至極過激なトレーニングを課すものの、彼の指導を経たウマ娘はG1優勝常連になるという生ける伝説を持つ男――滝沢駿。
 しかし厳しすぎるトレーニングについてこれるウマ娘はほんの僅かで、いつからかこちらへと入ってくるウマ娘よりも他のトレーナーへと移ってゆくウマ娘の方が上回るという状況になって数年が経過する。
 それまで世を跋扈していた『レース最強至上主義』というトレーナー思想は廃れてゆき、正にかつての時代の生き証人としてでしかない彼に賛同するものは今やほとんど居ない。
 そんなある日、自分の下を早々に去ったウマ娘達により滝沢の正体が世に暴露されるのだった。

1 / 1
レース最強至上主義

 その怒号は、いつにも増して強かった。

 

「滝沢テメェッ! またこんなハードワーク強要しやがって!! こいつらをなんだと思ってんだ!? お前の遊び道具じゃねえんだよ阿呆んだら!!」

 

 胸倉をつかまれ壁に押しつけられながら、彼は自の憤りに任せて怒声をぶちまける。しかしそれに反して彼の表情は変わらず、涼しく――悪く言えば彼を舐め腐った表情をして、冷徹に反論する。

 

「紫吹さん――彼女達で遊んでいるのは貴方の方でしょうが――」

「な――おまッどの口がッ」

 

 瞬間『紫吹さん!!』と周囲を囲んでいた同僚の声が悲鳴に紛れて貫いた。

 突如として殴りかかろうとする彼の拳、しかし悠々と掴んで止めたのは滝沢の方だった。

 

「俺の担当している彼女達には、身体を壊しかねないほどにハードな練習をさせているのは事実なんで認めますけど――紫吹さんが今まで担当してきた娘達の成績はどうなんですか?」

「な――」

「若さにかまけてドブに捨ててる時間をもっと有効に使えばせめてG1でなくともG3、もっと頑張ればG2はいけるんじゃないスか? なのにアンタの担当……オープニングさえ出場させてないじゃないスか――この半年……何やってたんスか?」

「なに……何だと、おま――」

「俺は本気なんスよ、あんたがあの娘達を使って“生温い幻想”を見せようが“かけっこ”しようが“ごっこ遊び”やら“おままごと”やらどうぞご自由にって話なんすでスよ」

 

 滝沢の放った言葉に、その場にいたトレーナー達がざわついた。同意でなく反感の意を抱いたトレーナー達がほとんどだった。まさに禁句中の禁句のそれに、今にもその言葉が吐き出そうになるそれを堪えている最中、紫吹は静かに切り出した。

 

「お前……今なんて言った? 幻想だと? おい、もういっぺん言ってみろ滝沢、俺がおままごとをしているだと?」

 

 一つ一つ、事実を確認するように淡々と話すその言葉尻には、爆発する怒りを抑えるかの如く震えていた。

 

「さっきからそう言ってるじゃないすか――ハッキリいってあんたみたいな何の戦績も残さない無能がしゃしゃり出てくる場面じゃないんスよ、俺は喩え彼女達が何人と故障しようがトラウマを抱えようがどうだっていい。俺のやり方についてこれないならそれまでなんスよ」

 

 その言葉に、彼は耐えきれず力いっぱい振りかぶった拳で彼の頬を殴った――瞬間、すかした顔して宣っていた彼は思い切り資料棚の硝子を突き破って上半身がのめり込む。

 

『――』

 

 声にならない怒声――いや、怒号と共に無抵抗になった滝沢トレーナーに紫吹トレーナーは顔面に向けて3度殴り飛ばす――その光景にそこに居たトレーナー達は内心止めるかどうかを躊躇していた。自分が怪我を負うかもしれないからという訳ではなく、彼を一発でいいから殴りたいという本心からくるものであった。

 正直な話、中央に彼が赴任してから彼の担当するウマ娘達が軒並みG1優勝者常連となってしまった事、その上彼の人を見下す姿勢だったり彼の担当したウマ娘達の7割が故障したりと度重なる彼の問題行動に、中央トレーナーだけでなくこの学園を行き来するほとんどの者が彼を敬遠していたのだった。

 そして、彼がもともと担当していたウマ娘が3人、紫吹の下へと移動してから数ヶ月の事だった。遂にこの一件がマスコミにまで漏出してしまい、トレーナー達による全体会議が行われているその最中の出来事だった。

 

 正直、この学園に在籍する8割近くのトレーナーは彼を鬱陶しく思っていた。

 それ故に、彼が殴られていたとしても、誰も止めようとはしなかったのだ。

 

 しかし、無抵抗にも床に打ち付けられた滝沢に馬乗りになった瞬間、これはやばいと思った一人のトレーナーが紫吹を止める。それに続いて、5人ほど集まって彼を止めるのだった。しかし、殴られた側である滝沢へ心配して駆け寄る人間は居ない。

 いても、生きているかを確認するだけで、こちらがまだ息をしていることが分かるとたちまち彼も紫吹の下へと寄り添い、皆してお気の毒にと彼を慰め、まるで悪を成敗した正義の味方かのように彼を皆が労った。

 

 そんな光景をみてただ、孤独でいる自分はただ嘲るしかなかった。

 何に対してだろうか……きっと自分自身にだろうか、いやきっとそうだろうな……ツケが回ってきたのだろう、それでも俺は自分の信じる道を貫いたのだ。まあそれでこれじゃあ元も子もないのだが――まあ彼らからしたら俺は悪なのかもしれない。

 ああそうだ。だからなんだと言うのか。

 お前は――お前らは知らないからそれで居られるんだ。どん底から這い上がったこの俺の屈辱と復讐の心なんてわかるはずがない、既得権益でこの学園のトレーナーに成ったお前らには――

 

 血だらけになってのびている彼に手を差し伸べる人もウマ娘もとうとう一人として現れなかった。

 

 これが彼――滝沢駿(たきざわはやお )の最果てだった。

 

 

「滝沢君」

「なんだよ」

「申し訳ないが、我々としてももう君と組みたくないという娘達が増えてしまってね……上の者にも掛け合うが――」

「別に何も気にしちゃいねえよ……それよりもルドルフ、俺はお前より10も上なんだから言葉遣いに気を付けろ」

「……話は以上だ」

 

 左遷するなら、早くそうと言って貰いたいものだな――生徒会室の扉を閉めながら、滝沢は、先のルドルフの顔が過る。

 

『お前みたいな奴に“敬語”を使えと?』

 

 まさにそんな風に言われている気がした。

 まあ仕方がない。そもそも、担当する娘達が居ないんじゃトレーナーなんて名乗れたものじゃない。

 憂鬱になるわけでも黄昏ているわけでもない。

 しかし、コーヒー片手に夕焼けを眺めながらブランコに揺れているとどう見えてもやさぐれているようにしか見えない。

 

「あれ……滝沢か?」

「……ん?」

「お、やっぱ滝沢じゃん!」

「……俺は滝沢でスけど……あんたは?」

「うわ、その生意気な喋り方変わってねえな~俺だよ俺! 不為川(ならずがわ)!」

「……ああ~久しぶりだな……何十年ぶりかね」

「いやあ、高知以来だよなあ、お前今何やってんの?」

「……何やってるんだろうなあ俺」

「はあ、お前大変じゃねえの」

「まあな――ってかお前知らねえのかよ――」

 

 そう言って向かいにある柵のポールに座る不為川にこれまでの経緯を話す。すると、彼も流石に苦い顔をしながら『高知のお前は未だ健在って感じか』などと茶化してくる。

 

「優しさなんてあの世界じゃ何の役にも立たない、優しさと甘さは同義だ」

「んな事言ったって、厳しさだけじゃ付いていけねえぜ」

「それでも俺はそうしてここまで登ってきた」

「まあその点お前のトレーナーとしての腕はすげえよ、一体どうやってあんな戦績を残したのか」

「全部あの娘達の力だ――俺はその土台に過ぎない」

「へえ、てっきり『全部俺のおかげだ』とでも言うかと思ったが、その点だけ言えば成長してるんだな」

「彼女達が勝てば彼女達の力だ、しかし負ければ全て俺達トレーナーに全部の責任がある。俺達はあの娘達の立つ、いや走るための土台に過ぎないんだ、土台である以上何が何でも勝たせなきゃいけない。そういう勝負の世界に居るんだ。勝たなければ死ぬ、戦わなければ生きていけない世界なんだ」

