻す。
「上がり3ハロン34秒……」
モニターに映るのはもちろんレース映像。ただしそれはダイワスカーレットのものではない。
『さぁ最終コーナー回って後続が一斉に襲いかかる、ここでスライスエスケープ前に出た。しかしその差は僅か、外から――……』
ラジオたんぱ杯ジュニアステークス。阪神芝2000メートル。
勝ち時計は2分ちょうど。上がり3ハロンは34秒と10分の1秒――――――杠・ダイワスカーレットの目標タイムより、
そもそも、上がりタイムは結果であって目標ではない。最終直線は早いに越したことはないが、ハナ差であろうと最初にゴール板の前を駆け抜ければそれで勝ちなのだから。
穿った見方だろうか。単なる偶然かもしれない。しかし偶然にしては、露骨な目標。
なにせこのレースは、幾度かの名称変更を経て現在のホープフルステークスとなる。レース場こそ異なるが、年末の芝2000メートル、ジュニア級という条件は同じ。
『ジャングルポケット届かないか! 勝ったのは――――――』
そして勝ちウマの名は。
『――――――「アグネスタキオン」ッ!』
中山レース場。
千葉県船橋市、東京駅から乗り換えなしで40分という好立地に陣取っているこのレース場は日本四大レース場のひとつでもある。
指定席は4000席ほどと四大レース場の中では最小のレース場であるが、有馬記念ともなれば平気で10万人以上の人数が詰めかける超過密レース場。あまりに過密すぎて障害コースが観客に開放されることもあるというトンデモレース場として知られている。
「あーもう、分かってたけど関係者駐車場って微妙に遠いんだよねぇ……スカーレットの控え室は……」
そして
電車で40分、とは言ったが流石に有名な遊園地や中山レース場のおかげで超過密な京葉線を使うわけにはいかず、杠とスカーレットは自動車で来ている。そのため杠はスカーレットをレース場職員に任せ、自動車を駐車場に停めてきたところであった。
「パドックインまで時間あるね、よし。メイクさん来るまでに最終ミーティング済ませとかないと」
スカーレットは優等生である。ただし、これは優等生気質なのではなく「自分は優等生でなければならない」という強い自負によるものである。
気持ちは分かる。杠も中央のバッジを手に入れるために外面を取り繕って来た。チームに入ってからも気は抜いていない……学外で
ともかく、外面を取り繕うのは大変なのだ。ひとたび取り繕えば会話は当たり障りのない建前論に終始することになるし、本音なんて絶対出てこない。
とはいえ、スカーレットと一対一で話す時に彼女は敬語を使わず砕けた口調になるので、今のところは本音で話せていると思う……たぶん。
それにしても、ミーティングでは何を話そうか。杠の関心はむしろそこにあった。
出走メンバーは確認している。ハッキリ言ってスカーレットが格上だ。負けることはないだろう。最終判断はパドックを見てからだが、原則として作戦に変更はナシ。
「(チーフは控え室での最終ミーティングは大事というけれど、いまいちピンと来ないんだよねえ)」
トレーナーの仕事は、ウマ娘をトレーニングし、レースへの出走登録をすることにある。
つまりレース場でトレーナーが出来ることは、ほとんどない。精々が保護監督者として担当ウマ娘の安全を確保することくらい。これでも杠は合気道に覚えがある。
「まっ、警備員さんもいるし。そんなことにはならないとは思うけれどねー」
廊下のトイレ前に立っている警備員さん*1にお辞儀をしながら、杠はスカーレットに割り当てられた控え室の扉を開ける。
すると。
「……よう」
そこには、グラサンをかけジャケットを羽織った不審者がいた。
「へ……?」
「アンタがダイワスカーレットの担当トレーナーだな?」
部屋間違い、ではなさそうだ。目の前の不審者はここが「ダイワスカーレットの控え室」である前提で話をしている。
なぜ不審者が……いや、単なる不審者なら良かった。グラサン姿の頭頂にはひょこりとウマ耳。杠の脳内では警報が発令される。
落ち着け杠スズナ。相手はまだ臨戦態勢じゃない。僅かに脚の位置を動かしつつ、彼女は口を開く。
「ええ、私はダイワスカーレットの担当トレーナー。チーム〈アルネブ〉の杠
じり、と杠は後退り。顔は動かさず左右に視線をやるが、廊下に人影はない。
「オレか……? ふっ、このオレを知らねぇとはな……」
いや知らんがな。ん……いや、そう言われてみると確かに何処かで見たような……って、違う違う!
