赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他) 作:イリノイ州の陰キャ
ただ茫然と、迷はしき「愛」の衢にひとり立つ。
エツリ含めた先遣の見回りから得た情報で、討伐隊は大規模な調査を決行することにした。
エツリ等先遣の調査チームの調査で確認された死体は、非戦闘員二十八人、人外ハンター十六人、討伐隊隊員三人。いずれも後ろから奇襲され、斬殺。闇討ちの一撃で殺害された者と、何とか抵抗した痕跡のある者に分けられるが、切り口や犯行場所の類似性から考えると、実行犯は恐らく一人。という風に偉い人達は予想した。討伐体本部と協会の中枢が合同で人を出して調査した結果だ。それだけである程度の信憑に足る。
地上の駅口周辺、全て討伐隊の警備地域で起きている。すなわち人間の活動圏内であり、目を盗んで潜り込んでいる可能性を除けば、現場に悪魔は立ち入らない。
民間人が特に被害を受けているということで、本部も事態を重く見ており、各地域の隊編成に介入して調査隊を結成した。その調査隊にはエツリも含まれており……というか上野討伐隊は全稼働だ。現地の指揮権は本部から上野隊隊長に一部委譲され、治安維持及び下手人の捜索を統括している。
『厳重だね……』
エツリにしか聞こえない声音で、シルフが駅入口の関門を内側から見て嘆息した。外には小分けになったいくつかの列が並んでいる。右から上野外の討伐隊員、人外ハンター、そして非戦闘民の列になっている。要人や密使でない者等は、このようにして討伐隊のチェックを受け、内外を出入りできるのだが、今回は大規模作戦なだけあって人の入りが激しい。まるでどこかで見ているかもしれない敵に、軍勢を見せつけるように。
討伐隊の列から視線を感じ、エツリも入口の方を少しだけ眺めると、ふと興味が失せたかのように踵を返し、地下街へと戻ることにした。討伐隊同士の仲は良くない上に、待たされている連中がどんな風に思っているかなどは、考えたくもなかった。
『今日はなんか、凄いね』
彼女がそうこぼすのは、地下街の露店の賑わいであろう。LEDが生きている手前側では、食品や消費物を売る見慣れた店が並ぶが、薄暗い方に向かうにつれ、本物かどうかも解らない悪魔由来の呪物や、店主の方が客を選んでくる武器屋が並び始める。その間を縫うようにして商売女が何人も立っており、エツリも意味ありげな視線を何度も送られては、一瞥もしないことで拒否を表した。
エツリのことを知る元からの売春婦は、彼が横を過ぎても完全に無視をするか、何ならすれ違い様に小さな声で罵倒や舌打ちをする者もいる。守られている分際でこのような態度が取れるのは、エツリがそれを意に介そうとしないからだ。他の討伐隊員にそのようなことをすれば、次の日には上野を追われて地上に逃げ去るか、散々貶められた遺体が上野に上がることになる。自治を兼任する討伐隊が侮られる訳にはいかない。
彼の目的地はいつもの場所、すなわちハンター協会だ。調査隊の編成がどうとかで、三日前の市街調査からずっと、仕事は周辺の防備くらいだった。いい加減体が鈍ってきていたエツリは、せめて下のプラットフォームで寝続けるのはやめ、腹拵えだけは済ませておこうと考えていた。というか、そういう風に日々を送るのがもう三日だ。未だに外の行列は絶えない。
「…………」
協会の両開きの扉を開けたエツリに、ほんの一瞬だけ視線が集まり、すぐに霧散する。残ったのは注文を聞くために耳を傾けるマスターの視線のみだ。それも、エツリの白い鬼の面を見ると、いつものカタキラウワの肉であろうと決めつけ、汚れの取れない手元の食器に腐心し始めた。
カウンターの席に座ると、ピッチャーとグラスを勝手に取り、エツリはグラスに注いだ水を面の下から一気に飲み干した。薬品の匂いもこの頃はしない、その匂いを消す薬品が更に生まれたのだろうか。人には欠かせない水が、自らの寿命を縮めているような気がして、何だか面白かった。
『偶には他のもの食べればいいのに』
いつも不味そうに肉を噛みちぎっているエツリの様子を知るシルフは、一番安いメニューに拘り続ける彼に、そう漏らした。
『ほら見て、メイダの蒲焼きだって。昨日君がやっつけた悪魔の奴』
最近異常発生しているらしい。以前ガイア教が、近隣に被害を出していたとある悪魔を討伐したのだが、どうやらメイダにとっても天敵と言える悪魔であったらしく、それがいなくなった今、じわじわと数を増やしているようだ。上野にまでちらほらと見え始め、討伐隊員が時折狩ってくる。ハンターも討伐隊員も処理に困ったらとりあえず焼いて食べてみる、というのに慣れているので、いつも協会の盛り場には新メニューが並び、ひっそりと消えていく。
「いいよ……不味そうだし」
本当のところ、真の目的はこれではない。エツリとしては協会の中でどのような話がされているか、探っておきたかった。単なる暇潰しとしてもそうだが、この前の視線の主について、少しでも手がかりがないかを知っておきたかったから。
手を膝の上で組んで佇む彼の姿は、誰の目にも留まらない。歳若い彼ではあるが、討伐隊員としてはとっくに新米ではなく、ぺーぺーとか呼ばれる頃合いなので、こんな風にして協会に入り浸る姿は珍しくなかった。見慣れた景色の中では、誰しもつい口が軽くなる。普段は不気味なガキだと嫌われるエツリを横にしても、それは変わらない。
「ラージクロックだとよ……」
焼き肉の皿を待っている間に、弛緩した空気の中から声が聞こえてきた。
「ラージクロック!? お前それガセじゃないだろうな!」
「馬鹿! 声がでけぇよ!」
(ラージクロック……?)
