赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他) 作:イリノイ州の陰キャ
前回のあらすじ
わんこに懐かれる。わんこの飼い主の赤毛の超絶美形イケメンおねいさんが登場。
(ゴシップ……?)
エツリは頭の中を引っ掻き回して、拙い英単語の知識を探るが、ゴシップとMとに如何なる関連性があるのか皆目検討が付かなかった。ただ彼女の表情に動揺した様子はなく、この名前を言い慣れていることが窺える。
「M、と呼んでくれ」
中世チックの黒い軍服に身を包んだ女性は、薄い笑みを崩さず、努めて威圧感を軽減しようと試みていた。普段から他人に怖がられることが多いのだろうか、あるいは友好的に見せかけようとしているのかもしれない。所作にも一々気を遣って、敵意がない雰囲気を演出している。逆に言えば、それだけ注意しているにもかかわらず、Mから感じられる能力の高さのようなものは、それだけで一握りの部類であることを察知させられた。
「一応、協会に認可されたハンターだ。一応というのは……最近はあまり仕事を取っていなくてね。今日も個人的な用事で上野に来ていたんだ」
『あっ……』
彼女は話しながら携帯を操作する。ガートドッグは召喚を解かれ、自らの守護する何処かへと還った。シルフがエツリにしか聞こえないような小さな声で、残念そうな声を漏らす。どうやらあのわんこが相当気に入ったらしく、彼女も透明化を維持したまま、興が冷めたかのように召喚を解いてしまった。
「個人的な用事というのは、まぁ珍しくもない……」
そう言って彼女は腰を横に揺らして武器を示してみせる。彼女の腰帯には、年季の入った軍刀が差してあった。儀礼用ではない。装飾の類は鍔と柄頭にかかる刀緒のみで、しかも意図的に紐の長さが短くされている。彼女が体重を乗せる足を入れ替える度、腰で拳銃と当たってかちゃり、と鳴り、エツリの背筋に汗が流れた。
「隅田川の向こうから来たんだ。普段はあちらの協会で管を巻いているばかりだが……」
橋が軒並み倒壊して以降、上野から隅田の方に行くには、北方面へ大きく迂回しなければならない。あるいは悪魔の力を借りて川を無理やり突破したのかもしれないが、どちらにせよ一人でそのような芸当ができるハンターは、人外蔓延るこの魔界でも数えるほどしかいない。それに一瞬で気が付いて、エツリは戦慄した。
「私の知り合いがその男に殺された。いわゆる仇討ち、という奴だ」
ここまでのゆったりとした話口調の中で、エツリが口をは挟める余地はなかった。彼女にそのつもりはないとはいえ、余裕のある佇まいには畏怖の念を禁じ得ない。比較的悪魔の少ない場所とはいえ、まるで地下街で眠る非戦闘民のようにリラックスしている。この場には自らに敵うものなど何もないと、はっきり解っている者の振るまいだ。
ここで急に表情を転じて、彼女は手のひらを開いてみせた。努めて気さくな雰囲気を演出しようとしている感が、かえって彼女の強者としての〝ズレ〟を増幅させた。あるいはその振るまいからして、彼女には本当に害意がないとも受け取れる。
「君は……討伐隊員か」
顔を隠していることや、討伐隊の特徴である冷暗色の迷彩服を見て、彼女はそう判断した。討伐隊の隊服は、戦闘能力があるという一種の威嚇であり、またそこに所属しているため、ちょっかいを出せば組織を的に回すことになるぞ、という威嚇でもある。彼の姿はコテコテというべきか、恐らく大多数の想像に漏れない〝討伐隊員〟であった。
「名前は?」
「え、エツリ、です」
「そうか…………少し歩かないか? 話がしたい」
蛇を前にした蛙が動けなくなるように、強者を前にすれば、自由意志とかいうものはたちまち泡沫と消える。エツリはただ頷くしかなかった。
「……そうか。上野は今、そんなことに」
エツリはMに先導される形で、来た道をゆったりと戻る途中であった。上野の惨状を軽く説明すると、彼女は露骨に顔を渋くして、呼気を多分に混じらせた声で嘆いた。
浅草はいつも閑散としているが、今日に限っては彼女の怒気を悪魔が察知したからだとすら思わされる。エツリは隣を歩きながら、内心酷く萎縮していた。どうやらMは意識していないようだが、その無意識の中ですら隙がない。
