後藤ひとり、伝説に遭遇する。 作:ぐだぐだ
荒れ狂う
貪欲で大喰らいな怪物は、いつだって底なしの欲求でひとりを突き動かす。
ひとりもまた、身を滅ぼすとわかっていても欲してしまう。抗わなくてはという理性が崩れるのは一瞬で、いつだって怪物の言葉に耳を傾けて我を忘れてしまう。
それは別に、特別なことではない。
人間であれば誰しも、心の奥にその怪物を飼っている。
ひとりはただ、怪物を育ててしまった。
誰からも見向きもされない、誰からも求められることのない現実に晒され続けて、怪物を育ててしまった。
繰り返される自己嫌悪や孤独に耐えるうち、ひとりは自分でも知らない間──凄まじい渇望を、もう一人の
自分の中の怪物に、いつしかひとりは名前をつけていた。
(ほしい、もっと、もっとほしい、いいねがほしい!)
承認欲求モンスター、と。
昼下がりの下北沢は、ひとりの苦手な空気で満ちている。
大勢の人がいて、ガヤガヤとうるさくて、視線のやり場にも困るばかり。
結束バンドのメンバーは、いない。
群れの中にいるという安心感がなくなると、街の景色はガラリと変化したように見えてくるものだ。
実際にはそうでもないはずなのだが、ひとりはいつだって、自分を街に迷い込んだよそものと定義してしまう。
結果として、ひとりが街を歩くときはいつでも猫背で、アスファルトだけを見ながらトボトボと歩くのだ。
(キラキラした写真……そうだ、喜多ちゃんみたいなキラキラした写真があれば、いいねは増えるはず。エフェクターばっかりじゃない、タピオカ、まずはそうだ、タピオカの写真があれば……)
ひとりが友人を連れずにさまよっている現状には、それなりの理由がある。
マイニューギア。
二十万円という大金を投入した無意味な行為は百にも満たない少量の『いいね』をひとりにもたらし、当然ながら満たされない欲求は膨れ上がるばかりであった。
これは、あの忌々しい事件の雪辱戦なのだ。
(硬派路線は維持する、肌色が見える動画には絶対にしない。私生活の一部を切り取って見せるだけなら大物アーティストだってやってるし私の硬派路線は崩れてない。下北沢ならおしゃれな街だから、ギターヒーローが散歩しててもおかしくない……)
自分自身に言い聞かせながら、内なる怪物の声に誘われて被写体を探す。
初めての友人がもたらした変化は、良かったにしろ悪かったにしろ、ひとりの行動力を少しだけ高めている。
自分の知らない世界を知ってほんの少しだけ興味を抱き、おっかなびっくり手を伸ばす。たとえ動機が不純であったとしても、そのために外出ができる。
結束バンドを始める前のひとりには、きっと、想像もできない変化であったに違いない。
毎日見ている自分自身の変化は、自分が一番気づきにくいものなのだ。
(こうして見ると……下北沢って、いろんなお店があるんだな。古着屋さんはよく聞くけど、雑貨屋さんとかもおしゃれだ。あっ、虹夏ちゃんがあそこにミスドあるって言ってたっけ……いや、でも、ミスド、は……難しい注文とか、ありそうだし……)
結局ひとりはうつむいたまま、ちんたらとした足取りで店の前を通り過ぎる。
ここにきて歩調を唐突に遅くしたことにも、当然ながら理由はある。
(で、でも、こうして歩いてたら、喜多ちゃんとか虹夏ちゃんが、急に私を呼び止めて誘ってくれたりして……そういう、イベント的なやつがあるかもしれないし……しれない、し……あっ、もう通り過ぎちゃう、あっ……)
理由はあったが、希望通りになることはないだけである。
(ああ、現実はかくも非情……そうだよね、世界は私を中心に回ってないんだ。街で急に呼び止められるって、現実で本当に起こるイベントなのかな……やっぱり、家で演奏動画の編集してた方が良かったんじゃ……)
ギターケースのストラップを握る手に、自然と力がこもる。自宅のにおいが染みついた道具に縋りたくなるのは、不安なときの自然な仕草だ。
