後藤ひとり、伝説に遭遇する。 作:ぐだぐだ
偶然が、運命を変える。
(遅くなっちゃったな……これから二時間か……)
この日、後藤ひとりは懇意にしているライブハウス『STARRY』での雑務が重なり普段よりも遅い帰宅となった。
店を出たのは午後八時が目前に迫っている頃で、都会のせまい空は夕暮れに染まるどころかとっぷりと暮れてしまって、星々がきらめいている。
夏の夜は熱気と湿度がひどいもので、アスファルトは昼間の熱を溜め込んでいるように思える。
ただ、今はそれよりも街の喧騒が生み出す熱気に当てられそうになる。
(あっ……そ、そうですよね、こんな時間だと、お酒飲んだりするし……あぁ、どうして下北沢にはこんなに人があふれるんだろう……横道に入ったら、せまくてジメジメしてる街なのに……)
下北沢の駅までは、STARRYからは五分とかからない。
ただ、その短い道のりがひとりにとっては苦痛でもあった。
もとより他人というものが苦手で、人混みの中を歩くだなんて言葉だけでもめまいがする。そんなひとりだから、多少遠回りになったとしても人気の多い道を行くことを避けたのだ。
(あっ、あのお店、閉店しちゃってる……い、行っておけば、よかったかな……あっ、リア充……うっ、やっぱりこっちにしよう……)
世田谷区は都会のはずなのに、細路地は頼りない街灯のあかりにぼんやりと照らされて、どこか田舎の街並みのようにすら思える。
(……暗いなー……やだなー、怖いなー、なんて思っていると……違う、そうじゃない……)
暗がりの中を早足で進んでいると、前髪が汗でじっとりとひたいに張り付いて鬱陶しい。伸ばした髪でうなじが覆われているせいか、ひどく蒸し暑さを感じる。
(うぅ、暑い……クーラーさえあれば……)
焼けたアスファルトと、花壇や植木鉢に収まる土草が混じり合ったような、夏の夜に特有の匂い。
(……えっ、えっ)
そこに安物の香水が入り込んだのを感じて、ひとりの歩みは無意識のうちに遅くなる。
(……うっ、あっ、だ、誰か、いる……)
失敗だったと気付いても、後の祭りである。
(ひっ……えっ、なに、なんの音……?)
暗がりの向こうから、男の怒鳴り声が聞こえる。合間に入り込む聞き慣れない不愉快な音が、人が人を殴打する音だなんて、ひとりは想像すらできなかった。
街灯のあかりが届かないような物陰で、二人の男が誰かに向かって怒鳴りつけている。
それどころか、片方の男は怒鳴りながらも右手を振り上げて、それが振り下ろされるたびに先ほどの嫌な音を聞かされるのだ。
「んだよ、この、んなっての。鼻折れるまで殴っから、動くんじゃねーよオメーはさあ!」
「あっ、あっ、す、す、すみ、いっ、たいっ、やめ、やめて、やめてっ」
「なに言ってっかわかんねっての、つーかぶつかってきたのそっちだろぉ? そーやって泣かれっとさぁ、オレらがイジメてるみたいに見えるよなぁ」
「やだ、やっ、い、いっ、い、たい、いたいですっ、許して、許してっ」
目の前で起こっていることを認識するまで、どれだけ時間を要したか、ひとりにはわからない。ただ、理解をするとそれだけで膝が震えてきて、立っているのもやっとの有様になっていた。
(えっ、えっ、えっ、なに、怖い、えっ。警察、警察? 呼ぶの? 警察? えっ、叩かれてる、えっ)
あまりに恐ろしくて、身動きどころか声すら出せない。
ほんの少しでも動いたら、その足音だけで自分の存在が気づかれてしまうのではないか。心音や呼吸音がとても大きな騒音のように聞こえ、顔も見えないあちら側の誰かに聞き取られてしまうのではないかと考えてしまう。
頭の中はぐるぐるとなって、考えがまとまらない。鼻の辺りがじんとして、なみだが勝手ににじんでくる。
(警察、警察、お巡りさん呼ばなきゃ、呼ばなきゃ、警察、何番だっけ、ひゃくとうばん、電話、あっ、あっ、でも、待って、電話したら、声、聞かれる)
どうしたらいいのか、頭が働かない。歯の根が合わずにあごが震えて、カチカチと音が出ているのが聞こえる。
