この瞬間を永遠に忘れない。
歌詞や小説、マンガ。古今東西の創作物で見る表現だ。杠は「そんなわけあるかい!」と常々思っていた。永遠に覚えていることなんてできない。記憶なんて薄れるものだ。
子供の頃。絶対に忘れないと決めていたはずなのに、気づけばもうほとんど思い出せなくなっていたことなんていっぱいある。
でも、私は性懲りもなくこの瞬間を永遠に忘れないと思っている。
『勝ったのはダイワスカーレット! 年末最後のジュニアGⅠ、ホープフルステークスを制したのはダイワスカーレット!』
実況が叫ぶ。観客席から割れんばかりの歓声があがる。そのすべてがダイワスカーレットを賛辞するもの。
2000mを走り抜けるたった数分の時間が長かった。目を逸らしたくなって、でも逸らしている間に全てが終わってしまうのが怖かった。ただ、固唾を呑んでスカーレットのことだけを追い続けた。
最初の登り坂を越え、コーナー。姿勢は崩れていない。前も塞がれていない。出走位置のせいで外枠気味だけど、スカーレットのスタミナなら問題にならない。
最終コーナー。遠心力に逆らったせいで少し姿勢が崩れた。けれどいい位置に付けた。内枠、先頭集団は維持したまま。
そして前は塞がっていない。
最終直線。スカーレットがスパートをかける。行け、と囁きが杠の口から無意識にこぼれ落ちた。自分の声でさえ、杠の耳には聞こえていなかった。
掲示板が、光る。
一着の枠にスカーレットの番号が灯った。
「っっっっっっしゃああ!」
全力で吼える。観衆の賛辞の中で自分が異質だとしても構わなかった。
杠凉凪は優等生である。外面を気にして生きている。他人からよい人として見られるように意識し、女性らしく振る舞うことでマジョリティーの中で生きようとしてきた。時折失敗していることは重々承知していた。それさえも完璧ではない、抜けている人間らしさに変えてきた。
その杠凉凪が感情のままに吼えた。外聞もなにもかもをかなぐり捨てて、雄々しく叫んで勝利に酔い痴れた。
「(今、この瞬間くらい優等生でなくってもいいよね?)」
勝った。勝ったんだ。スカーレットが勝った。最初は潮が満ちるみたいにゆっくりと、そして歓喜の満潮に杠は浸っていた。
「……はは。はははっ。はぁ。さすがにお仕事しないとね」
叫びすぎてのどが潰れてしまいそうだ。でも、潰してしまったら記者会見に支障が出る。まだ杠の仕事は終わっていない。スカーレットのウイニングライブもあるのだから。ずっとここで歓喜に浸り続けているわけにもいかないのだ。
パドックへ小走りに向かう。この後の話をスカーレットとしなければいけない。
すれ違うウマ娘たち。ホープフルステークスに出走していたウマ娘たちだ。それぞれの控室へ引き返していく少女たちの一番奥でスカーレットは悠然とそこにいた。
勝者の貫禄とでも言えばいいのだろうか。勝利に浮かれるわけでもなく、ただ背筋をぴんと伸ばして堂々たる姿。
に、なぜか困惑したらしく、眉をひそめたような表情。
「どしたの?」
「いや、その。なんて説明すればいいのかしら。見たくないものが見えた、っていうか」
「ホープフルステークスに勝利したのに、なにか不満なの?」
「勝ったこと自体じゃなくて、勝ったことによって引き起こされたこと、っていうか」
珍しく歯切れの悪いスカーレット。いつもズバズバと物を言う彼女はいったいどこへ行ってしまったのやら。
そもそも見たくないものが見えた、ってなんだろう。オバケでもいたのだろうか。私もオバケの類はわりとご遠慮したいのだけれど。ホラー系の番組とか流れると速攻でチャンネルを変える。
「よくわかんないけど、控室に戻ろう。汗で身体が冷えると風邪ひいちゃうから」
「……私も戻ろうとしたわよ」
「じゃあなんで?」
「……見ればわかると思う。あんまり見てほしくないけど」
