赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他) 作:イリノイ州の陰キャ
前話と前々話でエツリ達のいる場所を誤って「渋谷」と表記しておりました。正しくは「池袋」です。予定では渋谷に行くのはずっと後の話ですね。ごめーん!!!
背中に目がついていればな、などと思ったことはないだろうか。
「マジで背中に、目ェ付いてンじゃねーかッ……!」
駐車場の天井にまで届く上背に、体の至るところから覗く無数の〝目〟。巨人はあの時のグレンデルほどの大きさとまではいかないが、少なくともエツリ二人分はある体躯で彼等を見下ろしていた。
「クソッ……! こいつマジで……何なら効くンだよッ!?」
アグイズの電撃と火炎、エツリの衝撃、そして隠していた破魔の魔法を用いても、アルゴスの体にそれらしい傷は付かなかった。
(こんなのとばっか戦ってるな、俺……)
人の形をした巨大な悪魔を敵に回すのは、これで三回目だ。ウベルリとグレンデルを相手に生き残った経験から、何となく動きは予測できる。逆を言えばそれだけだ。かろうじて攻撃をいなすことはできるというだけ。
当然、刀による攻撃も試みた。しかし、バジリスクの鱗すら魔法なしには貫けないナマクラでは、傷どころか痣すらも付けられない。
しかもこの巨人、目を狙おうとすると、狙われた目だけを器用に閉じる。青錆色の皮膚は本当に青銅でできているのではないかというほどに硬く、刀と擦れた時に火花を散らした。
「めんどくせェ〜〜……おイ!! クイックシルバー!! フォーモリア!! 何もたくさやッてんだ!! 魔法円は砕けねぇのかッ!?」
『うるさいわねッ!! 今やってるわよッ!! フォーちゃんを責めないでちょうだいッ!!』
『ブメェェ〜〜』
自称専属の二人を護る魔法円は、高度な構築性による強固なものであった。アルゴスに攻撃が通じないのであれば、その代わりに術者を叩けばいいというのは、極めて自然な論理の流動であろう。そして、敵がそこまでを想定するのもまた当然であった。
「だが、奴等は魔法円の中から出られない」
彼が指差した専属の二人は、それまでの饒舌が嘘のように黙り込み、額から流れる大量の汗をそのままにしながら魔言を唱え続けていた。鬼気迫る集中力……というよりは、それ以外のことには意識も向けられないというような、彼等の必死な念が伝わってくる。
「二人分の贄を出して、二人で力を押さえつけて、それでもまだ制御しきれてないんだ。プログラムも使ってない。悪魔が奴等の力を上回ってる」
「みてェだな。問題はこいつを倒すための、何かいィ感じの作戦が全く思い付かねェってこッた。あの見た目でオツムが働くッてなァ流石にずりィンじゃねーか?」
そう。それが問題だ。この巨人、全然隙がない。
一撃の攻撃力、俊敏さ、凶暴性、そういった点においては、ウベルリやグレンデルには及ばない。つまりフィジカルという面で見れば、前二者に劣る程度の範疇だ。少なくとも直撃さえ避ければ、殺されるということはない。最悪アグイズに見られるリスクを無視してでもシルフを呼べば、回復も簡単に追い付く。
「…………」
アルゴスは嫌になるほど理性的に、エツリ達の退路に立ち塞がっていた。つまり、唯一下に戻れるU字スロープの前に陣取り、その無駄にも思える数の目で、エツリ達の逃走を完璧に阻害している。負けないが、勝てない。そんな相手がたった一つの平を塞いでいた。
そしてこれ、これも問題だが、硬いのだ。強靭な皮膚と筋肉が、エツリ達の波状攻撃を見事にシャットアウトしている。
「どォすッかねェ……おイ、聞ィてる?」
武器も効かない。魔法も効かない。さぁどうする。時間をかければ不利になるのはこちらだぞ。
……なんて戦闘を何度もさせられているせいで、エツリにはもはや困惑もなかった。ただ気の遠くなるような気分にはなる。騒ぎ立てるでもないが、内心は吐き出していないだけの罵倒語でいっぱいだった。