けれど。
(……違う、そんなんじゃダメだ)
不安であっても、ひとりは逃げ出しはしなかった。
不純な動機であっても、逃げ出したくはないと、無意識のうちに思っている。
(最初は怖かったけど、スターリーでも楽しいことはたくさんあった。一人で待ってるだけじゃダメだ、私が自分から行かなきゃ)
帰路に着きたくなる衝動を堪えて、人の波に流されながらもひとりは前に進み続ける。
通り過ぎた店に戻るほどの度胸は身についていないから、次を探す。
(あっ、タピオカ……ダメだ、明るそうな人が多すぎる、陽の結界、触れたら即死……あの空気は私には耐えられない……肉巻きおにぎりはここから遠いし、おしゃれ、おしゃれな、キラキラした食べもの……)
足元ばかりを見ていたひとりの視線は、長く伸びた前髪の隙間から恐る恐る街並みを探り始める。
そうしてあたりを見回して、ひとりは改めて自分がこの街を知らないことに気づかされる。
(駅、スターリー、サイゼ……私のテリトリーは、まだこの三つだけ……居酒屋は無理、カフェは無理、あっ、焼肉……は、お金がない……だいたい一人焼肉なんて論外かもしれない、私みたいなのがお店に入った時点で焼けた炭を投げつけられたりするんじゃ……)
知らない街で、ひとりぼっち。
逃げ出さないよう踏ん張ってみても、そこから先が怖くてなかなか踏み出せない。
外から見れば街をうろうろしているだけでも、ひとりにとっては決死の覚悟を要する大冒険だ。
雑踏のざわめきが耳に入るたび、自分が笑われているのではなんて被害妄想があふれ出すくらいには、身も心も張り詰めている。
(あっ)
だからというのも、変な話であるが。
やや垢抜けない、どこか間の抜けたようなコアラのイラストに目が留まったのも偶然のようには思えなかった。
他人という存在を恐れるひとりにとって、昭和の雰囲気を感じさせるタッチのコアラはどこか心穏やかになるものがあったのだ。
(マッスルコアラ、コアラが、マッスル……この可愛い顔でムキムキは、進化した虹夏ちゃんみたいになっちゃうのかな……あっそんなことないや、全然マッスルじゃない……)
想像よりもずっと弱そうなコアラの全身像はすぐに見つけられて、ついくすくすと一人笑いがもれる。
筋肉がついてきたと自慢げに言う虹夏の異常進化を遂げた姿を想像していたせいで、現実のギャップがすごい。
変なツボに入ってしまって、笑顔を形作るよう、口の端に力が入ってしまう。笑い慣れていないひとりの表情筋は、ややひきつったにやけ顔にしかならなかったが。
とにも、かくにも。笑えたおかげなのか、ほんの少し余裕ができた。
目の前に友人たちはいないけれど、ふと思い描けるくらいには、いつもどこかで繋がっている。
虹夏だけでなく、この街に迷い込んでから出会った人たちが、確かに胸の中にいる。
(なんか、不思議だ……私、いま、寂しくない)
そんな気持ちが、吹けば消えてしまいそうなひとりの積極性をそっと後押ししたのかもしれない。
(あっ、カレーパン九十円、メロンパンで百円……安い)
街の小さなパン屋さん。謳い文句の通りに小さいものの、ウィンドウから見える焼きたてらしいパンは想像よりも色鮮やかで、美味しそうだと素直に思える。
(あっ、マッスルコアラパン、可愛い……プロテイン入り……うん、これなら可愛いし、いいかも……)
念のため、店名で検索。これといった情報もなく、有名店でないことは確実だった。
踏み出すなら、今しかない。
自分を奮い立たせるように、ひとりはおずおずと顔をあげる。
地面ではなく、せめて前を向いてお店に入る。それが、ひとりが密かに決めていた、今日の目標のひとつでもあった。
(流行ってないお店は、店員さんもそんなに絡んでこない、はず。むしろ、流行っていないと活気も薄れるから、店員さんのやる気がないことが多い。私が入っても無言で、ゆっくり選べるかもしれない!)
