赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他)   作:イリノイ州の陰キャ

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※本作品には違法薬物及びそれに準じる医薬品、あるいは市販されている医薬品の濫用を推奨する意図はございません。
 誤字報告ありがとうございます。ただなんか確認する前に別の目的で編集しちゃって、報告内容がうまいこと表示されなかったから修正できてないかも。懲りずに誤字報告してくれると嬉しいな。僕も誤字とかは積極的になんとかしていきたいので、みなさんばしばし指摘しちゃってください。




麻薬、ダメ、ゼッタイ

 

 人外ハンターやメシアの戦闘職、一部討伐隊員は、麻薬性鎮痛薬……つまりモルヒネやヘロインを非常用に携帯している。討伐隊員の間では主にアスピリンが配られているが、出血を伴う痛みにこれは使えない。そのため薬に頼ろうという場合、ほとんどの隊員の間では(推奨はされていないが)モルヒネが鎮痛薬として使用されている。

 使い過ぎて中毒症状や依存に苛まれることも珍しくはない。それどころか悪魔と戦闘しない地下の住民等の間でも、少なくない人数が薬物依存に陥っている。流通している嗜好品の中ではかなりメジャーな方だ。

 

「こいつもか」

『〝ガンギマリ〟?』

「どこで覚えてきたのそんな言葉……」

 

 上野の討伐隊守護下では、最近ヤケにジャンキーが多い。心神喪失して連絡橋の手すりにもたれる女を担ぎ上げると、エツリはげんなりした表情で階段を降りていった。

 

『これじゃ、悪魔に襲ってくださいって触れ回るようなものよ』

「ホントにね……」

 

 ユルゲンが服用していた麻薬の症状と似ており、マグネタイトの動きがおかしい。この女性も放っておけば、数時間後には骨とボロ布だけになっていただろう。相当荒療治だが、上から呪いでもかけて心身に負荷を与え、正気を叩き戻すより他にない。処置によって精神にかかる負担などは度外視だ。というか、麻薬濫用などという自らを痛め付けるような行為に手を染めた輩の、さらに寿命の心配までしてあげますなど、そこまでは討伐隊の仕事の範疇ではない。面倒見にも限界がある。隊全体で言えばここ最近で最も大きな悩みだ。それこそ現在追っている連続殺人よりも重大になってきている。薬物中毒者は殺人鬼に殺された連中とは違って生きてはいるので、傷病者として扱われる。どうせ後のない、しかも自業自得の輩にまで回す手はないと、そう思う隊員がいるのも無理からぬことであった。

 

「墨田で流行っていたものと同じ薬物だな。あぁ……何と言ったか、確か連中はこれのことを……」

「〝ラムネ〟?」

「そう、そう呼んでいた」

 

 突然サプライズ訪問してきたMを伴って、エツリは上野の市街地を見回っていた。彼等の放縦な歩みは目的地を決めておらず、単に誰かの監視や聞き耳に怯えることのない場所を探して、ならば人の集まりから離れた方が手っ取り早い、という結論であった。

 受け答えのできない女をさっさと鉄柵の向こうに引き渡すと、エツリは肩を捻って関節の鳴る小気味のいい音を聞きたがった。

 

「それにしても、上野はいいね。穏やかだ」

「お……!? 穏やか、すか……」

 

 薬でラリラリの女を移送した後の感想としては、全文字間違いだ。過去を詮索するつもりはないが、エツリは彼女の常識と自らの培ってきた経験とに埋め難い距離を感じていた。強い悪魔が少ないという意味では確かにそうかもしれないが……。

 

「そう奇妙な顔をするな。私自身、身の回りに疎い自覚はある。ふふふっ……まぁ大目に見てやってくれ」

 

 彼女は他人事のようにそう言うと、信じられないくらい無邪気に笑った。悪など、その発想にすら至らないような険のなさだった。

 

「もう少し歩こう。そうだな……水を見に行かないか?」

 

 彼女はエツリの返事を待たなかった。勿論付いて行くつもりではあるが、彼の中にはずっと違和感が付き纏っていた。Mはまるで全ての人が真実しか話さないと、信じて疑わないような態度だ。これ以上何も言わずともエツリが付いてくると、何の根拠もなく信じている。だから彼女は振り返らなかった。

 

 

 

「水、っちゃ水か……」

 

