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それは、蝶の羽ばたきのような、小さなきっかけ。
それは、吹きすさぶ嵐のような、大きな物語。
ふぁ、と大きな口を開けて欠伸をすれば、クラスメートがデケェ口だな、と揶揄ってきた。
うるせぇ、とジト目で睨みつけた後、八つ当たり気味にサッカーボールをそいつに向かって蹴ってやる。
ごめんごめん、って全然反省していない顔で謝ってきたから、今度は膝裏を蹴ってやった。
小学1年生の頃からサッカーで鍛えた足は、伊達ではない。
思いっきり蹴られたクラスメートは、蹴られた方の足を抱えて、その場でぴょんぴょん跳ねながら悶えた。
しかしその蹴りの威力も、いつもの半分ほどしかなく、蹴られたクラスメートは不思議そうに大輔を見やった。
原因は、はっきりしている。
その日大輔は、夢を見た。
パステルカラーのマーブル模様は、果てが何処まであるのか分からない。
揺らめく景色、上下や左右のない感覚。
伸ばした手に実感はなく、妙に身体が重く、夢と現の区別がつかないぐらいに意識が曖昧だ。
それでもこれが夢だと分かったのは、目の前にいる人物のせいだ。
腰まで届く長い紫色の髪、強い意志を秘めた蒼い目の、大輔と同じ年頃の女の子。
三日月のようにつり上がった口の端は、まるで不思議の童話に出てくる猫のようだった。
何もなかったはずの景色に、いつの間にか形成されている岩の腰かけ。
大輔の身長の2倍ほどある岩に、“彼女”は腰掛けて大輔を見下ろしていた。
おかしい、と大輔は“彼女”を見上げる。
“彼女”のことはよく知っていた。“彼女”は大輔の幼馴染だが、大輔よりも3つほど年上だ。
別の幼馴染と同い年で、今年で中学2年生になるはずなのだ。
自分と同じ年頃のはずがないから、これは夢だとすぐに分かったのである。
《────》
口を開く。“彼女”の名を呼ぼうとしたが、夢の中のせいなのか、喉の奥から声が発せられることはなかった。
それを見た“彼女”の笑みが深まったかと思うと、“彼女”はす、と人差し指を大輔に向ける。
正確には、大輔の頭上辺りを。
反射的に、大輔は上を見る。
青く淡い光の玉が、浮かんでいた。
それをぼんやりと見つめていると、光の玉はゆっくりとした速度で、大輔の目の高さまで降りてくる。
それを受け止めるように両手を差し出した。
ぽわん……
不思議な音を立てて、光の玉が弾ける。
水が飛び散るように弾けた光の玉の中から生まれたのは、見たこともない生き物。
2本のへにょりとした角に、光と同じ蒼い身体。
目は固く閉ざされているせいで、何色か分からないが、まるで竜の子どものようだと大輔は思った。
ふわふわと、羽が舞い落ちるようにゆっくりと、竜の子どもは大輔の腕の中に収まる。
夢の中だからなのか、重さを感じない。
じっと見下ろしていても、竜の子どもが目を覚ます気配はなかった。
大輔は竜の子どもから目を離して、“彼女”を見上げる。
“彼女”は、未だに岩の上に座っていた。
《────》
再度口を開いても、やはり声は出てこない。
聞きたいことはいっぱいあるのに、それを伝える術を、大輔は持っていない。
どうしようという焦りすら、夢のせいで湧いてこなかった。
《………………》
視線を感じる。
じ、と大輔を見下ろしていた“彼女”が、弧を描いていた唇をゆっくりと開いた。
《助けてあげて》
その言葉を皮切りに、景色が一変する。
パステルカラーのマーブル模様に囲まれていた一面が、真っ白に染まった。
待って、と手を伸ばすと同時に、腕の中にいた竜の子どもが、光の粒になって白の中に溶けていく。
引っ張られていくように、急浮上していく意識。
