では。
29話
潮騒の音も、磯の香りもない船の甲板で、少年と青年が向き合っていた。
緑と白、黒を基調にしたどこか似通った服装の二人は、それぞれ武器を構えている。
少年の手にあるのは黒縄の先端に刃が結ばれた縄鏢、青年が握るのは龍が刻まれた長槍。
甲板の片隅で向き合う二人だが、周囲には何が始まるのかと待ち兼ねるように見守る船員がいる。
しかし、少年も青年も彼らのことなどまるで見ていない。お互いしか視界に捉えていなかった。
月もなく、星もなく、灯りと言えば取り付けられた人工のものしかない暗黒の海を進む船が、ぐら、と微かに揺れる。
その瞬間、少年が跳んでいた。
縄鏢の刃を手に持ち、前へ跳んで間合いを詰める。甲板を抉るような低い蹴りを青年は半歩ずれるだけで躱し、掬い上げるように槍を振るう。
回転のついた槍の一撃を、少年は軽業師のようにとんぼを切って躱し、縄鏢を放つ。
くるりと縄が槍の柄に巻き付くが、巻き付いた刹那に青年は槍を手放していた。
え、と少年の表情に空白が生まれる。
両の手が自由になった青年の拳が、吸い込まれるように少年の胴に打ち込まれた。
衝撃で浮いた少年の脇腹に追加の回し蹴りが叩き込まれ、小柄な体は人形のように吹っ飛ぶ。
ごろんごろんと派手に転がる少年に、観客たちは驚きの声を上げる。
が、甲板を囲む壁にぶつかって止まった少年がバネが入った人形のように立ち上がるや、またも彼らは声を上げた。
腹を殴られて蹴り飛ばされたはずなのに、少年はけろりとした顔をしていたのだ。
項で結わえた髪と服についた埃だけを払い、槍に絡みついた縄鏢を外すと、少年は悔しそうに槍を青年に手渡した。
「……また負けました」
「そうだな。別に俺は、体術を使わないとは一言も言っていない。それに本来、暗器は距離を取って戦うものだな」
「師匠、全然当てられないんですけど。風を操られて軌道が」
「当てろ。風も水も、無辺に遍在する」
「……」
「……受け流すのは上達している。俺の拳と蹴りが当たる直前、水で膜を張って直撃を避け、自分で後ろに跳んだ判断は上手かった。鍛練はお前に身についているぞ、
くしゃくしゃと青年に頭を撫でられた少年は、むすりとした顔を少し綻ばせ右腕に縄鏢を巻き直すとぺこりと頭を下げた。
「稽古、ありがとうございました。
「ああ」
少年、雨亭と青年、臨淵は連れ立って船室の方へ帰る。
周囲から見られていようがいまいが、彼らの態度に変化がないのはここ数日の航海で知られていた。
少年と青年は、塵扶からこの星舟に乗り込んで来た旅人である。
師匠、弟子と呼び合うには些か若すぎるし幼すぎる二人組であったが、青年はきっちりと二人分の乗船料金を払ったし、塵扶から【
が、この二人の奇妙なところはそこではない。
乗船してから毎日毎日、甲板のどこかで激しく鍛練しているのだ。
星舟が渡るのは、落ちれば忌みものと化す虚ろの海。
大抵の乗客は虚海を見ることすら畏れ、船内に引き籠って無事に次なる世界へ渡れるようにと各々の神に祈るのだ。
虚海が見える甲板にいるのは、ほとんどが船員である。
ところがこの青年、弟子の少年を甲板から虚海に叩き込みかねない勢いで戦いの稽古をつけている。
まだ十歳かそこらに見える幼い少年に対して、容赦がまるでない。
今回の手合わせも、まかり間違えば甲板から落ちかねない威力で少年を吹き飛ばしているのだ。
少年が舟から落ちたことは一度もないが、いつか落ちるのではないかと見ているほうが気が気でなくなるほどだ。
ところが、どれだけ激しく叩きのめされようが少年はいたく青年を慕っているようで即座に起き上がり、師匠、師匠と雛のようにまとわりついて教えを乞うている。
一切青年を怖がる素振りのない様子から、少年が本心から青年を師匠と思っているのは明らかなのだ。
さてはどちらも老若男女問わず鍛練狂いの魔教の者かと船員たちも疑ったが、それとなく青年に尋ねれば、魔教から逃げて来たとあっさりと明かされている。
