後藤ひとり、伝説に遭遇する。   作:ぐだぐだ

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伊地知姉妹、昔話をする。

 うわさ話、都市伝説。

 いつからそれが語られ始めたのかは、誰も知らない。

 知られることのないままに、彼の伝説は語られ続ける。

 子供世界と大人世界の間。

 甘やかな法と暴力のリアルが支配する隔絶された世界。

 その世界に、彼はいた。

 彼は確かに、そこにいた。

 

 スマートフォンのデジタル時計が二十三時に切り替わると同時、駐車場にざわめきが走った。

 この時間、普段であれば人気(ひとけ)がなくなるはずのそこには、熱気を帯びた観客たちが集まっている。

 似合わない金髪を逆立てたもの。浅黒く焼けた肌を見せつけるように晒すもの。厳しい顔をいくつものピアスで飾るもの。

 見てくれこそ多種多様ではあるが、誰もが皆一様に『ガラの悪い』と表現できる男ばかりだ。それらの誰も彼もが、このときばかりは少年のように目を輝かせている。

「来たぞ!」

 誰かが叫び、周囲に再びどよめきが走る。

 円陣を組むほどの密集ではないが、リングを囲むような人の壁。中心で身体を動かし続ける男は、皆の視線が向かう先を見つめて拳を握る。

「いるんだな、本当に」

 つぶやき声が誰かに聞かれることはなく、今夜の主役に届くこともない。

 男はゆるく息を吐き出して、身体の重心を確かめるような軽いステップを踏んだ。そこには鍛錬で作り込まれた体幹に特有の、一目で競技者(やってるヤツ)だとわかるブレのなさが、磨き抜かれた練度がある。

下北(ココ)は地元じゃないが、オレはよ、ただの喧嘩小僧だった。それこそゴロツキみてーな、ただのクズだったよ」

 ゆったりとした歩調で近づく『彼』に、男は語りかける。

 どこか楽しげに、それでいて照れくさそうに。そして、まるで感謝を述べているように。

「そんなクズでも、反吐吐くほどに練習しまくって、とうとうテストに合格した。街での喧嘩は、もうやらねえ。もう二度と、素人は殴らねえ。オレの街での時間は、終わりだ」

 五メートル。駐車場の暗がりでは、まだ顔立ちは見えない。

 四メートル。パーカーのフードに隠された口元は、微笑んでいるようにも見える。

 三メートル。王者の入場を見届けて、肉の壁は少し歪んだリングを形成する。

 二メートル。フードの下から現れた素顔はうわさ話の通り、厳しさとはほど遠い穏やかなものだった。

「だからってのかな。オレの勝手で悪いってのは思ってるけどよ、辞めちまう前に、街から出る前に、どうしてもアンタとやってみたかった」

「わかった、やろう」

 そこから先、余分な言葉は必要ない。

 まるでそう言わんばかりに、向かい合う二人は拳を握り、それぞれの構えを取る。

 彼らが信仰し、積み重ね、磨き抜き、拠り所とした力。拳に宿したそれを通じて、語り合おうと言うように。

 始まりを予感して、観客たちは水を打ったように静まり返る。

 じりじりとした、緊迫した空気。

 壁に描かれた大樹の落書きだけが、物言わずに男たちを見下ろしている。

 競技のようなゴングはない。互いの気持ちが重なり合う瞬間こそが、始まりの合図だ。

 

 伊地知虹夏がその動画を見つけたのは、偶然だった。

 大手のサービスではない、若干アンダーグラウンド臭のするウェブサイトだ。普段であれば、決して知ることのない世界だったと虹夏自身も思う。

 動画を見つけ出したのも検索結果がブラウザに残っていたおかげで、ファミレスでのやり取りがなければ見向きもしなかったに違いない。

(意外と新しいな、これ)

 最新の動画がアップロードされた日付は、三日前。

 不良(ヤンキー)狩りの都市伝説は虹夏にとってまるで別世界のそれで、目の前に現れてもまだ現実感がない。

(あれ、ここ、もしかして……おっ、やっぱりそうか)