 不忍池の汚い池面に沿う道を歩きながら、彼等は辛うじて悪魔の兇手を流れている弁天堂を遠巻きに眺めていた。

 エツリにとってはそうそう気持ちのいい場所ではない。それは水が汚いからとかではなく、ここで何人も隊員が死んでいる。エツリの知り合いも……。

 

「実際に上野に来るのは初めてでね。あまり事情には詳しくないが……静かでいい。地下街の方はそうもいかないようだが」

 

 夜光に照る景色を歩いて視界の端に流していく。Mは上機嫌だった。命懸けで悪魔達から取り返したこのランドマークも、こうして誰かの憩いの場という役目を果たせて嬉しいだろうか。あるいはその池の下に沈む人や悪魔の遺骸を思って泣くだろうか。全てはエツリの感傷めいたまやかしに過ぎない。ただ、こうした物憂いの類には工合の悪い喜びがあった。悲劇の中に沈む心に自ら心酔しており、しかも薄々ながらその自覚があった。

 エツリは悲劇の主人公のように振るまいたがる俗心を嫌って、努めて平常を装った。Mの目が細まるのがくすぐったくて、あえて何も堪えていないフリをした。一連に何らの意味があったのかなどは知らない。

 

「さて、人払いも済んだ。そろそろ本題を話そうか」

 

 Mがそう言うと、どこからともなく掠れた笛のような音が聞こえ、彼女の懐目掛けて生体マグネタイトの塊が飛んできた。

 召喚した仲魔を送り戻す時のマグネタイトの動きだ。人払いと言っていたが、恐らく彼女は仲魔の力を借りて、人避けのために何らかの措置を取ったのだろう。気付けば不忍池の周辺から悪い気が取り払われているような雰囲気があった。

 

「今日は警告に来た。特に君はぽやぽやしているようだからね」

 

 聞いたことのあるセリフだ。視界の端でシルフがブンブン頭を縦に振っていた。自分では相当警戒心強めにやってきているという認識であるため、彼女等の指摘は、いまいちピンときていなかった。

 しかし、Mの真剣そのものといった表情が、エツリ達の態度から遊びを排した。ここからが本当に話したいことであるようだ。

 

「あまり大きな声では言えないが……近々、決行することにした」

 

 彼女の表情は、浅草で出会った直後のような、薄い微笑みであった。復讐とそれ以外の事柄とで完璧に感情を分別し、しかも制御できているらしい。それほどに感情のコントロールが得意な彼女が、それでも執念深く復讐しようというのだから、エツリは底冷えするような恐ろしさを感じてしまった。Mにも、そのMを怒らせた相手にも。

 

「見つけたんですか……その、殺したい相手を」

「あぁ。厳密には、根城らしき位置を突き止めた…………教えてほしそうだな」

「え゛」

「顔に書いてあるぞ」

「お面被ってるんすけど……」

 

 彼女にはエツリをからかって笑う余裕すらあった。これから人を殺そうという者の落ち着き具合とは思えない。東京がもはや法治と人道の語義を忘れられた魔界であるとはいえ、自分と同じ形をした動物を殺すことにはいささかの抵抗があって然るべきだ。あるいはそれほどの恨みであるというのか。であるならば、エツリに対してその怒りを発散せず、完全な友好を演じられているという事実が、よりいっそう彼女を恐ろしくさせる。

 しかし気付かれてしまった以上、隠す必要もない。エツリは正義感には程遠い子供のような好奇心から、彼女が狙う人物の詳細を知りたがった。

 

「…………隠す必要もないか。君が奴と繋がっている訳もない。何しろ、表情を見なくても感情が読み取れるほど解りやすいからな」

 

 ギク、という風に反応してしまうと、シルフが『そういうとこだよ』と囁いてくる。ヤケに悪魔にナメられるし、変な奴には絡まれるのだが、もしやこの解りやすい態度が原因なのでは、と、彼は最近思い至りつつある。

 

「居場所までは教えられない。だが、そうだな……警告の意味で、名を教えておくことはやぶさかではない」

 

 彼女は何度も前置きを付けてもったいぶった。というか、あまりにも憎しみが強いため、名前を呼ぶことすら憚られる、という様子にも見えた。彼女はあえて排斥した感情を呼び戻し、声色に僅かながら憎しみを含ませていた。わざわざ人間性を演出し、自分が人類に包括される一部であるのだと思いたがっているようにすら見えた。