 

 その時の滝沢駿の瞳は、不為川から見てとても淀んだ、あの時のあいつそのものだった。それ故に、何かしらの予感が過る。

 

「お前、無理してるんじゃないのか」

「だからなんだ……お前が気にすることじゃない」

「はあ?」

 

 その言葉に、不為川は深くため息をついて言った。

 

「お前……今疲れてんだろ?」

「俺は疲れていない、ウマ娘のトレーナーが自分の体調を管理できなくてどうする」

「だったらお前は昨日何時まで起きていたんだ?」

「……」

 

 目が泳ぐ彼に、続いて聞く。

 

「今朝は何食べた」

「……コーヒー」

「飲み物の話をしてるんじゃねえよ、昼は?」

「……レッドブル」

「お前なあ……」

 

 頭を抱える不為川に、流石の滝沢も無言になる。

 考えてみれば、これまで何をしていたのだろうか――休みと言う休みはとっていたかもしれないし、取らなかったのかもしれない。

 

「自覚したか? お前は疲れてんだよ」

「そうだなあ……そうかもしれない」

「だろ? お前中央で指摘されなかったのか?」

「いや……軒並み仕事の付き合いとかしてなかったからな……」

「はあ!? じゃあ同僚とかと飲みいったりしないのか!?」

「いやあ、親しいのはいないな……情報漏洩に繋がるし」

「お前それは社会人として致命的だろ……」

 

 またしても頭を抱える。

 

「だが、話の合う人間がいなかったのも事実だ」

「お前みたいな思想を持つのはお前ただ一人だけだ、馬鹿じゃねえの?」

「そうか……」

 

 缶コーヒーを煽る。そろそろまた資料をまとめなければならない。いや、もうそんなことする必要はないのか――

 

「もうそろそろで、暇になるな」

「なら旅行でもしたらどうだ……温泉とかいいぞ、貸切風呂とか……」

「申し訳ないが、気が進まないな」

「お前本当に大丈夫か?」

「腹減った」

「……ラーメンでも行くか?」

「…………行くか」

 

 それから、不為川お墨付きのラーメン屋に足を運び、中央に赴任している時の事を話す。実は彼も件の出来事は既に知っているようだった。その上で直接話をしたいからとも彼の口から聞いた。

 

「久ぶりに帰って来いよ、高知に」

「あそこは嫌だよ、嫌な思い出しかない」

「なら無理に帰ることはないな……俺も転職してこっちに来たんだが……お前より日が浅くてね、どうしても故郷に帰りたくなっちまうんだ」

「へえ、あっちのトレーナーはやめたのか」

「まあ、色々あってな」

 

 ジョッキ片手に不為川は俯いて、寂しい顔をする。深入りしようとせず「そうか」と餃子の脂をビールで流し込むと彼もビールを流し込み「まあ人生色々だよな」と呟く、それに滝沢も「そうだな」と頷いて、ラーメンをすすった。

 折角の組み合わせだと言うのに酔えないでいる。思った以上に自分の状態は深刻なのかもしれないと思いながら、彼の口から予想だにしない言葉が飛んできた。

 

「担当して貰いたいウマ娘が居る」

「嘘だろ、大して酔ってるように見えないが」

「俺がこんなこと冗談で言うとでも?」

「だとしても冗談だろ、ここまで話してそんな言葉聞くとは思わなかったわ」

「まあ驚くのも無理はないな……まあ初心に戻ってやり直してはどうかなって意味で受け取ってほしいね」

「んなこといってもな、まだクビにもなってないから、そっち行くかどうかもまだ分からない感じだぞ、すんません生をジョッキで一つ」

「あっじゃあ俺も……はい、ありがとございます。何を勘違いしているのか分からんが、高知に行くとは一言も言ってないぞ?」

「……どういうことだ?」

「中央にいるだろ、戦績の無い子」

「……んなの沢山居るだろうよ、それともなんだ? ダイヤの原石を掘り起こせっていうのか?」

「そんなんじゃねえよ、一人、担当がいない娘いるだろ……」

 

 そう言えば言ってなかったな――と言って卓上に差し出された名刺には『トレーナースカウト担当』という字があった。

 

「初めて聞くが」

「ま、全国のトレセンを飛び回ってるからな、引き合わせ役さ」

『生二つお待ち!!』「「ありがとうございます」」

 

 ドンと置かれ二人は同時にジョッキを持つ。

 

「ここで大丈夫か?」

「いいさ、別に秘密にしておくレベルじゃない」

「決まりだな」

 

 ふたりは一気にジョッキを傾けた。

 

 

 ハルウララ。

 中央に入学してから担当が半年ほど付いていたが早くも引退、オープニングから7回ほどレースに出るも悉く最下位。

 戦績やデータを片っ端から集めては照合しているが、こんなにもパラメーターにばらつきがあるのは初めてだ。これまでは自分の目と競争データから担当を選んでいたため最初からある程度力のある感じであったが、本当に弱小レベルの娘の担当と言うのは新鮮である。

 それ故に、一週間ほど寮とトレセンの資料室とを往復し、データの解析に明け暮れる日々に追われた。

 不為川の言い付け通り、食事もしっかり摂り夜はちゃんと寝るという日々を……まあできたのは最初の2日程度であとの5日は至極偏った生活になってしまったが、やはりこの生活を通してこの仕事が一番自分に合っているというのも理解できた。

 資料、過去の競争の映像、記録、コースによる特性と区間ごとの作戦距離、あらゆる想定パターンを算出し、それに合う練習メニューを組み合わせる。

 過去のハルウララによる距離適性から、まず数センチ単位の1000通りの作戦を算出する。

 また距離適性から可能性のある距離を改めて見極める。

 

――その最中、トレセンとを行き来している時に思いがけない連中とすれ違った。

 

『――まだいたのかよ、なんでクビになってねえんだよ……』

『理事長達は何を考えてるんだろ』

『これじゃあアタシ達がやったこと無駄になるじゃん』

『シッ聞こえるよ!』

 

 傍らを過ぎ去った、ウマ娘達の声。

 こんな時間に学生がここをうろつくとは思ってなかった――会わないようにしていたのに想定外だった。それは紛れもなく以前担当していた娘達である。まあ、あんな指導をしている以上多少恨まれるのも致し方ない。

 

『可能性を潰しているって噂もあるみたいだよ』

『え~ヒドくない?』

 

 しかし、自分が思っているよりも、凄まじく湾曲した解釈をされている。いや、それも全て自分の所為なのだろう。全て未来のあるウマ娘達を自身の目と緻密に計算されたデータから吟味し、選出したウマ娘達のほとんどが、オーバーワークにより辞めざるを得ない状態にまで追い込んでしまった。

 しかしここで矛盾が生じた。『G1を取った俺の教え子はこんな事文句も言わずにこなしていたんだぞ?』不意にそんな黒い靄が脳裏を微かに蝕んだ。

 

『噂ではデキてるみたい』

『え? 何それ、じゃあ越させない為ってこと?』

『ええ! 最低じゃん、なんで普通に居られるの?』

『だってあいつ親が金持ちなんでしょ?』

 

――瞬間『違う』と叫びそうになった。

 違う、違う違う違う違う!! 俺じゃない――俺が金持ちの息子だと? 特権階級の傀儡だと? 成金の金で物を言わせてこの中央にやって来た無能だと? ふざけるな……ふざけるなよ――いくつだ? ここに至るまでいくつ捨てたのだ?