 サムネイルの光景に見覚えがあったのは、偶然なのか。

 懐かしいあの壁を背景に、二人の男性が拳をぶつけ合っている。何の気なしに再生ボタンを押すと、観客たちのざわめきがスピーカーからあふれ出した。

 スマートフォンで撮影したものだろう。夜更けということもあって映像は全体的に暗く、手ブレもあるし画質は荒い。

 ただ、そんな映像であっても大勢の人間が放つ熱気は感じ取れる。動画の中ではライブの最中にも似た、言いようのない感情が渦巻いているのを虹夏も感じる。

 はやし立てる男性の声は、怒鳴り散らしているようにしか聞こえない。人が人を攻撃する光景は、率直に言って正視に堪えない。

 テレビで見る格闘技の試合とはまるで違う、不気味さにも似た何かがあった。見ているだけでも恐ろしいそれを、動画の中の男性たちはどうしてこんなにも求めているのか。

 考えたところで、わかるはずもない。

 たとえ同じ下北沢が舞台であったとしても、暴力と音楽は別の世界の出来事だ。虹夏の想像し得る範疇を、とっくに超えてしまっている。

(ひえっ、うわっ、わっ……!)

 聞き慣れない音がして、一人が尻餅をつく。不思議なことに、立っているもう一人は、そこで襲い掛かるようなことはしていない。

 痛めつけるために戦っているわけではないからこその、空白の時間。それを把握できるほど虹夏は戦いというものに慣れてはいないが、不思議な間に感じたことは事実だ。

 荒い呼吸音と、固唾を飲んで見守るような沈黙。緊張のうちから知らず知らずのうちに、虹夏もまた呼吸を忘れてしまっていたほどだ。

「……クソ、ダメだ、立てねえ。あークソ、ほんと強ぇな、アンタ」

 首を振って尻餅をついた男が負けを認めると、ワッと歓声があがった。今の今まで殴り合っていたのがウソのように、勝った男は倒れた相手に手を差し伸べる。

 恐ろしかった光景が一転して、動画はそこで再生を終えた。理解のできない世界からようやく現実へ戻ることが叶って、虹夏は今まで止めていた息を一気に吐き出していく。

「虹夏、私のうさぎ知らない?」

「うわっ! びっくりした、もー」

 姉の星歌に呼びかけられて、飛び上がるほどにおどろく虹夏。近づく気配に気づかないほど緊張していたのだと知って、虹夏の胸中は照れくさいような心地になっていく。

「うさぎは陰干ししてるとこ、洗っておいたよ」

「おっ、なに見てたんだ?」

「んー、なんか、けんかの動画。下北沢で、まだこんなのあるんだなって」

 星歌は妹の隣に身を寄せると、スマートフォンを覗き込む。虹夏の『けんかの動画』という言葉を耳にして眉間にシワを寄せる星歌の表情は、不機嫌なときのそれに見える。

「ったく、これ、また流行ってんのか? 虹夏、こういうのは危ないから絶対に近づくなよ。ぼっちちゃんにも言っとくように」

「わかってるって、こういうところ、怖いしね」

 虹夏はそこでふと思う。

 自分よりもずっと年上の姉だからこそ、知っていることもあるのではないか、と。

「お姉ちゃん、格闘技の人、知ってる? なんだっけ、イザワなんとかって」

「あー、伊沢マサキ? 知ってるよ、会ったこともある。下北(ココ)でバーテンやってたんだよ、どの店だったかな……」

「そうなんだ、ほんとに下北沢の人なんだね。チャンピオンなの?」

「なるかもって話は聞くね、商店街でもポスター見ない? 見ないか、スポーツバーとか行かないもんな」

「行かないねー、私たちはまだ未成年だし」

「おいその言い方はやめろ。それより虹夏、気になるのか? まあ、顔がいいって話題だもんな」

 ぐりぐりとひじで脇腹をつつかれ、虹夏はくすぐったそうに笑ってから首を振る。

「ううん、そういうんじゃなくてさ。なんか今日、そういう話になったんだ」

 ファミレスでの雑談時、さも知っているとばかりにネットの書き込みを読み上げていたリョウの言葉を思い出そうとして、虹夏はそっと目を閉じる。

「下北不良(ヤンキー)狩り、だったかなあ。ぼっちちゃんが、その、カミシロさんって人に助けてもらったって言ってて……お姉ちゃん?」