(意識が……)
足下が突然失われたような感覚がして、エツリの足がたたらを踏む。拍動の度に頭からつま先までの血の通いを、不必要に鮮明に感じるようであった。足りない血液が一瞬でも下に行けば意識が揺れ、また昇ってきた血に脳が引き締められるような不快感が続く。
「おーおー……フラフラじゃねーか。まだ生きてッか?」
「お前等のせいだろ……」
「へッ。まァな」
この自称専属共に〝偽奥義書〟を強奪され、不意打ちで頭を殴りつけられ、そしてここにきて連戦、強敵との戦闘。たった一日の間におきた出来事だ。
Mとの数日間で癒されつつあった体力は、それまでのハードな日々の頃に逆戻りであった。
「そんなンでやれッか?」
「自分の心配でもしてろ」
「誰が心配なんざすッか。足引ッ張ンなよ」
軽口を叩きながらも、エツリ達は油断なくアルゴスを睨み付けていた。余裕ぶってやがる。まるでこちらからは手を出さない、とでも言いたげな落ち着き払った佇まいだ。奴等の残存魔力的にも、本当にこのまま静観している訳はない。ただ動きを最小限にして魔力消費をセーブしているのだろう。それでもアルゴスが本気になれば、成す術なく捻り潰される予感があった。
実際、何の手の施しようもない。結界に切り取られるように囲まれたこの場所に、他の逃げ道はなし。こいつを倒すか欺くか何なりして抜け出したいところだが、どっちも無理そうだ。直接術者を叩こうにも、それを阻む魔法円が硬すぎる。
「また色々試すッきゃねーわなァ」
「どうすれば刃が通る……?」
気付いたことと言えば、ザンよりはハマの方が若干効きがいいようだ。全く痛痒を感じていない衝撃魔法よりはまだ望みがある。
あるいはあの、ベルのような技が使えれば、少しは違ったかもしれない。つまりベルの技をザンで模倣したなんちゃって風龍撃ではなく、彼女やウベルリが使ったような……。
(本物の白龍撃を……)
「もォ全部の目を閉じさせよォぜ」
アグイズは固まってもの言わぬ人像と化していたエツリの肩を叩き、投げやりな提案で手のひらを開いた。
「閉じたら攻撃が……あ」
倒すことにこだわっていたが、別に倒さなくていいということをエツリは思い出した。奴の目を封じさえすれば、魔法円の中に閉じこもってる二人は単なる木偶の坊だ。
そもそも〝偽奥義書〟を取り返した時点で、奴等が気付いていなくとも、とりあえず一杯喰わせることには成功している訳だ。むしろ気付いていない今が好機と見るべきか。
「やり方は?」
「オ、乗り気か」
「いいから」
アグイズの考える作戦は非常にシンプルなものだった。
「オレとクイックシルバーで最大限のデカい火を付ける。お前が衝撃魔法で酸素を送ッて火勢をさらにデカくする。火と煙で奴の目を封じる。以上ォ!」
などと言いながら、アグイズは既に魔力を収束し始めていた。迷っている時間も惜しいとばかりにエツリの面を睨み付けている。
「……どのくらい時間を稼げばいい」
「分かッてンなァ。話が早いぜ」
アグイズは1秒に満たない間に逡巡を済ませると、すぐに結論を出した。
「15秒。そンだけでいィ」
彼は携帯で帰還命令を出すことにより、大声を張らずとも簡単にクイックシルバーを呼び戻した。そして再度召喚しなおすと、先ほどと同じような作戦を仲魔に指示する。
『全く腰が痛いのよッ!! もっと労わっておくれよねッ!! 大体アグちゃんねッ!! 召喚する時は事前に予定を教えなさいっていつも言ってるじゃないのッ!! 何回言っても聞かない子なんだからもぉ〜〜ッ!! それにフォーちゃんはああ見えても繊細なんだからもっと優しく――――』
「うるせェ〜〜、ババァ話長ェ〜〜、つかてめェ腰とかねェだろ、しのごの言ってねェでとッととやるぞ」
『仕方ない子だねぇ〜ッ!!』