「困ったな……日銭を稼ぐために、しばらくは上野を拠点にしようと思っていたんだが」
嘘だ、とすぐに思った。この実力があれば、少し討伐依頼をこなすだけでも相当な身入りがあるはずだ。上野への道中のために何日か稼げなかった程度で、路銀が尽きるようには思えない。あるいは彼女が本当に仕事をほぼしておらず、その日暮らしの緩慢とした毎日を送っているのなら間違ってはいないが、それで実力を保っていられるのかは、疑問だった。
「あの、今上野で暴れてる奴が、M、さんの追ってる復讐相手とか、なんすかね……?」
「敬称はいらない。M、でいいよ。それはそれとして、質問の方に関しては、正直何とも言えないな」
「と、いうのは?」
「私の知る奴は、個人としては弱い。そも、贅に浴したあの醜い体躯では、走ることもままならないだろう」
上野の雑魚討伐隊とはいえ、悪魔召喚や魔法が使える相手を、肥え太った者があの手際で殺害できる訳がない。一度の調査で発見された被害者数やその位置からすると、下手人は上野中を普通二輪並みの速さで爆走しているであろう奴だ。彼女の話が本当ならば、別の人物ということになる。
しかし、彼女の追う人物と、上野で殺人を繰り返している奴とで、何らの関係もないのだろうか? なぜ騒乱中で警備の厚い上野にわざわざ逃げてきたのか。全域調査隊が編成されるまで三日間もあった。その間に情報は墨田区にも伝わったはずだ。そうでなければ、墨田区から応援の討伐隊が来ている事実がおかしい。
この混乱に乗じて身を潜めようというのもやはり、現実的ではないだろう。戦闘力のない者が討伐隊の目に付かない地上をのこのこ歩いているなど、件の殺人鬼に襲ってくださいと主張しているようなものだ。
それに……。
(この人……)
嘘は言っていないが、あえて語っていないことがある。それは単に言う必要のないことか、意図的に隠しているかだが、前者ならばそもそも、復讐の旅であることを言う必要もない。彼女は上野討伐隊から何らかの情報を探ろうとしていて、彼女の持つ情報は、言うなればその撒き餌にしているのだろう。
すると、エツリの言葉にも自然と警戒が見え隠れし始める。隊の不利益になるようなことを口走れば、回り回って自身に降りかかるかもしれない。そんな彼の警戒を察知したのか、Mは少し慌てた様子で弁解した。
「あぁ、いや、討伐隊をどうこうしようという意志はない。ただ、この辺りに詳しい者の意見を聞いてみたくてね……」
エツリは彼女の言葉を額面通りに信じるつもりはなかったが、一応頷いてみせた。自然体で垂れ下がった彼女の腕が、その状態からでもエツリより素早く刀を抜くことができるというのを、半ば直感的に把握していたからだ。とにかくMの歩調に合わせ、この場を切り抜けて逃げ去る算段を必死に考えていた。
「……なぁ、隊員君。君は何か、勘ちが――――」
Mが何かを言い終わるより先に、エツリはまるでポップコーンが弾けるように身体を開き、周囲を見回した。完全に敵対者の色がする生体マグネタイトの筋を、視界の端に収めたのだ。
エツリが突然周囲を警戒したのをきっかけに、Mの目が細まる。エツリのように生体マグネタイトを肉眼で目視する、半ば裏技じみた方法ではなく、培ってきた経験則と感覚のみで、エツリより詳細に異変を察知してみせた。
「そこかッ!」
Mは全く躊躇なく拳銃を取ると、エツリが反応する間もなく発砲した。
「なっ……!」
銃撃は縁石を抉り、小さな礫が発射角に対応して斜めに飛び散った。明らかに魔力が込められた弾丸だ。車や薄い壁板を抜くのとでは訳が違う。通常のニンゲンが頭部に食らえば、スイカのように爆発四散してもおかしくない威力だった。
『チチチチッ……!』
物陰から複数の悪魔が姿を現す。蛇の体に六本の昆虫の足。ヨーウィーとか呼ばれる悪魔の群れだ。家畜や人肉を喰らい、普段は暗がりに潜むという。東京は電気の通っている地下以外はいつでもどこでも薄暗がりなので、闇に紛れる悪魔にとってはオアシスみたいな環境だ。だからこういう悪魔が群れを増やしていく。
「妖虫共か……」
「いつからこんな……!」
