赤クソ(ガイア)と白クソ(メシア)とクソ(他)   作:イリノイ州の陰キャ

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 三途川然り、スティークス然り、ヴァイタラニ然り……死の前には流水がある。ナーストレンド(死人の浜)の館は終末に大蛇を受け入れる。自らが殺した毒蛇の亡骸を壁に埋め付けたのに。何度も。



生死分水

 

『キュルルル……』

 

 舌を巻く音を鳴らし続ける龍を前にして、三人はカエルのように身動きを封じられてしまった。その巨躯にまとう湿気は粘っこい緊張感を醸しており、彼等の脳中に嫌でも最悪の予感を思い起こさせた。

 

「迷路が思ったより簡単だったかと思えば……誘導されていた訳か……!」

 

 ソメガミが舌打ちをするのに反応して、龍の鳴き声にもクリック音のような破裂音が混じり出した。威嚇しているのか、あるいは何か意図がある鳴き声なのか、とにかく人間には解らない何らかの暗合を試みようとし、そしていずれにも伝わっていない。

 

『下がって……!』

 

 シルフに促され、じりじりと後退するエツリに続き、二人も龍を睨み付けながら、ゆっくりと、音を立てずに後退する。

 

「お、お? い、意外とおとなし――」

 

 

 

『キュオオイイイイイ!!!!』

 

 

 

 突如として響かせられる金切り声に、全員がデジャヴを感じた。これは東京タワーの入り口で聞いた謎の音――――。

 バインドボイス。エツリはやっと自身の意識を奪い取ったものの正体に気が付いた。思えば、異常な厳寒であったとはいえ、あの一瞬の寒さだけで気を失うというのも不自然な話だ。

 幸いにして今回は、殆ど察知していたシルフが風の膜を生み出して反響を低減させたことによって、軽微な被害で済んだ。全員脳を揺さぶられるような不快感に足下を踏み荒らしつつも、しかし敵を見据える眼差しだけは揺らさない。

 

「ニーズホッグ……!!」

「メシア! アレを知っているのか!?」

「既に使徒連が討伐した筈の悪魔です……なぜ東京タワーに、しかも、こんな……!」

 

 彼等の会話を待ってはくれず、振り上げられた尻尾が地面に叩きつけられ、彼等は分断される。エツリは右に、二人は左に。誰かの血がゆるく固まった地面を転がりながら、エツリは口元を拭い、刀の柄に手を乗せた。尻尾の向こうで二人の声も聞こえてくる。

 

「エツリさん! 大事ありませんか!」

「そっちは!?」

「こちらも無事です!」

 

 尻尾で分断された向こうから声が聞こえてくる。ずるずると蠕動する尾はその場にとどまったまま、ニーズホッグは器用に状態をくねらせ、エツリの方に顔を向けた。

 

(まずい……!)

 

 粘着質な音を立てて開く口を見て、エツリは背中の皮が張り詰めるような気分に陥った。この至近距離でブレスを喰らえば、それが炎だろうが冷気だろうが一貫の終わりだ。

 

「くっ……アギッ!」

 

 尾の向こうで鈍った橙の光が明滅する。火球はニーズホッグの胴に着弾する前に、火勢は窄み、僅かに邪龍を熱がらせる程度の威力しか生まれなかった。

 

「この水気さえなければ……!」

 

 部屋があまりにも湿潤なため、ソメガメのアギは湿気ってしまっていた。

 そうしているうちにも、ニーズホッグの口の周辺に生体マグネタイトが集まっていく。逃げようにもすぐ右は死体の壁、床は血や臓物で汚れ、グリップが効かないので、全力で走るのが難しい。エツリはせめてもの防御で折れた刀を抜き、顔の前で構えた。

 

『キュカッ! カッ、カカカカ!!!』

「エツリさん!」

 

 興奮するニーズホッグの鳴き声に水気が増したことに気付き、尾の向こうでベルが叫ぶ。彼女は槍で懸命に尾を攻撃し、逃げ道を作ろうとしているが、その硬い鱗に有効な一撃を加えることはままならなかった。