サムい漫才に付き合うつもりなど微塵もないエツリが、彼等を捨て置いてアルゴスに突撃する。ごちゃごちゃ言ってないでさっさと始めろという意思表示だった。
「ホイホイ撃てる規模じゃねェ。一発勝負だぜ。ヘマすンなよ」
即座にアルゴスの叩きつけがエツリを襲う。彼は左手でザンを地面に放ち、拳の人差し指を掠めるようにして右に避けた。
「せッ……!」
降りてきた腕を斬りつける。ガキン、とかいう天然の高分子有機化合物にはありえなさそうな音がした。
「かっっったッ!!!」
2割マシで魔力を解放した風龍撃であったが、アルゴスの硬い皮膚を撫でるばかりで傷を付けることはなかった。
「おーイ、それバジリスク相手に見たぞ」
「集中しろッ!」
どうにも緊張感のない二人であったが、両者とも額には汗を浮かべていた。
アルゴスが叩きつけた腕を振り払うのを宙返りで回避したエツリは、着地したところを狙って振り下ろされる腕を見ず、勘に頼って転がった。何とか追撃は切り抜けたものの、続けて巨人のつま先が風を切る音がするエツリは咄嗟に前方へと走り出しながら倒れ込むようにうつ伏せとなり、アルゴスのローキックに潜り込んで回避する。当たれば刀や魔法で防御しても致命傷、頭を殴られれば即死だ。いくら悪魔召喚プログラムによって常人離れした強靭な身体を持っているとはいえ、単位で言えばトンとかありそうなパンチをまともに喰らって無事な訳がない。
(馬鹿力……!)
肺呼吸で胸の中に悪態を満たし、エツリは面の裏で苦々しい表情を浮かべた。その間に魔力を収束させつつ、次の動作に移る。
ザンは急所っぽい場所に命中しても無反応。ハマは一応痛がる素振りを見せるが、全力投球のカラーボールを投げ付けられたくらいの痛がり方だ。エツリは段々イライラしてきた。ここまで通りが悪いと嫌になる。
「当たるか……!」
アルゴスのリーチに付き合ってやる必要はない。エツリは腕の届きにくい懐で攻撃を避け続けていた。対応するようにアルゴスも蹴りを主体に彼を捉えようとするが、振り上げた足を逆に踏み台に利用され、アルゴスの顔の前にエツリが現れた。
「どれにしようか……なッ!」
アルゴスの目は文字通り百目、両腕の半ば、それこそ二の腕の表と裏にまで目蓋が開いている。エツリは無数のうちの一個、右眉に最も近い場所にあった目を狙って風龍撃を繰り出した。
ガツッ!!
アルゴスの顔周辺の目が閉じられ、切先が欠けそうな衝撃がエツリの腕に伝わった。これなら確かに、どの目を閉じて防御をするとか考えなくていい。エツリは胸に溜まる悪態を吐き出すよりも先に、空中という無防備な位置からどうやって反撃をいなそうか、という思考に切り替わっていた。
アルゴスは無防備なエツリの落下地点を予測し、それよりも上の位置、つまり空中にいる時点で彼を捉えようと腕を横に振りかぶった。
「しっかり見てろよッ……!」
その瞬間、エツリが自らの周縁で術が発動するようにハマを放つ。ハマの光でほんの一瞬だけアルゴスが怯んだ瞬間を狙って、エツリはザンをブーストのように利用して無理矢理遠くに離脱した。
「離脱のタイミングもぴッたしだ。準備完了だぜェ!!」
コンクリに衝突してもがくエツリを横目に、アグイズが尖った犬歯が目立つ凶暴な笑顔を浮かべた。
「〝マハラギオン〟ッ!!」
クイックシルバーの引き起こした火花が爆炎となり、導火線が一瞬で燃え繋がるかのようにアルゴスへと向かう。巨人の背丈にも届きそうな火炎が巨人を焼き尽くそうとうねりをあげるが、アルゴスは酷く熱がってもがきながらも無傷だった。
「〝ザン〟ッ!!」
そこにすかさずエツリが衝撃魔法で酸素を送る。激甚たる勢いで空気が消費され、煙が天井に溜まっていく。エツリは床にへばりついたまま、アグイズはぼーっと突っ立ってそれを眺めていた。
「おォーー。壮観だねェ……じゃねェ!! とッととずらかるぞッ!」