 

「ドネコ。フェリックス・ドネコだ。その名を名乗る者も、その名を語る者も信用するな」

 

 聞いたことのない名前だ。そういう場合には、単に無名であるということ以外にもう一つ可能性が考えられる。相手が巧妙に自らの存在を隠している場合。大抵は裏稼業に関わる人種であり、悪魔と戦う多くの職業戦闘人より、ニンゲンと戦う術に長ける。つまりロクでもない奴だ。名を売ることで稼業に直接支障が出る者など、後ろめたいことがあるからという他に、エツリにはその理由を想像できなかった。

 

「……とはいえ、幾許もしないうちに俗世から失われる名だ。忘れても構わない」

 

 笑顔を払ったMは、まるで陶製の焼き物であるかのように完成されており、美しい。左右で瑕疵なく均整の取れた表情には、水の一雫すら間借りを許さない厳密性があった。その顔に怒りが立ち、眉がつり上がる姿を、エツリはどうしても想像できなかった。

 

「とにかく気をつけろ。君を巻き込みたくはないからね……全てが終わったらまた来るよ。それを最後の挨拶としよう」

 

 彼等の出会いなどは一時の馴れ合いに過ぎない。明確な離別を思わせる彼女の態度は頑なだった。

 

 

 

 押収物の一部は隊員の懐に行く。勿論隊規に反しているが、多くの隊員はこれを着服とは呼ばない。ぶっちゃけ黙認されている。あまりに程度が甚だしいとか、物品の価値にもよるが、魔石を幾つかちょろまかしたくらいでお上が何か言ってくることはない。

 とはいえ、これを懐に肥やしておくのは流石にまずいか。と思案している最中であった。彼の手に握られていたのは、先ほどスリからスリ返した例の薬。〝ラムネ〟の隠語で呼ばれる錠剤だった。

 

「……」

『はやく渡さないとね。それ』

 

 Mはその場を後にしたが、エツリは不忍池に残った。特にやることもないが、駅に戻りたい気分でもなかった。特にこの頃は人が多い。仕事を終えて一眠りしようという時にも、上階から誰かの声が頻りに聞こえてくるのが鬱陶しかった。

 Mが人払いを解いた池の周辺には、目視でも数を数え切れる程度だが、ぽつぽつと人影が増えつつあった。秘密の会合というほどでもないが、仲間内だけで会話をしたがるような連中や、地下暮らしで息の詰まった非戦闘員が、ここまで足を運ぶことは往々にしてある。彼等にとっては道中で運悪く悪魔に遭遇して死ぬことよりも、暇が潰せないことの方がよっぽど恐ろしいようだ。

 

「末端いくらだろ……」

『ちょっと』

「気になっただけ。気になっただけだって」

 

 不穏なことを口走るエツリに、シルフはすかさずツッコミを入れた。薬の捌きがバレて隊の名簿から抹消されるなど、笑い話にもならない。

 ただ、末端価格自体には興味があった。これにどの程度の値段が付けられているかによって、流通の具合やルートにも大まかな想像がつけられる。安ければもう多量に流れ込んでいるだろうし、高ければその分経由地が多く、遠い場所から送られている可能性がある。

 

「実際どこから……シルフ?」

 

 エツリが気が付くと、彼女は空気に溶けていた。警告もなしに姿を消すということは、余程切羽詰まっていたか、そこまで警戒すべき相手ではない誰かが近付いているということになる。

 視界のどこかにシルフを探すのを止めて、エツリは池を仕切る柵に腕をもたれさせた。彼の背後から気配を感じたのだ。最近はこういう時、想像だにしない手練ればかりが近付いてきていたが、今回に限ってはまるで素人の足運びであった。

 

「おい、あんた」

 

 無言で声の方向を向く。男の武装といえばベルトに引っかけた大振りの鉈だけで、後は小荷物を背負い、髭や髪は伸び切っていた。しかし所々毛髪は抜け落ちて皮膚が見え隠れしており、着ているものも粗末だ。ユルゲンほどではないが、見窄らしい風采で、しかも何日……いや何ヶ月かの単位で水浴びや清拭をしていないらしく、酢と香辛料に果実を混ぜたような、非常に不愉快な臭いを醸していた。

 