(あっち、あっち、あっちに行って、警察、呼ぼう、ここ、怖い、ここは、怖い)
ひとりはゆっくりうつむくと、自分の靴先だけを見ながらカタツムリのような緩慢さで、細い路地をノロノロと進み始める。
すぐに引き返して別の道に出る方が安全だと頭ではわかっていても、下手に目立つ方が恐ろしくてたまらなかった。
気づいていないフリのまま通り過ぎて、それから人を呼べばいい。
(気づかないで、気づかないで、気づかないで、気づかないで)
願いながら、通り過ぎる。
男たちは怒鳴り声から低く静かな声色に変えて、凄んでいる。それをどうしても横目で見てしまうのは、罪悪感なのだろう。
(あっ、あっ、血、血が)
「コーヨーだよな、お前さぁ。オレたちサワコーなんだけど、知ってる? 知らねーよな、知らねーから絡んできたんだもんなぁ」
「かっ、かっ、から、絡んでません、絡んでないっ、ないです、ないっ!」
胸ぐらをつかまれている誰かは、どこかで見たような学校の制服姿だった。
名前も知らない誰かの目が、自分に向けられている。
ひとりにとって、それは大きな苦痛である。普段であったなら忌避感から視線を逸らすのに、ただ、この時ばかりは目を逸らすことができなかった。
顔が腫れて、鼻からは血が垂れている。何度も殴られたのが一目でわかる、ひどい暴力の様相であった。
なみだを流しながら、名前も知らない誰かの瞳は、ひとりに助けを求めている。怯え切って震えながら、通りかかった赤の他人に、助けてくれと懇願している。
その目を見ているだけで、吐き気が込み上げてくる。見殺しにしようとしているという罪悪感で、ひとりはそれ以上、足を動かすことなどできなくなっていた。
(無理、無理、無理です、無理、です)
ふるふると、やっとのことで首を振る。
それがひとりにできる精一杯だ。
当然と言えば当然の話だろう。
ひとりは、目の前で初めて見た暴力というものに完全に恐怖している。
元より、ただの少女がどうこうできる状況ではない。その上で、思考さえできなくなるほどに怯え切ってしまっている。
(ごめんなさい、無理、無理です、怖いです、ごめんなさい)
だとしても、すぐに立ち去るほど、ひとりは冷静でもいられない。
こんな惨状を見せられて、すぐに逃げ出せるような心も持ち合わせてはいない。そうして警察を呼ぶのが賢いとわかっていても、目の前でひどい目に遭っている誰かを見捨てることもできなかった。
結果として、ひとりは巻き込まれる。
二人組の片割れが、殴られていた誰かの視線に気づいた。大柄な男は目つきも悪く、口元に光っているリングピアスが厳しさを感じさせて、恐ろしい。
「おいテメー、なに見てんだよ!」
「あっ、うっ、あっ」
言葉なんて出るはずもなく、首を振ることすらできない。萎縮しきったひとりを前に、男の視線は上から下へと往復する。
「女じゃねえか、おいなんか言いたいのかよジャージ!」
「ひっ」
認識された。
それだけで息苦しくなって、呼吸が上手くできない。胸の中にテニスボールを押し込まれたように、のどがつかえて呼吸が浅くなっていく。
「ちっ、ちが、あっ、うっ」
「じゃあなに見てんだってんだよ、混ざりたいのか? オレはいいぜー、女だって殴れるから。男女平等ってやつでよー」
「あっ、あっ、やっ」
つかまえていた胸ぐらを手放して、男はひとりの元へと近寄り始める。恐ろしくてたまらずに、視線は勝手に足元へと向けられる。なみだがあふれ出して、視界はすぐに水中のようにぼやけた。
「ごっ、こっ、あっ、うっ」
(ごめんなさい、ごめんなさい、怖い、怖いです、怖いです、ごめんなさい!)
殴られていた名も知らない誰かがそうしたように、ひとりもまた膝から下の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
喋ることが苦手だったから、というのもある。あるにはあるが、それ以上に恐怖心がひとりの身体を支配している。
「こっ、ごっ、ちっ、ゆっ」
(違うんです、違うんです、許してください、ごめんなさい!)
