では。
呼吸は穏やかで落ち着いていて、魘されている様子もなかったのは幸いだが、間近で多少音が鳴ろうとも起きなかった。
火霊性の
それほど、雨亭の体温は冷たいままだったのだ。
気を揉むこと一日で雨亭は目覚めたが、起きて臨淵の寝台に寝ていると気がついた途端、猫のように飛び上がって寝台から降りようとするから、臨淵は少年を慌てて押さえた。
「やめろ待て止まれ!体が冷えているんだぞ!」
「で、でもっ、ここは師匠の牀で……!」
「俺がいいと言っているなら良いから!熱が出るだろう!」
ほとんど取り押さえることになったし、少年は居心地悪そうに布団の中で小さく丸まってしまった。
その少年の顔を、半透明の少女が覗き込む。
「雨亭くん雨亭くん、君は体の中の力を全部出し切ってからからの抜け殻みたいになっちゃってたんですよ。水の巧力を使い切るまで使ったの、初めてですよね?」
「……うん」
「だったら大人しくしなきゃですよ。水に落ちて溺れた人みたいな顔色になって戻ってくるから、わたしも臨淵もほんっっとうに心配したんですからね!」
「師匠が?」
「師匠が」
目を丸くしている雨亭である。
「……ブリギッドは信頼できるし、お前なら何か掴むとは思っていた。……彼女の矢、一度に何本撃たれた?」
「え、と……三十は超えてましたが……」
「本気でやれば、あいつは一息で二百以上の矢を放つ」
「……ちゃんと手加減はしてくれてたんですね」
「……それでも、心配しなかったわけじゃない。お前は頑丈だし、実に巧みに怪我をする。だが、怪我に抵抗がなさすぎるきらいがあるだろう」
「……師匠、怒ってます?」
「怒っていない」
怒る資格などないだろう。
臨淵にできるのは、事実を指摘して雨亭が一人でも生きていける確率を少しでも上げるだけだ。
そんな青年の内心を知ってか知らずか、少年は首を傾げている。
どうすれば大切なことが伝えられるのだろうかと、臨淵はその丸い頭を撫でた。
されるがままに揺れていた雨亭の頬が微かに緩む。
「……師匠、おれは頑張れましたか?」
「この上ないくらいな」
「……そうですか。よかった。あと……あの、武器なんですけど……」
「あ」
雨亭が右腕をそっと持ち上げる。
衣は寝間着に変えられたが、腕の縄は何故か解けずそのままにしていたことを臨淵は思い出した。
「あー!臨淵完全に雨亭くんの体調ばっかり見てて天命宝器のこと忘れてましたよね!もー、あなたは狼狽えててもポンしてても顔に出ないから!」
「蒼姐!」
「だって臨淵はずっと一人だったんだから、言わないと伝わらないですよっ!これは譲れません!」
「……そうだな。蒼姐のように指摘してくれるのはとても有り難い。……実際、俺は龍眼についてもその因果についても何も知らなかった。塵扶の神は滅びて久しく、もう、とうに終わったものだと」
七百余年も前の終わった神だというのは、お前の思い込みだとブリギッドは告げた。
特に龍眼は、龍骸の中でも因果を集める力が強いとも。
記録に残る最後の龍眼発現者が、どうなったのかも。
「むー……龍神についてはそれこそ龍神君強火担……じゃない、仙人の皆様に聞かなければ打つ手が何もないのでは……?ほら、今一番の問題はド変態とダメ親父なわけですし。雨亭くん、何をあそこで授かったか見せてください」
「……うん」
寝間着に包まれていた腕には、変わらず黒く細い綱が巻かれていた。
先端にはやはり、苦無のような鋭い刃物が結ばれている。滑らかな金属の表面には龍が彫られ、鋭い瞳でこちらを睨んでいた。
「縄鏢でしたか。わたしさっぱりなんですけど、雨亭くんは?」
「おれも触ったことない」
「えっ」