 

『キュルルルルルルルッ!!』

『――や――るか――――!」

 

 マグネタイトの奔流が、プラズマ放電となって口から放たれる前に、シルフが生み出した風の障壁に、コンマ数秒の極めて僅か瞬間だけ拮抗する。その間に彼は風に乗って尾の細いところを潜り抜ける。髪の毛の先が尾の裏に入りきった瞬間に咆哮が放たれ、ギリギリ抜け切らなかった雑嚢の端が焼け焦げた。

 

「凌いだか!」

「油断しないで! 次弾が来ます!!」

 

 振り上げられた尾に反応して、ベルが槍を持ち直す。更に叩き付けられた尾に対して、今度は三人とも同じ方向に避けた。

 そしてまた先程と同じく、雷撃を伴った咆哮を発射する前の若干の溜め。今回は尾で顔が隠されていないので、ベルやソメガミがその大口を狙うことは容易だった。

 

「アギッ!!」

『シューーゥゥーー!!』

 

 火の弾ける音がした瞬間、邪龍は咆哮を中断して自らの口を塞ぐ。唇のない龍の悪魔はその鋭利な牙をも鱗のうちに隠し、火を完全に防御した。自身の弱点をよく理解している様子だった。

 

「小癪なッ……」

「ならばこれは!!」

 

 口を閉じて隙ができた瞬間を見澄まし、ベルが槍に神聖を纏わせた。ニーズホッグが反応する前に体を捻って、下から突き上げるようにして刺突を放つ。閃光は激しく横に光を伸ばして、遅れること一秒後に強烈な打撃音が後を追ってきた。

 エツリにはその清浄な光に見覚えがあった。あれは白龍撃。流石にウベルリの拳ほどの物理的威力は持たないものの、神聖という点においては、あの土塊の巨人をも上回っている。

 

『キュカカックク、カカカ!!!』

 

 しかし、ニーズホッグは確かに怯みはしたものの、その鱗を刺し貫くことはおろか、小さな傷を作ることすら叶わなかった。思わぬ一撃に不覚を取った邪龍は、刺突を喰らった顔を大きくのけぞらせたが、そこに傷跡はない。ただ逆上させるばかりだった。

 

「硬いッ……!」

「ベル! 次が来るッ!」

 

 その巨躯、そして見合わない小さな足は、自重を上手く支えられないためか全く鈍重で、得物を定める蛇頭のように緩慢な仕草で尾を振り上げる。攻撃をした後の隙だらけの格好からでも、見てから容易に避けることができる類の動きだ。

 現実、彼等は余裕を持って三度目の叩き付けを回避した。しかし彼等の表情には余裕がない。三人ともこの場で有利なのがどちらなのか、よく心得ている。

 あの寒い回廊と悪魔達との戦闘で、彼等は消耗している。今こそ軽やかに攻撃を回避し、電撃のブレスも口へ火球を当てて牽制することで防いでるが、持久戦をしかけられれば、先に折れるのはどう考えても彼等の方だ。

 

「このままでは、窮するばかりですね……」

「ジリ貧という訳か」

 

 ジリ貧、と聞いて、最近そんなことあったな、などと、エツリはのんきな思い付きを止められなかった。彼からすれば(望んでそうなった訳ではないが)慣れた話だ。突然悪魔に遭遇し、生命の危機に陥るなどは。というよりかは、討伐体の隊員としてやっている人間や、運び専門でもない通常の人外ハンターなんかは、誰も彼も日常的に命の危険を感じる一面に遭遇する。

 これもそれと同じ手合い。そして、最早生きるか死ぬかどうかなどということを気にする段階でもない。ただとにかく、生存欲求がパターンを想定しては没を付ける作業に飽きないまでは、生き残るための行動を模索するのみ。それに、あのウベルリよりは絶望感が薄かった。奴はこの蛇より巨大で、俊敏で、かつ視力にも瑕疵がなかった。それに比べれば、まだ打開できる可能性があるというもの。

 

「ザンは……ダメか」

 