俺たちは魔教でも何でもないただの旅人だと青年に淡々と言われてしまえば、言い募ることもできなかった。
ともあれ、元々血の気の多い虚海渡りの船員たちである。
五日もすれば師弟の鍛練にも慣れ、若いのによくやるなと休憩の代わりに見物する者も現れる。
今回もそうだった。
この船に乗っている間に、少年が青年に一発まともに当てられるかどうか賭けをしている者もいるのだ。
無論、当の二人には明かされていないことだし、仮に知ったとしても彼らの態度に変化はないだろう。
つくづく謎の多い二人であると言い合いながら、船員たちはまたそれぞれの仕事へ戻っていく。
臨淵と雨亭が去った方角をじっと見つめる目があることに、彼らの誰も気がついてはいなかったのだった。
■■■
「雨亭くん、臨淵、あの、さっきから……」
「見られている、だろう?」
「見られてるよね、
「お、おぉぉぉ、やっぱりでしたか!わたしも気配とか読めるようになってきましたよ!」
虚海を渡る薄暗い舟の中、二人分の船室の中に三人分の声が響いていた。
臨淵と雨亭、そして鬼火の少女、蒼姐である。
塵扶の仙人、
雨亭たちが乗った星舟には、【豊葦原】の
乗り込んでから半月は過ぎているが、忌みものに襲われることもなく、実に平和な時間が流れているのだ。
が、今日の雨亭と臨淵の手合わせのあと、雨亭の龍眼の中で見守っていた蒼姐はいつもと異なる視線を感じたという。
「敵意はないけどじっとこっちを見てて……誰でしょうか?」
「敵意はないから、別にいいんじゃない?半日ぐらい前からいたし」
「ああ」
「えっ!?結局わたしが一番探知能力低い!」
「お前は肉体がないからな。土地の霊性によって受ける影響が俺たちよりも大きい。虚海の上という環境は霊性に揺らぎも出るだろう」
「だとしてもですよー!本来の肉体スペックからしたらダッメダメだとしても、半日遅れは雑魚すぎます!」
ごろんごろんと寝台の上を転がりそうな蒼姐である。
素性不明、正体不明、自称【未来予知者】で【天地の精霊よりの非人間】の半死魂の少女は、本日も騒がしかった。
「蒼姐、落ち着け。外に声が聞こえたら面倒になる」
「はうぁ。……静かにします」
するりと起き上がった少女は、寝台に腰かけた雨亭の隣に座った。
「話を変えますけど、臨淵は豊葦原に知り合いとかいます?」
「視線を向けられるような相手は確実にいないな」
「んー……。聞いたことなかったですけど、臨淵の旅ってそもどこから始まってたんです?記憶がない状態から、どこで旅を始めたのかなって」
「……」
そう言えばほぼ聞いたことがないと、寝台に膝を揃えて座ったまま雨亭も首を傾げる。
気がついたら己の過去を失い、塵扶で生まれたという認識と、名前と槍と共に放浪していたとしか雨亭は師の過去について知らない。
自分も過去が擦り切れてあまり思い出せなくなっているからか、雨亭はさして気にしていなかったのだ。
短い黒髪の青年は、翠緑の眼を瞬かせた。
「俺が目覚めた場所は豊葦原だった。海辺に流れ着いていたらしい」
「は?」
「密界者ということになって、結局すぐに追放され、入界が緩いメヘラスに送られた。塵扶で生まれたという認識はあったんだが、密界者の意見は聞いてもらえなかった」
「あぁ、メヘラスって新技術大好きだから移民に寛容でしたっけ。……でも臨淵て新技術とか持ってるわけではなさそうなのに、よく入れましたね?」
「そのときには、俺に【嘘を見抜く力】があるのはわかっていたからな。メヘラスの技術者たちは、その力を解析するために、多分、金銭で俺を豊葦原の者から買った。そこから数年は、研究所というところから出られなかった」
「人身売買にモルモットとかいう最悪コンボじゃないですか!何でメヘラスに詳しいのかって前から思ってましたけど、そんな理由!?雨亭くんの顔真っ青になってるじゃないですか!」
言われて初めて気がついたように、臨淵は弟子を見る。