そうして、店内に踏み入ったひとりの強気は、
「いらっしゃいませ」
「いいいい、イキってすみません……」
蚊の鳴くような声と共に、真っ二つにへし折られるのだった。
前に向けていた視線は即座に床へ。そこからちらちらと盗み見るように、ひとりは店員の様子をうかがっていく。
(頭が太い、首が太い、肩も太い、腕も太い、腹も太い……あっ、ヒゲも生えてる……顔も、なんか、怖い……)
「……?」
不思議そうにしている店員をよそに、ひとりは想像の中にいる異常進化した虹夏の姿を思い出す。
あっちの方が強そうだからと自分に言い聞かせてみても、妄想の産物と現実の肉体は、やはりどうしたって存在感が違う。加えて顔も怖いとなれば、恐怖心は跳ね上がっていく一方だ。
(パン生地をこねてたら、あんな風になるの……? プロテイン入りのパンを焼いてるなら、指先からプロテインが吸収されたり……?)
店員と向かい合うのも恐ろしく、ひとりは目を泳がせて震えるばかり。
(うう、間違えましたとか言えるコミュ力がほしい……! ここで逃げられるなら、コミュ障なんてやってない……!)
頭の中ではぐるぐると、そんな言葉が渦巻いている。となれば必然、注意力は散漫になっていく。
間が悪いとは、この、これか。
ギクシャクとしたガチガチの動きでどうにかこうにかトングを取ろうとして、ひとりは不運にも手を滑らせた。ガシャンと大きな音を響かせて、思わず泣きたくなってしまう。
「あっ、あっ、あっ」
「おっ、お客様、大丈夫ですか」
「あっ、すっ、すすす、すみ、すみませ、これ、洗って、洗って返しますからっ」
パニックに陥ったひとりを見て、店員の反応は笑うでも怒るでもなく、落ち着き払った太い声でなだめるように笑顔を見せる。
「いやいや、洗うのはこっちの仕事さ。パンをひっくり返しちまったって言うなら別だけどよ、心配しなくていい。……あ、すまん、今の口調はなしで頼む。何年経っても慣れねえんだよな、敬語とか」
(ひいっ、動いた!?)
大柄な身体には似合わない機敏な動きで、店員は落ちたトングをひょいと拾い上げる。今にも泣き出しそうなひとりの様子に、どこか困ったように慌てるのはすぐのことだ。
「あの、アレだ、ちっとも怒っちゃいないからな。それよかうちのパン、どれも美味いからゆっくり見てってくれ。プロテイン入りマッスルコアラパンがおすすめだからよ」
(あっ、あっ……私が落としたのに……)
それだけ言って、店員はカウンターの向こうへ引っ込んでいく。まだバクバクとうるさい心臓の音が聞こえる中で、ひとりはどうにかこうにか、ぎこちない会釈をしてみせる。
「あっ、あの、あっ、ありがと、ござ……す」
「おう、気にすんな」
怖くて顔は見られないものの、店員が片手をひらひらとさせているのは見えた。その放任ぶりが、ひとりにとっての安堵につながる。ガチガチになっていた心も身体も、ほんの少しだけ余裕が生まれてくる。
そうして安堵が訪れると、今度は直感のようなものが働くのだ。
パンと向かい合う間はどこまでも静かで、古めの音楽が辛うじて聞こえる店内は敵地のはずなのに不思議と居心地が良い。
他のパン屋を知っているわけではないものの、ひとりは往来にいたときよりも落ち着き始めた自分の内心におどろきつつあった。
(そうか、この店員さん、接客とか全然してこない……なんていうか、そう、慣れてる……私みたいなタイプへの対応がわかってる人だ……もしかして、コミュ障のお客さんとか多いのかな……だから、ゆっくりできるのかも……)
先ほど見かけたカレーパンやメロンパン、ウインナーロールにチョココロネ。おすすめされたマッスルコアラパンを見つけて、さあどれにしようかと目移りが始まる。
焼けたパンの匂いは、バターのそれと相まって食欲をそそる。きつね色の表面には薄くジャムが塗ってあるのか、つやつやとした色合いが綺麗で美味しそうに見える。
(……静かで、いいな。あれ、今、私って一人でショッピングしてる……初めてのお店に一人で入って、どれを買おうか選んでる。もしかして、私って陰キャから脱却しつつあるのでは……?)
