僕の名前はクロエ・ファルティス。
『
僅かに傾き始めた太陽を背に、五人と一匹が走っている。
地図を片手にした承太郎たちを先導するかたわらで、クロエは額に滲む汗を拭った。
「大丈夫か?」
彼の顎から脂汗が滴る。その両手が強ばっているのを、アヴドゥルは目敏く見ていた。
どこか痛いのか、それとも別の理由か──判別のつかないクロエの態度に、速度を落とした方がいいのかと尋ねる。
「心配ご無用だ」
明らかに無理をしている。そもそも、ついて行くと言った時からであるが、アヴドゥルはそんな彼の言葉を信じることにした。
──ここを燃やせ。
──モハメド・アヴドゥル!
己の分身であるはずのスタンドを破壊しろと、敵であるはずの自分に頼んだ時から、多少なりとも好感を抱いていたのかもしれないが。
実際のところアヴドゥルには分からないが、少なくとも今は悪い感情をほとんど感じていない。
「それより、今はDIOを倒すことを考えよう」
「違いねえ」
承太郎が肯いた。角を曲がって、左、右。右にもう一度。
真っ直ぐな道を走り終えた後に、その建物はあった。聳え立つ威容。さほど大きな訳でも、重厚な作りでもないにも関わらず、その建物が放つオーラはどこか、この場所からは浮いていた。
角度を合わせると、写真と、全く一致する。だが何か、説明のできない『違和感』を感じて、改めて承太郎は尋ねた。
「……ここが」
クロエがこくりと頷く。皮の手袋に包まれたその手には、既にペンと手帳が引き出されていた。
「……嫌な雰囲気じゃ。本当にここに居るんじゃな」
施設の門扉は不自然に開き、逆にその奥の扉はぴっちりと閉じられている。
空気がいやに静まり返っていた。クロエは承太郎たちを制すと、その門をくぐってドアを開き、一気に踏み込んだ。
素早く左右を見渡す。誰もいないことを確認して、OKのサインを出した。
建物の内部は外観に反して──否、ある意味では外観に即しているとも言えるだろう──無駄な飾り気がなく、いっそ無機質ですらあった。
弱く照明のついた光を頼りに、クロエは進む。時折ゴーサインを出しながら。それを少し離れた位置から、あらゆる場所に目を光らせつつも承太郎達は追いかけた。
クロエは平常時のように足音を立てながら、逆に彼らは限りなく足音を殺して階段を下る。
やがてその終わりにたどり着き、一つ目の扉を開いたところで、クロエは立ち止まった。その手は静止を指示している。
「クロエじゃあありませんか」
知らぬ声が、五人と一匹の耳朶を打った。
クロエの方には声の持ち主が見えているらしい。僅かに見える彼の横顔を、承太郎は凝視していた。愉しげな表情。彼には少なくとも、そう見えた。
「やあ、ラオ。何かあったのかい?」
ラオと呼ばれた男は、柘榴のように赤い目を細めて返す。
「こちらは、貴方が討たれたと聞いて飛んできたのです。何かあったのか、じゃあないのですぞ」
滑らかなテナーが、クロエを咎めた。
赤い瞳に黒い髪。黒い外套。すらりと伸びた足を包む、黒いボトムス。ただ一つだけ不健康に白い肌。そのいずれもが、全てを吸い込むような雰囲気を醸し出していた。
DIOに現状、抱いているものとは別の意味で不気味──ジョセフはそう思った。
「それは済まないな、誤報だよ」
クロエは口角を吊り上げてそう言った。
「ええ、見れば分かりますとも。貴方が無事で、本当によかった……私のガッティーナ」
まるで恋人にするように、ラオと呼ばれた男はクロエを抱きしめた。
ぞっとした感覚が襲った。この男にされた事を思い出しては、全身が凍りつくような恐怖が襲うが、クロエも彼の背に腕を回す。その手にはすでに、小さく破った紙片とペンがあって。
「本当にごめんな、ラオ。心配させてしまって」
心から慈しむようないろを宿した声で、クロエは囁く。
そして。