 

 拳を強く握り、歯を食いしばって、必死に堪えて逃げるように遠ざかる。

 

 蘇るのは過去の記憶――それをかき消すようにして、滝沢は寮へと向かったその最中だった。何かを投げられる感覚があった。次の瞬間、その不快な音と感触からそれが嫌がらせに投げられた腐った卵だと理解した。

 

「金持ちの傀儡が、ウマ娘を弄びやがって!!」

「お前なんてトレーナー辞めちまえ!!」

「死ねよクソが!!」

 

 振り返ると、3人ほど――大学生だろうか、こちらに生ごみや中身の入ったペットボトルを振りかぶる影が見え、滝沢はすぐさま走る――『待て!逃げるな!!』その声に構わず彼はただただ逃げるようにして寮へと辿りついて、玄関ホールで倒れ込む。息を整えていたその瞬間、手に違和感が生じる、それがガラスに張り付けられたコピー用紙だとすぐ気づいたし、嫌な予感がして内容を見るとそれが的中する。

 

「滝沢 駿に告げる。お前の部屋に爆弾を仕掛けた。いつでもお前を見張っている」

 

 やりきれない怒りに彼は震え、抑えられず壁に振りかぶったその拳は、たったそれだけで血だらけになっていた。

 

 

『駿、大丈夫か?』

「ああ、心配ない……慣れていることだ」

『何かあったら言ってくれ、流石に騒ぎになっていちゃ腹も空かねえだろ』

 

 トレーナー寮での騒ぎは瞬く間に広がった。

 その晩、警察がトレーナー寮に厳戒態勢を敷き、瞬く間に捜査が始まった。それから数時間後、爆弾は見つからなかったようだが、様子を見て一週間ほど全てのトレーナーに隔離を言い渡された。

 滝沢は、警察の事情聴取からホテルへと帰ってきたところだった。

 スマホを確認すると、不為川かの不在着信が12件とただ事ではないことを暗示させた。

 かけ直すと『お前の事ニュースになってるぞ!!』から始まり、安否の確認をすると大袈裟なリアクションと共に『お前ふざけんな!』と理不尽にも怒鳴られるのだった。

 

「お構いなく、元々食欲はないんだ」

『そうか、まあでも、何かあったら言ってくれ、精一杯協力する』

「なら――」

 

 その要求とも言えない要求に不為川は困惑した声で答える。

 

「そんなんでいいのか?」

「嗚呼、一刻でも早くデータを取りたい」

 

 そして次の日の早朝。中央トレセンへと赴き。初めて彼女と顔を合わせる。

 

「初めまして、今日から君のトレーナーになる滝沢駿だ……」

「わ、私はハルウララ……です!」

 

 妙にそわそわとしている彼女だが、まあこれほど騒ぎがあっては仕方無い。

 

「まあ初日だからな……緊張するな、なんて野暮な事は言わない――好きに走ってくれ」

「は、はい!」

 

 そう言って、彼女は走りだした。

 

「……何を考えているんですか、滝沢トレーナー」

「ミノ――いやたずなさん、来ていたんスね」

「貴方の所為で今や現場は混乱しています……」

「それは本当に申し訳ないと思ってますよ――まあ俺はやりたいようにやらせていただきまスよ」

「それで――これからどうするおつもりで」

「トレーナー業は引退しますよ、ケジメを付けます……これだけ迷惑をかけちゃ続けるのもおこがましいでスよ」

「寂しくなります」

「少しは風通しよくなるんじゃないスかね――」

 

 そう言って、彼女の下へと歩み寄る。

 未だ、ハルウララの顔は強張ったままだ。まるで、怒られるかもとおどおどする子供のように表情は強張っていた。

 

 もうやめよう。

 トレーナーを辞めよう。

 その思いは、幾度も自身に巡っては、過去自身を縛っていた呪いとも呼べる“覚悟”の所為で、辞めずにいた。

 しかし、今はもう違う。その覚悟はもうなくなりつつある。

 身を削ってまで、成し得ようとしたその虚しさを痛感したからである。

 

 言ってしまえば疲れてしまった。

 いつしか抱いた“自分を見下していた奴らに一矢報いてやる”という思いはいつしか、独り歩きして彼女らを『消費』してしまっていたのではないかと思い始めてしまったのだ。

 

 彼を見る彼女は酷く落胆していた。

 

 もうそこに、かつての冷徹さがなかったからだ。

 その暗闇に沈んだ、その中で微かに燃え滾るその瞳は、今の彼には無かった。

 代わりにそこに居たのは、今まさに消えようとする灯を傍らでただ傍観している彼だった。

 駿川たずなは、内心今の彼を見下していた。

 嗚呼、そこで諦めるのかと。ウマ娘が抱くその憧れに滾る病的な走りへの執念は人間には到底理解できないものである。

 しかし、稀にそれを理解し、また同様に――まるで自身へと憑依するかのようにして彼女達を次のステージへと覚醒させる者がいる。

 彼女は、稀に見るその才人にただならぬ興味を寄せていた。しかし、こんなあっさりと身を引く選択をしたことが残念でならなかった。

 

『滝沢駿トレーナー、貴方には失望しました』

 

 そう呟いてから彼女はその場を去る。

 彼女を、ハルウララと心中するという、使い捨てるよりも最悪の選択をしようとしている彼に心底軽蔑するのだった。

 

 

「うらら」

「へぇッ!? と、トレーナーさん!? どうしたの?」

「あ、いやあ他のトレーナーを観ててさ、俺も参考にしようと思ったんだよ、やっぱり距離感というかさ、今までみたいな感じで行くとうららも窮屈だろ?」

「え、う……うん、トレーナーさんがいいなら、うららは大歓迎だけど……」

「それも、今日からやめよう……「さん」は付けなくていい、もっと気楽に行こうか」

「う、うん……」

 

 困惑するハルウララ。

 何故ならそれは、以前より噂に聞いてその上この目で見ていた滝沢トレーナーと全然違っていたからだ。一体何があったのか、もしかして中身が他の誰かと入れ替わっちゃったのかと疑うレベルで別人だったのだ。

 しかし、依然として彼の底のしれなさが恐ろしくて、当然それを追求しようものなら怒られるかもしれなかったので、何も言うことはなく、ただ彼の指示の通り動く事にした。

 

 それから数週間が経ちもうすぐでオープン戦という時なのにである。

 それなのに、まったくと言っていいほどなんの指導もされていないのだ――最初は、自分の力量を見て最初は慣らしから始めて……みたいな風に思っていた。けれどもどれだけ日を重ねようとも、トレーナーとの練習は凡そ練習と呼べるものではなかった。

 どれだけ改善点の指摘や練習への要望をお願いしたとしても、それなりの返答を出すだけで何かをすることも無く、ただただ惰性的な日々が続き今日となってしまった――

 

「さて、うらら……今日も頑張ろうか――」

「トレーナー!! うらら、トレーナーとちゃんと話したい」

「……話って、なんだい?」

「うらら……うららもやるからにはちゃんとやりたい! トレーナーと……滝沢トレーナーさんの指導で頑張りたい! だからトレーナー……」

「だから……なんだい?」

 

 その時の瞳は、いつものように微笑を浮かべて、感情の読み取れない滝沢トレーナーなどではなく、あの時見た底を見通しながらもどれほど先をみているのか分からないほど聡明で、暗く濁った“瞳”だった。

 彼の言葉に、うららは答えに渋る。

 

「……君はさ、うらら――いや、『ハルウララ』君にできることは何か分かるかい?」

「……え?」

 

 声の色がガラリと変わる。

 

「君の走りを観てデータを取ったんだよ寝る暇を惜しむくらいにはね。ウマ娘のデータってのは物凄く興味をそそられるものがある。あの体格、筋肉、骨格から何故あのようなパフォーマンスが発揮できるのか……我々人間の体格と大して差は無いはずなのに、どうしてこんなにも並みの人間以上のポテンシャルを発揮できるのか……俺ァその飽くなき“可能性”が大好きだ。お前らウマ娘がどれほど生物的に優れているのか、それがどれほど人間にとって劇薬なのか。そういう事を知るのが楽しくて、データの収集と解析をしている……だからさ、本当は全員にそうしてもらわなきゃ困るんだよ、全ウマ娘が、軒並史上最強のポテンシャルを発揮しないとこれに意味なんてないんだよ……なのにお前らのような弱い奴らがこの世界ほとんどだ。勝つか負けるかの世界、弱いものは喩え強くなろうという努力があろうとも、それなりにしかならない。上限マックスがあるんだよ」

 

 彼は、一旦止めてからポールに寄りかかってからまた口を開く。

 

「ハルウララ、君のデータはどれだけ取っても可能性は端からゼロなんだ。いいか、俺はもうトレーナー業を引退する、いろんな奴らに迷惑かけちまったからな。今からでも降りて良いんだぜ? トレーナーってのはよほどのことが無い限りは……まあ担当の了承も必要だが、それが無い限りは引退できない仕組みだ……だから、もういいんだよ俺は。君も早く俺を降ろすといいよ、俺とおままごとをするなんて馬鹿な真似、お前だって望んじゃいないはずだぜ?」

