ヒスイカズラは今日も咲く 作:いわば体液
アクティの睡眠時間:不定
エジルの睡眠時間:21時~5時
夏休みというのは学校に行く必要がない。勿論、夏期講習がある日は話が別だが、そうでなければ学校に行く必要はない。学校に行く必要が無いという事は、朝を急ぐ必要が無いという事だ。
人間という生き物は十分な食事と睡眠時間、そして陽の光を浴びて適度な運動をこなして初めて健康的な営みが出来るというものだが、それら必要な要素を全部無視してオワッタ生活をするというのは何事にも代えがたい贅沢な時間でもあるのではないだろうか。
ご飯も食べずに深夜、いや、早朝とも呼べる時間帯まで家でゲームをして最早眠気すらも超越した状態で布団に潜る。
普段出来ない事だからこそそういう時間は楽しいのだ。
きっと未来の俺がこのことを思い返せば「勉強しろ」とでも言うのだろうが、今の時間は今の俺の物なので未来の俺が何を言おうが知ったことではない。
まあつまり、何が言いたいのかと言えば……
「二度寝は最高という事だ……」
ぼやけた視界に捉えた時計は午前の9時を示していたが、気にせず昼までもうひと眠りする事を決めた。まだ4時間くらいしか眠っていないのだから仕方ないだろう。
『起きろ~!』
「ごぼぁ!? ……ッ!! ……!」
二度寝を決め込んだ瞬間に息が出来なくなる。
直前に聞こえてきたのは誰かの声。
そして、何となく顔全体がひんやりと気持ち良い。
「ぷはぁ!! ……はぁ……死ぬかと思った……その起こし方やめろって……」
『でもこうでもしないと起きないじゃない?』
「まあ起きないけど」
慌てて起き上がった俺が後ろを振り返ると、そこにはベッドに腰かけながら掌をこちらにむけたままの姿勢で居るアクティだった。
今までにも彼女にやられたことがある。手だけを実体化したアクティが俺の顔に掌を押し付けたのだろう。
アクティの身体は水で出来ている。そんな手ですっぽりと鼻も口も押えられてしまえば当然息をすることなんて出来なくなる。俺はいつかこいつに殺されてしまうかもしれない。
『早起きすれば良いだけだよ』
「休みの日くらい勘弁して欲しいんだが」
『今日はエジルちゃんを連れて出かけるんじゃなかったの?』
「あ」
そういえば昨日エジルが家にやって来たからそんな話をした覚えはある。
寝る直前に友人からゲームの誘いにほいほい乗ってしまったためにすっかり忘れていた。
『ほら、エジルちゃんなんか楽しみ過ぎて3時間くらい前からそこで待ってるよ』
「え?」
アクティが指をさした方向を見てみると、部屋にある座布団の上にちょこんと座ったエジルがソワソワしながらこちらを見ていた。
『おはようございます!』
「あ、はい。おはよ」
挨拶を交わした後もソワソワとした様子でこちらを見つめ続けているエジル。
あれ? アクティは3時間くらい前と言ったか? 今は9時だから……6時頃からそこで?
「……」
『……』
「歯を磨いてくるからもうちょっと待っててね」
『はい!』
彼女の期待の眼差しを受けて何もしない人間が居るだろうか。
俺には無理だね。
手早く身支度をしてから適当なパンを口に詰め込んだら、二人を連れて家を出ることにした。
☆
『ほえー!! 人が沢山ですね!』
エジルちゃんの社会科見学も兼ねたお出かけという事で今日は俺の住む街で一番大きなショッピングセンターにやって来ている。アクティのリクエストで候補として挙がっていた山の渓流や遊園地というのも悪くはなかったが、今回は単純に俺が買いたい物があったのでここへやって来る事にした。
エジルちゃんがいつまで人間界に居てくれるかは分からないが、今度は遊園地に行こうと思っている。
山の渓流みたいな自然豊かな場所というのは彼女たちの住処を考えればあまり目新しい様には思えないのだが、精霊界と人間界の違いもあるだろうからこちらの選択肢も無しではないのかもしれない。
「あんまり離れないようにな。迷子になっちまうから」
『わかってますよー』
そういうエジルちゃんだったが、夏休みという事もあって家族連れが多いのであっという間に彼女の姿は人込みへと紛れてしまった。まあ、彼女の依り代である『氷水のエジル』のカードは俺が持っているからそうそう遠くまで行ってしまう事は無いと思うのだが……なんだか不安だ……。
『ふっ、全く……エジルちゃんはお子様ですね』
「そういうお前も周りに気を取られて目が泳ぎまくってるじゃないか」
『えへへ……』
アクティがこのショッピングセンターにやって来るのは別に初めてという訳ではないのだが、シーズンごとに切り替わる商品、開店と閉店が繰り返されて全く様相が異なっていくテナント、そしてそれらを楽しむ人々の様子が面白いのかキョロキョロと忙しなく辺りを見渡している。
『で、この後の予定は?』
「そうだなぁ。特に何か決めてるわけじゃないんだけど、とりあえず俺の買い物を先に済ませてから適当にぶらつこうと思ってる。歩いた先で偶然見つけた店に入るのもこう言った場所の醍醐味だからな」
最悪映画館で時間を潰すことも出来るし、何とでもなるだろ。
『え~そんな事じゃ彼女が出来たときにデートで困っちゃうよ?』
「う、うるさいな……」
アクティが何やら言っているが、彼女が出来るなんて言う予定はこの先しばらく無さそうなので気にしない。
「さて、取り合えずまずは本屋に行くぞ」
『本? 似合わなーい』
「一応受験生だからな」
『勉強をするための本って事? 熱心だねぇ~』
まあ、高校3年生の夏休みの時点で新しい参考書に手を出そうとしている俺が果たして勉強熱心な人間なのか、尻に火が点いて悪あがきをしているだけの人間なのか。
少なくとも何もやらない人間よりはましだろうと自分を勇気付けていこう。
人の波にのまれて若干涙目になっているエジルをアクティに救出させてから2階のフロアにある本屋へと目指す。
『……困ったなぁ……』
「ん?」
そんな声が聞こえてきた気がした。
しかし、ここは沢山の人がワイワイガヤガヤと集まっている場所であり、どこかの誰かの話し声が偶然耳に入るなんてことは当然起こりうる。
だから俺は気にせずアクティとエジルを連れて目的地へ行くことにした。
祭服の様で、ドレスの様で、喪服の様な衣装を身に着けた少女が人混みに紛れて横切った事に、俺は気が付かなかった。