こんな人気のないところに、戦いを嫌う訳でもない悪魔が群生していることには、少し違和感を覚えた。縄張り争いに負けたりでもしたのだろうか。あるいは……などど考えているうちに、六匹ほどのヨーウィーが暗がりから出てきていた。
「くそッ……!」
多勢に無勢ながら、エツリは刀に手をかけた。新調して刃渡りも正常に戻っているのに、この悪魔の物量を前にすると、てんで頼りない風に思えてくる。彼は鬼面の下で鬼えくぼができるほどに顔をしかめ、刀を引き抜こうとする。
その柄頭を、Mが手で押さえた。エツリは驚愕と怒りによって勢いよく彼女の方を振り向いたが、その表情に彼を騙そうという意思や悪意は見受けられず、むしろ鼻につくほどに自然体だった。
「何を……!」
「止め方が手荒になったことは謝るよ。隊員君、ここは任せてくれないか?」
彼女はエツリの方を見ずにそう言った。その視線は前方の悪魔の群れに釘付けになっており、路面の窪みに薄らと薄氷が張るような、それをそれと思わせない警戒心を醸していた。銃を持った左手も、刀に添えられているべき右手も、どちらも地面に向かって垂れ下がり、まるで力を感じない。なのに、彼女よりも早く攻撃をしかけられる存在がこの場には一つもないように感じさせるのだ。普通に考えれば今にも食い付いてきそうなヨーウィーか、エツリこそ急先鋒足りえるであろうに。
「私一人で事足りる」
彼女は自信満々というべきか、まるで公然の事実を話すかのような口調で言いのけた。そして緩慢な動作で銃を持ち上げると、先手を取ろうとしたヨーウィーの一匹の頭を的確に撃ち抜いた。頭部から哺乳類にはあり得ないドス黒の血が弾け、その歪な体が地面に伏せる。どさり、という重量感のある音が嫌に水っぽくて、エツリは面の下で眉をひそめた。
そこからは、彼女の笑みよりも印象深いものはない。全ての動作に特別な技術とか、秘伝の技みたいなものは見えなかった。ただそれだけを以て、悪魔を蹂躙し始めた。
「軽いな」
撃ち殺された個体を壁にして接近していたヨーウィーは、前脚を振り上げてのしかかりを試みた。しかしMは一歩の移動と刀の振りで完璧にいなし、その上両断してみせると、石畳に足跡を付けるほどの脚力で一気に群れに近付き、残り四体の処理にかかる。
動揺している一体にジャンプした状態から前蹴りを喰らわせ、その衝撃をブレーキの代わりにした。吹っ飛んでいったヨーウィーには目もくれず、頭を引いて飛び出す隙を窺う個体を注視する。三方を囲むように立つヨーウィー達は、彼女が見ていない方向から噛みついてやろうと背を狙うが、やはり一歩で軽々と躱わされ、無防備に突き出された首を下から斬って離される。
そこでようやくヨーウィー達は恐怖を感じたのか、蹴り飛ばされた仲間のところまで後退し、人類の耳には聞こえない周波の鳴き声で威嚇し始めた。
「うおぉ……」
蛇のような胴を持つヨーウィーであるが、その肌の質感はワニにより近い。そしてほとんどの悪魔に言えることだが、自然界のどの動物に似ているかということと、悪魔自体の頑強さに関連はない。この悪魔の肌は分厚いゴムのように硬く、並みの使い手では武器の方がイカれてしまう工合なのだ。それを、彼女はまるでカタキラウワの肉を切り分けるかのような手捌きで二分してしまう。
「こんなものか……」
そう呟くと、彼女は刀を持った右手を降ろし、代わりに銃を差し向ける。ヨーウィー達は自分達がむしろ不利な間合いを作ってしまったということに、今更になって気が付き、一体の果敢な個体を前にして突撃してくる。
「すまないな。少し試しておきたかったんだ。上野エリアの悪魔の強さを」
まだ三体は現在だと言うのに、彼女の中ではもはや終わったもののようであった。その証拠に、三度の銃撃音をして、三体の妖虫の死体が転がることとなった。一体の撃ち漏らしもなし、無駄な弾の消費もしていない。
「…………」
自分達より頭数の多い悪魔を相手にしてこれだけ冷静に、しかも必要最低限で制圧できる実力の持ち主は、エツリの知る中では一人もいない。もちろん上野の隊長もこの程度の悪魔の処理は余裕だろうが、自ら手を下すよりは、仲魔に命令して一掃するタイプだ。
ハンターの使役する仲魔ではなく、ニンゲン自身が脅威的な戦闘能力を有している、ということは案外少ない。強力な悪魔を使役できている時点で、言うまでもなく並ではない実力を備えてはいるものの、自ら矢面に立って戦おうという者は少数派だ。