青白い無表情になっている雨亭を見て、臨淵は慌てたように早口になった。
「お陰で力の制御はできるようになったし、ある程度常識も得られたが、さすがに数年も同じ景色しか見るものがないのは飽きたし、ここにいてはいつまでも何もわからないと思ったから出ることにした」
「……どうやって?」
「脱走した」
ずる、と蒼姐が転ぶ。
「完全に流れ変わりましたね!でも、メヘラス人と臨淵の顔立ちは全然違うから、逃げるの大変だったんじゃ?」
「明らかに違法な研究内容をいくつかメヘラスの神官組織に密告したんだ。研究所自体が摘発されて、俺を追うどころではなくなっていた。相当大きな事件に発展したな」
「え、一人でやったんですかそれを?」
「俺しかいなかったからな」
さらりと言う臨淵からは、怒りも痛みも何もない。通り過ぎたただの記憶として語っている。
それでも聞いていると何とも言えなくなって、雨亭は俯く。
「雨亭?」
「……何でもないです。でも、師匠が今無事でよかったなって」
雨亭は、蒼姐や臨淵に助けてもらうことができた。
臨淵には、誰がいたのだろう。
「……本当に、無事で、よかったです」
臨淵が乗り越えた過去だとしても、そう思う。
同時に、そんな人生を歩んだからこそ、臨淵は今も過去を取り戻したいと願っているのではないだろうかと思う。
自分自身すら覚束無いまま周囲に助けも頼りもない世界に放り出されたなら、切れた記憶の命綱を結び直したくなるのは当然ではないかと。
元々臨淵は、記憶の微かな面影しか残っていない【彼女】という存在と蒼姐に共通点を感じて、雨亭と蒼姐を引き取った。
それほど、臨淵は己の過去を求めているのだ。
同じく過去の記憶が朧気でも、持っていたはずのものを自ら擦り切れさせ、こぼれ落として行った自覚があり、特段取り戻したいと思っていない雨亭には、臨淵の想いの強さは測れない。
測れないが、臨淵にとって大切であるなら手伝いはしたかった。
尤も、臨淵の過去を知るらしい蒼姐は、「今はまだ語れないんですぅぅぅ」と言っている。
墓穴を掘りまくる割に、その点に関しては蒼姐は金剛石のように頑ななのだ。
「臨淵、それで、そのあとは?」
「自由になったからメヘラスで傭兵団に入って金を稼ぎ、ジャジラ、ラトレア経由で塵扶に渡ろうとしたら忌みものが発生したので、ジャジラでの討伐任務に参加したな」
「そこで鵲渡将軍と蘇貞くんに会ったりしてるんですよね。あれ?でも、そのあとラトレアで何かやらかして塵扶に転がり込んだって」
「ラトレアで、メヘラスの研究所の残党に見つかったんだ。俺の能力に執心していたやつで、またも捕らえようとしてくるから反撃したら……色々しくじって俺が逃げる羽目になった」
「全然やらかしてないじゃないですか!被害者百%ですよそれ!!……で、そのときの戦いで弱ったまま塵扶に到着したら、天魔に見つかって無理やり食客にされたと」
「……それはそうだが、お前たちに出会えたからその点に関してはいい」
「よかないですけど!?嬉しいですけどよくないですよ!さらさらするっと言ってるけど臨淵よく五体満足でしたね!?あなた、過去だけでスピンオフできるレベルですよ!」
わーぎゃーと蒼姐は叫び、雨亭は無言で臨淵の袖をつい握った。
少年と少女に挟まれた臨淵は微かに困ったように眉を下げる。
「……俺に関してはこんなものだな。蒼姐は……今は聞かないが」
「お気遣いありがとうございます……」
「雨亭、お前は?俺のように過去、誰かに追われたことはあるか?」
雨亭は、軽く首を振った。
「おれは胡陀様ぐらいです。魔教の前は街にいましたけど、別に何もなかったし」
「そこで生まれたのか?」
「そうらしいです。おれは、川の泥の中に落ちてたって聞きました」
「……捨て子、か?」
「きっと。引き取る相手もいなかったから、そのまま寺でお貰いの【泣き役】になって、大きくなったから別の街に流れたら、魔教に捕まったので」
