赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他) 作:イリノイ州の陰キャ
ネタバレされるくらいなら先にやってやろうという魂胆で、メタファーの体験版やりました。僕がアトラスに魂を売っているという事実を差し引いても最高です。これやっぱ発売日まで待っときゃよかった……限定版予約してるのに(アトラス奴隷の首輪自慢)。
ネタバレが嫌な人が大半だと思いますので内容の詳細には触れませんが、ゲームやりたいけど候補がないという方にはオススメです。あの感じならボリュームもすごいからしばらく他のゲーム買わなくて良さそうだし。
日暮里隊を(悪魔に憑かれていた隊員含め)全員殺害したのは、同一人物であるというのが、本部の見解だった。すなわち下手人はMで確定ということだ。簡単な話、全ての遺体が同じような斬り口で殺されていたからということらしいが……実際に殺しの現場を目撃したのは、悪魔憑きの男を殺した瞬間だけだ。ただ、それはもうほぼ決定的と言っていいだろう。むしろ彼女より疑わしい者を探す方が難しい。
『上野の殺しも全部、あのMって人が……』
「どうかな」
エツリは興味なさげにそう返事をした。実際のところはそう振るまっているだけで、多大な失望感に囚われている。しかしこの東京において期待などというものは、抱いた方に非がある。討伐隊が殺人を問題にしているのは、単に自治とその維持に影響するからであって、倫理とか義憤などという概念が理由としてその後を追ってくる訳ではない。討伐隊としての立場を排して考えるならば、エツリに対しては特別敵意を発してこなかった彼女に、何ら憤る要素はなかった。
それでも、エツリは少なからず沈んでいた。高潔を重んじるニンゲンがまだ残っているのだという、信じるに値しなくなった幻想を傍に転がしながら。
討伐隊は良くも悪くも中立的で、更にその内部で何らかの派閥に属さない限りは孤独だ。そして彼はガイアやメシアの教義に従う気も起きず、かといって人外ハンター達のように気ままな生き方を選べる力もない。討伐隊という吊り糸で宙に浮いているだけの存在である。何か心の拠り所を探している自分の心に、気付いていない訳ではなかった。シルフに対しては饒舌なのも、言わば彼の〝甘え〟だ。彼女の優しさに甘えているに過ぎない。
「――を、後……ら――て……!」
「……が――――な! た……れ……!!」
上が騒がしい。二日前の日暮里調査隊の全滅、そして昨日も遺物商が一人、殺害された。よりにもよって一度殺人が起きていた高架下での出来事だ。メンツボロボロの討伐隊はてんやわんやで、地下街への進入検問を更に強化していた。上野エリア所属の討伐員すら簡単な持ち物検査をされる始末だ。
討伐隊員の殺伐とした雰囲気に押され、非戦闘民が幅を利かせていた以前の空気感は失われつつある。むしろそれがいつもの上野なので、元々ここを根城にしている者は不自由を感じてはいない。
「……行かないと」
少し前までは、カタキラウワの討伐と死体処理くらいしか仕事が回ってこなかったエツリも、最近のごたごたの関係で違う仕事を任されるようになった。本日も調査に駆り出される。浅草の時のような温い見張りではなく、犯人の痕跡を追って上野全体を包囲的に調査する大規模作戦だ。
「ば――! 次――き……お前――!」
(るせー……)
鬼面を装着し、床に適当に転がしておいた刀を掴むと、エツリは怠そうに立ち上がった。ここで仕事をサボりながらシルフを相手に管を巻いていても、彼女に余計なことを言って不要に傷付けてしまう気がして、休憩時間も気が休まらなかった。
『そういえばさ、隊長の話、盗み聞きしてきたんだけど……』
「さらっとすごいこと言うね」