煙と業炎で目をやられたアルゴスは、バランスを崩して尻餅を突くと、その場でやたらめったら腕を振り回し始めた。あの炎の中に突っ込むのは最悪だが、そこは火元であるアグイスが火を操ることで、何とか彼等が抜けられそうな隙間を作り出した。
「よしッ!! スロープだッ!! ちゃンと付いて来てンだろォなァ!」
「前向いて走れ!! もう立ち上がってるぞ!」
これだけやってアルゴス奪えた時間は10秒に満たなかった。片膝を立たせたアルゴスの無数の目のうちの二、三個が、涙を流しながらも目蓋を開き、彼等を捕捉した。
そしてすぐさま両脚を立たせると、怒り狂って全ての目を充血させながら彼等に走り迫ってきた。
ドスドスと威圧的な足音を背にしながら、鈍重な体に鞭打って追いかけてくる。鈍重な体に相応しい鈍足で、鈍そ、く……鈍……。
「はッ、いやいやいや、足速すぎだろッ!? あの巨体でどォなッてンだよ!?」
あの筋肉量ではどうやって自重を支えているのかすら分からないのに、巨人は一歩毎にコンクリに深い足形をつけながら、じわじわとエツリ達との距離を詰めてきていた。
「やッべやッべやッべ!!」
「ここ曲がれ!」
咄嗟に狭い柱の隙間を横切って、アルゴスを翻弄するルート取りで一階を目指す。機敏なエツリに追従する形でアグイズがラインをなぞり、何とか追いつかれるギリギリを走っていた。
「うォッ!? ア!? さッきの猫かコイツ!?」
「構うな!!」
異界化した結界内部にいる動物なんてロクなものじゃない。下手に素手で触って余計な〝縁〟を付けられたくなかったエツリ達は、子猫の上を飛び越えて無視し、並走して出口へと走った。
「もォ少しだッ!! あンなデカブツじゃ出口は抜けらンねェッ!!」
「アグイズ!! 伏せろ!!」
追い付けないとみたアルゴスが一か八か、柱をもぎ取って投げ槍の要領で彼等に向けて投げ飛ばした。いち早く察知したエツリが、彼の両肩を掴んで一緒に無理やり倒れ込む。頭上スレスレを飛んだ支柱は、エツリ達がこのまま走っていれば丁度という地点に突き刺さった。
「あッ、あッぶねッ!!? あのクソノッポ殺す気か!!」
「いいから立て!!」
殺す気なのは当然だろ、とかツッコミを入れる余裕もなかった。互いに立たせ合うようにして、彼等は足をもつれさせながら無様に出口を目指す。というのも、後ろでもう一本支柱をもぎ取ろうたしているアルゴスの姿が目の端に映った。
彼等はもう一心不乱に走った。とにかく出口を抜けてさえしまえば、柱の投擲による攻撃なんて無意味だ。
「うおおォォーーーーッッ!!!?」
アグイズが叫んだ。勢い余って彼等は前のめりに倒れ込みながら、二人同時に出口に頭から突っ込んでいった。
どさ、どさ、と二人分の情けない音が鳴る。土嚢が二つ落ちてきたみたいな音に反応して、言いつけ通り出入り口を守っていた部下達がどよめいた。
結界の外に出た瞬間、光が……なんてことはない。魔力の匂いが薄れ、またあの不気味な静音からも解放される。彼等は明けない夜の中にある東京に戻ってきた。体にまとわりつくような嫌な沈黙から脱すると、彼等の全身から役割を思い出したかのように、突然大量の汗が吹き出した。
「ア、アグイズさん!?」
「はぁッ、はぁッ、はあぁ、うッ……」
「ど、どうなったんですかいッ!? アグイズさん!」
「はぁッ、はぁッ、ちょッ、ちょッ黙って、黙ってろッ……はぁッ、はぁッ……」
結界の中から突然飛び出してきたかと思えば、疲労困憊でその場に転がる二人を見下ろしながら、アグイズの部下達は困惑していた。
「あァ〜〜〜ッ、も、今日はもォ働かねェ、働かねェぞオレはァーッ……!」
肩で息をしながら、ヘロヘロな声で情けないことを宣言する上司に対して、口を挟めるような冷静な部下はここにはいなかった。
「ここは、またか……?」