概ね、そんなところだ。
ただ、全体的に彩りがない。
泥の中での眠りの記憶はあれど、出会った人の顔や名は、ことごとく薄れて消えた。
ぽつぽつと覚えている記憶を繋ぎ合わせるとそんな物語になるが、実感が薄いのだ。
あまり楽しいことがなかったから、頭が勝手に記憶を擦り切れさせてしまったのだろう。
蒼姐が恐る恐る手を上げた。
「あの、雨亭くん、【泣き役】って何でしょうか?」
「お貰いの中で、泣いて物を貰う役のことだよ。泣いてるちっさい赤ちゃん連れてたら、かわいそうだからって物くれる人はいるだろ」
「だから、赤子で捨てられていても飢えなかったのか」
「……多分?」
ただし、【泣き役】の赤子は泣いて同情を買う道具だから、食べ物に余裕があってもあまり食べさせてもらえない。
わざと腹を空かせ、泣かせる必要があるからだ。
仮に栄養が足りずに死んでしまっても、生まれたての赤子はどこかから手に入る。
そんなものだったのだ、雨亭の世界は。
と、雨亭は俯いた蒼姐がふるふると震えているのを察知した。
「蒼姐?」
顔を覗き込もうとした途端、がばっと蒼姐が顔を上げる。
「あー!もー!ほんと!二人とも!五体満足で!今まで!生きててくれて!よかった!です!……あっ。二人ともなんですかその微妙な目は!」
師弟は顔をちらりと見合わせてから口を開いた。
「嬉しがってくれるのは嬉しいんだけど……」
「俺たちの中で、一番五体満足から縁遠いお前に言われると……」
「あ」
五体満足どころか、五体が丸ごとない鬼火の少女に、二人は畳み掛ける。
「蒼姐、ほんと体どこに落っことしたのさ?死んでるわけじゃないんだろ?」
「拾える場所にあるなら、拾いに行きたいんだが。このままだと、雨亭がお前に食べてもらいたい料理の目録が増えるばかりで一向に達成されない」
「あっ、やばい矛先がこっちに向きましたっ!それについてはまたいつかっ!!」
一瞬で少女の形を崩して火の玉になった蒼姐は、雨亭の荷物に飛び込んで沈黙する。
最近、話の雲行きが怪しくなると蒼姐はよくこうなるのだ。
「……逃げたな」
「……逃げられました。……おれ、夕飯貰ってきます。あ、師匠は部屋に居てくださいね」
「……」
「一緒に来なくて大丈夫です!一人でやりたいので!」
「……わかった」
ぺこりと頭を下げて、雨亭は船室から廊下へ出る。
人が二人すれ違える広さの廊下は、静かだった。
乗客は、恐ろしい虚海を無事に渡れるように祈っているらしい。
祈る神を特に持たない臨淵や雨亭、祈る気がないらしい蒼姐が、どちらかと言うと例外なのだ。毎日虚海の見える甲板に出て、鍛練をしているのもおかしいと言えばおかしいのだとか。
神とは難しいな、と思いながら雨亭は廊下を曲がり。
「あっ」
角でぶつかりそうになって、後ろへ下がる。
見上げれば、そこには知らない少年がいた。
雨亭より何歳か上、レーニと同じ歳に見える金色の髪の少年である。
驚いたように立ち竦む少年の横を、会釈してすり抜けようとした雨亭だったが。
「あっ、ち、ちょっと待ってくれ!」
「?」
呼び止められ、雨亭は首を傾げる。
見知らぬ金髪碧眼の少年は、雨亭を見下ろして迷うように拳を握っていた。
どうしたのだろう、と少年の敵意のなさに雨亭も足を止める。
幼い顔に嵌め込まれた二つの瞳に見上げられ、少年は口を開く。
「あっ、あのさっ!……お、俺を、弟子にしてくれないか?」
薄暗い星の舟の廊下で、ぱちぱちと左右色違いの眼が瞬かれた。
3章、月神の国篇スタートです。
名前からばればれですが、モチーフ日本世界です。
あと師弟の共通点として【水から拾われた】が追加です。
弟子が川で、師匠が海です。
ちなみに雨亭が1話でさらっと寺を貶していたのは、このようにあまりいい思い出がなかったからです。
龍神いるのに寺がある理由は、この世界だと龍神信仰の解釈違い同士が分派して神殿派と寺派になったとしてます。
どう違うかは出せたら出します。