では。
結論から言って。
船員全員に神罰が下された星の舟は、無事に豊葦原の港へと辿り着くことができた。
受け入れたのは、都にほど近い
最初に舟を降りたのは、兎のように軽やかな足取りの銀烏。
次は疲労困憊して眠ってしまった弟子の少年を背負い、懐に小さな鬼火を入れた
最後に降りたのは妹の手をしっかり握ったソルで、マーニはそんな兄の手を握りながらも、眠ってしまった
「皆ようこそ、月と木々の神の世界へ!豊葦原はキミたちを歓迎するよ!」
故郷へ戻って来られた銀烏は最も元気であったが、船旅の後半、霊力や操縦技術を駆使することになった臨淵とソルは、正直まともに応えられる気力もあまり残っていなかった。
雨亭は、とっくに夢の中である。
当初の予定であった寄港地から大きく逸れた抱月港になったのも、船員が全員使い物にならなくなったからだ。
他の乗客たちは、唐突に下った神罰に恐れ慄き、ほとんど船室に引きこもってしまい、舵を取れるのがソルか臨淵ぐらいしかいなかった。
本来の予定地は海岸線が入り組んでいて複雑な操船技術が必要で、到底臨淵やソルでは泊められなかったのだ。
銀烏が再び港と通信を繋ぎ、行き先を変えてくれたからどうにかなった。
星舟が無事に接岸するなり、水流に気を張り続けた雨亭はぱたんと寝落ちし、ソルは操舵輪にもたれてしばらく動けなくなった。
風読みを担当し、少年二人を抱えたり半ば引きずるようにして舟から降ろした臨淵も、薄っすらと眼の下に隈ができている。
「今度船に乗るときは、船員の嘘を調べてから乗ろうか」
「臨淵が冗談言うなんて珍しいですね……」
「いやまったく冗談ではないんだが」
「おぅふ」
炎の障壁を張った蒼姐だが、雨亭に宣言したとおりに以前のような消耗はない。
少女の姿も取れるが、荒ぶる幽霊に対する反応は豊葦原も塵扶も変わりないため、ひっそり臨淵の服の影に収まっていた。
「本当にすまなかったよ!あとは任せてキミたちは休んで休んで!ボクの名前で宿を取ってあるからさ!温泉付きの一番ご飯の美味しい宿だよ!お金の心配はしなくていい!」
星舟に神罰を下ろした銀烏は、やるべきことがあってすぐには同行できないらしい。
が、絶対にまたあとで会いに行くからと約束をして、隣界からの客人たちを宿まで案内した。
「温泉ってなんですか、師匠」
そして宿に辿り着いた辺りで、雨亭も起きて、蒼姐は少女へ転じる。
敷物の畳の匂いを嗅いで目を丸くし、障子という紙でできた窓の外に広がる淡い水色と初夏の若葉に彩られた豊葦原の風景に見とれた後、はっと我に返った雨亭はそう言って首を傾げた。
「地面から湧き出した湯だ。火山の近くや火霊性が溜まりやすい地脈の周辺に湧き出る」
「自然にできたお風呂みたいなものだよ。俺も入ったことはないけどさ、傷を癒してくれるんだって聞いたなぁ」
「傷を癒す?」
「何でも、魔力に満ちてるやつとか薬みたいなやつとか色々あるんだってさ。ま、大概お金持ちが持ってて使えないんだけど」
「豊葦原くらいなものですよ。温泉が豊富で一般市民にも開放されているところなんて。塵扶にもありましたけど、あくまで治療用か修行用。秘境として隠されています。だから雨亭くんも知らなくて当たり前ですね」
臨淵、ソル、蒼姐にかわるがわる説明されて、雨亭は頷く。
舟の中で気絶した雨亭からすれば、目を閉じて開いたら別の世界に到着していたと言う有り様であり、豊葦原へやっとたどり着けたと言う感慨があまりない。
ただ、空の色が塵扶と違うのはわかる。
見慣れた空の蒼さより幾分か薄く淡い空は、こちらもこちらで美しかった。