数分にも満たないうちにベルフェゴールを打ち倒したMは、〝未だ空高く立ち上る二枚の生人結界〟を迂回しようとして西に向かい、そしてまた着いた先でベルフェゴールの亡骸の前に戻るというのを繰り返していた。
「…………」
Mの体感で大体、10時間は経っていた。あるいはそれ以下、それ以上かもしれないが、通常にはあり得ない距離を歩かされていた。しかも、着く場所は同じ。何度やっても同じ場所に出てくる。
単純な直線距離で、かつ歩き通しでいられる体力があると仮定して(実際、三日三晩を不眠で戦ってもキレを失わないMならば十分可能である)考えれば、10時間は世田谷から江戸川まで横断し、さらに1時間到着した先で休息できるほどの距離だ。普通なら池袋内の、しかも同じ場所から出られないなどということはない。
Mはもう一度西に歩き始め、また先ほどとは違う道を選びつつ、火の手が上がる方を目指した。
「また、ここか……」
やはりそこにあるのは瓦礫と、ベルフェゴールの亡骸だった。舌をだらしなく垂らし、左右の眼球が別々の方向を向いている悍ましい様相で、胸に巨大な風穴を開けられた姿で座して黙する魔王は、まるで出迎えるかのようにそこでMを待っていた。
「んー……困ったな……」
そしてまた歩き始める。今度は東へ。Mは一刻も早くこの場を抜け出し、不肖の弟子の安否を確かめたかったので、足取りはその苛立ちを反映して早まっていくばかりであった。
アグイズは一部の部下を見張りとして結界の入り口近くに設置すると、残りの部下は巡回に戻らせ、自身はエツリを連れて事務所へと戻っていた。
事務所に入るなりオーデコロンの、壮年の男が好んで付けていそうな香料の匂いがして、エツリは面の下で眉をひそめた。討伐隊としての本能とでも言うべきか、鉄火場において一つの情報となる匂いを邪魔してくるものに対して、彼は良い印象を持たなかった。
「確かにこりゃ……ダメだな。どッかで本職レベルの奴に頼ンで封印してからじゃねェと……」
エツリは〝偽奥義書〟を包んでいた呪図布を取り去って布だけを回収すると、包んでいた冊子を乱暴に机の上に投げた。途端に立ちくらみがするような悪意の支流が弾き出され、枝を分けるかのように飛び交う。アグイズは思い切り顔を顰めた。エツリも面の下では嫌そうな表情を浮かべていた。
あまり長い間、剥き身のまま一目につく場所に置いておくのは得策ではない。それから生身でこの瘴気を長時間受け続けるのも、精神に若干の異常をきたす可能性がある。封印は喫緊の問題だが、アグイズはどうするつもりなのか。
「もォその布くれよ。言い値で買うぜ」
「ダメ」
「ケチ」
エツリが護衛をしていた段階では、〝偽奥義書〟はおそらく適切と言えよう封印が施されていたのを、彼自身の目で確認していた。棺桶のような木箱に鉄の杭を打ってガチガチに固定していたものだ。〝商人〟が雇った輸送隊は、護衛のエツリ達を除いても六人はいた。木箱の重量だけで、持ち歩きにその人数が必要だったから。六人も使って抱えていた厳重な木箱の中身がまさか、こんなよく分からない小さな冊子だとは、運んでいた連中も夢にも思わなかっただろう。大半は夢どころか〝商人〟共々殺されてしまった訳だが。
あの箱はマトリョシカのように何重もの封印を重ねた結果と思われる。だからそれを運ぶ人手が必要だった。そう考えるべきだ。やはりこの本を長時間接触できる距離に置くのは良くないな、と、エツリは臭いものでも持ち上げるかのように本を指で摘み上げた。
「しッかし、無事に奪還できたのはまァいいとして、厄介なモン抱えちまッたな……」
アグイズは目的の物品を入手したというのに、どこか、いや、あからさまに憂鬱げだ。貧乏くじを引かされたのはお互い様だが、事前に中身を知っていた彼がそんな雰囲気を出すのはどういう了見か。
「それがあんたの仕事だろ」
「そォだけどよォ〜……オレだって中身がこンなモンだと知ッてりゃ、ウチの管轄で引き受けなかッたっつーの……」