 

 一通り語り終えてから、嫌にニヤついた顔で彼女の返答を待つ。しかし幾度待っても彼女はこちらを泣きそうな顔で見つめるだけで、何か言うことも無かった。

 まあそうだろうな……うららには悪いが、これで、トレーナー業ともお別れだ。これだけ言えば多分失格の烙印もつくだろう。

 これだけしかないわけではなかった。しかし、今の精神状態から見て、多分これ以上に最悪な選択をする可能性もあったから、これでいい。

 

「まあ、多いに恨んでくれよ、そうやってくれた方がこちらとしてもとても助かるんだ……」

 

 明日のレースは出ても出なくてもお前の自由だ――その言葉はどうしてか言えなかった。言ってしまっても問題ないはずだ、もう既に無責任かつ自己中心的に彼女へ当たっている。こんなにもか弱い少女にだ。

 しかも、何も得られない。ただの罵詈雑言に過ぎない言葉を彼女に投げかけている時点で俺はもうトレーナー以上に一人の人間としての問題だった。前ならばこんな身勝手な事はしなかったはずだ……初めてそこで自分が如何に落ちぶれているのかを自覚する――

 

「まあ後は自分で決めることだね、俺は帰るよ。お前も帰れ」

「トレーナー! 待ってよトレーナー!!」

 

 彼女の引き留める言葉に応じることなく、彼はターフから一歩一歩と離れる。『酷いよ!!』その言葉に彼は思わず足を止めてしまった。ただ彼女の方へは背を向けたまま、俯きそうになる頭を何とか上げ続ける。

 

「勝手だよ……勝手すぎるよ!! なんで? なんで見捨てるの? 一緒に頑張るものじゃないの!! ねえ!!」

 

 その正論に、何かを言うことなく彼は再び歩くのだった。

 まだ外は明るい。

 なのにどうしてだ、どうして何も見えないのか――俺は一体これからどこへ向かえばいいのだ。まるで、一人残ってしまったような気分だった。望んでそうなったのにも関わらず、そうなってしまえばもう先が見えず、どこへ向かうべきなのかさえも定まらず――気づけば見知らぬ駅へと降りていた。

 スマホは辛うじて繋がるが、改札も無いド田舎にきてしまった。次に来るのは一時間半後。

 どうでもいい……頭を冷ますには丁度いい場所だ。しかし、煩わしいことに傍らから質の悪いステレオが邪魔をする。

 

「これも年かねえ……」

「ばあちゃん、それ止めてくれねえか?」

「ええ? 嫌だよ、年寄りの楽しみを奪わないでおくれ」

 

 それもそうか――

 

「……申し訳ない」

「そういやあんたここらじゃ見ない顔だねえ」

「まあそうだな、あるところでは有名人なんだけどな――」

「へえ――そういやあんたに似てる人テレビで見たよ、世の中酷い人もいるもんやね、あんなことしてなにになるんだか……」

「……」

 

 まあ、そりゃ本人がここにいるなんて思わないもんな。

 滝沢は改めて噂の怖さを知った。

 それから暫く、隣の見知らぬ老人と話しながら退屈をしのぐのだった。

 

 

「あら――うららさん一人で何やってるのかしら?」

「あ、キングさんあの子の知り合いだったっけ」

「ええ、そうですけど……」

 

 夕焼けに染まるターフの中、桃色のウマ娘が一人――ただ無心で走っていた。

彼の事情はよく分からない。しかしそんな彼が去ってしまって、更にどうしていいかも分からなくなってしまった中、彼女は走るしかなかった。

そうするしか、この気持ちを落ち着かせる術が思い当たらなかった――あれからどれくらい経っただろうか――

 

「うららさん!!」

 

 瞬間“分からない”で埋め尽くされた曇天の中に彼女の声が轟いた。

 

「あ! キングちゃん! どうしたの?」

「どうしたのじゃないわよ!! 聞いたわ……貴方やっぱり無理をしていたのね……」

「無理?」

「とぼけるんじゃないわよ! あのトレーナー怪しいと思ってたのよ……あなたをこんな酷い目に遭わせて――」

 

 しかしキングは、意図しなかったその光景に驚きを隠せなかった。

 

「なんで……なんでうららさんが泣いてるの?」

「あれ……? どうしてだろ、なんで……なんで泣いてるんだろう……キングちゃん――」

「いいのよ――いいの、もう走らなくていいの、帰りましょう――」

「違うの」

 

 またしてもその返答はキングにとって想定外だった。

 

「キングちゃん……私ね……さっきまで分からなかったの――」

 

 キングヘイローはそんなボロボロになってまで、何かを伝えようとする……今にも倒れそうな彼女を支えながら、終始彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「トレーナーに酷いこと言われたの……うららは弱いって、自分はトレーナーを辞めるって、そんな勝手なことを言って! そんな自分勝手な事言って一人で帰っちゃって……トレーナー、全然本気でやってくれない! 自分が誰よりも弱いって……自分が一番分かってる……けれど、私だって勝ちたい……うららだって1着取りたい……キングちゃんこれが――」

 

『これが悔しいって感情なんだね……!!』

 

 一拍おいて彼女は語気を強くして言った。

 

「ええ……そうね――もう今日は十分よ、一緒に帰りましょう」

「うん」

 

 それから、彼女にこれまでの事を聞いた。

 トレーナー自身の事、トレーニングの事――しかし、それはこれまで見聞きした滝沢トレーナーとは全く違う印象を受けた。よく言えば優しく丸まった印象を受けるしかし、悪く言えば以前までの勢いが全て抜け落ち、放任主義どころか無責任もいいところである。しかし、その最後に聞いた彼の悪態が、キングの内側に滝沢トレーナーを鮮明に映しだした。無責任どころか、全てを押しつけて逃げ出す――本当に最低と言うか、今までのアレは何だったのかという憤りを通り越して啞然とさせるものだった。

 彼の以前までの行いは決して良いなんて言えたものじゃない。

 けれども、だからと言ってそれによる結果が伴っていればそれは完全に批判できるものでもない。一つの確立したトレーナーの手腕というものだ。

 なのにこのザマはなんなのだ? キングの内側に沸々と湧く憤りは翌日眠りから覚めても尚の事健在だった。

 

「キングちゃん」

「どうしたの」

「うららね……分からないの――うらら、むかむかする」

「そうね――じゃあ良いこと教えてあげる」

 

 そう言って、キングはウララに“アドバイス”を伝授する。するとたちまち、笑顔になって彼女は扉の前へと駆けて行く――

 

「じゃあキングちゃん! 行ってくるねー!!」

「ええ、応援しているわ……」

 

 ガチャリと、扉が閉まったのを確認すると、キングはすぐに自分のトレーナーに電話を繋ぐ。

 

「おい、キング……まだ6時だぞ……今日はオフじゃなかったのか?」

「貴方何寝ぼけてるのよ! 私のトレーナーなんだから休みの日でも関係なく朝は起きるべきよ」

「勘弁してくれよ」

「まあそれはそうとちょっとお願いしたいことがあるの」

「なんだ藪から棒に」

「滝沢トレーナーの事よ」

「うげえ、滝沢かあ……あいつ色々と問題起こしてるから関わりたくないんだよなあ」

「それが色々あってね――」

 

 そう言うとキングは昨日の事を話す。すると、電話の向こうでも驚く、声が聞こえた。

 

「信じられねえなあ」

「ええ、でもとにかく滝沢トレーナーと話しがしたいのだけれど」

「わかったなんとかこっちも掛け合ってみるよ」

「ええ、面倒くさいことに付き合わせちゃってごめんなさいね」

「なに、キングが言う事なんだから、きっと大切な事なんだろうさ、すぐ折り返すから待っててくれ」

 

 そう言って、一旦電話が切れる。

 それから、数分後滝沢トレーナーとその斡旋役である不為川という男と連絡が付き、これから出会うことになった。

 

「しかし、あの気難しい滝沢がなあ」

「ねえ、滝沢トレーナー、なにがあったの」

「うーん……なんと言えばいいのか……あいつ色々と思想が強いんだよ、なんて言えばいいのか《最強至上主義》って言えばいいのかな……とにかく一時期G1優勝常連のウマ娘を叩き出した、ある意味伝説的なトレーナーだが、それ故に結構恨まれ役になることも多くてな」