 エツリにだけ見えるようにして、シルフが首を振っていたのを横目に捉えた。火炎に関しては、この異常湿度が威力を激減させてしまうので、有効かどうかも解らない。というよりは魔法攻撃に耐性がありそうだ。先程の白龍撃は、ハマの聖なる力よりは、ベルの細腕から繰り出される慮外の膂力に怯んだ様子だったし、物理的な攻撃の方が有効かもしれない。

 

「どこか、鱗に守られてない場所に直接攻撃を――」

「待てエツリ君! まだ何か気配があるぞ!」

 

 ニーズホッグの緩慢な動きに、緊張が弛緩しかかっていた一同であったが、ソメガミの発見により三人はまたしても背を凍らせる思いをする。彼が指差したのは邪龍が立ちはだかり守る祭壇の更に裏、薄暗い部屋の中で、何か黒い影の塊が身じろぎを繰り返していた。

 

「あれ、は、人?」

「どうやらそのようですね……状況から考えて、あの者が召喚者……!」

 

 黒い影の塊の端に、垂れるような繊維が見えた。髪の毛が左右に揺れ、立つでも腰を降ろすでもない中途半端な体勢で、こちらを見ているんだか見ていないんだか、これまた中途半端な位置を視線でなぞっている。

 

「どうする? お茶にでも誘うかい?」

「いえ、無駄です。話は通じないでしょう」

「うるさいな。単なる冗談を本気にするな」

「そうではありません。あれは……」

 

 糸で釣られるように爪先から上がり、たどたどしく横移動する動きに、どうやらソメガミも違和感を覚えつつあるようだった。エツリは彼に答えを教えることにした。その表情は面に隠されているとはいえ、声音には多分に嫌悪感を滲ませていた。

 

「魂を乗っ取られてる。動くだけの死人だ……」

 

 ベルやエツリからすれば一目瞭然だ。醸す生体マグネタイトの質が、人間のそれではない。しかもそこの邪龍と同質の気配を放っているとなれば、最早話は簡単ですらあった。

 悪魔との契約を違えれば、人は簡単に全てを失う。力量を伴わない召喚は、その分だけ上乗せされた代償をも伴う。あの様相を人と呼ぶべきも怪しいが、エツリは哀れみを隠すことはできなかった。

 

「身に余る悪魔を召喚した代償か……」

「術者がいるのではあれば、それを叩けば何か好転しそうですが、あの位置では……!」

 

 魂を縛ってまで召喚者を生き存えさせているのは、恐らく術者自体がニーズホッグを物質界に結び付ける〝楔〟の役割を果たしているからだ。祭壇の奥という、こちらから攻撃が届かない場所に置いているのも、殺害されるのを恐れているためだろう。

 そうならばむしろ、部屋の湿度は低い方が、また温度もこの部屋の外のように寒い方が都合がいい。魂を失った肉体は死に体に等しく、普通なら体は腐っていくばかりだ。

 

(それに……)

 

 術者自身の生体マグネタイトが充足しているのが不気味だった。ニーズホッグほどの悪魔の召喚、それも身の丈に余る無茶な召喚をしているにもかかわらず、男は申し分ない程度のマグネタイトを発している。

 あのマグネタイトのお陰で、魂が失われているとはいえ、一つの生命としての活動が許され、この温度、湿度でも体が腐らないのだろう。しかしわざわざそんな遠回りなことをしてまで、ニーズホッグが部屋の状態を保ちたがる理由は何だ? 何か、そうしなければならない理由がある……。

 

(……どっちだ?)