盗み聞きを咎めている訳ではない。隊長ほどの人物を相手によくも盗み聞きを成功させられたな、という感嘆である。
『そこじゃなくて……! 殺された日暮里の隊員の人達、あの〝ラムネ〟とかいうクスリ、持ってたらしいわよ』
ほぼ単独行動だった日暮里にまで? と一瞬疑問に思ったエツリであったが、すぐに合点がいったかのように興味を失った。むしろあちらの方が捌きやすいだろう。監視の厳しい上野から本部までの周辺に比べれば、ザルもいいところだ。何せ取り締まろうにも不良隊員しかいない。彼等も、娯楽の少なさに辟易して購入した、と見るべきであろうか。
前の刀と比べて、こちらの方が優れているかと言えば、そうでもない。
「くっ……」
暴れるオニの棍棒の重心を、衝撃魔法でオニの意図しない方向にブレさせ、それを刀の峰で払いのけながら懐に突っ込む。武器と体との距離が近いエツリが自然と有利になり、刺突は難なくオニの心臓を貫いた。
筋力や持久力に乏しく、武器も打ち合いに適しているようなものでないためか、エツリはなるべく鍔の上下を競り合うのを回避している。前に使っていた錆だらけのナマクラに比べれば上等品だが、所詮は刃を研いだ模造刀のようなシロモノだ。無茶な使い方をしていれば、あっという間に不恰好な短刀に早戻りだ。
『グブッ……グゾ、がァ……!!』
確実にトドメを刺すために、突き刺した刀を横に捻りながら引き抜く。弾力のあるものをかき回す感触が手に伝わるが、彼は面の下でぴくりとも眉を動かさなかった。生死をかけた争いなのだから、あるいは、仕事だから仕方ないと思えば、何事も思い切りが良くなるものだ。
一連を素早く終えたエツリは、倒れたオニから即座に二歩ほど距離を取り、刀を構えたまま油断なく見下ろしていた。虫の息の悪魔の様子に油断して、道連れにされた隊員やハンターがいくらいたか知れない。
『ブ……ゥ…………』
なまじ生命力が強いせいで、血と息を失う苦しみは長く、訥々とオニに死というものを囁く。段々と寒くなる肌の感覚に絶望しながら、涙で顔を汚して死んでいく様は、ニンゲンと何も変わりはなかった。
このオニがこれまで殺してきたであろう顔も知らない誰かのためにも、別にこれに同情はしていない。単にニンゲンとそう変わりないということを確認するのに、思うところはなかった。手をすり抜けるような虚脱感は否定はできない。
(なんか、前より……)
エツリの関心はもはや、たった今殺したオニが大いに絶望したであろうという想像からは引き離されていた。
彼の思いはかりは、確かな手応えのほうにあった。オニを相手に(まぁまぁ苦戦したとはいえ)ダメージなしで勝利を得たという実感が、ここではむしろスナック菓子のように軽く感じていた。
実際のところ、当時の彼の実力では到底敵わないような(語弊があった。今でも敵わない)悪魔達との死闘を繰り返して、無意識なりとも実力が伴いつつあるのだ。非常にゆったりと、それはもう雑草を食む牛の如く気長な意味でだが、しかし確実にそうである。
「ってあれ……」
エツリが周囲を見回すと、既に他の隊員達はオニを始末していた。使役している悪魔に命令する者、彼のように己の手で葬る者、様々だが、少なくともこの程度の悪魔は問題にならないようだ。
(俺がビリか……)
それもそのはず、周囲の隊員は外部エリアからの応援隊であり、雑魚すぎてため息で気球のバルーンを割れると評判の上野隊ではない。おそらくはこっちが標準というべきか、オニは膂力こそ人を凌駕するものの、それらしい戦闘経験を積んだ者にとっては脅威ではないのだろう。なぜ上野隊のエツリがこの混成分隊に編成されたのかは疑問である。
「上野くんだりまで来て雑魚狩りかよ……」
「身入りが少ねぇ……配置変えてくんないかな」