この世界のどこかに、
と、そこまで思い至ってふと気になった雨亭は腰につけた鞄から宝珠を取り出した。
夜雷から預かった翡翠色の宝珠は、別の世界へ辿り着いても色艶に曇りはない。
が、手紙の宛先人の名前もわからないままなのだ。
夜雷はこの宝珠に書いたと言っていたが、さてどういうことなのかと雨亭は宝珠を空に翳す。
「うわぁキレイ!ぴかぴか!」
「マーニ」
ソルに嗜められるように名前を呼ばれたマーニは首を縮めるが、雨亭がぼんやりと黙っていると見るとにじり寄ってきた。
「ね、それ見てみてもいい?触らないからさ」
「いいよ」
雨亭が頷いたときである。
かっ、と宝珠が輝き、全員の目が一瞬眩む。
目を開けたとき、宝珠の表面には細かい文字がびっしり書き連ねてあった。
「……師匠」
「……ああ、一緒に読もう」
数ヶ月前まで簡単な字を数個しか知らなかった雨亭である。
習ったので普通の本なら読めるが、どうも宝珠に使われている文字と文法が古いのだ。
宝珠を差し出すと、覗き込んだ臨淵と蒼姐は目を細めた。
「夜雷からだな。どうやら宝珠を通じてある程度俺たちの動きを見ていたらしい」
「え、夜雷樣すごい!」
「見ていたからこそ、とんでもない情緒になってますよ。凡人は各々自分の力を顧みて安全な行動を取れ、だそうで。心配で落ち着かないからと。特に臨淵と雨亭くんに対してメッチャクチャキレてます。そのせいかド長文メールになってますねぇ」
「……」
遥かに離れた仙人にまで心配されてしまっていたのかと、臨淵も雨亭も気まずくなる。
蒼姐はふわふわと漂いながら、肩をすくめていたが、ソルとマーニの呆気にとられた顔に気がつき、二人の前へ降りる。
「わたしから説明しますね。実はわたしたち、豊葦原へはお使いでやって来たんです。塵扶の仙人のひとり、燕鳴仙君の夜雷という方の友人を探して手紙を届けに来たんですよ」
「仙人……え、仙人!?塵扶の守護神っていうあの!?」
「うむむ……彼らは神ではないんですが……まぁ、隣界目線だとそうなっちゃいますか……。……はい、そうなんです。あのぴかぴか光っているのは、夜雷から預かった手紙なんですよ。あんなふうに文字が出るとは知らなかったんですけどね」
「す……凄いことしてたんだな、君たちは」
「いいえぇ。実は今困ってるんです。手紙の届け主って五十年前から行方不明の人なんですよ。名前もまだわからなくって」
「えっ」
気遣わしげな顔になるソルであった。
一方、まだ宝珠を覗いていた臨淵は顔を上げる。
「宛先はわかった。
「え、胡?」
「胡だ」
「胡だよ」
「胡ですか……」
嫌な思い出しか無い名前の響きである。
龍眼について何か情報を持っていたらしい魔人は、そう言えば五十年は軽くあの姿で生きている。
もしや、という想像が頭を掠めて雨亭は眉を顰める。
手紙の宛先の人と関わりがあるのだとしても、胡陀は今、塵扶にいる。
早々現れないだろう。現れても困るのだが。
各々表情が暗くなる三人に、ソルが目を丸くした。
「ど、どうしたんだ?」
「胡って人と少しあったんだ。おれは二度と会いたくない」
「そうなの?こわいひと?」
「うん。怖い。マーニももし会ったら目を合わせたら駄目だぞ。目を取られちゃうからな」
「うん、わかったー」
「あ、扱いが完全に『悪いことしたら連れ去りに来るぞ』系お化け……まぁでも、胡陀だしいいですか……」
「そうだな。目を合わせたらなんて悠長は必要ない。気配を感じたらすぐ逃げるか俺を呼べ」
「はーい!」
にこにことマーニが手を挙げる。