「時間を取らせた。さぁ、戻ろう」
彼女の戦いぶりを呆けて見ているだけだったエツリは、いきなり話しかけられてすぐには応答できなかった。
「あ、はい……あれ」
彼は返事をしながら、前方にヨーウィーのものではない血液の筋があることに気が付いた。見慣れた赤色。自分や、恐らくはMにも流れているものと同じ赤い血が、薄白い石畳に染み込んでいた。
「人の血……?」
「ん……? 確かにこれは、少なくとも妖虫の血ではないな……辿ってみよう」
強者故か、シルフなら絶対に早まるな、と言って留まらせる選択を、Mは全く迷わなかった。当然賛成であるエツリも口を挟まず、彼女の後に付いて仲見世通りを横に逸れる。ここからは崩れた土産屋に代わって崩れた民家が並ぶようになり、家屋の名残であろう木片や、衣服の名残であろうボロ切れが多量に散乱している。彼等は足下に注意しながら、途切れ途切れの血の跡を追って、路地を更に進んでいった。
「あれは……」
目のいいエツリが最初に、家屋が傾いて暗がりになっている場所に背をもたれる一つの影を見つけた。彼の一人言を聞いたMが、自身はそれを視認していないにもかかわらず走り出す。慌ててその背を追いかけ、エツリも全力で走る。そのせいで急に立ち止まる彼女を避けきれず、背中に面をぶつけてしまった。
「あだっ……」
「あ、すまない。あぁいや……それよりこれを見ろ」
そこには、朦朧とこちらを見つめる一人の男が横たわっていた。意識はあってないようなもので、見知らぬ者が二人近付いてきているというのに、武器をとる素振りも、警告を発する力もないようだった。
Mが血の流れている彼の腹部の服を裂くと、そこには異常に綺麗な切り傷が横に走っていた。他に傷はなし。金品や装備を盗まれたような形跡も見当たらない。
切り口からして、ヨーウィー達の仕業ではない。奴等の足で付けられた傷はズタズタになるし、他に攻撃手段と言えば噛みつき。刀傷ができる訳がない。
「武器を持った悪魔の仕業か、あるいは――――」
同じくニンゲン……ひいては、現在上野を騒がせている連続殺人の犯人だ。そしてエツリとしては、悪魔の仕業という線は薄いと予想していた。というのも、悪魔が人を殺す時には、もっと場は惨虐な有様になっている。人間から生まれる喜怒哀楽、戦いによる興奮や恐怖を増大させ、より多くの生体マグネタイトを得るため、あるいは屍肉を食うという側面もあるが、悪魔という一括りで考えて、奴等は遺体を必要以上に損壊させたがる。
だが、この人物はそうではない。エツリが見た隊員の遺体と同じだ。一撃離脱。人を襲った後のものこそが目的の悪魔が、辻斬りのような真似をするだろうか?
「とにかく処置を……何か、くッ、こんな時に限って……!」
Mは手持ちを漁って、何か傷を癒せる術を探しているが、何も見つけられないことに苛立っている様子だった。彼女が手当をしようとしたのを見て、ようやく自分がすべきことを思い出したエツリは、彼女の隣に座り込んで携帯を操作する。
「シルフ!」
『――――いいの?』
「頼む」
精霊の登場に驚いたMを尻目に、彼はシルフと協力して回復魔法をかけながら、腹部を布越しに木の板で圧迫して止血を試みる。こうした部位は結んで止血ができないので、継続して圧迫し続ける必要がある。
「どうだ……?」
『駄目……! これじゃ……』
エツリとシルフの懸命な処置は続いたが、男の蒼白な表情に生気が戻る様子はない。段々と目蓋が降りていき、正常だった息遣いが死戦期呼吸に変わり始めていた。
「寝かせるぞ……Mさん、足持って」
「あ、あぁ……!」
固唾を飲んで見守っていたMは、エツリに言われるがまま足を持ち上げ、男を深く壁にもたれた状態から完全に横たわった状態に変える。エツリは男の頭の下に背負っていた雑嚢を敷き、Mに傷口を押さえる役を代わるように促した。
「救命処置を心得ているのか?」
「隊のっ、研修でっ、ちょっとだけっ……!」
心臓を圧迫しながら、エツリは受け答えする。その横でシルフが腹に回復魔法をかけ続け、失血及び臓器の損壊という、ショックを引き起こした根本原因を取り除くべく、造血を促していた。
