世界は僕の思ったように出来ていないのは分かりきっていたことだ。例えば僕は読み切り版が好き。でもこの世界は打ち切られた先にあって、僕も打ち切られた先の世界にいる。僕が編集者だったら絶対に連載版も日常系のままで描かせていただろうし、そもそも人気と狂気に包まれた週刊誌じゃなくて月刊誌とかを勧めていただろう。作者が週刊誌で勝負したいし、人気が欲しいって事で作品に下駄を履かせたのかもしれないけど、日常系の原型を流用してバトル物を描くなんて脳髄がとろけ切った愚かな真似はするべきじゃなかったと思うんだ。
それはそれとして嬉しい事に、紗月の葬式が行われる事は無さそうだ。なぜなら僕も妹も元気だからです。黒い雨に打たれたのが昨日、というか今日の深夜。気絶した紗月を背負って、一生懸命帰ってきたのが朝。紗月が呼吸していて、生きていてくれて喜んだのがお昼。僕の折れた手足が何故か回復していることに気付いて、紗月が目覚めたのがさっき。
どうだクソ野郎、と作者に中指を立てたらいいんだろうか。それとも、黒い雨を2人で分割した場合の展開が打ち切られてるおかげで無いからありがとよ無能作者が! と喜びを伝えたらいいのだろうか。僕には判断が付かなかったので、とりあえず運命に勝った風な意味深な顔でもしておこうかな。対応に悩める幸せを噛みしめていると、紗月が起きる素振りを見せた。
「……おにいちゃん、どうしたの?」
僕は驚きで表情を歪めそうになったし、なんなら叫びそうにもなったけど、おにいちゃんとしての意地で全てを飲み込んだ。目覚めた紗月にまだ起き上がらないようにって伝えようとして、でも僕はその瞬間には何も言えなかった。何とか紗月が寝ている布団を掛け直し、ぽんぽんと優しく叩いてもう一度眠るようお祈りする。声が震えるかもしれないから、言葉を発することは出来なかった。
僕を見つめているはずの光の無い黒い目から、僕をおにいちゃんと呼ぶ口から、僕の声が届いているはずの耳から、どろどろと黒い液体が漏れ出していた。
僕が隠し切れたのかはわからないが、僕の意図を表面だけでも読み取ってくれた聡明な妹は、再び穏やかな眠りについた。僕はそれを見届けてから、音を出さないよう部屋を出る。急いで服を脱いで、洗面所の鏡を見れば、僕の背中は黒く染まっていた。触っても、引っ張っても、引っかいても、変化は無い。ごしごしと擦っても何も変わらない。ただ、見つめていると黒い汚れがどろどろと滲んでくるような錯覚を覚え始めた。
どれくらい背中を見ていたのか。ハッと意識を取り戻して、タオルを抱えて戻る。どうする、どうしたらいい。いや、そもそもどうにかしないといけない事なのか。僕は自問自答しながら、紗月から零れ出している黒い泥をタオルに吸わせようとしていた。眠っている妹から、何かよくわからない黒い物が溢れ出している。
紗月のはずなんだ。僕の妹なんだ。そのはずなのに、僕は不安でしょうがない。
一心不乱にタオルで拭っていた。タオルが真っ黒に染まっているのにも気づかないくらい、僕は一生懸命拭っていた。不安がそうさせたような気もするし、僕が黒い雨から守れなかった事実を直視するためだった気もする。それだけ集中していた。あ、と呟いて手を放す。タオルは真っ黒だったし、僕の手も同じように真っ黒だった。
外から見えないように、紙袋に包んで捨てよう。そう思って持ち上げていると、不思議な事にどんどんタオルは綺麗になっていった。泥が滴る事も無く、音も無く、タオル本来の色を取り戻していく。なんてことは無い、僕の手が泥を吸収していた。タオルは綺麗になって、代わりに僕は黒くなる。
良かった、と僕は安心した。紗月が取り込んでしまった黒い雨を、僕が取り込めばきっと元通りだ。
それから僕は、紗月を看病しながら黒い雨を取り込み続けた。僕たちがどんな状態になろうとも、世界は変わらずに動き続けている。紗月が休む事を学校に連絡しないといけないし、両親を誤魔化す必要があった。体から黒い何かが出ますだなんて医者に言えばどうなるか分かった物じゃない。それに紗月は異能の強度が高いので、離れ離れにされてしまう可能性も高かった。僕は取り込んでいるから黒い雨が何か悪い物のように感じる事ができるし、どうにかして僕が留めておかないといけない気がするのだが、それを理解してもらえるとは思えなかった。
僕は日に日に弱っていく紗月に、大丈夫だと声を掛け続けた。妹は決まって僕の言葉に、にこりと笑う。黒い雨を、泥を出し切ればきっと快復するはずだから。僕はそう信じていた。僕は、僕の生活を削って紗月に掛かりきりになっていた。それでいいと思ったし、そうしたいとも思っていた。