「ふうん」

「なんだ、会うと言った割には興味なさそうだな」

「いいえ、ただちょっと嫌な気分になっただけ」

「そうか」

「まあでも少しキングと似通ってる部分もあるかもな」

 

 集合は、こちらの要望で中山競馬場前。しかし意外なことに、まだ時間ではないのにも関わらず、相手が先に到着していた。「これはこれはどうも――」と、先に挨拶をするのは、この場に不似合いな恰好をしたいかにも胡散臭い恰好の不為川という男だった。

 対して、滝沢は挨拶もせず直球でキングへと突っかかった。

 

「何の真似だ? まさか俺にお説教のつもりか? 誰に何を聞いたのか分からねえがキングヘイロー。お前は何も分かってない――そもそもいちウマ娘であるお前が突っかかるべき相手じゃねえぞ」

「お前! いくらなんでも学生相手にそれはないんじゃねえか? あ?」

「おいおい、担当だからってイキがんなよ、お前ら二人……いや三人で正義の味方気取りやがって、どうせお前らだって腹の底で見下してんじゃねえのかよ――」

 

 瞬間、彼に強烈なビンタを喰らわせたのは、キングヘイローだった。

 そして、食いしばった歯をむき出しにした彼女は、目尻に涙を浮かべ憤りに任せて叫ぶ。

『つべこべ言ってる暇があるんならあの娘を見てあげなさいよ!!』

 

 ビンタはビンタでもウマ娘という怪力によるその威力は、滝沢は軽く後ろへとのけぞらせた。そして、マジで彼女が手を出すとは思わなかった彼女のトレーナーと、不為川は二人して唖然と開いた口が塞がらなかった。

 しかし、殊二人においては何の違和感もなかった。

 それは、本気で憤りを感じる者と、本気で腐りかけている者だからなのだろう。

 

「あの娘がどれだけ本気なのかも分からない癖に!」

「辞めろキング! お前加減してねえだろ!」

「離して! もう一回叩かないと気が済まないわ!」

 

 トレーナーに押さえつけられじたばたとするキング……しかし尚の事滝沢は嘲笑うように言った。

 

「馬鹿だなあ、本気だしたところで勝てるわけでもないんだぞ」

「なんですって」

「いいか? 今回のレースは芝だ……あいつの適正はダート。しかも練習だってしてない――そんなレースに出たって勝てる訳がない」

「そんなのやってみないと分からないじゃない!!」

「そうかもな……けれどおれはもうどうでもいいんだよ、担当が勝とうが負けようが、マジでどうでもいい――」

 

 思わず滝沢は話し終えると失笑してしまう。しかしその次に反論したのは最も彼の近くにいた不為川だった。

 

「本当にそうなのか?」

「はあ?」

「本当に勝っても負けてもどうでもいいのかよ! お前の担当じゃねえのかよ! おい、いい加減目を冷ませ! お前はここで腐るべき人間じゃねえんだよ!」

 

 胸ぐらを掴み、未だ痛む顎を押さえる彼を無理矢理立たせる。

 

「前のお前はそんなんじゃなかった」

「ああ、今の俺はこうだ」

「いいや、根っから腐ってる根性無しでもなかった」

「ああ、でも今は違う、見ての通りだよ」

「じゃあどうして、あれだけウララのデータを取ってたんだよ!!」

「……」

「お前言ってたよな、嫌な奴らに一矢報いる為に、やってやるって、掲げてた夢の最果てがこれなのかよ! なあ!! 答えろよ――」

「……」

 

 その言葉に滝沢は黙り込むしかなかった。

 ああやめてくれ……その目が一番今の自分が嫌うものなのだ。

 その俺が捨てようとしたものを全力でまた持たせようとする目をやめてくれ!!

 

「お前らに何が分かる何も――何も知らない癖に……俺の努力を何も知らねえ癖によお!!」

『いい加減気付けよ!! この中にお前の敵はいねえんだよ!!』

「――んなこと知らねえよ」

「知らねえだと? 俺が……このキングやそのトレーナーが見捨てるだと? だとしたらなんでこんなところにいるんだよこの阿呆が!!」

「――」

 

 あまりに圧倒されて、滝沢は唖然と口をパクパクとさせる。何かを言わなきゃいけない。なのに言葉が見つからない。喉の奥を詰まらせる言葉さえ見つからない。

 ただ、今まで見たことのなかった、不為川のその本気で憤る顔は滝沢に蒼白を与えた。

 

「何か言えよ!!」

「だって――」

「また言い訳をするつもりなの?」

「言い訳だと……」

 

 しかしそれこそ事実だった。

 

「あなたにうららさんの何が分かると言うの?」

「なんだと……」

「なんで不可能だって決めつけるのよ――」

「それは――」

「あなたのトレーナーとしての腕は……データが無きゃG1を獲れない程度のものなの?」

「……それは」

 

 答える言葉が見つからず下を俯く、情けない彼。そんな中キングのトレーナーが『そろそろ時間だ――早く行かないと間に合わない』その言葉に、滝沢は、二人の男に半ば引きずられて、観客席へと連れられる――

 

「なにすんだよ――」

『刮目してご覧なさい……これがあの子の本気よ――』

 

 瞬間、鼓膜を切り裂くかの如く響き渡る観客の声援――それはまるで幻覚でも見ているかの如く光景だった。

 

「走ってる――先頭を?」

「それも五バ身差ね」

「どういうことだ――あり得ない……芝だぞ」

 

 並んで走る有象無象をなんとしてでも切り離そうと足掻き姿はゆったりとしかし着実に落ちて行く桜の花びらのように見えた――

 しかし速度は依然落ちない、しかし……ああそれじゃあダメだ、上半身がブレている、速度が足について行けてない……やめろ、どうしてだ? どうして、そうまでして走るんだ……やめろ――やめてくれ……そんなことしたら大変な事になるじゃないか――

 

 なんでだ、なんでそうまでして走るんだよ――芝だぞ、お前が得意なダートでも短距離でもない。その上万全な準備も態勢も作戦も無い無謀に違いがなかった。

 それなのに、勝てないはずなのにどうして全力で走る!! 嗚呼、やめろ! 壊れてしまう、うらら……お前はこのレースに向いていない、どうして、どうしてだ――

 

「どうして走る、ハルウララッ!」

 

 その言葉を発したとき、その顔は苦虫を嚙み潰したかのように、あらゆる全てを後悔した顔だった。俺の所為だ、俺の所為なのだ――次々に抜かれてゆく、いくらオープン戦と言えどやはり軽くとも作戦は必至、最初に全力で走り過ぎたのだ! 嗚呼、危ない!! 頑張れ――どうにか走り切ってくれ――奥歯を噛み締め、握る拳が堅くなる。

 

 瞬間、こちらに気づいたのか、得意げに笑って言葉を置いて言った――見たか!! と言われた気がする。

 その途端、腰が抜けて倒れ込む。

 

「あの子の走り……見たかしら――」

「嗚呼……」

「これでもデータを信じる?」

「分からない――どうしてそこまであいつは走るんだ、昨日のことがあっても尚だ、何故だ……どうしてだ……」

「私達は勝つために走る。いくら無謀でも、いくらデータでは勝てそうになくとも、私達は走る。誰がなんと言おうと私は私のスタイルを貫き続ける――それが私の走る理由。じゃああの子の走る理由は何だと思う?」

「――」

「一着を“執る”ためよ」

「――一着を執るため?」

 

 その言葉を反芻し、それぞれの顔を見る。

 彼女のレースはやはり最下位、夢が覚めるにはあまりにも早すぎるその八〇と数秒間、しかし、暗雲に閉ざされた道の一歩先に光が当たったのは言うまでもない。

 

「滝沢――正直あんたはやり過ぎなところはある……だが、お前の信念だけは捨てちゃいけねえよ」

「駿――お前は一人じゃない」

「滝沢トレーナー――一流は首を下げないの」

 

 そして、滝沢駿は深いため息をついてから腰に力を入れ立ち上がる。

 

「キングヘイロー……さっきは悪かった、許してくれとは言わない、ただ……ありがとう」

 