「でも寝てる間、夢でずっとこれの使い方を誰かが見せてくれてた。だから今はわかる」
「めちゃくちゃ取り憑かれてませんか!?」
「蒼姐、落ち着け。ブリギッドの蔵にあった宝器なら、あり得る話だ」
「はい?」
「あそこには彼女が手掛けた宝器の他にも、持ち主が既に亡い品もある。そうした品の中には、新たな使い手にかつての使い手の経験を引き継ぐ物もあると聞いた。これもそうなのだろう。ブリギッドは、主を失った物と天命を失った者を繋いでくれる」
何なら、そうしたただモノでない品々の蒐集のために世界を股にかけてやらかすブリギッドを護衛したのが臨淵と彼女の出会いだったりする。
故人の意志を尊重したため、ブリギッドが遺族と揉めるのはままある話だ。
宝器は血縁者に受け継がれる場合もあるため、強力な宝器の持ち主であった故人がブリギッドへ宝器を引き渡すよう遺言していても、身内が渡さないなどということもあるとか。
「へ、へぇ……だからブリギッドさんって特別なんですね……さすが百錬工房……」
「
「確かに凄く綺麗でした。……じゃああんたも、誰かの側にいたんだな」
まるでそこに誰かがいるように、雨亭は手首の黒縄を撫でた。
「レーニから聞いたが、武器に名前をつけたそうだな」
「はい。……つけるとおれの【星】になるって言われたんですが」
「名付けは重要ですからねぇ。あ、わたしは蒼姐って呼び方大好きですからね!」
「ありがと、蒼姐。……名前は【
子明、と臨淵はその名を繰り返した。
雨亭はまだ、あまり字を知らない。
その中で選んでつけた名前なのだろうが、ぴたりと嵌まる気がした。
「いい名だな」
「ですね!子明さんの中の人もよろしくお願いしますね!」
「中の人?蒼姐、誰か見えてるのか?」
「あえっ!いえ見えてないですけども!……夢の中でいたんでしょう?なら、今もいるんじゃないでしょうか。ご挨拶はしておこうかと」
「……そうかも。そういえば、その人も師匠みたいに頭、撫でてくれました」
「……」
もう一度くしゃくしゃと雨亭の頭を撫でてから、臨淵は子明を見た。
何の金属の刃なのかも定かではないが、斬れ味はいいと不思議と思う。
龍の装飾は、塵扶の武器としては珍しくないものだが、彫り方が己の持つ槍と似ている気がした。
あの槍も、気がつけば手に持っていたのに問題なく扱えたし、臨淵にもどう身に着けたかもわからない力がある。
天命が落ちていると言われたことはないが、臨淵が本来の己を何も覚えていないのも事実だ。
────もしかしたら。
「臨淵?」
「師匠?」
ふと我に返ると、少女と少年に覗き込まれている。
臨淵は緩くかぶりを振った。今、彼らに余計な心配を与えたくはないのだ。
「何でもない。雨亭、それを外で使ってみるか?」
「はい!着替えてきます!」
布団を跳ね除けるようにして、少年は寝台から飛び降りてぱたぱたと駆けて行った。
きっと、子明を使ってみたいのだろう。
折角手に入れた宝器で嬉しくなっているのか、大きな足音を立てて走っていく姿は珍しく子どもらしい。
が、雨亭の後ろ姿を見送ってから数秒後、はっ、と我に返った臨淵は勢いよく立ち上がって部屋を飛び出した。
廊下の先まで走っている少年の背中を見つけ、臨淵は叫んでいた。
「待て雨亭!お前は丸一日何も食べていないだろう!先に腹ごしらえをしろ!」
「じゃあ何か作ります!」
「違うそうじゃない!俺が作る!散々瞳を使ったんだろう!空腹で倒れる気か!」
「倒れませんから!」
「この点に関してのお前は信用できない!いいからじっとし────くそ、止まる気なしか!……蒼姐!」
「は、はいっ!?」
何故かふわふわと部屋に居残っていた少女は、派手に飛び上がる。