胸を押し続けるエツリの手に嫌な感覚がよぎった。肋骨を折ってしまった感覚に、ほんの一拍だけタイミングを逸してしまうが、人命がかかっている時に頓着すべきではないと、すぐにリズムを取り戻す。
『30!』
カウントしていたシルフに声をかけられると、エツリは一旦マッサージを中止し、男の口を薄い手拭いで覆うと、勢いよく吸った息をしっかりと吹き込んだ。
空気が吹き込まれた男の胸が膨らみ、口を離すとまた萎んでいく。それを二回繰り返すと、エツリはまた心臓を圧迫し始めた。
「呼吸は!?」
『ダメ!』
エツリの面の内に汗が溜まり、横から流れる。暑さのためではない、嫌な汗だった。
マッサージを続ける体力には問題ない。悪魔召喚プログラムによって強化された肉体は、通常の人間よりかは体力が増進されている。それはこの死にかけの男にも言えることであり、だからこそこの救命行為に望みをかけているのだ。
ただ、状況は芳しくなかった。シルフは回復魔法が使えるとはいえ、手放しで得意と言えるほどのものではない。彼女はあくまでも〝風の精霊〟だ。更に回復に特化した悪魔は別にいる。そしてエツリにしても、素人だと考えればそれなりにできてはいるが、救命処置の手際は辿々しいものである。言い方は悪いが毛が生えた程度、というものだった。
刻一刻と悪くなっていく。エツリは泣きそうになりながらも、心臓マッサージを止めはしない。彼の強い義憤に応えて、シルフも乏しい魔力を振り絞る。
「せめて何か、触媒があれば……!」
Mは、エツリが必死に蘇生を試みる様子を、隣で見ていることしかできなかった。そもそも強過ぎて回復が必要ない彼女には、そのような心得はない。シルフが、どうやら通常の個体よりも魔力が少ないということを見破って、自身の手持ちを再度確認し始める。やはり目ぼしいものはなく、ぐっと目を細めて奥歯を噛み締めた。
「触ばっ、い……!? あっ……!」
エツリはMの独り言から、ガートドッグが見つけてくれた牛黄丹の存在を思い出し、懐からそれを取り出した。
「そういや……」
ガートドッグが見つけてくれた金の卵。売ってマッカに換えようと思っていたそれは、生物由来であることからしても、回復にはうってつけだった。
「牛黄丹かッ!」
『それ! それちょうだいっ!』
二の句もなく牛黄丹を投げ渡すと、シルフはそれを受け取った瞬間に砕き割り、補填の足りない生体マグネタイトを一気に充填させる。彼女の周囲に柔い風が渦を巻き、希薄であった存在感を急激に強めていく。
風を織って造られたかのような姿に、エツリは思わず見惚れてしまった。彼女の表情は真剣そのもので、風と戯れるいつもの和やかな印象は見受けられなかった。
『いけるよッ! 二人とも離れて!』
回復魔法の照準が吸われないように、シルフがそう指示すると、Mが間髪入れずエツリを抱え、大きく後退する。あまりの速さに抵抗もできなかったエツリは、せめて舌を噛まないように大人しく脇に抱えられていた。
『ディアラマッ!』
憂わしげな無色の光が、無数の蛍のようにして男の周囲に集まり、体の傷を治していく。下手人に付けられたものと思われるものも、逃げている時に負ったであろう転び傷や擦り傷もまとめて、全てが治癒されていく。血液を多量に作るためにややこけた頬には、血の色が薄らと戻り、垂れ落ちるばかりであった目蓋も、膜を張るように膨らみ、安らぎ始めた。
「おぉ……!」
Mが感嘆の声を漏らす。天使等の使う魔法のような神聖さこそ伴わないが、それがむしろ押し付けがましくないと言うべきか、いずれの型にも合わせてくれるような包容感があった。
「呼吸は……?」
『戻ってる。うん。もう大丈夫』
嬉しそうなシルフの応答を聞くと、エツリは小脇に抱えられたまま、疲れを思い出したかのように力が抜け、垂れ下がるようにして俯いた。緊迫な雰囲気が失われたからであろうか、エツリは先程よりもMを信じられるというべきか、奇妙な連帯感のようなものを感じつつあった。
意識を失ったまま男を背負いながら、エツリは来た道を戻っていた。その後ろにはMが続く。シルフはもう姿を隠そうとはしておらず、エツリの肩に乗って羽を休めていた。