 しかし彼の声には力はなかった。

 彼において、その光景は確かに力を与えるものだった、心さえ震えた……しかし、腐りかけていたものが正気に戻っただけであり、彼がこの先に見据えていたものが引退であることにかわりはなかった。

 それ故に、不為川が差し伸べた手をどうしても取ることはできなかった。

 

「すまんな……俺は、どこに行くべきかも分からねえや」

「ちょっと、待ちなさい!!」

「いやキング……もう俺達に出来ることは何もない」

「ちょっと離しなさいよ!」

「いや、キングさん……あいつには時間が必要だ、今日は本当に申し訳ないことをした……トレーナーさんにも本当にご迷惑をおかけしました……」

「ああ、いやいや……そんな事ないっすよ、にしても思っていたよりって感じで驚きましたよ……」

「まあいつも何考えてるかわかんない奴でしたからね――それじゃあちょっと追いかけてくるので埋め合わせは後でしますんで!!」

「ああ、ちょっと!」

 

 そそくさに別れてしまった――埋め合わせなんかしなくていいのにな……そう思いながらキングを見ると何か深く考えている雰囲気だった。

 

「何か気になることでもあったか?」

「ええ、滝沢トレーナー……本当に大丈夫なのかしらと思って」

「まあ大丈夫じゃねえだろうな、あれだけ大騒ぎになっちまったんだし、辞めようとしてんのには変わりないと思うぞ」

「私達にできるのはここまでかしらね――なんだか、嫌な予感がするわね」

 

 そんな彼女の声を聞くかのように、雨が降り始めるのだった。

 

 

 オープン戦が終わりハルウララは控室で休んでいる時だった。いきなりノックの音が響くなり「トレーナーの滝沢だ」と声が聞こえた時には驚いた。

 

「と、トレーナー!?」

 

 思わず驚きの声が出る

まさか控え室に来ると思っていなかったから、途端に緊張が走る……しかし一向に扉を開けようとしない彼に「入らないの?」と聞く。

 

「短めに済ます」

 

 しかしその声は、どこか生気が抜け落ちて、今までのような強さの欠片も元気もない声だった。

 

「うらら、本当に申し訳なかった――けれど俺はもうトレーナーを続ける気はない……ただそれだけだ……じゃあな」

 

 それから全く聞こえなくなり、思わず控え室のドアを開けると今度はキングちゃんがそこに居た。

 

「まったく……なんなのよあの男は……」

「キングちゃん?」

「ああ、うららさんお疲れ様、素晴らしい走りでしたわ」

「ありがとー! そう言えばトレーナーは?」

「それが、さっきここに立っていたんだけれど、声を掛けるなり走って逃げてしまって……まったく情けないったらありゃしない……」

「トレーナー、やっぱりうららの事嫌いになっちゃったのかな……」

 

 しょぼくれる彼女に、キングは呆れたため息を吐く

 

「そんなことないわよ、第一うららさんが負い目を感じる必要はないの」

「でもトレーナーなんか元気がなかったよ?」

「まあ色々あるのよ」

「色々って……?」

「そうね……プライドとか」

「プライド?」

「ま、難しい話はあとにして、うららさん今日はご褒美に何か美味しい者食べにいきましょう」

「わーい! キングちゃん大好き!」

 

 そうして二人が戯れている一方で、思わず逃げてしまった滝沢はその事を後悔しながら帰路に着く。

 その最中、あらゆる事を思考する。

 色々な事改めて知った。しかしそれでも尚、トレーナーと言う道から外れることに変わりはなかった。

 俺はもうやる気というものがもうなくなってしまった。

 腐っていた時から人として幾分かマシになっただけで、もう指導者として、やる気も教える気も矜持ももう全てが無に等しい。全てがどうでも良い訳でも逃げたい訳でもない。しかし、今元の場所に戻ったとして、俺はトレーナーとして生きていけるだろうか――

 

 形だけなら何とか保てるかもしれない。

 しかし……空っぽである今の俺に何があるというんだ――ため息を吐きながらコンビニへと入る。眠たくて仕方がなかったので、何かを買おうと飲み物を選んでいる最中

 

「うわ! あいつそうじゃね?」

「わ、マジ!? 滝沢じゃん」

 

 気にしないフリをしていたものの突如、カメラの音が聞こえ堪え切れなくなり、彼らへ近づくも逃げられてしまい、結局取り逃す――ったくもしこれがマスコミにでも売られれば大変なことになるぞ……ただでさえヤバイってのに。

 

 しかし、もうその気力さえも失いつつある彼にはもう、どうでも良い事柄だった。

 されど、対応を諦めているだけで、なんとか退こうという思いだけが強くなってゆく。何とかしてでもこの界隈から抜け出さなければ――ただし正攻法のみでだ。

 

 シュガーフリーのレッドブルをレジに持っていき、アメリカンドッグを一本買いバス停のベンチに座った。軽く雨が降っていたので丁度良い。それに30分後にバスが来る。

 バス待ちがてら独りベンチに座ってアメリカンドッグを頬張った。

 

やっぱ、マスタードとケチャップ2個は必要だよなあ、などとどうでも良い事を考えている暇はない。トレーナーを辞めたあと俺はどう生きていこうか――先の見えない不安を感じつつ、空を仰ぐ。

 

「俺ぁ……何してンだろうなあ」

 

 瞬間聞こえるのはまたもやシャッターの音。

 

「あんさん、参ってるようやなあ」

「誰だよあんた」

「アレぇ?藤井っすよ~記者やっとるぅ――まあほんで件のことでお伺いしたく」

「あんたプライバシーって言葉知ってんのかよ」

「ほんで? ハルウララの担当っちゅう話はホンマ何ですか?」

「答えねえよ……それにもう俺ぁトレーナーをやめる……そもそもあんたウマ娘メインだろ、なんで俺なんかに纏わりつくんだよ」

「いやあ巷では殺害予告まで出されとるっちゅう話でね――あんた、ホンマに大丈夫なんか?」

 

 俺がコイツを知らない訳がなかった。

 昔ながらのちょくちょく取材やらなんやらで関わりのある仲故の心配なのだろうか――

 

「はっきり言って不快だ、そっとしといてくれ――何もしてくれるな」

 

 そう言って、まだ開けていないレッドブルを押しつけて、滝沢はそこから逃げるようにして、立ち去るのだった。結局、後ろめたくなって逃げてしまった――しかしあいつの所為でバスに乗り損ねた……。

 雨は次第に強さを増す一方で……しかしそんな中でも、うららのレースが消えずに頭の中に過っている――以前の僕なら、意気揚々と彼女を育てようとしたのだろうか……。まあ考えても答えは出ない。

 びしょ濡れになりながら、ビジネスホテルへと帰宅する。

 依然としてトレーナー寮とは隔離されているので、ホテル暮らしが続く。やることはたくさんあるのにも関わらず、体中だるくて、諸作業へのやる気も起きない。シャワーを浴びて着替えるだけで精いっぱいだった。何故あの時藤井にレッドブルやってしまったのか……眠たくて仕方がない――

 

 

 結局目が覚めたのは、翌日の朝になってからだった。

 頭がガンガンと痛むも、休んで居られない……いやどうして休んで居られないんだ? 俺はもうトレーナーを辞めるはずだ……それへの不安なんて感じなくていいはずなのにどうしてか後ろめたい。

 なるほど、これが長い時間トレーナーとして身を投じてきた事への副作用って訳か――

 しかし一周間とは言え、ビジネスホテルに連泊するのはどこか新鮮な気持ちもありつつ、恥ずかしいというか申し訳なさも若干ある。

 そんな複雑な気持ちで廊下に設置された自販機から、タリーズの缶コーヒーを取り出し、朝を済ませてからトレセンへと向かった――

 

 もう何度と見たトレーナー室は、数日おいていただけなのにどこか新鮮だ。

 それもそうか――思えばハルウララの担当になってからそこを通して何かをすることなんてなかった。

 まあこれから何かをするわけでもないが――

 

「おはよー! トレーナー!」

「ああ、うららか――早いな」

「うん! トレーナーこそ早いね? もしかして一緒に朝練してくれるの?」

「ああ、頑張ろうな――」

 

 彼は微笑を浮かべていた。それもそのはずである。

 滝沢は今朝、完璧にトレーナーを辞める方法を思いついたのである。

 それは至極簡単でシンプルな作戦だった――それは

 