でも紗月はそう思っていなかった。段々と僕の世話を拒むようになっていた。弱々しい手が僕から離れようとする。両親が代わりに面倒を見るからと、僕を大学に行くように言い始めた。僕はそれを無視したかったが、紗月が涙を流しながら僕を説得する様になって、僕は一度紗月から離れる決心をした。何かあれば駆け付けると告げていたし、そのつもりだった。
僕は紗月が幸せになるまで見守るつもりだった。だが、両親は違った。僕が家に帰ると紗月の姿は無くなっていた。両親を問い詰めると、黒い雨に、泥に、気付いていたと言う。前から連絡していた研究機関が連れて行ったと言う。紗月がいなくなってボロボロの部屋だけが残っていた。僕は激昂したが、両親も同じくらい激昂していた。紗月の異能が、家を破壊していたし、段々と家族にも及んでいたからだと言う。僕はそれくらい耐える事ができた。だから僕だけに任せるべきだった。
家を飛び出して、僕は走り出した。どうしても追いつきたかった。紗月の傍に居たかった。黒い雨は、泥は、僕の物だから。
「おにいちゃん、わたしね、もう限界なの……」
紗月が泣きながらそう言った。検査の為に連れて来られたらしい病院は、現在進行形で瓦礫の山になっている。紗月の周りに纏わり付いている黒い雨が、まるで意志を持つように周囲に雨となって降り注いでいた。雨に濡れた場所が真っ黒に染まり、捻じ曲がっていた。人間だった物が赤い飛沫を散らして肉塊となった。
「紗月、大丈夫。僕がいるからね」
僕は何もわからなくて、どうしていいのかわからなくて、何とか言葉を絞り出した。どうにかなって欲しい、と祈る。同時に、ダメだなと理解する。
助けを求める声がして、僕はそれを無視した。瓦礫の崩れる音も、遠くに聞いてるだけだった。どうしてこうなったのか。僕はただ、紗月が友達と楽しく過ごしてほしかっただけなのに。見捨てれば良かったのだろうか。妹が一人寂しくパフェを食べる様子を、これで良かったと思える人間になるべきだったのだろうか。
紗月が苦しそうに喘いで、その度に人が潰れていた。幼い妹が全力を出すと、光を僅かに捻じ曲げられるのを思い出した。今は真っ黒な線が幾本も飛び交い、人々を容易く捻り潰していた。
どんどん壊れる。どんどん死んでいく。僕は、それをただ見ているだけだった。止めようとは思わなかった。紗月が止まりたいと思っていないから、僕が止めたいと思っていないから、だから何もしない。
破壊が加速していく。範囲が広がっていく。まるで嵐のようだった。黒い雨が吹き荒れて、その場を捻じ曲げ壊していく。さっきまで涙を流していた紗月は、最早半狂乱といった様子で、どこを見ているのかわからない表情で笑い続けている。そしてすぐに膝を付いて、ぶるぶると震え始めた。びしゃびしゃと濡れる音がする。黒い雨が、球体になって紗月の頭上に集まっていた。
「なんで、どうして……」
僕はわけがわからなかった。最初からずっとわからない。僕はどうしたら良かったのか。倒れた紗月に駆け寄って抱きかかえると、もう温度は失われていた。いや、違う。最初からずっと温度なんて無かった。本当は分かっていた。黒い雨に一番最初に降られた時から、僕も、紗月も、体が冷え切ったままだった。ただ、泥が僕たちを動かしていただけ。
紗月の形が失われて、僕の身体に泥が入り込む。頭上から降り注ぐ黒い雨を受ける。
僕は全てを信じたくなくて、紗月だった物を抱えて走り始めた。間に合わなかったあの日よりも、間に合ったあの日よりも、僕はずっとずっと速く駆け出していた。僕の異能は速度変化で、クソ弱いから変化しているかもしれないって強度でしかなかったのに、今日は全てを置き去りにしていた。
紗月だった物が完全に溶け切って、僕の重りとなっていた物は全て無くなった。
僕は何も持っていない。
取り込んだ泥が、燃えるように僕を突き動かしていた。
異能を使う感覚というのは人によって違うらしい。僕は見えなくて、不自由なもう一本の腕を動かしているように感じていた。紗月は6本目の指を動かす感じだったらしい。僕にはそれがわからなかったし、今もわからない。今ならもっと簡単に使えるし、願うほどに速くなっている。
全てが止まっていた。
僕は全てを失って、初めて自由に走っていた。
肉体が黒いどろどろに変化して、それでも止まらない。
意識が溶けているけれど、止まる気は無かった。
そうして、僕は、過去の『僕』を見つけた。
僕は限界だったけど、どうするべきかは決めていた。
『僕』に一滴でも降りかかるように、僕は跳びかかって上手くいったらこう言うんだ。
自己紹介いる?