本当に歯切れが悪い。もしかして不審者が控室の前にいたのだろうか。一応、関係者以外は立ち入り禁止になっているはずだけど、万が一ということだってある。第一、レース前には平然とウオッカもアストンマーチャンも入ってきていた。入ろうと思えば、入れなくもないということだ。
「なにか覚悟を決めてくれているところ悪いけど、別に危害を加えてくるような相手じゃないわよ」
「でも不審者なんでしょ?」
「不審者じゃないわ。不審ではあるけど」
いまいち要領を得ないスカーレットの説明に釈然としないものを感じながらも控室へと繋がる道へ。曲がり角て止まるようにスカーレットが身振りで合図してくる。そしてこの先にいる、というハンドサイン。
「こっそり覗いてみたら?」
スカーレットに言われるがまま、こっそりと角から様子を伺う。
確かに、不審だった。スカーレットのいう通りだった。
誕生会で被るような三角帽子とヒゲ眼鏡。掲げた横断幕は金のモールがこれでもかというくらいに飾り付けられ、でかでかと「優勝おめでとう、スカーレット」の文字。ドン・キホーテで買い揃えました! と言わんばかりのお祝いグッズのラインナップをこれでもかと使い倒して立っている怪しい男だった。
「どう?」
「だいぶ怪しい」
「でしょ」
「スカーレットの知り合いなんでしょ。なんとかできない?」
「アレを知り合いだと思いたくないわ……」
スカーレットの肩を優しく杠は叩く。そして杠が作れる限りで最高だろうという満面の笑みを浮かべて親指で曲がり角の向こうを指した。
「いってらっしゃい!」
「……わかってるわよ。ええ、ええ。私が行くしかないんでしょうね」
「大丈夫。ちゃんと後からついてってあげるから」
「頼りないわね」
だって私の知り合いじゃないし。最初に話しかけるのとか、普通にイヤだ。だって明らかに変な人だもの。
一応、言い訳をしておくとあの人物は不審者ではあっても危険な人ではなさそうだった。なによりスカーレットの知り合いであることはスカーレット自身が認めたこと。スカーレットから話しかけさせても、危ないことにはならないだろう。
「ねえ、なにやってるの?」
「スカーレット。ホープフルステークス優勝、おめでとう」
「うん、ありがと。で、どうしてここにいるの? あとそのかっこうは何?」
頭痛でもするのか。スカーレットはこめかみを抑えている。そろそろと様子を伺いながら、杠は怪しい人物Aを観察していた。
いったいどういう知り合いなんだろう。ピンクのアフロかつらで髪型もわからないし、ヒゲ眼鏡で顔つきもわからない。
そんな杠の疑問はすぐに氷解する。
「ねえ、パパ」
パパ。
「お父さん」の意の洋風の言い方。
俗語として、女性がそのパトロンに甘えて呼びかける語。(広辞苑より)
さあ、この場合はどっちだ?
まあ、後者は言うまでもなくナシだ。というか、犯罪だ。スカーレットが自分の担当ではなかったとしても止める案件だ。ついこの間まで学生だったとしても、未来有望な子供を守る気概に杠凉凪は溢れた人間なのである。
しかし、これは要らない心配だろう。この場合の「パパ」は明らかに前者のことを言っているからだ。
「いやぁ、初GⅠじゃないか。よかったよ、スカーレット」
いい走りだった。朗らかに笑うスカーレットの父親は本当に誇らしげだった。実際はドン・キホーテで買ったような仮装グッズのせいであまり顔はよくわからなかったのだが。
「祝ってくれるのはわかったから。とりあえずその安っぽいお祝いグッズは外して」
「ええ……。せっかく準備してたのに……」
「恥ずかしいからすぐやめて」
「わかった、わかった。そう怒らないでくれ」
カツラにメガネやお手製横断幕、エトセトラ。大量のパーティーグッズが紙袋の中へ消えていく。仮装グッズがなくなると、意外と若々しい男の顔だった。たぶん梓峰チーフよりも若い。
「でも本当に嬉しいよ。ラジオたんぱ杯……。ああいや、今はホープフルステークスか。スカーレットが勝ったのは本当にめでたい」
「もう、いいってば。私、ウイニングライブとかあるから準備しないと」
あ、これスカーレット照れてるな?