「あーあー、イラつく女だなテメーも! なにか言いたいなら、はっきり言えや!」
「ひいっ!」
命乞いのような思考も、凄まれると停止する。逃げなければと思ったところで、ひとりの身体はもう諦めてしまっていた。
(怖い、怖い、お父さん、お母さん、助けて、助けてっ)
両手で頭を抱え込むのは、ひとりもわからない、無意識のうちの防御行動だ。背中を丸めて、せめて頭を両手で守って、あとはただ怯えるしかない。
向こうの彼もそうしていると考えるほどの余裕なんて、もちろん、ひとりに残されてはいない。彼もこんな心地だったのだと思うほどの余裕なんて、あるはずもないのだ。
「やめなよ。そういうのは、この街のケンカじゃない。君たち、サワコーの人なんでしょ?」
だから、というのも妙な話だったが、新しく聞こえた声が自分たちを助けている誰かの声なのだと、ひとりは理解できなかった。
ざりと、靴底が地面に擦れる音が背後から響く。
苛立たしげな舌打ちの音は、ひとりの頭上からだ。
「どいつもこいつも次から次によぉ、今度はなんなんだよテメーはよぉ!」
「こっちの都合で悪いけど、今日は特別な日なんだ。それなのに、よりによってサワコーの人たちがこんなことしてるだなんて、許せない。無抵抗な人、女の人。そういう人たちを殴るのを、この街ではケンカとは呼ばない」
わかるのは、恐ろしい声が聞こえるというだけ。
なみだでにじんだ視界で、さっきの男と、また知らない誰かが向かい合っているのが見える。
「ぐちぐちぐちぐちうるっせーなぁ! 許せないならどうするってんだ、やってもいいんだぞオレはよぉ!」
「ひっ!」
「最初に言っておく。今日は特別な日だから、僕は拳を固めてきている。それでも構わないなら、やろう」
あんなに恐ろしい声をぶつけられても、動じている様子はない。それどころか、相手を気遣っているような余裕さえ感じられる。
腕の隙間から見える光景は、とても理解のできるものではなく。
「あっ、あっ……会えた、会えた、やっと……」
「おい、ちょっと待て、なんか妙だ」
「知るかよ、こいつをボコって──」
ただ、風を切るような音、それから鈍くて恐ろしい音がして。
「──か、は、っ」
どさりと、さっきの恐ろしい男が倒れ伏していた。
頭の中が、真っ白になる。初めてライブで演奏した時のように、ひとりは、周りがまるで見えなくなっていた。
なにがあって、こうなっているのか。ひとりの知識では、もうとっくに理解の及ばないことが起こっている。
「骨は折れてない、連れて行って」
「なん、な、お前、なにを」
「かっ、かっ、かみ、カミシロ、さん」
「っ、わかった、帰る、オレは最初から乗り気じゃねーんだ! すぐに帰るから!」
バタバタと騒がしい音を立てて、男たちは夜の街に消えていく。
後に残されたのは、ひとりと、名も知らない誰かと、カミシロさんと呼ばれた人。
「あっ、あっ、あっ」
「かみ、神代さん、あのっ」
「二人とも、すぐに大きな通りに出た方がいい。交番に行って、保護してもらうんだ。……ごめん、人を待たせてるから、行かなきゃ」
「まって、待ってくださ、待っ」
(助かった? 助けて、助けてくれた? あっ、あっ、お礼、言わなきゃ、お礼、っ)
「あっ、うっ、あっ」
慌ててひとりが顔を上げると、そこにはもう、カミシロさんの姿はなかった。
殴られていた彼は、ふらふらと立ち上がっている。自分に向けられる視線が怖くて、ひとりはまたうつむいてしまう。
「あっ、あっ、あの、あっ、ごっ、ごめ、ごめん、なさい」
ただ、自分がなにもできなかったことが頭から離れずに、どうにかその言葉だけは口にした。
返事はなく、空気は重たい。
震える足で立ち上がると、ひとりはなにも言えないまま、細路地から逃げ出した。
待ってと背後から呼びかける声が聞こえた気がしても、振り返りはしないまま。
恐ろしかった夜の街から逃げ出して、ひとりは駅を目指して必死に足を動かす。
犬に噛まれたようなものという言葉を思いついて、自分にそう言い聞かせながら。ひとりは恐ろしい体験に背を向けて、その両足はいつしか家路を必死に駆けていた。
下北沢というこの街で、これからまた、彼らに出会うということすら知らないままに──
みたいなクロスオーバー作品があったら面白そうだなあって思う、大嘘プロローグ風の短編。
『ホーリーランド』完結後で『ぼっち・ざ・ろっく!』一年目くらいの温度感だけど、さすがにぼっちちゃんのいる下北沢にはサワコーとかセタショーみたいなヤンキーは絶滅してそう。
神代ユウの伝説を追い求めてきた引きこもりのいじめられっ子(名も知らない彼、設定とかないので暫定的にAくん)と神代軍団がライブに来てくれたら面白そうだなあと思いついてざざっと作成。
結束バンドのライブ演奏を聴くために、Aくんが外に出たり人と関わったりしてぼっちちゃんが知らないうちに誰かに良い影響を与えていた、みたいな成長物語とか王道っぽく思う。
神代ユウ筆頭にWKCチャンプの小原ヨシトと伊沢マサキとか出てきたら楽しい、あとマッスルコアラの土屋さん。
そんな妄想をしたためたもの。