『僕は彼の背を抱きながら、袖口に隠したナイフを抜いた』──紙にそう、クロエは書き記した。どんなスタンド使いでも、背後からの不意打ちに耐えられる者などいない。それがクロエの出した結論だった。
大ぶりなナイフがその背に向き、艶消しのなされた刃がずぶりとその中心を貫いた。
「ごほ……っ?」
理解できない、といった風な声が上がる。見えない位置から不意に刺されたのだから、そんな反応にもなるだろう。
ただし──その声を吐いたのは、彼ではない。
(──な、ぜ)
スタンドは見えなかった。なにかアクションを起こした様子もない。角から伺っている承太郎たちからも、スタンド能力を行使した瞬間は見えなかった。
「大丈夫か!」
「てめー……!」
ポルナレフと承太郎の言葉が交錯する。
こぷ、と口から血を吐き、木の板が押されたような挙動で、クロエ・ファルティスは倒れた。
STAND MASTER:トラオム・ヴィスコンティ
STAND NAME:
【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - E / 持続力 - C / 精密動作性 - D / 成長性 - E】
「気付かれていないと思ったのですか、クロエ」
冷ややかな視線が、倒れ込む彼に突き刺さる。
「クソッタレ……が。何故、気付いた……?」
「尋ねているのはこちらですよ、欲望に溺れた愚かな奴……。それとも、貴方の中ではそれが正しいのですか?」
すっ、と優しく顎を掬って、彼はクロエの悔しげな表情を眺める。あくまで穏やかな声色で、冷たいのはその瞳だけ。
何も分からない能面のような笑みで、トラオム・ヴィスコンティはかぶりを振った。
「可哀想に。貴方がDIO様に付き従う限り、平和な世界にいられたというのに。それを自ら放棄するなど──それはそれとして」
部屋の向こう、壁に張り付いている承太郎たちに、視線を向ける。
「いやに騒がしいですな。何か、祭りでもあるのですかな?」
しかし、彼らはこちら側のみに見えるクロエの手の動きを注視していた。来るな、というサインに変わりは無い。
トラオムは信じられない、と言わんばかりの手振りで続ける。
「おやおや、気のせいでしたかな。──時にクロエ。あの部屋の外にキツネのフンよりも汚いゲロカス共が居るようですが、貴方ならどうして引きずり出しますか?」
「……なにを、いって──ご、はッ!」
顎を掴んでいた手を放り出し、立ち上がったトラオムは、地面に伏したクロエを踏みつける。そのままぐりぐりと足を動かし、貼り付けた笑みのまま声だけを荒げた。
「なに、しやが、うぐっ……!」
「だあぁかぁあらぁあああッ!! 尋ねているのはこちらだと言っているでしょうッ! 貴方に許されているのは答えることだけであるのを、まだご理解いただけませんかなぁ!?」
「ぐ! おごッ、がふっ……!」
「そのババロアが詰まったようなツルツルの脳味噌に、きちんと教えて差し上げますよ、っ!」
「あぐぅッ!」
脇腹に靴の先が何度も突き刺さり、嫌な音が身体のうちで響くのを感じた。ナイフが刺さったままの背中にじくじくと響く。
「ぐ、ぅ……」
「貴方は本当に──だ。私の事を殺そうとするだけでなく、DIO様から頂──ものを無下にするなど──」
このままでは、こいつのスタンドの謎も暴けず死んでしまう。しかし、何も分からない。僕が刺したと思っていたナイフが、僕に刺さっていた……そんな馬鹿な話があるのか。心中で舌打ちをしたその時、靴に包まれた足が頭を踏みつけんと持ち上げられた。
そして、硬い靴底から体重を乗せた踏みつけが、クロエの頭にぶち込まれ──は、しなかった。
アヴドゥル、と呼ぶ声が重なる。
苛立ちに満ちた声で、彼は問うた。
「何の真似です?」
「彼への攻撃は、これ以上看過できない」
モハメド・アヴドゥルは問いかけに対して、そう答える。