「えっなんですか普段無表情な人が感情露わにしてるのいいなぁとかここから何があってああなったのかとか思ってませんからね!」
「思っていないなら雨亭を止めてくれ!お前の言うことなら聞くだろう!」
「わっ、わかっ、わかりましたぁ!雨亭くん!雨亭くんストップです!ご飯食べてから動いてください!」
ひと月前までは隅々に静寂が染み込んでいた小さな庵は、今日も賑やかに時が過ぎていった。
■■■
「臨淵臨淵、わたし、縄鏢のことはわかりませんので口を挟むのもアレですけど……これ、本当に合ってますか?」
「以前、俺が見た鏢の使い手はこう訓練していた」
「うーむ……となると合ってはいるのでしょうが……難易度大丈夫なんでしょうか……?いや本当、映像を見る聞くのと実際に目で見る触れるは全然違いますよぅ……」
大騒動のあとの庭にて。
毎度の如く鬼火の形でふわふわと漂いながら、蒼姐は頭を捻っている。
視線の先には、庭の木の枝から紐で吊り下げられた小さな壺があった。
底にヒビが入った使えない小さな壺は、ぷらぷらと紐で吊るされて揺れている。
そこから数十歩離れたところに、雨亭が立っていた。
左の手首には縄鏢の子明を巻き、刃の部分は手に持っている。
縄鏢を投げて的に当てる、最もわかりやすい訓練であった。
縄鏢どころか、投擲暗器にほとんど触れたことがなかったという雨亭である。
夢の中で前の持ち主に使い方を教わったというが、実際どれほどなのかはわからなかった。
「師匠、蒼姐、いいですか?」
「ああ」
「はい、では」
極自然に、前へ一歩脚を踏み出すような淀みなさで、雨亭は腕を引いて振るった。
解き放たれた黒縄が龍のようにのたうち、空気を打つ。
銀閃が宙を裂き、曲線を描いて飛ぶのが見えた。
パリンッと乾いた音が響いて、紐の先の壺が砕け散る。
ぽと、と的を粉々に割った鏢が地面に落ちた。
「えっ!」
蒼姐が、鏢と雨亭と粉々に砕けた壺を順番に見る。見て、目を丸くした。
「速っ!何ですか速っ!蛇っ!?蛇みたいにぐねってうねりましたよ今!」
「蛇より龍だろう」
「あっそうですね!龍!龍模様の武器ですし龍ですね!雨亭くん凄い!」
「うん、ありがと……でも、ちゃんと飛ぶんですね……当たるけど当たって良かった……」
手のひらに収まるほどの小壺を、数十歩離れた距離から撃ち抜いた少年は、誇るどころか心底ほっとしているようだった。
「よし、次は木の葉を使おうか。俺が投げるから当ててみろ」
「難易度引き上げすぎじゃないですかそれは!さては浮かれてますね臨淵!」
「師匠、それはまだ難しいので壺の破片とかで……おれ、中の人さんがやってたみたいに投げた子明を回収できないし……」
「いや結局難易度ガン上がりしてるでしょ!適合した武器ってこんなにすぐ強くなるものなんですか!?」
「おれは中の人さんが教えてくれたのと、左眼があるからだと思うけど」
「ああぁ、雨亭くんに中の人呼びが定着してます……!あっ、でも雨亭くん元々小石で鳥獲ったり、破片で変態の眼を狙ったりしてたんでしたっけ。なら投擲武器と相性いいのホントだったんですね」
龍眼がどんなものかは、臨淵も把握していない。
が、雨亭の動きの良さの要が動体視力の高さにあるのは見ていればわかった。
勿論、動体視力がいくら高かろうが体が反応できなければ意味がない。
雨亭の身体能力の高さは、生まれつき龍眼を使い続けたために身体能力も相応のものに引きずりあげられたためだろうか。
何にせよ、短い時間で想像以上に雨亭の強さを上げられそうではあった。
要になったのが、子明の中にいて雨亭に使い方を指導してくれたという何者かであるのは師匠として思うところはあるが、投擲武器はほとんど縁がない臨淵である。