「悪いけど、私は忙しいの。あなたが誰かはともかく、ここはダイワスカーレットの居場所よ」
「ん? あれ、もしかしてマジで知らない? ウソだろ……?」
すっと腰を落として荷物を床に降ろした杠に、何故か露骨に動揺し始める不審ウマ娘。
「……なにやってるのよ、トレーナー」
そして背後から聞こえるのは、よりにもよって担当の声……最悪のタイミング。
一般的に、襲撃事件の動機は激情によるもの、つまり感情的なものが多い。そして人は憎悪の対象をみた瞬間に、もっとも激情を滾らせるのである。
「スカーレット、トイレ前まで走って」
「はぁ? なにいってんの!?」
「いいから! 走る!」
細かい説明は省く。というか、状況が理解できていないであろう学生に理解できるとは思っていない。不審者相手には走って距離を取るのが一番だし、トイレ前まで逃げればそこにいる警備員がなんとかしてくれるだろう。
「はぁ……なんか勘違いしてるみたいだけど、トレーナー。ソイツは――――――」
「まっこと、申し訳ありませんでした!!! まさか先般の阪神ジュベナイルフィリーズ勝者、ウオッカさんとは露知らず……!」
控え室の床に額を擦り付けた杠に、露骨に落ち込んだ様子の不審ウマ娘あらためウオッカ。
「いやぁ、なんつーか。オレも悪かったよ……でもトレーナーでもオレのこと分からねえんだなぁ……ハハ…………」
「なにいってんの。電気もろくについてない控え室で黒ずくめの服にグラサンつけてたら、どう考えても不審者じゃないの、ばかっ!」
なんでも彼女はダイワスカーレットのルームメイトらしい。恥ずかしいから土下座止めてくれよとせがまれて、杠はようやく顔を上げる。
ダイワスカーレットは露骨な溜め息をついた。
「というか、アタシも悪かったわよ。『バカがひとり来るかも』って、先に言っておけば良かったわね」
「はぁ?! 誰がバカだよ!」
「あんたのことに決まってるでしょ!? バカっ!」
「なんだとぉう!」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。騒ぎ始める2人を横目に、杠は安心したように笑った。
「……ちょっと、なに笑ってんのよ」
「いや。スカーレットもちゃんと友達がいるんだなって思って」
「あんたアタシのこと何だと思ってんの!? コイツはただのルームメイトだから!」
そうじゃなくて、優等生ムーブをしてない時のスカーレットに友達がいることに安心しているんだけどな……とは杠も言わない。
外面を取り繕うってのは大変なことだ。それこそトレセン学園は全寮制で寮は相部屋、下手すれば一日中ずっと「優等生」を演じなければならなくなる。
そんな彼女にとって、素の自分でいられる「ただのルームメイト」がどれだけ稀有な存在か。
うん。でもそれをわざわざ言わなくてもいい。それはきっと、彼女が大人になってから知れば良いことだ。大人になるまではきっとわからないことだろう。
「まぁまぁ、2人ともその辺にして。とにかくウオッカさん、応援に来てくれてありがとね。これでスカーレットも万全だわ」
「おっ、おう。ならいーんだ、オレのいねぇレースでダッセェ走りされても困るからな!」
「はぁ!? あんたが居なくてもアタシの走りは完璧なんだから!」
そうは言いつつも、スカーレットの仕草は自然体。車でレース場に向かっているときの、どこか肩に力が入っていた彼女はもういなかった。
うんうん。実にアオハルしていらっしゃる。もう枯れ始めているおねーさんとしては実に羨ましいことだ。
「ふふふ……どうやら役者は揃ったみたいなのです」
「えっ今度は誰?」
控え室に突然現れる気配。扉開いてたっけと杠が振り返れば、そこには見覚えのあるウマ娘の姿。