「俺に説明してただろ、中身のこと、鼻高々にさ」
「だァからァ、アシズに聞かされてたことをそのまま言ッたンだよ」
中間管理職の悲哀をたっぷり滲ませて(その割には部下相手には結構自由に振るまっていたが)、サムい泣き真似をした。
確かに結界内で最初に〝偽奥義書〟を見た時の反応といい、アグイズはどうやら最低限のことしか知らされていないようだ。
あの二人に啖呵を切っていた時のセリフによれば、彼も何か名前のある役職に就いているようだが、それでも絶対的権力者のアシズに比べれば、微々たる差であるということなのだろうか。
「つーかよ、お前こそ、このままじゃやべェンだろ? 依頼人を殺された挙句、そのホシに復讐もできてねェ人外ハンター。経歴にケチが付いちまッた」
「…………」
お前が気にすることじゃない、と言いたかったが、わざわざ嫌味を言うための前置きとは思えず、エツリは無言で続きを促した。
「提案なンだが、奴等を血祭りに上げ、汚名を帳消しにして、しかも金も稼げる。ンな方法があるッつッたら、乗るか?」
「何だそれ」
「気になンだろ。じゃー教えてやッからよく聞けよ」
アグイズはふんぞりかえって、つま先の方で組んだ足をどっかりと机の上に乗せた。ガン、という音がして、エツリは面の下で不愉快だと言いたげに表情を歪ませた。
「〝商人〟の契約にオレの依頼を上書きする。今からお前の依頼主はオレだ」
「そんなことできるのか?」
「あァ。オレらと奴とは浅い付き合いじゃねーからな。商会に登録してる依頼者側のアカウントのパスも、いざッて時のために交換してある」
そのいざという時が本当に訪れるとは思わなかった、という顔で、アグイズは携帯を訝しげに操作した。彼はエツリの端末を要求してきたので、言う通りに画面を翳してみると、
クエスト:〔護送依頼〕変更→〔オレを手伝え〕
もっとマシな依頼名はなかったのだろうか。と言いたくなるようなクエスト名称に修正されていた。依頼者もアグイズに変更されている。
「期間はあの〝専属〟を名乗ッてるクソ共と、そいつ等の糸引いてるカスをぶッ殺すまで。報酬は〝商人〟の奴がお前等に払う筈だッた額を満額、オレのポケットマネーから出してやる。
確かに、Mとエツリに支払われるはずであったマッカが表示されていた。協会に一部仲介料が流れるとはいえ、額面で見れば同じ金額だ。
「……何で俺なんだ」
わざわざ、自分に依頼を出す理由が分からない。二桁数いるご自慢の手駒を使えばいいだろうに。エツリの気がかりはそれだった。お目当てのものは奪還して、アグイズとしては十分元は取り戻せたはずだ。取引があるとはいえ、わざわざ金まで払う必要はない。
「あ? あァ……ビラヴドの奴がな、お前のこと気に入ッたから連れてこいッてよ」
「はぁ?」
「ま、気にすンな。部下に任せたくない仕事もあるッてことだよ」
絶対に何か別の意図があるが、エツリはそれを追及しようとは思わなかった。歯切れの悪いアグイズの言い訳の内容がどうであろうと、結局は彼に選択肢などない。本来は討伐隊所属だとバレれば、ハンター協会にも討伐隊にも席を置いておけなくなる。陣営が宙ぶらりんのまま人外ハンターの身分を捨てる訳にはいかないし、Mのこともある。彼は面の裏で音なくため息を吐くと、端末の画面をタップした。
「ほーン。〝コーエン〟ね。これがお前の名前か」
ここまで意図的にハンター名を隠してきていたが、名乗らなかった彼の名前を聞くと、アグイズはニヤニヤと表情を上機嫌な方向に変えた。
(だから教えたくなかったんだよ……)
何を思っているのか。似合わない名前だと思うのか、あるいは人の名前を利用して何か奸計を立てているのか、とにかく嫌な笑顔だった。
「しかしなァ。〝商人〟のヤツ、あの自称専属ハンター共とはどォいう繋がりだッたのかね」