「トレーナー……もう無理だよお……」

「そうか、もう一週だ」

「ええ!? もう無ぅ理ぃ~」

「まだまだこれからだぞうらら!! さあ立って走るんだ」

 

 今までないほどにハードなトレーニングだ。

 朝からこんなトレーニングなんて普通はやらない。並みのウマ娘でも音を上げる程のハードワークである。しかしだ、キツイトレーニングを課せば、耐えきれずトレーナーを変更しようとするだろう。

 それが一番の狙いであった。

 

「立てるかうらら――」

「ごめ~んトレ~ナ~……うらら立てないかも……」

「よし、朝はこれくらいで切り上げよう」

 

 彼はそう言うと木陰でのびている彼女の下へアイシングと水筒を持ってくる。

 

「よく頑張ったな――動けるようになったらストレッチしてからアイシングしておくように、あと無理してでも水分補給は忘れずになただ、水を飲めば良いってもんじゃない糖分や塩分もバランスよく入ってるスポーツ飲料が良い。だがまず今は呼吸だ――しっかりと深呼吸を意識して、一定のテンポで吸って吐いてを繰り返すんだ」

 

 そう、彼女に細かく指示をする中、何故か彼女は意外そうな顔をしていた。

 

「どうした? 何か可笑しな事言ってるか?」

「うん……というか、トレーナー、今が一番トレーナーっぽいって思って」

「これぐらいは常識だ……君はまだレベルとしては素人なんだ――だから最初から全てをやりこむ必要がある……ただそれだけのことだ」

 

 どうせすぐ担当を外させようとしてる癖に何を言ってるんだかと、内心で思いながらも滝沢は淡々彼女の身体を労わって、サポーターを巻いたり、ストレッチの補助についたりとバックアップをするのだった――

 何をしているんだろうと思ったが、彼女が端から壊れてしまえば元も子もない――まあそれで躊躇しては限界など見出せないから適度に無理をさせたりはする……しかしそれは体がある程度出来上がってる娘にのみ限る話だ。ウララは未熟故に慎重にならざるを得ないのだ。

 

 それから長ハードワークの日々が幕を開けた。

 最初はこなすだけでも門限ギリギリな練習メニューは日を追うごとにどんどんきつくしていった。

 しかし一向に彼女は、嫌になって投げ出すどころか弱音を吐くことはあっても逃げ出すことなく練習メニューを着実とクリアしていくのだった。流石にもうそろそろ契約解除されてもおかしくないはずだ。今までの娘達も軒並みそうだった、だからこれでもうやめると思っていたのになぜだ……どうしてそんなに頑張るのだろうか――

 

「うらら――辛くないのか?」

「え? 全然辛いよ?」

「やっぱり――」

「けれどトレーナー、うららの為に組んでいるから、うららも頑張ろうって思えるの!」

 

 その言葉はあまりにも久々でふと、思考が吹き飛んだ。それ故に、「……そうか」ぽつりと呟き、次に天を仰ぎながら「――そりゃありがたいお言葉だね」としみじみとした声で呟いた。

 それを境に滝沢の心境に変化が現れた。自分でも安い心と思ったが、そんなことはどうでもいい。とにかく次のレースだ。重賞でなくていい、ただレースで一着を取らせたい――いつしかそれが目標となっていて、無意識のうちにトレーナー引退という言葉は消えつつあったその最中――通告は突然とやってくる。

 

 突如として、理事長に声が掛かり対面で言い渡されたのは『トレーナーを引退してほしい』という、実質クビという何とも慈悲と夢の無い通告だった。

 

「無念――私も運営には掛け合ったものの、やはり民意には逆らえない故……断腸の思いであるという事だけは理解してもらいたい」

「ただ……今すぐの決断というわけではなく猶予として一ヶ月ほどありますのでどうかその間でのご決断をとのことで――」

 

『分かりました、引退します』

 

 それは二人して驚愕させた。この数週間で何があの彼の心を変えたのかと勘くぐってしまうほどにあっさりとした答えだった。

 

「驚愕――本当にいいのか!?」

「はい、今まで大変ご迷惑をお掛けしました、残された猶予期間内ではしっかりと業務に勤めますので何卒よろしくお願いいたします」

「滝沢トレーナー……本当によろしいんですか? うららちゃんと再起したって聞きました……なのにこんなあっさりと――」

「いえ、俺はもうここにいるべきじゃありません、それに好き勝手やらせて頂いたんです。もう後悔はありません……しかし、殊彼女におきましてはまだまだこれからという事もあり、大変心残りはあります。ですが、この事はすべて自分の行いにあります。故にこの通告事態に異議はありません。改めて大変お世話になりました。」

 

 彼は頭を深く下げる――あまりの変わりように最初二人邪推していたが、流石に今の彼はあまりにも見るに堪えない姿をしていた。

 まるで抜け殻になった骸に辛うじて残留した魂がなんとか操り人形のようにして動いているようにしか見えなかった。

 

 これが彼なのか――

 駿川たづなは、その姿に一番動揺していた、一時は取り戻していたはずの威勢が、まさかこんな抜け殻になるなんてと、その儚さに一番愕然として、彼の力の無い背中を見つめていた。

 

「我々は、少しでも彼が抗う事を期待していたが――まあ彼が甘んじて受け入れるというならば、そういう他ない……ただしかしなあ――否定してくれればそれはそれで対応したというのに……」

「理事長、もう私達がどうこうするという次元ではないのでは……」

「残念――もうこの一言に尽きる」

 

 

「うらら、大事な話がある」

「な~に~トレーナー?」

「今月いっぱいでトレーナーを辞めることになった」

「……え?」

「理事長からな、通告されてしまってな……まあ、まだまだこれからって時に本当に申し訳ない」

「え……ううん、ごめんじゃないよトレーナー、トレーナー……何言ってるか全然分からないよ……」

「本当に……本当に申し訳ない」

「謝らないでよ……謝らないでよ!! なんで!! なんでそうやって受け入れるの? なんでトレーナー……うららの、うららっ一着になる為に頑張って……これからいっぱいいっぱいトレーナーと一緒に……トレーナーと――」

「本当にごめんな……うらら、俺はもうこの学園に居られない……居ちゃいけないんだよ――今の時代にはもう相応しくないんだよ」

 

 優しく語りかける言葉に反して彼女は、理解したくない感情で思わずその場から逃げ出した。

 皮肉にも、その脚は今や誰が走ったとしても届かない――

 全速力で、ただターフから、ダートから逃げ出したかった。一刻も早くこの耳を、今聞いたこと全てを消し去りたかった。

 いつの間にか涙でぐしゃぐしゃになって、気が済むまで走ろうと思った――その時だった。たまたま目の前にキングちゃんが見え、それ一直線に彼女の胸元へと飛びこんだ。

 それからぐしゃぐしゃとなった感情のまま、そしてその顔と声でただただ、渦巻くその感情を彼女にぶちまけた――

 

 いつもなら、落ち着きなさいと怒る声も、今回ばかりは頭を撫でて落ち着き払って、一つ一つ優しく丁寧に聞いてくれた――

 

「そう……あのトレーナーが……」

「どうしようキングちゃん! このままじゃトレーナーが……トレーナーが!!」

「キングさん! 何がなんだか分かりませんが、これは一大事ですわ! 早く何とかしませんと……私も力になりますわ!!」

「カワカミさんも落ち着いて……けれどもトレーナーの引退となると一大事ね……」

「私! 今から直接理事長へ抗議しに行って参りますわ!!」

「あぁ! ちょっと待ちなさい!!」

「キングぢゃんどぼぢよおぉぉぉ!!」

「ああもう! 泣いてばかりいちゃどうもならないわ! まずは滝沢トレーナーと話し合わなければ……こう言うのは本人の意思が何よりも大切なの――」

 

 そう言うと、キングちゃんはスマホを取り出す。

 

「あ、もしもし?」

『お~どうした、また予定の変更か?』

「ええ、結構深刻で――」

『深刻ならこっちもだ、カワカミが理事長室に全速力で突入して行ったんだが――は!? 滝沢が辞めるって!? おい、カワカミがなんかとんでもないこと言い出したんだが――』