「確かな情報だ。俺達だけで殺して奪おうぜ。そうすりゃ大金持ちだろ!」
「アホか。そんなシロモノ使える奴、俺等なんか瞬殺だろうが」
メモはできない。いくら平時とはいえ、誰もが本来の警戒心を忘れてはいないのだ。とにかくラージクロック、という文言を頭に刻み付けた。曰くありげなものには近付かないのが吉だ。死にたくなければ。
そうこうしているうちに、見慣れた肉塊がカウンターに雑に置かれた。その傍らにはいつもの合成調味料も。調味料の瓶には一切触れず、エツリはフォークと歯で噛み切って肉を分け始めた。
この瓦礫の山の中で、雷門は依然として二の足で立ち、往来に立ちはだかるでもなく、ただ足下を見下ろしている。流石に大提灯は外されていた。今は討伐隊の本部のどこかに保管されているという。
エツリは広場を練り歩き、瓦礫を拾っては放り投げ、ひたすら油を売っていた。元々観光地であった浅草は、東京がこんな風になってからいち早く荒らされ、建物の損壊の工合も激しいということで、人間の生活拠点としては使われていない。悪魔の影も少なかった。いくら生態に謎の多い悪魔と言えど、生体マグネタイトが見込めない場所には長居しないようだ。
遺体が見つかったのはいずれも駅周辺とそこからやや南、そして自然公園の辺りだ。上野駅の東にある浅草は、現場の裏側と言ってもいい。彼等のような末端は、こうした事件と関連の薄そうな場所の任務を任される。言い方は悪いが、どうせ証拠やら犯人が出なさそうな場所にダメもとで送られている訳だ。
エツリからすれば危険な任務から外されて幸運だが、それにしてもあまりに生き物の気配がしないので、時間を余らせていた。
『バッタだね』
「ホントだ」
エツリは偶に足下によってくる虫やら猫を相手にしては、あくびの拍子に逃げられるというのを繰り返していた。全般的に生物に好かれやすいといえば聞こえはいいが、ナメられるので、こうして色々近寄ってくる。悪魔にしてもそうだ。本当に弱いのであながち間違ってはいないが、エツリは勝手に動物に好かれやすい体質なのかな、などと勘違いをしていた。
石畳を跳ねて去るバッタを見送りながら、もう何度目になるか解らない大あくびを手のひらの裏に隠した。
「暇ー……」
『そうだねー』
シルフはどことなく上機嫌だ。戦いから離れているこの一時が嬉しいようであった。平和それ自体にはエツリも異はないと言うべきか、歓迎しているが、こうも閑散とした場所に二人残された状況というのは、あまり好ましくなかった。
「あれ、なんか……なんだろあれ」
頭の上に座るシルフが落ちないように、エツリはゆったりと身を乗り出すと、そこそこ自慢できる動体視力によって、視界に覚えた違和感を探り始めた。
20メートルも先の雷門の釘目を見分ける程度には目がいい、それ使いどころないだろというくらいには無駄に目がいいエツリは、こういう時は特に目敏い。何か黒い点が、通りの方で左右に動いているのを見つけた。
『ん? あれ……何だろ、生き物だよ』
敵意は感じないのか、シルフはエツリの頭に腰かけたまま足を遊ばせ、のんきにそれを見つめていた。油断しているうちにその黒い点は次第に大きさを増していき、こちらに向かってきていることに気付いた時には、既にエツリが立ち上がることもできないほどに距離を詰められていた。
「わっ……はぷっ」
エツリの顔にモップのようなゴワゴワした繊維質の塊が飛び込んでくる。巨大な黒い毛玉はそのまま彼を押し倒し、体を頬に押し付けて撫で擦り始めた。エツリの目から何が起きているのか全く解らない。当然だ。顔を完全に覆われているのだから。
『犬だ』
シルフは咄嗟にエツリの頭から飛び立つと、ベロベロと顔を舐められる彼を助け起こそうともせずに、目を丸くしてその様子を眺めていた。
エツリも大概小柄な方だが、それをしてこの犬は巨大だ。いわゆる大型犬に属するものだろうか。それにしても毛が長すぎて顔が見えない。その顔の隙間から器用に目と舌を覗かせて、エツリの鼻をチュパチュパと舐めている。