余裕が出てきた最後には、少しだけ、ほんの少しだけではあるけれど、なけなしの勇気というものが顔を出してくる。
(……みんなと一緒に食べたり、とか。今の私なら、できるのかも。そうだよ、だって今、知らないお店に入ってる。店員さんとも会話したし、今日のおすすめだって聞いたし……)
それに背中を押されるままに、ひとりは手の中のトングを握り直す。ひとつ、ふたつ。弱そうなくせに強気な顔をしているコアラの頭を、潰さないよう気遣いながら。
「おっ、こんなに買ってくれるのかよ、ちょっと嬉しいな」
「あっ、あの、みんなで食べたいなって、あっ、みんなは友達で、それに、コアラ、可愛いから、あのっ」
紙袋に詰めながら、店員はしどろもどろなひとりの言葉に耳を傾ける。うんうんと満足そうに頷きつつ、紙ナプキンを多めに掴むとそれも一緒に袋の中へと納めていく。
「へへっ、そういう話は作ってる側としても嬉しくなるな。ココアクリーム入りだからよ、コーヒーなんかも用意しとくといいぜ。本当なら六つで九百円だけど、お嬢ちゃんの分は俺のおごりだ。七百五十円な」
「あっ、ありがと、ございます」
「おう、また来てくれよ!」
すっかりと敬語を忘れてしまった店員に見送られて、外へ。
紙袋の重さが、なんだかとても心地良くて、胸の奥がむずむずとする。
(……みんな、喜んでくれるといいな)
気持ちなしか軽くなった足取りで、ひとりはSTARRYへと向かう。
少しだけ得意げな顔になっているだなんて、ひとり自身も知らないままに。
「へえ、コアラパンか。可愛いじゃん、ありがとなぼっちちゃん」
「あっ、へへっ、ど、どうぞ、あっ、お口にあうといいんですが……」
「いやいや匂いも美味そうだし、心配するなって。じゃあ、いただきま──」
「痛いっ」
「そういうのほんとやめろよ、食えなくなるだろ!」
「店長、これ系ほんと苦手ですよねぇ。ああ、そういえば昔、売れ残りの子犬パンをごっそり買ってきたときも……」
「お前それ以上言ったらクビだからな!」
「えー、その話、私は聞きたい!」
「私も聞いておきたい、実に興味深い。郁代も気になるって言って」
「はい! 私もその話、すっごく気になります!」
「やめろやめろ! 喜多ちゃんもイエスマンになるな、自分の意見を持てよ!」
「先輩の意見は、私の意見ですから!」
(みんな、喜んでくれてる……!)
そんな楽しいやり取りがSTARRYで始まるのは、もう少しばかりあとの話だ。
そして、それ以上に。
「あっ……コアラパンの写真、撮ってなかった……」
SNSで『いいね』がほしいという、最初の目的を忘れてしまっていたことにひとりが気づくのはもっとあとのこと。
ささやかで楽しい時間を、友人たちと過ごす。そんなふわふわとした温かい気持ちが自分の中の怪物をすっかり眠らせていたことにひとりが気づくのは、もっともっと、ずっとあとのこと、なのだろう。
ひとりがその怪物を飼い慣らしてみせるのは、いったいいつのことになるのか。
それは、誰にもわからないのだ。
飼い慣らすまでいかなくとも、ふと忘れるくらいに楽しい時間があるといいなと思ったので、相変わらず追記程度に。
小さな箱庭でニアミスしたり会話したりする日常は書いてて楽しい。
ここまでくると割烹緑川で店長とPAさんが飲んだりする様子も見たいなあとかなんとか。
コンセプトは変わらず大嘘プロローグ、プロローグとはいったい。
本編は永遠に未実装の心意気。