蛍留と同じか少し歳上くらいの少女は、明るかった。何となく、夏の野原に咲いていた黄色い菜の花を思い起こさせる。
マーニは兄の膝によじ登って顔を見上げた。
「ねね、兄ちゃん。あたしたちここで今日はねていいんだよね?お風呂もお湯使っていいの?」
「うん」
「やったぁ!ご飯も?ご飯も兄ちゃんと食べられる?」
「食べられますよー。銀烏がお金ぜーんぶ払ってくれるそうですから、今日のわたしたちはお客さんです!」
イェーイ!と謎の掛け声とともに、少女二人は手を叩きあう。
蒼姐の手はマーニの手のひらをすり抜けるが、二人とも気にしていないのか顔は明るかった。
そんな二人を見て、ソルは臨淵たちに向き直る。
「あの、臨淵さん、蒼姐さん、雨亭」
「ん?」
「はい?」
「?」
「改めてだけど……ありがとうございました。本当に」
深々と頭を下げられ、少女と師弟は瞬きをする。
「あなたたちがいてくれなかったら、オレじゃどうにもできなかった。いくら言っても言い足りないけど、本当にありがとう。オレは絶対、この恩を忘れないよ」
気圧されそうなほどのソルの真っ直ぐな視線と言葉に、雨亭はもぞもぞと何となく臨淵の後ろに隠れる。
「あっ、雨亭くん照れてますね!かわいいです!」
「蒼姐!余計なこと言うなってば!」
「いいじゃないですか。でもわたしたちだって、ソルくんがいてくれなかったら舵が取れなくて多分座礁してましたよ。ね、臨淵」
臨淵は、軽く首肯した。
「俺たちこそ本当にお前の舵取りに助けられた。まさか、オロチを倒したら船員が全員いなくなっているとは思わなかった」
「あ、ははは……それはオレも予想外でしたよ……」
「びっくりしましたからねぇ。銀烏が祈ったかと思ったら、ぐわぁーっのメリメリメリィッて甲板が小さな津波みたいに動いて船員たちを捕まえちゃいましたから。ホラー映画かと思いましたよ……船内も結構阿鼻叫喚の大パニックでしたし。……ところで、臨淵が雨亭くんの前で無茶をしたという一件ですが」
「忘れていろそこは……!」
「お断りします!こっち来なさい臨淵!」
やばいなと、雨亭はそそくさ臨淵の影から出る。
絶対に逃さないとばかりに臨淵の首根っこ辺りへ浮遊した蒼姐に、雨亭は少し頬を緩める。
本当の本当に、臨淵が気絶して落ちてきたときは心臓が一拍休むかと思ったのだ。
大いに反省してほしかった。
同時に、きっと自分が指一本動かせずに扶桑樹から落ちて来たときも、臨淵たちはあんな想いをしたのだろうなと思う。
心配したと、あのとき蒼姐と臨淵から告げられた言葉の意味がようやく心の底にすとんと落ちた気がした。
「……」
「雨亭?どうかしたのか?」
「……別に。ただもっと強くならないとなって思った。心配、かけないように」
「……雨亭は今でも強いと思うけど」
「そんなことない。おれ、よくわかんないんだけど、平和な暮らしっていうのができない【天命】に生まれたみたいだから。だから、もっと強くなりたいんだ。ならなきゃいけない」
「……」
龍眼がある限り雨亭はそういう運命にあり、龍眼を失っても生命を落とす。
どうして自分がそんな運命に生まれたのかと言いたくなっても、答えなど無い。
そう生まれたから、そう生きるしか無いのだ。
だからこそ、大人になれるようにと願ってくれた蒼姐と臨淵に、雨亭は素直に応えたかった。
滾々と説教を食らわせている少女と、納得いかなさげな顔で説教を食らっている青年を見ながら、少年は改めて小さな拳に力を込めた。
蒼姐→青空
蛍留→夾竹桃
マーニ→菜の花
各ヒロインに対する雨亭の印象です。