 

 最早慣れた動作で、彼等は尻尾の叩き付けを避ける。その隙を狙って口部への攻撃を試みる二人を前に置き、エツリは一人思案に終始していた。

 

『こういう時の疑問は、多分合ってるよ』

 

 自身の疑念に自信が持てないエツリの様子を察知して、シルフが耳元で囁いた。一瞬だけ目を見開いた彼は、すぐに頷いてみせる。どうせ他に策はなし。試せる術があるなら、まだ余力があるうちに試しておかないと、後で思い立っても体力が足りなくて叶わないでは、全く意味がない。

 

(頼りにしてるぞ……)

 

 シルフは頷いて、不完全な透明化を解き、再度完全に透明になった。その過程をベル達から隠すようにして体を挟み入れていたエツリは、シルフが完全に空気と混ざったのを確認すると、ますは冷静にニーズホッグの尾の攻撃を避け、それが振り下ろされた直後を狙い、一気に後方へと駆け出す。

 

「エツリ君! どうする気だ!?」

「扉を破る……!」

「扉をですか!? しかしニーズホッグが……!」

 

 奴の尾は扉に近付こうとするエツリ目掛けて、先端を鋭くしならせた。その手前のベルやソメガミなど意にも介さず、まっすぐエツリに向かって振り下ろされる。彼は背後に迫る風圧に気付いていながらも、あえてそれを無視して抜刀し、その折れた刀の柄頭にマグネタイトを集めだした。

 

「吹っ飛べ……!」

『キュゥーーゥゥーイイ!!!』

 

 エツリの背の直前にまで迫った尾が、二秒という短い間のみ、完全に空中で停止する。地面や物体に到達する前の不自然な位置で硬直し、その間に彼の刀の柄には、縦横に奔放な風を吹かせる空気の球が生み出され、それを閉じられた扉に思い切り叩き付けた。

 

「白龍撃……! いや違う。あれは……!?」

 

 驚愕するベルの声を背に、エツリはすぐさま床を転がって扉から遠ざかる。彼のいた場所には、自由を取り戻した尾が激しい破裂音をあげて叩き付けられていた。

 

「クソッ! これでも駄目か!!」

「いや! これでいい!」

 

 鉄の両扉は真ん中に大きな凹みを作ったが、完全に開くまでには至らなかった。しかしその人一人が抜けられない程度の隙間から、部屋の外の寒気が入り込んでくる。膨張した熱気を押して、この周囲に強烈な突風を生み出していた。雪崩れ込む寒気に三人は思わず身震いするが、更に強烈に反応を示したのは、彼等よりも寧ろニーズホッグの方であった。

 

『キュルルル……! カッ……カッ……クク』

 

 寒気を諸に浴びた尻尾を横に巻き、体を縮こませるニーズホッグ。苦しそうに声を詰まらせ、不規則に舌打ちのような音を鳴らしたり止めたりしている。恒温動物と違って、体を震わせて体温を上昇させようとする動きが備わっている訳でもない。邪龍は静かに身を縮め、少しでも熱が放射される面積を減らそうとしていた。

 

「寒さに、弱かったのですか」

「変温動物だからかな……」

「神話上の生物が現代の類型に当てはめられるとも思えんが……」

「……あながちあり得ない話でも、ないでしょう。悪魔がどれだけ完璧な状態で召喚されるかは、術者の力量によります。不完全な召喚のために、龍としての神格を確立できなかったと考えるべきでしょう……実際に使徒連が討伐した際には、凍結魔法は一切通じなかったと聞き及んでおりますから」

 

 これはこの蛇に何か姦計あって、あえてそうしているのではなく、そうせざるを得ない理由があるからだ。それがすなわちこの温度。変温動物だから低温下では休眠せざるを得なくなるし、体温を下げる術をか細い呼吸に頼っているので、両極端な温度に弱い。

 だからその冷威をこの部屋で発揮することを厭い、また火の気を押さえ込むために湿度を保っているのだろう。この部屋だけ異常に湿度が高かったのはそのせいだ。吹雪で水蒸気の飽和絶対値を下げられたタワー全体は酷く乾燥する一方で、内外の温度差によって発生した結露や、放置した人の死体の水分を、加湿器の代わりにしているらしい。

 

「何にしろ効果があったようです。エツリさんの慧眼ですね」

「音に聞こえし神話生物の弱点が体温調節とはな……」

「術者が悪かった。運が良か……別に良くはないか」

 