「なんで、犬っ……?」
エツリは宥めすかすような声で犬に呼びかけながらも、なんとか体を起こそうとした。だがこの黒犬、めちゃくちゃ力が強い。大口開けて甘噛みでエツリの頭をはぐはぐと噛み固めてみたり、体を擦り付けて隊服を毛だらけにしたりとやりたい放題だ。
シルフは引き剥がすべきか迷っていた。エツリが困っているとはいえ、悪意はない。というか二者の様子が微笑ましくて、何か手を加えたくない気分になっていた。彼の手はシルフの方に助けを求めるように伸びていたが。
「ちょ、たす、助けて……」
『いいじゃん。かわいいし』
シルフは身動きの取れないエツリを助ける素振りも見せず、その小さな手で黒犬を撫で始めた。大人しく撫でられている犬の様子は利口で、へっへへっへと小うるさい呼吸音の合間に、なんとか逃れようとするエツリを油断なく見つめていた。そして彼が少しでも腕を抜け出したりすると、すぐに押さえ付けてベロベロ舐め回してくる。もう顔中が獣臭くて仕方なかった。
「なんなのこの犬……」
一頻り舐め回して満足したのか、黒犬はエツリを解放すると、尻餅をついた彼の横にぴったりと身を沿わせ、腰を落ち着かせた。しかし尻尾は落ち着かない様子で、左右に揺れる先端がぱしぱしとエツリの顔を叩く。
『何だろうねこの子。迷子かな』
「なん、なんだろ……いてっ。ちょ、それやめ、尻尾やめろ」
『よしよし。かわいいね』
シルフが撫でる素振りを見せると、黒犬は自ら頭を差し出すかのように顔をそちらに向けた。お利口だねぇー、なんて言いながら頭を撫でる彼女は、やっぱり上機嫌だった。
「わんこ、どっから来たの?」
エツリの質問に、黒犬は首を傾げるばかりだった。そりゃそうだ、と思いながら、エツリもシルフを真似て、犬の頭を軽く撫でてみる。目を細めて撫でられる犬の口元からは舌がだらしなく垂れ下がっており、それが呼気と鼓動で上下に揺れている。
エツリが試しに右手を出してみると、黒犬はぽん、とその上に自らの前足を置いた。少し間を置いて、今度は左手を出してみると、やはりぽん、と前足を置いてみせる。
『おぉー……お利口さんだね』
「野生じゃないよな。やっぱり迷子?」
褒められているのが解るのか、黒犬は嬉しそうに尾を一振りした。二人は暇していたこともあって、この賢い犬に夢中になっていた。
黒犬はエツリをしばらく見つめた後、急に落ち着き払った態度になり、とことこと雷門の方に歩いていく。そして10歩ほど歩いたところで振り返り、尻尾を二度三度と振ってみせた。まるで彼等に方向を示すかのように。
『着いてこいってことかな』
「言ってみる?」
犬はその場から動かない。そればかりか、彼等が着いてくるのを催促するかのように、その場で両前足を上げて、頻りに地面をとんとんと叩いていた。
『行こっか』
任務はあってないようなものだ。それに、仲見世通り方まで行けば、あるいは何か見つかるかもしれない。事件の手がかりでも、有用な遺物でもいい。彼等が腰を上げ、のろのろと着いていくと、黒犬は速度を合わせて跳ねるように先行し始めた。
仲見世通りに立つ左右の店は、全てひしゃげているか、酷く荒らされていた。足下に散乱した土産物の残骸や瓦礫が、犬の足を切ったりしないかと冷や冷やしながら見ているが、エツリ達の心配などどこ吹く風、黒犬は器用に危なげな破片や礫を避けながら、軽快に進んでいく。
神仏にゆかりのある場所は大抵、ガイア教の連中が拠点として押さえているが、ここは手付かずだ。これだけ広い場所に奴等が居を構えないのは、地下がないので悪魔から身を隠すのには適していないというのが一つの要因だろう、異物も見ての通り荒らされ放題の様相で、あまつさえ上野は、弱小の上野討伐隊のみならず、本部が睨みを効かせている。新宿や渋谷と同様、他勢力が気軽に足を踏み入れられないようになっている上に、拠点としては使いにくいここを奪取しようとは、連中も思わなかったようだ。