文京区、かの有名な大学より少しだけ西の辺りを調査していた。ここまではギリギリ上野エリアの管轄内。これより西にいくと新宿の人外ハンター達、南に行くと討伐隊本部の管轄になる。エリアの境界に近いこの位置は、特に警戒を強めて歩哨を増員するというのが方針であるようだ。
「おいッ! てめェ今携帯取ろうとしただろッ!! 殺すぞッ!!」
「くだらねぇ難癖付けんなよ三下!! 気に入らなきゃやってみろよ!! 口だけかッ!?」
討伐隊が警戒を強め始めた今となっては、地下街のほうが静かなくらいだ。勝手に喧嘩を始める隊員達を尻目に、エツリはオニの死体を探って魔石やをいくつかくすねた。
ここまで目撃した悪魔はオニとハーピーだけ。衝撃魔法の通りが薄いハーピーは他に任せ、彼は二体目となるオニを倒した直後であった。変な悪魔ばかり見かけるようになった上野だが、この辺りはそうでもないようだ。あるいはむしろ、こちら側に何か、他の悪魔達が流入してこない理由があるのかもしれない。
「交代だ! ビル内に戻れ!!」
「チッ……」
「くせぇ唾飛ばすな……」
「あァ゛!?」
「さっさとしろ!! お前等如きここで死んでも何も不利益はないぞ!!」
喧嘩をしていた隊員達は、分隊のリーダーに銃で脅され、渋々といった風に拠点用の雑居ビルへと入っていく。エツリもそれに続き、開きっぱなしで戻らない自動ドアをくぐる。出入り口が一つしかないので交代の隊員達とすれ違うが、混雑はしなかった。隊員同士の喧嘩を見物している間に、他の隊員達は既に中へと戻っていたらしい。
彼は人の少ない場所を探し、上の階へ行く階段を閉鎖したバリケードにもたれた。上部は崩落の工合が激しく、危険だということで使っていない。それに、交代含め二十余名の隊員が休憩に使うには、エントランスの広さで充分だった。
「はぁー……」
「疲れているようだな」
「そりゃな……」
バリケードというか、単なる防火シャッターが揺れてばりばり音を鳴らす。少し後ろに沈んだ冷たい感触が、駅のプラットフォームに慣れた猫背に丁度よかった。
「回復魔法が疲労にも効けば、と考えることもあろう」
「あぁ……あ? え!? お前……!」
「騒ぐな。耳目を集めるぞ」
エツリが立ち上がりそうになったのを、男が寸前で止めた。この東京でも事更に汚い浮浪者のような格好に、あまりに美しい直剣。
「ユルゲン……!?」
「イモータル・ユルゲンだ。イモータルまで含めて呼べ。必須だぞ」
面倒くさい要求をしてくるその男はユルゲンで間違いなかった。なぜ討伐体の陣地に勝手に入っているのか、というかその名前のこだわりは必要なのか、とか色々聞きたかったが、困惑してうまく質問が出てこない。
酷く慌てるエツリの態度に反して、ユルゲンはもはやここが家なのではなかろうかというような寛ぎぶりであった。床に雑に(絶対業物のやべー)剣を放り出し、何が入っているのか解らないパンパンのリュックを傍に置くと、彼はおっさんくさいかけ声と共にエツリの隣にどっかりと座った。
「はー……どっこいしょ」
「どっこいしょじゃなくて……!」
「あぁ、なぜ己れがここにいるか、という話か? 当然の疑問だな」
彼は異様な匂いのする水筒を取り出すと、一口中身を飲み、はーとかふーとか言いながら居心地のいい腰の場所を探っていた。途端に呼気に酒の匂いが混じる。この男、仕事中のニンゲンの前で酒を飲み始めた。しかもエツリの疑問はガン無視である。
「これはな、以前貴様と出会った場所で見つけた酒だ。焼酎の類か……まぁ己に酒の味はわからん! ほぼ酒気が目的だからね」
「そんなのも聞いてない」
「急ぐな急ぐな。老けるぞ」
「お前にッ……! 言われたくない……」
声を荒げそうになったエツリは、寸前でここが人目のある場所であることを思い出し、気持ちを収める。