意外な一面だ。こっそりにやついていた杠に気づいたらしいスカーレットがキッと睨みを利かせてきたので、すばやく素知らぬフリを取り繕う。
「ああ、そうだった、そうだった。行ってきなさい。お父さんはライブ会場の方にいくから」
少し、懐かしい。昔の自分を見ているようだった。反抗期の少女とは、得てして父親にこういう態度を取ってしまうものだ。年頃の少女とは複雑なもので、反抗的な態度を取っていてもこうして自分の晴れ舞台を見に来てくれたという事実は嬉しいものなのだ。
他ならぬ杠自身が見に来てほしいと思っていた。
「スカーレット。シャワー浴びておいで。衣装は控室の中で用意してあるから」
「わかってるわよ、トレーナー」
もう少しくらい親子の時間を取ってあげたいところだった。けれど、ウイニングライブがある。シャワーで汗を流して着替え。髪を整えたり、メイクをしてもらう必要もある。なんだかんだとスケジュールはタイトなのだ。
いってらっしゃい、とスカーレットを見送る。衣装は準備済み。メイクやらは私じゃなくて、URAが用意しているメイクさんのお仕事。私がやることといえば、せいぜいが記者会見の備えくらい。でも、すでに話すことは決めてある。
ぶっちゃけ、手持ち無沙汰だった。
記者会見の会場へ移動してスカーレットを待っておくことくらいだろうか。
「
「いえ、そんな。むしろ新人の私が教えられてばっかりです。私はなにもやってませんから」
よくある社交辞令。だが、まんざら単なる社交辞令というわけでもない。
実際、杠は本当になにもやっていない。過去のデータから今回のレースに合いそうなトレーニングを調べてそれを実践するだけ。それを糧として実力を発揮させて勝利したのはスカーレットだ。
「スカーレットは気難しい娘でしょう」
「あー……。いや、そんなことはない、ですよ」
「わかっていますよ。父親ですので」
うん、一応誤魔化そうとしたんだけど無駄だったみたいだ。さすがに実父の目の前で「娘さん? ああ、あの尖ってるスカーレットさんですね」とは言えない。
杠凉凪は良識ある大人なのである。
「あなたがスカーレットのトレーナーでよかった」
「私が?」
「スカーレットは……あの娘は優等生であろうとするでしょう。親としては優等生である娘も誇らしくはあります。ええ、もちろん」
ですが自分を覆い隠してしまう姿には不安を覚えてしまうものなんですよ。
「杠さんの前では違う。真面目ないい子ではなく、あの娘らしく振る舞えている。あなたに対して気を許しているんですよ。スカーレットがあんな風に人と距離を詰めて話している姿は珍しい。まるで姉に甘える妹のようです」
「妹、ですか」
杠が複雑な表情を浮かべた一瞬を見逃さなかったのだろう。
「失礼。娘の勝利に浮かれて余計なことを口走りました」
「あ、いえ。そんな」
「これからもスカーレットのこと、よろしくお願いします」
「こちらこそ。至らない新人ですが、全力でサポートさせていただきます」
深々と頭を下げるスカーレットのお父さんはきっといい父親だ。大量にパーティーグッズを購入してお祝いの準備を整える。自分の娘が走るレースを見に来て応援する。
スカーレットは一着を取り続ける。その度にきっとこのお父さんもレース場で、あるいは自宅で嬉しそうに笑うのだろう。
実績が欲しい。浅ましい目的だけど、それで喜ぶ人がいるならそれでもいい。次も勝つ。勝てばスカーレットの目的である一番も果たせて、スカーレットのお父さんも喜ぶ。
次も勝てばいい。なにせ私はもう、ただの新人トレーナーじゃない。
ホープフルステークス優勝を導いたトレーナーなのだ。
その日の記者会見は盛大だった。
ジュニアで連勝を続けたスカーレットのGⅠ勝利。そしてスカーレットを導いた新人トレーナーである杠涼凪。メディアの注目は凄まじいものだった。
そしてそんな記者会見で杠とスカーレットは発表したのだった。
「ダイワスカーレットはクラシックでティアラ路線を走ります」
次走、チューリップ賞。
ダイワスカーレットのパパのヒミツ
娘が寮へ移ってしまい、逆ホームシック状態
本作は帝都造営先生(https://syosetu.org/user/19074/)に設定構想、執筆面でご協力をしていただいております。
この場を借りて御礼申し上げます。