 完全に動きの止まったニーズホッグを背後にして、三人は扉の更なる破壊活動に勤しみ始めた。魔法で強化された痕跡があるが、ベルの剛腕や、外の気温とソメガミのアギによる温度差を利用すれば、時間はかかっても確実に破壊できそうだ。

 

「しかし、さっきのはどうやったんだ? 空中で奴の尻尾が突然止まったように見えたが……」

「ちょっとね……」

 

 エツリよりも筋力で劣るシルフであるが、上野周辺の悪魔の中では随一と言っていい程度には魔法の扱い、それも衝撃や風を操る技に長けている。彼女の作った風の障壁のお陰で先のブレスを回避できた時から解っていたことだが、彼女の力を以てすれば、数秒とはいえ奴の攻撃と拮抗することも可能だった訳だ。ただ……。

 

『二回目は……無理だよ……!』

 

 厳密な契約でないシルフは、空気中の僅かな生体マグネタイトに実体化を頼っている。あの巨体を止める程の力を使ったシルフは、携帯に戻り、しばらく休眠を取る体勢に入った。

 

(解ってる。ありがとう……)

 

 彼女が携帯に戻る前に、少しでも回復の助けとなればと思ってなけなしの魔石を砕くと、エツリは中でシルフが安静にしている携帯をポケットに入れ直した。

 あとは一度この場を離れ、ニーズホッグが冷気で完全にダウンするまで安全な場所で時間を稼ぐだけだ。彼等の表情には余裕が生まれていた。まぁ……東京では、余裕とはすなわち油断と読む訳だが。

 

『キュキュル……シュルルルル……』

「ん?」

 

 鳴き声の質が変わる。今までの感情を反映したような鳴き方から、規則的な音に変わった鳴き声を聞いて、エツリは振り返った。

 

「どうかしたか、エツ――――」

『キュルルルルルルルルルルルルッッ!!』

 

 ニーズホッグは体だけは縮こませたまま、顔をこちらに向けていた。しかも、エツリの矮躯からは考えられないような大量のマグネタイトが渦を巻き、押し合いながら一点に凝縮されていく。その間にも邪龍の鳴き声は高く、鋭く尖り、エツリ等は思わず耳を塞いだ。

 

「あー……怒っちゃった……!?」

 

 集まり過ぎたマグネタイトがニーズホッグの口内にホットスポットを生み出し、そこから激しくプラズマを放出し始める。

 マグネタイトが見えないソメガミにも、プラズマが明滅する瞬間は当然見える。肌を切るような緊張感を醸す高密度のエネルギーがこちらを向いていることに気が付くと、彼等の表情から一切の血の気が降りていくようであった。

 

「や、やべっ、あれはやばい!!」

「おい! は、早く壊せ!! 全員死ぬぞ!!」

「やっています!! やっていますからッ!!」

 

 大慌てで扉を破壊する三人。ギリギリ人一人が抜けられる穴を作ると、我先にと部屋の外へ飛び出し、思い思いに左右の道へと無様に転がって逃げる。エツリは逃げる際に、破り開けた扉から抜ける破滅的な光が突き当たりの壁を照らし、その壁に張り付いていた氷が瞬く間に溶けていく様子を目の当たりにした。

 

「やばいやばいやばい!!!」

「うぉおおぉおぉおあぁあ!!?」

 

 彼等の足がようやく普通の走り方のように回り始めた瞬間に、背にしていても目が眩むような閃光が廊下を呑み、一瞬の間だけ、この場から影を完全に取り去っていた。

 

 ゴゥオオォオオォオオ!!!!