この酔っぱらい、あの時は調査とか言いながらやっぱり酒盛りが目的だったな、とかも今聞くべきことではない。恐ろしいのは、彼が武器を無造作に放り出しているというのに、この至近距離でも制圧する自信がないことにあった。何を考えているのか不明だが、陣地に勝手に入ってくるようなデリカシーのない奴に、説得が通じるとも思えない。
「剣気を収めないか。全く生き急ぐ奴だね貴様は」
「誰がそうさせてる……!」
「わかったわかった。せっかちめ。どうせまだ休憩時間であろうものを……」
意外にも彼は観念したような雰囲気を見せ、一呼吸置く代わりに水筒の中の酒を一献、というか一息に飲み干した。
「……ぶぁぁ〜」
「くっさ……!」
「…………」
「なんだよ……嫌味とかじゃないぞ」
あまりに酷い口臭(主に酒)にエツリが身を逸らすと、ユルゲンは話の腰を折るな、とでも言いたげな視線で彼を睨む。お前まだ何も話してないだろ、という言葉をぐっと飲み込むと、仕方ないのでのけぞった体を元に戻して聞く姿勢を示した。
「己れがここにいる理由は……まぁ薄々察しは付いているだろうが、つまりは仕事だ」
酒の匂いで注目が集まるだろ、と言いそうになったが、その前に彼が話し始めた。彼がその手を振ると、エツリの周囲を取り囲む空気がぬるま湯を思わせる不快なものに変わった。何かしら、周囲の認知を妨害する魔法を使ったようだ。
「雇われの身でね。雇用主に言われたことには絶対服従だ。その行為に意味が見出せなくともな……」
「だから何」
「……まぁ、己れの思慮などは栓なきものか。すなわちこういうことだ」
ユルゲンが指差したのは、彼の持ちものであるあの直剣だった。どうやら仕事というのは驚くべきことに……というかほぼ予想通りだったが、荒事であるようだ。
「殺しがあったらしい。確かな情報だ」
面の両目の部分には穴が空いているが、いつもそこには暗い影があって、エツリの目は外から見えない。しかしその時ばかりは、ユルゲンにも彼の目が狐のように細まった瞬間が見えたような気がした。
尋常ならざる雰囲気を醸すエツリの様子に、まるで予想通りだとでも言いたげな顔で肩をすくめると、彼はその鼻につくスタンスのままでエツリに発言権を返した。
「…………場所は」
「それは言えんが……己れの後を追ってくると言っても止めん。誰にも見られるな、というお達しはないからな」
「…………」
まだ隊の仕事がある。彼について行くというのは、この場を放棄することを意味する。普段なら密告を恐れて辞退するが、幸いここには顔馴染みが一人もいない。隊員から隊長にことがバレて、制裁を受けるという心配も薄いはずだ。
それに殺しが事実だっとすれば、結果的に殺人犯の足取りを追う調査に寄与することになる。殺された隊員や民間人はいずれもエツリの知り合いというほどの間柄ではなかったが、それでも同じ共同体に属する者が無惨に殺されているという事実に、彼は少なからず憤りを覚えていた。本人がそれを自覚しているかどうかは別にしてもだ。
「その調査ってのいつから始める?」
「貴様が望むのであれば、今すぐだ」
隊から離れた彼等は、放棄された本郷三丁目駅の方まで来ていた。ここまでくると本部の管轄に差しかかってくるが、神田川を越えない限りは、本部部隊の警備の目は薄い。
大通りから細道に逸れると、半透明の屋根がかかる改札口が見える。左手に露出したエレベーターがバチバチと不穏な音を鳴らしており、時折ヒステリックに暴れる火花が脅迫的だった。
「ここだ」
「中じゃないんだ」
「足下を見ろ、血痕がある」
右側の電柱に、飛び散った血液の跡が付着していた。縦気味の斜め筋を描く飛沫上の血痕は斬撃を思わせる。それなりに刀身の部分が長い刃物による犯行だ。短剣や槍ではない。
「流石の手際というべきかな……抵抗する間もなく、ということだ。死体を直接見た訳ではないが、正面から斬られたらしい」