「あるんだろ? いくらだ」

「は?」

 

 何が? とエツリが聞く前に、男は目を剥いて彼の肩を掴もうとしてきた。寸前でそれを躱し、正面から対する姿勢になると、男は拳で膝を叩きながら、エツリを余裕のない表情で睨みつけた。

 

「売人なんだろ……!? いいから早く売ってくれ……!!」

 

 そこでようやく合点がいった。男はエツリを麻薬のプッシャー(売人)であると勘違いしているようだ。面倒くさそうな雰囲気を隠そうともせず、彼は自身を纏う黒い迷彩服と、顔を隠していることをアピールして、簡単に身分を表してみせた。

 

「討伐隊員だ」

「だったら何だ……!! いいからそれを寄越せ!!」

 

 男の尋常ではない様子は差し置いて、それが何だ、などと威勢よく言えるのは、この男が錯乱状態にあるからというだけではないことはすぐに思い至った。というか自然な話であろう。討伐隊員の一部が、既に売人として〝ラムネ〟を捌く側にいると思っていいはずだ。モラルなどという鼻かみにも使えない自己満足のシロモノを誰が喜ぶ? 隊員だろうが、特に木端は路銀のために違反を犯しても不思議ではない。

 エツリの不幸は、偶然不忍池がそういう輩の稼ぎ場であったということだ。悪魔の脅威が払われてからこっち、この辺りにはナメた連中が出入りするようになったという。普通ならオニを相手に死ぬかどうかの瀬戸際を演じるような弱い戦闘員や、非戦闘員の民間人がここまで足を運ぶようだ。

 

「取り締まる側だよ。上着脱いで」

「何……? 何だと!? ふざけるなよ! 食うにも困ったことのねぇ甘ちゃんのクソガキが!! お前等隊員は、俺達がどんだけ困窮してるか知らないんだろぉ!!」

 

 全体がそうという訳ではないが、戦闘員と非戦闘員の間には精神的な隔たりがある。というのも悪魔と戦うには当然、少なくないカロリーを使うので、衣食住に関して討伐隊員は比較的(比較的!!)優遇を受けている。そのため地下街の住民に完全に行き渡らないことも少なくないのだ。多くの隊員は守られている立場で何を言うかと思うが、お互いの事情やら思惑など、お互いにどうでもいい話だ。

 男は荷物検査をしようとするエツリの手を振り払い、抵抗した。彼は無言のうちにシルフに手伝いを頼むと、あっという間に男の腕が風に巻き取られて拘束される。その間に服を調べ、靴も脱がせてくまなく確認する。案の定というべきか、隠し持っていた麻薬を押収した。これが大麻やMDMAなら返却しても構わなかったが、極めて軽微ながら魔法的措置が窺える。これに関してはどうやらアタリ(ラムネ)だ。

 

「おっ、おい! 返せ! 強盗っ、強盗だぞッ!!」

「これは?」

「た、単なる薬だ!! イブプロフェンだよ!」

 

 イブプロフェンなんて地下街でも(協会傘下でない露店は割高だが)売っている。こんな場所で薬を購入する奴がただの鎮静剤などという健全なブツのために来ている訳がないし、持ち物も当然怪しい。というかさっき確認した次第では、どう見ても普通の薬や麻薬ではなかった。

 

「〝ラムネ〟だろ?」

「ちっ、違う! ヘロインだ!! い、痛みで寝れない時に飲んでるだけだよ!! 上野じゃ麻薬も覚せい剤も規制対象外だろォッ!!?」

 

 直前と言っていることが違う。いくら慌てているからと言っても、ここまで錯乱するのは麻薬の症状が深刻化しているからであろう。依存症のために、それを手に入れることを至上目的としており、過程における人道性や整合性を考慮していない。

 取り返そうとする男の手をするりと避けると、エツリは押収した新たな〝ラムネ〟を、元々持っていたものと一緒に懐に入れ直した。返してやれば、そのうちこの男も他の麻薬常習者と同じように、エツリやら別の隊員が見つけてフェンスの内側まで移送するハメになる。そう思えばむしろ、今のうちにその芽を潰せておけるだけラッキーかもしれない。

 

「黙認してるだけだ。〝ラムネ〟は隊内でも認可してない」

「ふざっ、ふざけんな!! 返しやがれ!!」

 