「私は未来のウルトラマスコット、アストンマーチャンなのです。よろしくです」
そう言いながら謎のぬいぐるみを両手で差し出してくるアストンマーチャン。先日の朝日フォーチュリティーステークスで我らがチーム〈アルネブ〉のドリームジャーニーを下したジュニアG1ウマ娘。
「あっ、これはこれは。どうもご丁寧に……
「アストンマーチャンをよろしくお願いしますなのです~」
挨拶は大事、古事記にもそう書いてある。なので杠は両手で差し出されたぬいぐるみを受け取ると、それを丁寧に机に置いてから名刺を両手で返す。
「ちなみに、このぬいぐるみは?」
「マーチャンぬいぐるみ『まーく・わん』なのです。試作品、最初の第一号なのです」
なるほど。そう言いながらぬいぐるみを見る。なるほど手作りらしく粗い作りだが、フェルト生地で作られたトレセン学園の制服はなかなか再現度が高い。
「クレーンゲームの
「なるほど……」
しかしそれは、本来プライズを作る企業の仕事では? 杠の当然の疑問に、マーチャンはえっへんと胸を張る。
「マーチャンは巷を騒がせる快速ウマ娘ですからね。ブームは矢の如し、企業さんが試作している時間が勿体ないのです」
確かに、ウマ娘をモデルとした商品を出すとなると試作して本人にチェック、修正して本人にチェックと何回もやり取りを行う必要がある。試作品をウマ娘側から提出してしまえば、確かに商品化のスピードはぐんとあがるだろう。
商品化すれば、だけども。まあ、朝日フューチュリティステークスに勝利しているくらいだ。将来は有望だろう。
「さて、杠トレーナー。今日ここへ来たのは他でもありません」
「うん。スカーレットの応援に来てくれたのよね?」
「はい。いいえ、もちろんスカーレットさんの応援もありますが……」
そう言いながら、アストンマーチャンはピシッとスカーレットを指差した。
「スカーレットさん。あなたを『アストンマーチャン宣伝大使』に任命するのです」
「……はい?」
「え?」
「うん?」
訳が分からない。ポカンとするスカーレットに杠、そしてウオッカ。
「ちなみにウオッカさんはもう任命済みですよ?」
「えぇっ? オレそんなの聞いてねーぞマーチャン!」
「ええもちろん。だって今日発表する予定でしたから」
「どういうことだよ……?」
困惑するウオッカ、というか控え室。しかしアストンマーチャンは笑顔を崩さない。
「我ら生まれるところは違えど、同じ日、同じ場所にてまみえ、アストンマーチャンをウルトラ・マスコットにすることでしょう……」
なんだその某桃園の誓いみたいなのは。
「ではスカーレットさん。健闘をお祈りしますなのです~」
「あっ、おいマーチャン待てよ! ……スカーレットも、ぜってー負けるんじゃねーぞっ!」
「……行っちゃったね」
「なんなのよ、もー!」
調子狂っちゃうわ! とぼやきつつも、スカーレットの調子はすこぶる良さそうに見える。
本当に、スカーレットは恵まれている。才能だけじゃない。今みたいな友人やライバル(向こうから指名してきた形だけど)もいる。今日ホープフルステークスで勝てば、ファン達も彼女の存在に気付くだろう。
……私はそれにタダ乗りしているようなものか。その感情は今は飲み込んで、ニヤリと挑発するような笑みを作って見せる。
「そういう割には、今にも走りたそうにしてるけど?」
「負けられないのよ。あの2人には、特に」
ジュニア級G1、頂きに輝く冠は3つ。
阪神JFはウオッカが。
朝日FSはアストンマーチャンが。
「うん、負けられないね。だから今日は、勝つわよ」
そしてホープフルステークスは、ダイワスカーレットが。
「当たり前でしょ? なんせ私は――――――」
アストンマーチャンのヒミツ
幻のマーチャンぬいぐるみ『まーく・ぜろ』が存在する