長柄武器と剣の使い手との立ち回りは見てやれるが、それも組手の相手という意味で縄鏢の扱い方を指摘できるかといえば。
「……」
「うわ眉間のシワァ。臨淵って慣れたら顔がわかりやすいですね」
「言われたことがないが」
「えぇ?一ヶ月も一緒に過ごしたらわかりますよ?ですよね、雨亭くん?」
ひゅう、ひゅうと黒縄を振り回していた少年は、名前を呼ばれて顔を上げた。
「え……はい、師匠、おいしい料理のときは笑うし……困ってるときもわかります……あの、おれ、もっと練習してきていいですか?」
地面に散ったままの破片へちらちらと視線を送る雨亭に向けて頷くと、少年はぺこりと頭を下げて砕けた素焼きの欠片を一つ一つ紐で繋いで枝から吊るし始める。
そこからまた数十歩離れ、白刃を手に腕を振るった。
干し柿のように並べられた破片が、端から順にパリンパキンとさらに細かく砕けて行く。雨亭の手首の捻りに合わせ、宙で縄鏢の軌道が変わっているのだ。
意識を集中させれば、子明の黒縄には水の気配が纏わりついていた。
「えー……投擲武器ってあんなにくねっくね曲がります?どうなっているんでしょう……?」
「空中の水の力を子明に纏わせ、軌道を操作しているな」
「えっ?……あ、あー、ほんとですね。よく見たら見えました。……雨亭くん、いきなり数段器用になってませんか?」
「元々物に力を纏わせるのはできていたらしいから、子明との相性だろうな。
「……え?普通に凄いのでは?」
「尤も、どう弄っても胡陀の眼には当たらないと撃つ前から結論は出ていたらしいが」
「撃つ前から当たる当たらないがわかるんですか……?当たらないとわかってて投げるって、それはアリなんですか……?」
あれぇ?と蒼姐は浮かびながら首をひねった。
「……それが龍眼の力であり、雨亭には当たり前だったんだろう」
他人と自分の見ている視界が違うと雨亭が気がついたのは、かなり後なのではないだろうか。
雨亭の自己評価の低さからしても、あの子どもの成長や変化を、つぶさに見届けていた者がいるとは思えないのだから。
ふわりと風に乗る少女は、何か納得したらしかった。
「龍眼がずっと側にあったまま成長して今の雨亭くんになって、本来いたはずの天命の彼とは違ったなら……じゃあ今の臨淵になってからの臨淵も、そうなんですか?」
「ん?」
「だって、人の嘘なんて普通百発百中で見抜けませんよ。あなたにも雨亭くんのような不思議な力があるなら、既に心体のどこかが、
「……変質」
「他人と違う力を持ってしまえば、持っていなかった頃の己には、もう戻りたくとも戻れないじゃありませんか。……神も、人も」
少女の声は、まるで凪いだ湖のように静かだった。
それは本来の天命をとうに失い、龍眼で生命を繋ぎ、今も因果に振り回される雨亭を指しているのだろうか。
それとも記憶もなく以前の己を失ったまま、力を抱えて彷徨していた臨淵のことだろうか。
または────今、蒼姐と仮の名を名乗っている少女、本人を指すのであろうか。
パリンッ、と音を立ててまた一枚の破片が砕け、秋の日の光の下で銀の龍の瞳がきらりと光った。
おまけの登場人物(生存中)と武器一覧
雨亭→縄鏢/子明
蒼姐→???/???
臨淵→槍/天秤槍
天魔→???/???
蛍留→???/???
ブリギッド→長弓/???
ク・レーニユ→長弓/???
鵲渡→剣/???
蘇貞→剣/???
胡陀→曲刀(双刀)/???
臨淵は当初何となくで槍を天秤と呼んでいましたが、語呂が気に入ってそのまま名前にしました。
子明にも元ネタあります。
作者は縄鏢使いのキャラとしては『うしおととら』の鏢と『マギ』のジャーファルが好きです。