『♪〜』
お陰で道中も静かなものだった。シルフは機嫌良く鼻歌を歌いながら、時折エツリの肩に収まっては休まり、また飛び立つを繰り返している。
「どこに連れてかれるんだろ」
『あの子の他に沢山わんちゃんがいたりするかもね』
「そうだったらいいな」
地上の動くものは八割方敵である東京において、こんな風に友好的な動物は珍しい。特に気ままな猫などは、時折悪魔が愛玩用として捕獲していたり、ちらほら人間の地下街を我が物顔で練り歩いていたりするが、犬は珍しい。人間に従順なものは悪魔に殺されるか、食うに困った人々に焼いて食われるかしてしまったから。魔法の使えない犬など、番犬として戦力にするにも難しい。熊に立ち向かえる猟犬すらも、悪魔の前では虫を払う動作でついでに除けるような存在だ。
(吠えないな)
ダイナミックに甘えてくる割には、全然鳴き声を発しない。シルフは歩く度に左右に振れる尻尾に夢中だった。
黒犬は結局、仲見世通りを完全に突っ切ると、常香炉の前までやってきた。
「結構歩いたけど……」
『奥まで来ちゃったね』
傾いた常香炉をかりかりと前足でかくので、彼等はその仲を除いてみる。中には堆積した香の灰が積もっていた。
エツリは一瞬の躊躇いの後、意を決して灰に手を突っ込み、中を探ってみる。奥の方で指に硬い感触を覚え、灰をかきわけると、何か長方形の物体を掴んだことに気付いた。
「これ……」
エツリは黒い箱を灰の中から取り出すと、付着した煤を取り払って、蓋を開けてみた。すると、布に包まれた黄色い結晶のようなものが中から出てくる。
「ぎゅっ……! 牛黄丹……か……!?」
効力のほどは脇に置いて、金丹より牛黄丹のほうが、高値で取引されている。というのも流通する数が少ないため、実際に戦闘や悪魔召喚で入り用になるハンター等の需要をすり抜け、好事家の蒐集癖を満たしてくれるようだ。絶滅したものだとまことしやかに囁かれている牛の、更に希少な結石。
生体マグネタイトと組み合わせることで、現代でも有効性を発揮することが知られている錬金術には、希少性という意味での価値はない。卓越した錬金術師ならば、それこそエメラルド版に書かれているようなことが成せるのが、この東京での常識だ。それを思えば、錬金術で生み出せない牛黄丹は、今あるものがなくなれば終わりの超貴重品。ハンターならむしろ、金丹の値が割れていることの方がありがたいと思うのは、曲がりなりにも戦闘職に就いているエツリには容易に想像できた。それでもエツリには手の届かない高級品だが、牛黄丹の売値よりも買値が低いという状況だ。
時価だが、牛黄丹の平均的な相場をマッカで換算すると、大体5万マッカ。協会の安い飯だけで食い繋ぐつもりなら、一年と二ヶ月程度は仕事をしなくてもよくなる。
『え゛』
「本物だ、これ……」
なぜこんな場所に牛黄丹が、とか、なぜこの犬がその在処を知っているのか、とか、疑問は端から様々だが、これを見つけた当の本人は何も解りません、みたいな顔で首を傾げている。
「こ、これ、貰っちゃっていいのか!?」
『え、ど! どうしよう……!? で、でも! 持ち主解んないし! ここ、一応管轄内だし……!』
予想だにしなかった掘り出し物を手に、二人して大慌てでその扱いを考え始めた。慌てふためく彼等の様子が面白いのか、黒犬もはしゃぎ回って彼等の足下にまとわりつく。
『ここほれわんわんだ……』
エツリは飛び乗って顔をべろべろ舐めてくる黒犬を抱きかかえて、その背を撫で下ろした。とんでもないシロモノを見つけてきてくれたものだ。これで装具を新調し、適当な仕事で繋いでいけば、殆ど安泰を得られたようなものだった。
「すごいなこのわんこ。何モンなんだ……」