「なんで討伐隊が知らないことを、あんたが知ってる?」
殺しがあったと聞いた時から、エツリの疑問はそれ一つだった。隊にはそんな報告は挙がっていない。調査に駆り出される彼等に殺人があったことをお上が秘匿する理由が解らないし、仮にもし殺害されたのが討伐隊の要人などであり、そのために情報を秘匿しているとして、隊員でもない部外者がそれを知っているのはおかしい。
つまり、この男とその関係者が、討伐隊の上部に食い込むほどの関係者であるか、あるいは殺人の事実も遺体を隠蔽しているかといことになる。
「あぁ……流石に気付くか。と言っても妙な話ではない。殺されたのは雇い主の手駒の一人でね、偶々討伐隊に発見される前に、こちらで回収した」
「その雇い主って誰」
「言うと思うか?」
「聞いてみただけ……」
既に存在がバレてるこの男相手に隠す必要もないので、エツリはシルフを喚び出すと、彼女に頼って魔力の痕跡を確認してもらった。あるいは、何かを辿れるかもしれないという腹づもりで。
「どう?」
『……ダメね。時間が経ってるせいで掠れてる。それに、魔法自体あまり使わないようにしてたみたい。まるで辿られるのが解ってるみたいに』
「そうか……こちらの腹を明かせば、貴様の使役する精霊ならば、何か手がかりを見つけられると期待していたよ。こうなると厳しいが……」
少し憮然とした様子にも見えるユルゲンは、腕を組んで血痕を見下ろしていた。ますますと言った様子だ。つまり、彼の中でMに対する疑いが深まっているものと、あるいはあえてそんな風にエツリに示しているかのような態度だった。
「…………あの女の肩を持つか?」
「えっ……?」
「顔に出ているぞ。惚れたか?」
「いやっ……てか、面……」
「貴様のその白い薄皮のことを言っているのであれば、あってないようなものだよ」
薄皮って……などと言いながら、エツリは面がズレていないか手で確認した。きつく絞められた面紐からして、綻びはない。なぜ一々考えていることがバレるのか、彼としては疑問だった。
そう、エツリとしては未だ信じられていない。彼女が殺人犯として一番疑わしい、というか何なら人を殺した瞬間を目撃したのだが、彼は未練たらしく別の可能性を考えては、では人を殺した事実はどうするのか、と冷静な部分に突っ込まれる。
「さて……アテが外れたか。己れは戻る。貴様もこの後は好きにするといい」
彼の言葉の中に度々出てくる〝雇い主〟が気になるところではあるが、彼にはそれについて口を開く気はないらしい。未だそれらしい探りも入れられず、何か引き留める口実が欲しかったが、去っていく背を眺めているうちに怪しげな霧の中へと消えてしまった。
「どうすっか……」
『戻った方がいいよ。帰る時に一人欠けてたら、流石に怪しまれるんじゃないかな』
結局何も収穫は得られないまま、彼等は引き返すことにした。
低いビルと(推定)住居がすし詰めに建てられる裏道を通り、拠点にしている小さな廃オフィスに戻った時、そこに人の気配はなかった。
『うわっ……! キモっ』
「えっ……!?」
『だから君にそんなこと言わないって。空気が澱んでる。見て、生体マグネタイトの色』
飛び散った水たまりの泥のように、壁や隅の方にへばりついた生体マグネタイトが、湿地に迷い込んだかのような息苦しさを醸していた。
面を手で押さえながら、彼は半身でビルを目指して歩き始めた。もう片方の手は刀に伸びており、すぐにでも戦えるような緊張を全身に伝えていた。
『何これ……呪詛、いや、
壁に貼り付けられたコピー紙の異様な紋様に気づいたシルフが、思案げな表情でその一枚を剥がした。エツリはそんな怪しげなものに触れる彼女を止めようとしたが、彼女が乱暴に紙を振ったり破ったりしても、特別何も起こらなかった。