 自分の言葉で、姉が心底おどろいている。虹夏が理解するまで、多少の時間を要した。

「どしたの、そんな顔して」

「ああ、いや、なんでもない。そっかそっか、生きてたのか。そうだよな、生きてるよな、うん」

 おどろきの表情はやがて、安堵と優しさの入り混じったようなそれに変わっていく。

 口元をほころばせている姉の様子に、虹夏の大きな瞳がまたたいた。

「いつだったっけな。私がさ、血だらけで帰ってきた日のこと覚えてる? 怪我したとかじゃないからって、わんわん泣くお前に言い聞かせてたよな」

「あー、覚えてる、すっごく怖かったなあ」

 虹夏は少しだけ記憶の中を探して、すぐにその光景に思い至る。

 深夜に帰宅した姉の、赤茶色に汚れたシャツ。手のひらにべっとりとついた、乾いた血液の痕跡。まるで大怪我をしたようなその姿に、悲しさと恐ろしさで、涙が止まらなかったことも覚えている。

 星歌は朝になればけろりとしていて、なんでもないと言い張る姉に、虹夏はそれ以上を聞けなかった。星歌もまた怯えた虹夏を気遣って、それきり、その日の話を口にすることはなかった。

 なにがあったのかを聞き辛くて触れずにいるうちに、やがて忘れていった昔の話だ。

 それが唐突に話題に出たことに、虹夏は不思議そうにしていた、が。

「あれね、あの子を、神代ユウを助けたときだったんだよ。刺されたみたいでさ、血だらけで路地裏に倒れてたんだ。いやー、そうか、生きてたんだな」

 カミシロさんの存在が、欠けていたピースのようにぴったりと、空白の部分にはまりこむ。そこまで行き着いて、虹夏は姉の安堵の理由をようやく理解する。

「刺されたって、ええ!?」

「本人は『誰にもやられてない、誰も悪くないから』ってばかりだったけどな。私も救急車までは乗せたんだけど、それきりだったから……ネットの死亡説とか見て、ちょっと心配してたんだ。そっかそっか、生きてたのか」

 口ぶりこそぶっきらぼうではあるけれど、虹夏は姉の優しさを知っている。

 カミシロさんが大怪我をしていたのなら見捨ててなどおけなかったのだろうということもわかるし、そんな姉が誇らしく思える。

 それに、なにより。

「……そっか。お姉ちゃん、私が待ってるから付き添いできなかったのとか、気にしてたんだね」

「別に、そういうんじゃない。警察の事情聴取とかあったし、忙しかっただけだ」

 あの日の恐ろしい記憶が、別のものに変わっていくことが、虹夏には嬉しくてたまらない。

 血まみれの光景は、姉が誰かを助けようとした結果だった。深夜の帰宅は、自分の元へなにがなんでも帰ろうとした結果だった。

 照れ隠しめいたツンケンとした物言いに、たまらず虹夏は星歌へと飛びつき、子犬が懐くように身を寄せる。思わぬ展開に星歌は面食らっていたものの、やがて笑顔の妹を包み込むように抱き締める。

「そういうセリフ誤解されるからちょっとは直した方がいいよ、お姉ちゃんはさ」

「ああもう、うるせーなあ。誤解とかねーし、私はこれでいいんだよ」

「またそういうこと言うー」

 ささやかで、温かい時間。

 それがこれから破られることになるなどと、虹夏も星歌も知る由はない。

 暴力の気配こそはないけれど、酒気を帯びた招かれざる客が今まさに近づいていることなんて、二人は夢にも思わないのだ。

 

「ちゃーっす! 先輩、シャワー貸してくーださい!」

 

 そんな酔っ払いの叫び声がマンションの共用廊下に響くまで、もう五分か十分か、そのくらいの話であったとさ。




しばらく経つのに閲覧いただいているようなので、追記程度に。
年齢だとか時間軸だとか、そういう細かい考察はうっちゃっておく。
開始時点で29歳と店長はちょうどいい年齢なのでキーパーソンぽく。
刺された人を介抱するとか、星歌さん優しいな…でも私はサプライズ派なんだ。
そのくらいの温度感でお楽しみください。

毎度毎度ですが、あくまで大嘘プロローグです。
本編は永遠に未実装。
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