「君の仲魔か。なるほど……おいそれと人には見せられないな」
「厳密には、友達というか」
「友達……珍しい。悪魔をそんな風に呼ぶとは」
ツン、と野暮ったそうにそっぽを向くシルフの後ろ姿を見ながら、Mは微笑んだ。人に力を貸し、あまつさえその肩に休まる精霊など、他に幾つ類を見ることができようか。まるで姉弟のような意気投合の工合は、血を分けた兄弟にも珍しい。多くの人々にとって、生まれた時から隣の人間は食い扶持を取り合う敵でしかない。そういう風に思っている輩を何人も見てきた。Mも、エツリ達も。
「珍しいと言えば、君自身もだ。見ず知らずの人間を躊躇なく助けようなんて、私の知る限りでは、そんな人間は東京にはいない」
「仕事なんで……」
エツリのそれは照れ隠しであったが、担当エリア内における治安維持、非戦闘民および戦闘不能者の保護は、まぎれもなく討伐隊の仕事だ。積極的か嫌々かというのは別にして、討伐隊なら誰もがやっている。
彼女が言っているのは善性と言うべきか、良識とかいうものに対してだった。この二人については、恐らくは東京のニンゲンの平均よりは持ち合わせている。と、いうことをお互いに認識し合った。
「それだけじゃない。あの牛黄丹も、躊躇わずに使ってしまったじゃないか。普通の討伐隊員ならそこまでしないよ」
「拾い物ですから……それを言うなら、あの牛黄丹、Mさんの黒いわんこが見つけてくれた奴なんです。だから、誰の功績かと言えば、Mさんのですよ」
むしろ拾得物をかっぱらおうとした卑怯者、とまでは自分を卑下しなかった。そう思っていないからというのではなく、そんなことを言ってMを困らせても、何の意味もないからだ。あるいは彼女にそれを否定させ、罪悪感に溜飲を下げさせるための、安易な自己陶酔にしかならないということを承知していたから。
「ガートドッグが……そういえばあの子は光り物が好きだったな……」
実際、あの発見がなければ、男は死んでいた。勿論牛黄丹などなくとも、エツリ等は手を尽くすつもりでいたが、何事にも限界はある。というか、シルフに充分な魔力を供給できないエツリに問題がある。
「じゃあ俺、一旦戻ります。負傷者を隊に運ばないといけないから」
「周辺まで送ろう。手負いの者を連れて一人では危険だ」
「大丈夫です。道の覚えはいいので」
「道の覚え……?」
どのエリアの管轄でもそうだが、討伐隊しか知らない、そして討伐隊しか使えない秘密の抜け道がエリア内に点在する。それは用水路であったり、魔術で隠蔽した裏道であったりするのだが、これ等は全て秘匿義務がある。恐らくはガイア教の各勢力、メシアの分派にしても、同じように仲間内でしか使えない抜け道を作っているだろう。
悪魔を退けてくれた恩人とはいえ、教える訳にはいかなかった。心苦しく思いつつエツリは申し出を丁重に断ると、体を縦に揺らして背負った男の位置を調整する。自分より重い成人男性で、しかも意識がない状態。何度か躓きそうになるが、シルフの風の助けもあって、何とか持ち直した。
「そうか……今日はありがとう。隊員君」
「お礼を言うべきなのは、俺の方ですよ」
彼女の威圧感のようなものも、多分本人が意識して出しているものではないということに気付いてからは、エツリから緊張の色がはたと消えた。何か隠し事がありそうとはいえ、これほどの実力者が良識的であるというのは心強くもあった。
「それじゃ……」
「あぁ。君とはまた、いずれ会えることを期待しているよ」
彼等は別の方向を向いて歩き出した。悪魔の蔓延る東京では、道を違えた者を振り返る余裕などは、エツリにはなかった。
・ヨーウィー
妖虫ヨーウィー。アボリジニの間に伝わる怪物。爬虫類の胴に六本の昆虫の足が備わっており、哺乳類を捕食する。Mの噛ませ犬にされてしまったが、エツリでは同時に一体が限界。二対一だとほぼ殺される。
・Mの悩み
初対面から怖がられる。嘘なんか一度も言ったことないのに人に警戒される。動物どころか下級の悪魔にも恐れられ、誰も近寄ってこない。戦いに飢えているとか変な誤解をされており、そのせいで腕試しにくる奴がいる。
よければ感想、評価付与などしていただければ幸甚です。これを言うのと言わないのとじゃ全然違うって好きな配信者が言ってた。