図字の目的の解明に腐心するシルフを視界の傍に留めておきながら、彼はゆっくりと壁の角に張り付き、顔を覗かせてビルの方を窺う。こちらから悪意を多分に包含する嫌な気配がしたのだ。十中八九ニンゲンには使えない何らかの魔法を使っている者がいる。
『そうです。こちらへ……』
そこには外套を纏った何者かがいた。ニンゲンにしては異常な長さの腕と、薄い外套の隙間からのぞく猿のような体毛は、まるで知恵を得た獣の名残りにすら見えた。
しかしその異様に対するエツリの関心は薄く、その化け物が何をしているのか、に注がれた。
「あ……ぁあ……ぁ」
「へ……ぁ……」
数人の隊員達があの化け物の手招きに応じ、心配になる足取りでその後を追っていた。どこに連れていくつもりなのかは知らないが、何か術をかけている。
「止まれ!」
エツリは無策で飛び出した。ように見せた。いや実際無策なのだが、隊員達に変な仕込みをされないように、自身に注意を引き付ける意味で大声を出した。隊員達はエツリの大声に対してもまるで無反応で、飼い慣らされ、餌を待つしかできなくなった愛玩動物のように悪魔の後ろにくっついていた。
『おや……? どうやら取りこぼしがあったようですね』
カツカツと、裸足とは思えない足音を鳴らして近付いてくる悪魔に対して、エツリは刀を向ける。その刀身は無数の風の刃を纏い、今にも悪魔を切り刻もうと擦れ合って、当人にも不安げに聞こえる音を鳴らし始めた。
「止まれと言っている!」
『ほう。くくっ……どうやらとても素直なお人柄のようですねぇ……』
気色の悪い視線が値踏みしてくる不愉快に耐えられなかったエツリは、その懐に自ら飛び込み、踏み込みと同時に刀を横気味に振り上げた。
「せぇ――――!」
『何をするのですか!? やめなさい〝我が友よ〟!』
「えっ? あっ……? 俺、何して……」
エツリは無二の友人であるその悪魔に手をあげようとしていたことに気が付き、刀を降ろしながら困惑した。なぜ友を斬らなければならないのだろうか。とうとう魔力にあてられて気が触れてしまったのだろうか、と、彼は自分自身を訝るようにして刀を怪訝に見下ろした。
『くくく……そうです。そのような物騒なものは腰にしまいなさい。そして――――』
ゴォッ! と、ビルの角も丸めそうな激しい風が上空からエツリを吹き下ろし、彼を悪魔から乱暴に引き離す。咄嗟のことで受け身も取れなかった彼は、無様にアスファルトの上を転がりながら、ビルの壁にぶつかったことでなんとか止まることができた。
「でッ……! ちょ、何を――――」
『しっかりして!! アレは敵! あんな奴見たことないでしょ!?』
シルフの揺さぶりでようやく正気を取り戻したエツリは、麺の裏からキッ、と悪魔を睨み付け、低い体勢からすぐに斬り付けられるような構えをとる。
後ろでバカみたいに蠢いている隊員約二名(視界にいるのが二人)も、同じ魔法をかけられたのだろう。そして悪魔は安全に意識を奪い取り、安易と彼等を傀儡にすることができた、と考えられる。
『私の囁きを跳ね除けるとは、小癪な……!』
悪魔はシルフを恐ろしい形相で睨み付け、咬合の力で奥歯が砕けてしまうのでないかというほどに強く歯噛みしていた。今使った術に相当な自信があったらしく、それを突破されたことに怒りを感じているようだ。
「何だ、今の……」
『精神系の魔法みたい! 気をつけて! 堕天使だよ!』
堕天使と言われて、エツリは確かにそのような雰囲気をその悪魔に感じ取った。以前ヒバチが見せたガミジンとかいう悪魔に似た性質の魔力を包含している。ただあちらと違うのは、どうやらこっちはアレに比べればそこまで荒事向きではないらしい。