アグイスの懸念は、エツリとは別のところにあるようであった。彼は事務所のソファにどっかりと座り込み、机に投げ出された〝偽奥義書〟をなるべく視界に入れないようにしながら、天井を眺めていた。
「〝商人〟が裏切ってたんじゃないのか」
「じゃー何で殺されてンだよ」
「そら……裏切りなんかするヤツは、寝返ってきたとしても信じられない、とか」
あの〝商人〟とかいう男の人となりを知っているのは、おそらくMの方だ。彼女も仕事を何度か請け負った程度のものらしいが、少なくともエツリよりは面識があるはずだ。だから彼からすれば、あの男に裏があるとして、しかもそれが敵に与するものであると考えるのは、ある意味当然の思考の帰着であった。
「それはねェよ……つーのはオレの勘だが、まァやッぱねェだろォな」
「何でそう思う」
勘、などと言いながら、アグイズは具体的な反駁を思い付いているようだった。
「オレ等は互いにハンター協会の登録情報を知ッてンだ。そこまで手の内見せ合ッといて、そンなリスクを選ぶ男じゃねェぜ」
確かに、アグイズと〝商人〟はギブアンドテイクとはいえ、それなりに通じた仲であるあるようだ。協会の登録情報まで交換しているというのは行き過ぎな気もするが、そこは戦闘職のニンゲンには分からない、こういう人種同士の何か取り決めのようなものが存在するのであろう。
だからこそ不可解なのは、なぜあの〝専属〟ハンター達が、アグイズ達の情報網にも引っかからない内に〝商人の専属〟を名乗り、しかもその通りに振る舞っていられたかということだ。
「ま、今は考えてもラチが明かねェ。今日は解散だ。オレはもう無理」
彼は占領していたソファにそのまま寝転がり、頭の後ろで手を組んだ。彼等は既に疲労困憊だ。エツリは連日の戦闘に加え、アルゴスからの逃走、アグイズもあの時魔力を使い切ってヘロヘロだ。休養の足りない頭でいくら考えをこねくり回しても、建設的な議論になるはずもなかった。
「……明日の朝、ここに来る」
「そォしてくれ。そン時は是非お前の相方の
それにはエツリも全く同意見だったが、いかんせん彼女の居場所が知れない。結局あの結界の方と同じ方向に伸びていたMの魔力は途中で途切れていたし、まぁまぁな距離をかけずり回っていた彼等と遭遇したりもしていない。エツリとアグイズは、それこそ池袋を一周してまだ余るほどの距離を歩いたはずだが、Mの姿はおろか、その気配や活動の痕跡すらも見つけられていなかった。
(ま、あの人は平気か)
エツリには正直、Mが誰かに負ける姿も、術中にハマる姿も想像できなかった。もしそのような規格外の強者がいたとすれば、それは当然エツリにはどうしようもない相手だ。
それに、もしかしたらMの方も無意味に歩き回るのは止めて、先に隠れ家に戻っているかもしれない。
「しッかり休めよ。明日から報酬分、コキ使ッてやッからな」
一つの死線を共有したことが要因か、アグイズはもうすっかり気安くなっていた。
エツリは相変わらず無言だった。ただ、去り際に軽く右手を挙げ、それを挨拶の代わりとした。
・アルゴス
邪鬼アルゴス。全身に100の目を持つとされる、ヘーラーの配下の巨人。ヘーラーに命令され、暴れていたエキドナを退治したとされる。またそのヘーラーの命令でイーオーの監視を任されていたが、ヘルメースに虚を突かれ殺害される。
・威霊図霊布
Mから贈られた強力な呪図布。ショウキの図が描かれた長い布帯の字面符で、如何なる悪意から内外を分ける。また、朱墨で重ね書きされた明呪が書き連ねられており、その効力は絶大。Mはこれを破敵剣に巻いている。
しれっと出てきたけどこれから度々出番アリ。多分このまま最終装備の一つ。
頭文字が〝ア〟のキャラが多い……「アシズ」と「アグイズ」のニンゲン二人は当初から決めてあったキャラなんすけど、アルゴスは書き始めてから追加した悪魔で、すなわちアレです。後付けってヤツです!w
すみません。ホントに。読みにくくて……。