「貴様のスタンドが不明な以上、迂闊に出るのは悪手だったが……その行動はもう、到底無視できるものではなくなったッ!」
噴き出す炎を猛らせ、アヴドゥルは怒りを孕んだ声で言った。
「貴様を倒し、DIOの元へ行かせて貰う」
そして、彼は敵を睨む。
「まて……、僕は見捨てろと、いったはずだ……!」
「いいや」
強く、重く、意志を感じさせる声で、クロエの言葉を否定した。
「貴方が傷付くことは看過できない、とも言ったはずだ」
その身体からは、静かに揺らめく炎のような感情が漂ってくる。踏みにじられ、その身を切り裂かれた痛みが、ほんの少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「……貴方には、合理的判断ができないのですかな?」
アヴドゥルの見据える先では、トラオムが変わらず微笑みを浮かべていた。
「そこのゴミは貴方の敵ですぞ? わざわざ庇って本体を晒すなど、愚かとしか言いようが──」
「承太郎ではないが、やれやれだ。やる事が三流の人間は、言う事も三流なのだな」
言葉を遮ったアヴドゥルに、トラオムの目元が引き攣る。
「確かに我々は彼と戦った。ポルナレフに至っては、一度は本にされた」
承太郎も、ジョセフも、軽くない傷を負わされた。
それでも。
己の
「自分が肉の芽に乗っ取られながらも、我々の身を案じる──そんな人間が、真に敵なわけがないだろう」
アヴドゥルは、そう断じた。
その瞬間、クロエの胸を満たしたものは、自らを焼く炎よりも熱かった。
ずっと、罪悪感を背負っていた。
肉の芽が忘れさせていても、どこかで感じていた。
二十人のスタンド使いを、そして差し出された九人の何も知らぬ
肉の芽がどうとか、そんなことは関係ない。
人殺しを是とする邪悪だと。根底から腐った悪であるのだと。
だが。
そんな自分を、『敵ではない』と言い、庇ってくれる者がいたのだ。
トラオムは理解できないといった風に首を傾げ、そして尋ねた。
「それでは、どう致しますので?」
「二度言われないと理解出来ないのか? 貴様を倒し、DIOも倒す」
「……あくまで私を殺す気でいるのですな」
「当然。そして貴様には、私一人でも十分だ」
「おい待てよ、アヴドゥル!」
「いいや、待たない。どうかやらせてくれないか、ポルナレフ」
ならば尚更。トラオムには何か、宇宙の真理を覗くような恐ろしさがある。どんなスタンドかも暴いていない今、強力な炎を操るアヴドゥルを戦わせる訳には行かない。
炎への恐怖も忘れて、クロエは制止した。
「駄目、だ……。奴のスタンドさえ分かっていない、そんな状態で……」
「いいや。もう、その能力のタネは割れている」
その仮面のような笑みを燃やして、スタンドの顔を見せて貰おうとアヴドゥルは言った。
ふはっ、とトラオムが吹き出す。
「大きく出ましたな、モハメド・アヴドゥル。その口に免じて、私も名乗りましょう。我が名はトラオム・ヴィス──」
「
クロエの目には、燃え盛る鳥人が透けたように見えた。それが残像であると気付いた時には、
一閃。炎を纏った拳が、微笑む顔に向かって振り抜かれた。しかし、狙いが外れたのか、その攻撃はトラオムの頬を掠めるだけに留まる。しかし、
──主であるはずのアヴドゥルの肌を。
「おい、嘘だろ!」
「何じゃと……!」
ポルナレフとジョセフが驚愕の声を上げた。イギーは吠え、承太郎は厳しい表情で二人を見ている。
アヴドゥルは頷いた。
「やはり、私の見立ては間違っていなかった。貴様のスタンド能力はずばり『反射』だ」
ぴっ、とトラオムに人差し指を向けたアヴドゥルは、赤裸々に告げた。
「反射……」
承太郎には珍しく、鸚鵡返しに呟く。
「確かにそれなら、今の現象にも説明がつく。クロエが刺されたのも……」
「奴をナイフで突き刺したから、じゃな」