堕天使はエツリの警戒を無視して、はっきりと自尊心を表出した傲慢な態度で、シルフに向かって手を広げてみせた。優雅な所作とはあまりにも不釣り合いな姿形は、獣のように見られるからこそ過剰に紳士然とした振るまいを演じようとしている風にも見える。
『そこの羽アリ、私を〝堕天使〟などという著しく知性に遅れを取った呼び名で呼ぶのはやめなさい』
こだわりの強そうなハッキリとした語気は、遅くも早くもない適切な発音の速度であった。エツリはその猿顔の悪魔に油断なく刀を向けながら、二の句を待ってみた。わざわざ自分から呼び名を訂正するようなら、呼ばれ方にも当然こだわりがある。どう名乗るかというのが、何の悪魔かを特定するヒントになり得よう。
『私はグソイン。神の恩寵よりも見目正しき紳士たる者……』
「ご丁寧にどうも。ニンゲンです」
『如何にも愚かなニンゲンらしい皮肉なれや!! しかし許します、我が友よ』
悪魔に自分の名前を教えるほうが余程の愚か者だ。エツリは片方の肩を持ち上げてシニカルな笑い声を漏らした。
これは紳士を仮にも名乗る悪魔の暴言を皮肉ったものではなく、名乗られたにもかかわらず、その名前に全く心当たりがない自身に対する呆れを表したものだった。
『他方に得難い友のためです。一度の猶予を与えましょう……〝跪きなさい〟』
突然頭の中に響く二つの声の、一方はこのグソインの、もう一方は骨伝導によって耳にしっくりくる己の声であった。二つはまるで友人であるかのように気さくな文言の交接を展開し、あるいはそれ自体がエツリの意思であるかのようにはたらく。
彼は極めて自然な身振りから、片膝を地面に立てた。今度はこれが精神攻撃であると理解しているのに、体が全く抗えない。グソインという悪魔を〝憎めない〟。
『このあんぽんたんッ!! しっかりしろ!』
『なにッ……!?』
グソインに刀すら献上するのではないかというエツリの混乱に横入りして、シルフがギリギリで風の馴染み深さを思い出させた。
彼は目を覚ましたかのようにびくりと体を震わせると、すぐ近くに寄ってきて手を差し伸べていたグソインを下から斬り上げる。斬撃はすんでのところで避けられたが、グソインは反撃に転じようともせず、動揺を隠せていない千鳥足で引き下がった。
『一度ならず二度までも……!』
精霊はその存在自体が魔力による。哺乳類でいうところの水分のようなものだ。体の大半を占めるエネルギーである以上、その扱いも他の生物より数段高い位置の知識を以て心得ている。つまり魔力に対する耐性が強い。
精霊という種族自体が、その特性をあまり理解されていない。というのも中庸を好む精霊がこの混沌とした東京に留まろうとする訳もなく、また悪魔による制圧が始まる前の東京、つまり科学技術の発達した現代日本においては、信仰が失われており生体マグネタイトを確保できないという有様であったので、存在自体が認知されていないことがしばしばある。だからこの堕天使も、シルフに精神魔法が効かないことを知らなかったのだろう。
「誰の差し金だ」
素直に吐く訳はないと知りつつも、エツリは一応そう問いかけた。連れ去られた他の隊員達の居場所をも聞き出さなければならない。しかも一人でだ。試したことがある訳でもないが、口八丁に大した自信はなかった。
こんな時、携帯が通信機器として使われていた時代があったという話を思い出す。魔法の力を借りずとも遠く離れた場所の誰かと会話ができるとかいう話だ。エツリはその昔話を半信半疑で聞いていたが、今になってそれが欲しいと強く感じていた。派手に暴れるような悪魔ではないので、勝手に応援が駆けつけてきたグレンデルの時とは違い、増援は期待できない。
『人聞きの悪い……私に知恵を乞うてきたのはそこなるニンゲンの側ですよ。私は彼等に印形と魔法円によって正規に喚びだされ、責を果たしているまで……』