「……」

『キング!?』

「……話が早くて助かるわ」

『どういうことだ、それよりも早くカワカミを止めないと――おい、カワカミのトレーナーはどこ行ったんだ!!』

「その事だけど、本当よ――流石に細かいところは分からないけれど、辞めざるを得なくなってしまったみたいなの、まあ今は事実の確認を急がなきゃだけども」

『そうか――分かった、今すぐにそっちへ向かう……』

「カワカミさんは大丈夫?」

『何とか――』

 

 携帯を耳から離すと彼女は柔和に微笑んで「大丈夫よ」と一言伝える。

 しかし、依然として不安とショックは払拭されないまま、キングちゃんのトレーナーと一緒にテラス席に座っている滝沢トレーナーを見つけた。

 同時に私達が到着したのにも気づいたらしく、彼はおもむろに立ち上げって、二人の座る椅子を引いた。

 座ってから数秒沈黙が流れ、それを最初に破ったのは滝沢だった。

 

「うらら、いきなり告げる形になって本当に申し訳なかった。もっと手順を踏んでからにしておくべきだったな……」

「でもうらら……トレーナーに辞めて欲しくないよぅ……」

「そう言ってくれるのは嬉しいが……こんな俺の何が良いんだ?」

「……」

「いや、これはちょっと意地悪な質問だったね……でも正直今の僕にはあの頃のような情熱が無いんだよ、そんな俺がトレーナーをしていたところでただ惰性でしかない」

「それでもうららはトレーナーに……今のトレーナーとして居て欲しい! うららッ――うららはね、トレーナーのお陰で今があるんだよ? トレーナーがメニューを組んで一緒にトレーニングしてくれたから今があって トレーナーが一緒に居てくれたから――どんなに辛いトレーニングだってトレーナーが居てくれたから耐えられたんだよ? 今のうららにしてくれたのは他でもないトレーナーさんなんだよ? なのに、他のトレーナーとやっていくなんて考えられないよ……」

 

 泣きそうに訴えかける彼女にたいして、滝沢は暗鬱な瞳で語りかける。

 

「……君は怒るかもしれないけれどね、俺が端からハードワークのメニューを組んだのはわざとなんだよ――」

 

 その言葉にウララを除いた二人が「えぇ?」と驚きを零した。

 されど、彼女だけ表情を崩さずに聞いている。

 

「最初、俺はトレーナーを辞めようと必死で……今思えば馬鹿馬鹿しい話だけども君に嫌になるほど、辛いトレーニングを課せば、他の娘達と同様に君から拒絶してくれると企んでの事だったんだよ。まあ結果は思っていたよりも全然違っていたものだった。失敗したと言ってもいい――この話を聞いて、まだ俺にトレーナーになって欲しいとでも」

「欲しい」

「……聞き間違いかな、今なんて」

「トレーナーでいて欲しいって言ったの……」

「――」

 

 彼女の目は真剣だった。

 そしてこちらが無言でいる事を知ると口を開く。

 

「じゃあトレーナーはあの日、初めてちゃんとしたストレッチとかアイシングとか色々な事を教えてくれた――」

「それは体を壊したら元も子も無いからで――」

「他にも沢山色んなことを教えてくれた、筋肉の付け方だったり、私に合う走り方だったり……それでも、それでもトレーナーはやめる為だけにそうしたって断言するの?」

「それは――それは君が僕が居なくなっても、効率よくトレーニングをする為で――」

「できないよ……」

 

 それは静かな拒絶だった。

 

『できない!! 私トレーナーと……滝沢トレーナーとじゃないと嫌だ!!』

「嫌だって、そんな駄々をこねたって無理なものは無理なんだよ……」

「嫌だ!! うららのトレーナーは滝沢トレーナーしかいないの!!」

「そんな事――」

 

 そんな事……言わないでくれよ――こっちだって覚悟してるんだぞ、もう、もう全てを諦める準備だってしてまで「辞めさせていただきます」って言ったんだぞ――全てを捨てたんだぞ――そんな事言われたって俺はどうしろっていうんだよ。

 本心を言うのなら、俺だって――俺だって!!

 

『滝沢!!』

 

 瞬間肩を勢いよく掴まれる感覚に我に返る、傍らを見ると、キングのトレーナーが掴んでいた。

 

『本心を言えよ!』

 

 んなもん言えるワケねえだろうが――

 

『駿!!』

 

今度は背中を強く叩かれ、振り返ると不為川がいた。

 

『お前の叶えたかった夢はそんなものかよ!!』

 

 夢なんてとっくの昔から諦めてんだよ――

 

『滝沢サン!!』

 

 今度はもう片方の肩が沈んで、そこには藤井が居た。

 

『あんたは独りじゃない!!』

 

 なら今までのザマは何だったんだ。この状況も全ては天涯孤独で無理をした結果じゃないか――

 

 黙っていれば好き勝手言いやがって、それでこの俺を鼓舞したつもりか? 何もわかってない癖に、何もわかってない奴が一番理想を宣うのだ、当人の苦しみは、その本人にしか分からないし分かり得ない。どれだけの取捨選択をしたところで待っているのは破滅だけ、何故そんな苦しみをまたやらねばならないのだ――俺はもう疲れたのだ、もうトレーナーなんて悪役を被りたくないのだ。

 もう時代は俺を求めない。

 彼女達の持つ理想にこの俺はお呼びじゃない。もう役は終わったのだ。

 

 レース最強至上主義――そんな机上の空論に取り残された俺を一体誰が救うのだ――伝説は生まれてくる。しかし己の取りこぼした可能性から、己を去った全ての可能性が他の手の内で花開くのがもう耐えきれないのだ――

 

 なのにお前らは、お前たちはどうして苦行を強いる――

 

「滝沢トレーナー、どれだけその道が困難であろうと、貴方の行く道は貴方が決めるの、それがどれだけ苦痛であろうともどれだけ果敢ない道筋だとしてもそれは貴方にしか見えない、貴方にしか歩めないものなの――喩えそれがどれほど災難に見舞われようとどれだけ道を阻まれようと……歩みを止めない限り、必ず栄光を掴めるもだと私は信じてるの……」

 

 何、知った口を叩いているんだ? 勝負の世界に居る彼女達から向けられる――その不屈の精神から来る言葉だからこそ、滝沢はその言葉に大きな絶望を抱きながらも微かな希望を見た。見てしまった。

 

「諦めは時に君を救うだろう――しかし同時に君を飛翔させる翼は枯れてゆき、次第にかつての栄光が翳りとなって君を追い詰める。しかし、飛ぶことを諦めなければそれは現在進行形で語り継がれるものだ――私がここに直訴しにきた理由をわざわざ説明させようなどと言うまいな」

 

 そう言って姿を見せたのはシンボリルドルフだった。

 

「そこの男に頼み込んでな――君の元教え子達から署名を貰って来た」

「いつの間に――しかも国外の奴もいるじゃねえか」

「流石に電子署名になってしもてんけど、これでも十分や」

「さあ、最後は君次第だ――取り消すか取り消させないか――」

 

 彼女の威圧的な視線に耐えかねて俯いた。

 

「これじゃあ、やれって強要されているもんじゃねえかよ――」

 

 彼はため息交じりに言った。

 しかし彼もまた迷っていた――そこで最後の最後に彼女に委ねることにした。

 

「うらら――お前、行くとしたらどこに行きたい」

 

 それはこの中に居る全員が全員、予想もしなかった質問だった。

 

「い、行くって――」

「重賞だ、どこだっていい高松宮、日本ダービー、凱旋門――行きたいところを言ってくれ」

 

 流石の彼女も困惑している様子で――『有馬……記念』

 意外にもすんなりと答えを出した。

 

「そうか――有馬か………………いいな――」

 

 目を閉じて雲一つない青空を仰いだ。

 

「もう一つ……いいか?」

「何、トレーナー」

「どうして、有馬なんだ?」

「だってトレーナー言ったでしょ? 最強のウマ娘じゃなきゃ困るって」

 

 瞬間、滝沢は堪えきれなくなって笑い出す。

 続いてハルウララも笑いだす。

 

 しかしそれ以外、取り囲む面々は困惑の顔を浮かべるだけでその中でもルドルフは相変わらず微笑を浮かべたまま目の前に立っている。

 嗚呼言ったな……あれもこれも皆、全て逃げたいから言っちまった言葉なんだけどなあ――まあちょっとは本音もあったけれど、うんでもいいなあ……それ。

 

「いこう、有馬記念に」

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。