合点がいったとばかりにジョセフが口にする。
クロエが刺されたのは、そのダメージを『反射』したから。
意図的に外したであろう攻撃がアヴドゥルの頬を焼いたのは、そのダメージを『反射』したから。
そして、戦いのイニシアチブを握ろうとしないのは、『反射』以外にこちらへの攻撃手段がないから。
しかし、士気の上がったポルナレフ達とは対極に、承太郎は未だ厳しい顔を崩さずにいた。『ダメージの反射』。それだけでは説明のつかない何かが、思考の端に引っかかっていた。
ぱん、ぱん、ぱん、と白々しい拍手が、薄暗い部屋に響く。音の主はもちろん、トラオムである。
「中々の審美眼ですな。私の
「だが当然、欠点もある。貴様は常に、その能力を使用している訳では無い」
「…………」
トラオムが目を見開いたその瞬間、表情が──否、顔つきがブレた。少しも変わらない仮面のような微笑が一瞬だけ崩れ、そこに重なったスタンドの姿がちらつく。
「今のは……」
純白の、滑らかさを連想させるのっぺりとした顔。一片たりとも角の存在しない、曲線のみで構成されたシルエット。
ごく短時間だけ姿を顕した
一方でアヴドゥルは、余裕さえ感じられる声で評する。
「どのみち気色が悪いことに変わりは無いが、そっちの方がまだマシだな」
「……ふ、ふ」
口の端から、笑みがこぼれる。
「何がおかしい?」
「何が。なにが……フフ、何が……ですか。ふふ、ふ、ぁは──ははははははッ!」
初めは、小さな笑いから。それがやがてけらけらとしたものから、哄笑に変わるまでにはさほど時間はかからなかった。
何かの薬物か、毒でも食らったかのようにトラオムは笑い続ける。尋常ではない彼の姿に、さしものアヴドゥルでも攻撃を躊躇った。
二分を超えて、三分。およそ五分近く経った後に、トラオムは貼り付けた様な表情を取り戻した。
「まさか、そこまで見抜かれているとは思いもしなかったもので。ブラーヴォ! 仰る通りでございます。ですが……私をそこいらのスタンド使いと同じ、と思われるのは少々癪ですな」
トラオム・ヴィスコンティは、生まれついてのスタンド使いだ。
そして、生まれた時から殺し屋の一家で育てられた、純粋なる殺人者。
その『教育』は壮絶なもので、能力の発現と同時にいかなる時でも『
血の繋がっているはずの、実の両親に。
ナイフか、銃弾か。あるいは、スタンド能力か。
己の命が脅かされ続ける生活を十数年続けてきたある時──彼の瞳は、降りかかる火の粉一粒も見逃さぬほどの動体視力を身につけていた。
銃撃も、斬撃も、スタンド使いによる攻撃も。
あらゆる害意を撥ね反し、標的を抹殺する。
彼の眼を以てすれば、かの『
故に、
どれだけ反撃の時を伺おうと、そんなタイミングは永久に訪れない。
そして、攻略し倦ねるアヴドゥルに付き合ってやれるほど、トラオムは気が長くはない。
「私のスタンド能力が暴露されたとて、貴方に勝ち目など」
おもむろに、一歩踏み出す。
ない、という声がごく近くで聞こえた。咄嗟に防御姿勢を取るが、それが残像だと気付いた時にはすでに、アヴドゥルの腹に拳が突き刺さっていた。
(は、や──)
「貴方はもう、ご存知だと思うのですが。──DIO様は我々、トート・タロットを暗示するスタンド使いを殺し合わせたのです。生き残ったのはたったの二人。最後の一人になるまで殺し合え、というのがDIO様の指示でしたからね。しかし、私とそこの裏切り者は、生き残った。二人とも」
それだけではない。この男の拳は重かった。スタンドに殴られたかのように。
「私が殺そうとしたあと一歩で止められましてな。傷だらけでボロボロの彼を抱きしめて、私は優しく慰めてやったのですよ。先程と同じように」
余裕綽々、とばかりにオーバーな手振りを加えながらトラオムは喋った。
「貴方を殺さずに済んで、本当に良かった、とね……」