大人しく抱き抱えられている黒犬の毛をかき分け、顔を見てみると、その口元はだらしなく垂れ下がっており、更にその中からだらしなく舌が垂れ下がっている。見た目だけ取れば聡明さのかけらもないが、エツリ達の言葉を理解しているような時がある。そう思うと今度は全く犬らしく奔放で、言うことを聞かないような一面もあり、判断に窮する。
「厳密には、それは犬じゃない」
不意に、意識していなかった方から声がかかる。エツリ以上に気配を見分けるシルフが、この至近距離に迫られて感知すらできなかった。思わず刀に手をかけそうになるも、胸を占領する犬が邪魔で腕が回らない。
「ガートドッグ。私の仲魔だ」
癖っぽい赤毛を肩の上に揃えた人物が、黒犬を手招きした。エツリがいくら呼びかけても顔を舐め回すのをやめなかったのに、その人の呼びかけには素直に応じ、千切れて飛んでいってしまいそうだった尻尾も落ち着きを取り戻す。そのままゆったりと足下に戻り、その膝にまとわりついた。
『ワン!』
その時初めて犬の鳴き声を聞き、エツリは納得した。確かに声から感じる魔力の質は悪魔のそれだ。よくよく観察してみると、その黒い毛の隙間から神聖な雰囲気を醸しており、人を制圧してしまう力の強さも頷ける。
「悪魔、だったのか……どおりで……」
「この子は滅多に他人に近付かないんだが……珍しい。ましてやここまで気に入られたのは、私を除いて君が初めてだ」
『うわ、すっごいイケメン……? あれ、女の人?』
端正な顔立ちはどちらの性別をも思わせるが、服に収まった胸の膨らみと、発色のいい唇の瑞々しさが、どこか女性然とした雰囲気を醸している。
いかめしい黒色の軍服に身を包み、軍刀と拳銃を腰に伴う姿は、討伐隊とは違った意味で職業軍人のような佇まいをしており、柔らかな表情に反して、迫力がある。
「この様子だ。想像だにしなかっただろうが、これでも聖獣に属する部類の悪魔なんだ。普段はどうも言うことを聞かなくてね。戦になれば話は別なのだが……」
エツリは既に刀から手を離していた。彼女から敵意は感じられず、またシルフも全く警戒を解いていたので、敵対する必要もなかった。何より、彼女は雰囲気で解る実力者だ。下手に機嫌を損ねれば、まばたき僅かな瞬間にでも首を斬り落とされそうな威容を発していた。
「お前のことを言っているんだぞ?」
『ワンっ!』
「解っているんだか、いないんだか……」
どうやら聞かん坊具合は、エツリに対して特別そうであったという訳ではないようだ。女性はその場に座り込み、ガートドッグの顔を手で包んで言い聞かせてみるが、その緩んだ口元に緊張感が宿ることはなかった。むしろ構ってくれるのが嬉しいのか、そのまま前足を肩に乗せて躍動感あふれる甘え方をしている。彼女は呆れ気味でガートドッグを抱えながら、その背を撫でて落ち着かせた。
「あぁ、すまない。自己紹介が遅れた」
すっかり毒気を抜かれていたエツリ達であったが、立ち上がった彼女に武人としてのオーラを感じて、またも萎縮させられることになった。全く無防備な体勢であるのに、刀を抜く隙がない。そのつもりがないことを差し引いても、敵う気がしなかった。
「私はM。〝
敵意のない笑顔が恐ろしい。エツリは声を出せなかった。彼が息を呑む音が伝わってきたのか、Mは笑顔を崩さないまま、困ったように眉を寄せた。
・ガートドッグ
聖獣ガートドッグ。グレートドッグとも呼ばれる。サマセットにおける民間信仰。深い森の中に遊びにくる子供達を見守っているとされる。あるいはあてのない旅行者の旅路を助け、危険と悪意を遠ざける。
・牛黄丹
牛の胆のうに生じた結石。古くから生薬として重宝される他、精神に干渉する魔法や呪いを打ち消す効果もある。生物由来で、錬金術で作り出せない物質の上に、その錬金術では触媒として用いられる場合があるので、非常に希少。好事家の間では相当高値で取り引きされている。
魔獣にするか聖獣にするか迷った。チャーチ・グリムだし神聖な感じかな、ということで。
愛玩動物は意外と生きてます。特に猫。当然数は相当減りましたが、絶滅はしていません。