 

 怒りのままに放たれた電磁ブレスは、扉どころか周りの壁まで破壊し、更に二枚の壁を貫通すると、結界を破壊してタワーの本来の展望台の窓にまで到達し、その透明な壁にヒビを入れた。彼等がもう少し横に走るのが遅ければ、壁と一緒に消し炭にされていただろう。更に端が焦げた雑嚢を固く抱きしめて、エツリは戦慄した。

 

「はっ、はぁ、はぁっ、は、あぁ……」

「か、かん、間一髪、でしたね……」

 

 暑さのためではない嫌な汗を拭う。頭を振って額から落ちる汗の滴を飛ばすと、エツリは床にへたりこみ、背をべったりと壁にもたれさせた。

 

「何だったんだ……一体……」

 

 ソメガミがおそるおそる部屋の様子を覗いてみる。ニーズホッグは多量のマグネタイトを放出してしまったことと、自ら冷気の入り口を広げたことによって、浮世から消え去ろうとしている最中、今正にそれだった。奴は恨めしそうに一鳴きすると、最早攻撃する余力もなく、空気に立ち込める高濃度の生体マグネタイトへと還った。

 

「ぼ、僕等が倒した……と言っていいのか?」

「どうでしょう……勝った気はしませんね。ただ今はとにかく無事を……喜びましょう。あの王印を祭壇から退ければ、結界も解ける筈です」

 

 あの巨体が失われ、その上超高エネルギーの電磁ブレスに死体の半分が焼き消され、部屋の様子は随分すっきりしたものに変貌していた。悪魔とはやはり、超常の力一つとっても人間とは違う。人類もあの怪しげなアプリなんかを用いて、奴等と同じ術を使えるようになった筈だが、この惨状を見せられると、同じ土俵に立って戦える力量には、到底思えなかった。

 

「気を取り直して、印を回収しましょう」

「…………いや、少し待て、メシア」

 

 ソメガミはベルを静止すると、ツカツカと足音を鳴らしながら、うずくまって涎を垂らす召喚者の成れの果ての前で立ち止まった。彼はそこで懐から、とても武器には使えなさそうなカッターナイフを取り出すと、冷たい床にへたり込んだ術者の胸ぐらを掴み上げ、無理やり膝立ちにさせた。

 

「何を――――」

 

 ベルが止める間もなく、容赦なく首を切ったソメガミの赤いスーツに、同色の光沢が下から塗り込められていく。倒れゆく男の首から吹き出す血が、顔の肌色まで赤く染まる勢いで飛沫を上げ、完全に仰向けに倒れる時にはやがて一本の水の線となり、低いアーチを作ってソメガミの革靴を濡らす。目立つ金髪以外に赤い部分がないくらいだった。

 

「悍ましい……」

「全く同意見だが……まさかお前がそんなことを言うとはね。死者を貶めるなかれ、とか言われないのかい?」

「あなたのことを言っているのです」

「いきなり褒めるなよ。悪い気はしないけどね」

 

 ベルは名も知らぬ召喚者の亡骸を前にして跪き、額の前で十字を切った。せめて神の国が到来するまで、せめてもの安寧を願って。

 

「……殺す必要あったか?」

 

 面の下で苦い笑みを浮かべながら、エツリは生来の甘ったれまでを面の下に隠し切ることはできなかった。

 

「あったさ。生かす理由を探す方が難しい」

 

 理解はできても、納得はできない。エツリは思惑ありげなベルの視線にも、彼の気落ちを心配するシルフの眼差しにも気が付かなかった。

 

 

 

 

 彼等は結界が解けた展望台を降りて、一階にまで戻ってきていた。王印はベルの手によって祭壇から取り除かれ、発揮していた異界化の力も失われ、タワーにいた異常な様子の悪魔はすっかりいなくなっていた。バインドボイスと併せて意識すら危うくさせるような殺人的な寒さも、その名残が感じられる程度にとどまり、出入り口を覆っていた分厚い氷は、床に広がる水と化している。彼等は帰り道が確保できているという安心感と、悪魔が一匹もいないというかえって不気味な空間に居心地の良さを感じたために、すぐに帰るでもなく、現状確認を兼ねた雑談に興じていた。

 

「それが……王印か」

 

 ソメガミは、短剣の刃から取り外された柄の方を見た。柄と刃を固定していた接触面には、何やら文字らしきものと、横向きの神が彫られていた。ベルは刃と柄の両方を検めると、短剣に戻し、鞘に収めた。

 

「こういった〝レガリア〟の中では、これでも微力な部類ですが……」

 