 激昂して襲いかかる男の突撃も躱わすと、エツリは刀に手をかけた。いくら練度の低い上野隊隊員とはいえ、悪魔召喚プログラムの使えない中年男の相手などは、羽虫を払うようなものだ。鯉口を切って少しだけ刀身を覗かせ、夜光にちらちらと光らせてみせると、男は面白いようにたじろいだ。

 

「待てっ! わっ、解った! もういい! もういいから……!」

「……次はない」

 

 両手を前に出して静止してくる男の必死な様子に、エツリはため息を禁じ得なかった。鈍った頭でも、自身のひ弱な体のことは理解していたらしい。刀を納め、男がじりじりと後退する様子を眺めながら、彼は漠然とこの後のことを考え始めた。

 

(帰ろうかな……)

 

 ここで油を売っていても、また今のような勘違いをされて面倒事になるだけだ。走り去っていく男を見送りながら、エツリは面を押さえながら頭を振った。

 

『もう帰る?』

「そうしよ――――」

 

 

 

 

『グルルルォアアーーーー…………!!!』

 

 

 

 

 地面が微かに振動するほどの雄叫びが響き、エツリの同意をかき消した。

 

「最近こんなんばっかだな……!」

 

 溢しながらも既にメンタルは切り替わっており、エツリは半ば自動的に声のする方へと走り出した。雄叫びは南の方、公園入り口の大きな丁字路の方面からだ。

 

『えいッ!』

 

 準備ができている時のシルフは早い。彼女は一旦プログラムに帰還する前に、エツリの背中めがけて追い風を吹かせ、横風に簡単に煽られる身軽な彼の身体を加速させた。

 舗装された公園道をかけ、片側のポールが腐って落ちた案内板の横を通過する。エツリは目標物に近付くにつれて、生体マグネタイトが薄気味悪く歪んでいく様を肌で感じていた。

 

 

『グブォォアアアアーーーー!!』

 

 

 丁字路が近付いてくると、枯れた街路樹の隙間から3メートルはあろうかという巨体が見えてくる。人の形をした怪物は信号機を捻り切って振り回しており、鎖のような毛髪とぶつかって嫌な金属音を響かせていた。

 

「グレンデル……!」

 

 その相貌はあまりに醜く、見た目以上に残忍な性格であるという。長い毛髪に隠された顔を見ようとは思わなかったが、丁度お食事シーンのようだ。珍しいものがみれるもんだ、と内心で皮肉が止まらなかった。この巨体を相手に何をすればいいのか。しかし自らの居場所を失わないためにも、職務放棄をすることもできない。

 

『何か持ってるよ!』

「何だあれ……ポール、いや、人か!」

 

 エツリはその巨体を見上げながら、回るように走って距離を詰めていった。左手には何か捻じ曲がったポールのようなものが、そして右手には人らしきものが捕らえられ、引きずられていた。

 彼はすぐにグレンデルに突っ込みはしなかった。道路脇の信号機が根っこから引っこ抜かれているのを見て、その方向に走る。というのも、障害物がより少なくて動きやすそうだったから。

 

「い、嫌だ!! やめろ! うわぁ!! やめろ触るなっ! はぶっ……放せぇ!!」

 

 グレンデルに捕まって腕を引きずられていたのは、エツリが〝ラムネ〟を没収した男だった。正常な者は男が捕まる様子を見て逃げ出し、既に薬が回っている者は、まるで食われるための順番待ちでもしているかのように、ぼーっと悪魔を見上げ眺めていた。

 

「うわぁあぁあああ!! 助けろ!! 助けっ、助けて!! おい! たふぇ」

「あっ……!?」

 

 頭からガブリだ。突然グレンデルの顔が降りてきて、自身の手ごと男を頬張った。そして人間の骨などクッキー菓子か何かのように噛み砕き、体を食いちぎってしまった。

 引きずられていた左腕は一緒に胃袋の中であろうが、だらしなく垂れていた右手は、手首から下だけが無事に(無事に?)食われず地面に転がった。同時に、一緒に残された下半身がべちゃりと倒れ、噛み切った断面から血を伴って赤白い紐みたいなのが溢れた。

 面の下でこれ以上ないくらい顔を歪めたエツリは、苦し紛れに刀を抜き、後退りをする。こんな悪魔は上野にいなかった。ヨーウィーやマンティコアに敵うかと言えばそうではないが、それ等と比べても比較にならない。