「そのイトミミズの群れに黒いスプレーかけたみたいな落書きのこと?」
『しかし事実です。それともニンゲン風情が、私よりも印形に詳しいと?』
エツリはシルフに目配せをする。彼女も同意見だ。そもそもこの印形からは、生体マグネタイトの痕跡が感じられない。つまり術が発動していないのだ。これが偽物か本物かを論じる気はない。どちらにせよ使われてはいないことが悪魔の嘘を証明している。あるいはここにいたのが生体マグネタイトを目視できるエツリやシルフとは別の人物であったら、その可能性もあると思わされ、揺らいだかもしれない。
なぜそんなものを用意する必要があるかと言えば、恐らく理由は一つ。こいつは本来の召喚者を隠そうとしている。それが誰かなど全く検討も付かないが、良からぬことを画策しているということだけは確かだ。悪魔の言い分を聞いてやるつもりはなかった。
『そうですね……ではこうしましょう。ここにいる隊員達は、諦めます』
「は?」
言葉通り、悪魔は隊員達にかけていた精神の拘束を解いた様子であった。二人の隊員はどさどさと崩れ落ち、その場で寝息を立て始める。どうやら息はあるし、しかも外傷はないと見ていい。
突然の隊員の解放に、エツリは困惑と安堵とが混ざった言いようのない感情に理性を追われ、思わず固まってしまった。
『それでは、ごきげんよう……』
『なッ……!』
そのために反応が遅れてしまったことは否めない。悪魔はモヤのように姿を変え、汚い夜霧と砂埃の中間に紛れる。ここまで魔力を発散させて逃走した悪魔を、魔力を目視して追いかけるのは彼にも難しい。
「シルフ!」
『えぇ! 見えてるわ! すぐにでも追いかけられるよ!』
しかしそこは精霊の面目躍如と言うべきか、彼女はエツリよりも更に高い精度で魔力の質を見分け、僅かに残る悪魔の足跡を完璧に追跡していた。
ただなんというか、それだけではない執念の様なものを感じる。あの悪魔を見つけだすということ自体に、並々ならぬ熱量を感じ取れるのだが……。
『逃す訳ないでしょ……こんなにかわいい女の子を指差して、羽アリとか……』
「あっ……」
ここまで特に言及がなかったので、シルフにはその程度の暴言は効かなかったのだろうかと、エツリは勝手に思っていた。どうやらそれは勘違いであったようだ。彼女は戦闘中だからなるべく冷静でいようとしていただけで、言われたことそれ自体については相当プライドが損なわれていたらしい。
『――――みじん切りよッ!!!』
「おっす」
エツリは舎弟のように返答した。
・グソイン
堕天使グソイン。レメゲトン第一書〝ゴエティア〟では序列第十一位の公爵。同年代に(ゴエティアの成立時期が不明なのでどちらが先行文献かも不明)書かれた〝悪魔の偽王国〟では、外套をまとった男であるという。
人心を操り、悪感情を友好に変えることができる。個人的なイメージとしては3Dモデルじゃないベリアルみたいなポーズで、猿みたいな体毛の男。
・印形術
中世におけるキリスト教諸派で発展した、印形(刻印とも)を用いる魔術の一種。ラテン語でアルス・ノトリア。アルスはart(技)の、ノトリアは恐らくknow(知られている。原型はnotoria)の意味。無理やり日本語訳すれば札付きの悪技。神霊に知識を求め、それぞれの学問になぞらえた幾何学的な模様に向かって祈祷するなどといった手法を取る。
ただ、これは神学大全中で明確に迷信であり邪法であると言及されてます。拙作中で召喚術のように扱っていますが、これは(言うまでもなくご承知ではあるでしょうが)コンテンツ的表現です。詳しいことは自分で調べてちょ。
シルフちゃんはかわいいって言われると『当然よ』って言う。かわいくないって言ってもすまし顔だけど内心ブチギレてる。そらかわいいって言われたいよな。俺だって言われたいもん。