 そこで言葉を切って、ベルはニーズホッグと対峙した大部屋の方を振り返った。上の部屋に放置してきた遺体のことを思い返すと、自身等には非がないというのに、なぜか悪いことをしたような気分にさせられる。

 

「ニーズホッグの現界と、王印によるタワーの異界化のために、あれだけの人間が犠牲になった。レガリアとはそういうものです」

 

 生体マグネタイトは、人間が死亡する瞬間に不活性化し、空気中に多量に発散される。その上遺体にも微量ながら生体マグネタイトが残留するので、今回のように現界に制約を抱えた一部の悪魔は、人間を殺し、喰らうことで物質界(アッシャー)に永らえる。経口接種で生体マグネタイトを確保しているという訳だ。これは異界化した東京では、殆どの悪魔に不要な行為だが、その通常の悪魔すらも、半数以上が意味もなく人間を虐殺しようというのだから、余程注意深く観察するか、今回のようにあからさまに特殊な状況でもなければ、その見分けなど付かない。

 

「で、そのとっても危険な逸品を、お前はどうするつもりなんだ?」

「破壊命令を受けています。神聖を醸しているとはいえ、これはアマツヤの異教崇拝の罪そのもの……」

 

 エツリに異論はなかった。上の人達が何を考えているのか知らないが、この小さな短剣一つのせいで死にかけたのだ。視界にもいれたくなかった。彼はもはや居直っていた。同僚や上役に何か文句を付けられたあかつきには、タワーまでの導線確保どころか、タワー内の安全確保をしてやったんだぞ、と言い放つつもりで。

 

「いや、こっちに渡せ。僕はお前に巻き込まれた上に、タダ働きだ。それくらいの報酬を受け取る権利はある」

「権利、権利とおっしゃいますか。そのような道徳をお持ちでしたとは」

「御託はいい。それに、ガイアだメシアだの思想以前の話だろう。まさか責任を放棄するなんて言うつもりか?」

「あの召喚者がニーズホッグを召喚してタワーを凍て付かせたのも、内部を異界化させたのも、九分九厘この王印の魔力にあてられたからです。このような危険なシロモノ……おいそれと、それもガイアの手の者に引き渡す訳にはいかない」

 

 修羅場を一つ抜けてきた後だというのに、また口論を始めた二人に挟まれ、エツリはいい加減げんなりした表情を仮面の裏に隠せなくなってきた。

 もうこいつ等置いて帰ろうかな、と踵を返した時、しかしエツリは足を止めることになる。出入り口の方から、足音も鳴らさずに近付いてくる一つの影があった。

 

 

 

「ナラバ折衷案ハドウダ? 王印ハ我々ガ預カルノガ穏当ダロウ」

 

 

 

 黒いカラーリングのデモニカスーツと、スーツの標準機能であるボイスチェンジャーの声。物々しい出で立ちに、ソメガミとベルも身構える。ただエツリだけは、呆けたように棒立ちでその人影を眺めていた。

 

「隊長……!」

 

 上野討伐隊隊長その人が、わざわざこんな場所に足を労するとは、思いもよらなかった。

 

 





・ニーズホッグ
 邪龍ニーズホッグ。新エッダ第一部「ギュルヴィの惑わし」のユグドラシルの問答中に記述がある一体の巨大なヘビ、あるいはドラゴン。この邪龍はラグナロクを生き延び、鷲の巨人と同様に死者を喰らうとされる。
 通常のレベルで言うと60前後。召喚者の力量不足により、20前後にまでレベルダウン及びブフ弱点の追加と弱体化している。普通なら歴戦のハンターがチームを組んで討伐するような相手。

・バインドボイス
 タワーの前でエツリが蹲って気を失った原因。衝撃で相手を麻痺させる咆哮。

・風龍撃(未完成)
 メシア教の戦闘員がよく使う白龍撃。を、エツリが見様見真似でアレンジしたもの。得物にまとわせる風を上手く制御できず、攻撃の瞬間に若干威力が発散している。
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