 

「冗談だろ……」

 

 衝撃のスプラッタシーンが大公開され、散り散りに逃げていた人々から金切声が聞こえてくる。恐怖で錯乱した者等がおかしな方向へ行って、待ち構えていた別の悪魔に食われるかもしれない。ただこの巨体を前にして、悠長に避難誘導などしていられようか? どのみちこれを押さえなければ、不忍池で管を巻いていたドーパーと売人共は全滅だ。

 このグレンデルからは、弱体化していたニーズホッグやウベルリよりも強い力を感じる。悪魔としての〝格〟は二者の方が上であろうが、召喚者の力量差故か、グレンデルは完全な状態で喚び出されていた。

 そう、喚び出されている。そうとしか思えない。作為的でなければ、グレンデルなどという悪魔が上野に現れるはずがない。そもそもいないのだ。東京にこのような悪魔は。引き合いに出した二者といい、こいつといい、野生化している雑魚悪魔共とは根本からして違う。だから新たに他所から召喚しなければ、グレンデルなどにお目にかかることはできないはずだ。

 

「くそッ!!」

 

 エツリは思いきり顔を歪めると、これ以上市民に被害が及ばないように、ザンで攻撃して注意を引いた。

 

『グフヌゥウウ……ウワァァーー!!』

 

 ダメージとまでは言えないが、衝撃魔法は少なからず痛みを感じるようだ。グレンデルは激しく地団駄を踏み、エツリの方を振り返った。

 

「何食ったらこんなにデカく……人肉かッ……!? 俺も人肉とか食えばいいのか……!?」

『バカ! 来るよ!』

 

 シルフが大声で警告したと同時に、グレンデルの拳が降り下された。エツリはザンをアスファルトの斜め下に当てて勢いを付け、跳躍力を高めたステップで拳を避けた。しかし今度は信号機を持った左手が落ちてくる。それは真横に転がって避け、離れ過ぎない場所でしっかりと悪魔が視界に入るように位置取った。

 あのウベルリよりは鈍重ながら、あちらより小回りが効いているというべきか、本能より若干思考が見える。正直一人で押さえ込めるような相手ではない。ただ、逃げても末路は同じだ。ここでグレンデルに殺されるか、隊を追われて別の悪魔に殺されるか。ネガティヴな想像だけは達者で、エツリは皮肉めいた笑い声で気丈さを演出してみせるのが精一杯だった。

 

「目ん玉くらい付いてるよな……!?」

 

 エツリは願望に近い予想を口走ると、目潰しを狙って顔を執拗に攻撃し始めた。ザンの衝撃が鎖のような毛髪を弾き、その下の痘瘡甚だしい醜貌が露わになる。彼は鬼面の下で眉尻を落とし、顔に恐怖を滲ませた。その瞬間にも反撃が襲い来る。見越していたかのようにザンで高く跳躍し、信号機を用いた薙ぎ払いを回避すると、引力を利用して威力を増強させた刺突を狙った。

 

「こいつは効くだろッ……!」

 

 風龍撃。未だ未完成ながら、折れていない刀身には以前より上手く風が纏い、恐らくは前回の鉄扉など、ベルと同じように容易に撃ち払える威力がある。

 エツリはそれを躊躇なくグレンデルの腕に叩き込んだ。およそ皮膚とぶつかったとは思えない甲高い音が鳴り、その薄皮を刺し付ける。だがグレンデルの肉体は想像を絶する硬さの筋肉を鎧い、威力を増した風龍撃ですら貫くことはできなかった。

 

「まッ、じ……!?」

『グォォオオオオーーー!!』

 

 大してダメージを与えられなかったことに驚いたエツリを、グレンデルは腕を振り回して払ってみせた。吹き飛ばされ、地面を転がる間に何とか納刀すると、足を大きく開いて前傾で体勢を整える。勿論手は油断なく刀にかかり、すぐにでも迎撃できる構えであった。

 

「カッチカチだ……」

『合わせるわ。いつでもいいよ』

「助かる……!」

 

 グレンデルは先程喰らった男をまだ咀嚼しているようで、ぐちゅぐちゅと肉を切るような不愉快な音が微かに聞こえてくる。だがこれは明確な隙でもあった。というかこれを逃せば、後はほぼ勝ち目なし。逃げる隙もなしだ。

 

「あの顔面プチ整形してやるぞ……!」

『顔狙いね。賛成』

 

 当初の作戦通り、エツリ達は顔、というか目を狙って攻撃することにした。あの巨体に硬い筋肉。他の急所らしい急所に刀を差し入れるのはほぼ不可能だろう。逆に言えば、シルフから見ても目には攻撃が有効そうであるということだ。

 

『フスゥゥーーー……!』

 

 鼻息を荒くして狙いを定めるグレンデルの攻勢を待つ。力で勝る相手に正面衝突をしかけるのは当然、得策とは言えない。

 シルフはグレンデルの視界から逃れるべく姿を消し、巨人動きに合わせて機を窺い始めた。一方でエツリは彼女と線対称に動いてグレンデルの周りを歩き、顔がこちらに向くのを確認しながら距離を保つ。彼は生体マグネタイトの動きでシルフの位置を確認しながら、グレンデルが痺れを切らして攻撃するのを待ち続けた。

 

『グバァァァァーーー!!!』

 

(今だ……!)

 

 グレンデルに向かって走りながら、縦に振り下ろされた信号機を避ける。すぐさま薙ぎ払いに切り替えた信号機と自身の間に刀を差し入れ、エツリは信号機のポールを滑るようにして押されながらもグレンデルに接近した。

 自重のために両膝を突いた巨人の懐にまで潜ると、膝と信号機を足場に利用して飛び、更にザンで体を撃ち上げた。その勢いであえてバランスを崩し、空中で体を地面と平行にする。

 

『ガヴァァァーーー!!』

 

 ハエを叩くかのように横に振り切った左手は、回転して人差し指の上を転がるようにして避けた。空振った腕による一瞬の死角を逃さず、エツリは回転のエネルギーを利用した風龍撃を前腕の付け根目掛けて繰り出した。

 

「いけッ!!」

 

 というのは、自身に対する鼓舞であり、同時にシルフに対する合図でもあった。エツリの斬撃を関節部に喰らって出血するグレンデルは、もう彼のことしか見えていない。横から目に狙いを定めるのは容易だった。

 

『ザンマ』

 

 静かな宣言と共に、グレンデルの顔面で衝撃の塊が炸裂する。その一撃で巨人は大きくのけぞり、後ろに片手を突いた。

 

『ウゴゥアァァーー!!』

 

 苦しむ巨人を片目に着地を済ませると、次の攻撃の準備に移る。再度刀を納めて両手を自由にすると、グレンデルの背後に回るように走り始めた。

 

『ダメッ!!』

 

 回り込もうとするエツリを狙って、正確な張り手が飛んでくる。目を潰せたのならばあり得ない精度だ。彼は咄嗟に鞘ごと刀を引き抜いて持ち、その頭身の半ばと肘を重ねることでガードの体勢を取った。体躯に三倍程の差があるグレンデルの張り手は、当然彼を余裕で突き飛ばし、背後の建物へと叩きつけた。

 

「かっ、ふ……」

 

 今のザンマは、どうやらグレンデルの急所を捉えることはできなかったようだ。恐らく振りかぶったグレンデルの腕の位置が顔と被っており、ザンマの軌道の間に入ってしまっていたのだろう。

 

『エツ――――!』

 

 すぐさま膝を立てたエツリが、シルフに手をひらを向けて無事を表した。

 

「もう一回……やるぞ……!」

 

 時間を稼ぐにはとにかく攻撃を続けるしかない。職責に忠実なエツリは、緩慢な足取りで離れていく中毒者共を確認しながら、舌打ちをしたい気持ちを堪えて刀を引き抜いた。

 

 





・ラムネ
1、固形ラムネのこと。遺物の中から拾えるものは大抵カビが生えてて食べられない。
2、とある錠剤の麻薬を指す隠語。カラフルな見た目がラムネのように見えることから名付けられた。成分はメタンフェタミンに全く変わりないが、特殊な方法で生体磁気の発散を妨害する魔図式を組んであり、麻薬で高揚した精神から発せられる生体マグネタイトを体内に留める魔法が展開される。
 副作用で中枢神経が麻痺するので、脱力感と強い眠気を伴う。また禁断症状の焦燥感や興奮作用が生体磁気の多量発生を誘発し、服用者は悪魔にとっていい餌となる。


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