天井に向かって伸ばされた手が視界に映り、そこで大輔は目を覚ました。
「ふぁ~……」
妙にリアルな夢を見たせいだろうか、朝から欠伸が止まらない。
着替える時も動きが鈍く、せっかちではきはきとした性格の大輔にしては、のっそりとした動作で部屋を出てきたので、既に朝食を食べ終わっていた姉に呆れられてしまった。
朝ご飯を食べる際も、いつものようにがっつくのではなく、のっそりとしていたから、風邪でも引いたのかと母と姉に心配された程だ。
熱はなさそうだ、とおでこに手を当てられた時も払いのける素振りすら見せなかったから、本格的に心配されたが、学校に行けないほど具合が悪かったわけではなかったので、大輔は心配してくる母と姉を振り切って学校へと向かった。
登校途中でも眠気は治まらず、いつもなら背筋を伸ばして、後頭部に手を回しながら大股で歩く大輔には珍しく、背中を丸めて何度も欠伸をしながらのそのそと歩いていたものだから、途中で合流したクラスメート達も怪訝な表情で大輔を見やったものだ。
知人が出てきた、変な夢を見たと言ったところで理解されるとは思えなかったから、ゲームのやりすぎで寝不足だと嘘を吐いて誤魔化した。
クラスメートは、それ以上踏み込むつもりはなかったようで、フーンとだけ言うと、学校ついたらサッカーしようぜとさっさと話題を切り替えた。
恐らく本人にそのつもりはないのだろうが、話題を替えてくれたことにホッとして、大輔も気持ちを切り替えようと無理やり大きな声で返事をして、学校まで走った。
そして、冒頭に至る。
大好きなサッカーをやっても気分はなかなか晴れず、クラスメートに揶揄われる始末。
眠さもあって、そのイライラをぶつけるようにクラスメートを蹴りつけた時、クスクスと言う笑い声が聞こえた。
ばちり
そいつと目が合う。
じ、と見つめていれば、大輔の視線に気づいて、気まずそうな笑みを浮かべながら後頭部を掻いていた。
白い帽子をかぶり、黄色と緑のシャツを着た、自分と同年代か年上の男の子。
帽子の下から覗く鈍い金色の髪は見たことがなかったので、大輔はサッカーの輪から外れてその男の子の方に近づいていく。
別に他意はない。
同学年の子達は大体把握しているので、転校生なのかと気になったから、声をかけようと思っていただけだ。
ただ男の子はそう思わなかったようで、焦ったような表情を浮かべると、慌ただしく去っていった。
「そのゴーグル、カッコイイね」
そう言い残して。
予鈴が鳴る。
校庭で遊んでいた子や、のんびりと登校していた子達が、慌てて校舎内に駆け込む。
サッカーボールの片づけをクラスメートに押し付けた大輔も、欠伸を噛み殺しながら教室に入れば、よく見知った後ろ姿が見えたので、声をかけた。
「よう、ヒー」
「あ、おはよう、ダイくん」
こげ茶色のショートボブに、白とピンクの服、黄色いズボン、そしてピンク色のウォームカバーを身に着けた、幼馴染の女の子。
大輔の声に気が付いて、ヒーと呼ばれた女の子……八神ヒカリは振り返って、微笑みながら挨拶を交わす。
「また同じクラスだな」
「だね。今年もよろしくね」
ニッ、と歯を見せて笑えば、ヒカリも穏やかに微笑み返す。
直後、大輔は何度目かの大きな欠伸をした。
「ふぁ~あ……」
「あら、ダイくんってば、またゲームで夜更かしでもしたの?」
席について大きく口を開きながら欠伸をする大輔に、ヒカリが苦笑しながら指摘したが、それに関する反論が返ってこなかった。
いつもなら、そんなんじゃない、と目を泳がせながら抗議してくるのに。
不思議に思って首を傾げていると、机に突っ伏した大輔がそのままの体勢で顔をあげる。
──今朝見た夢を、ヒカリにも話してみようか。
夢に出てきた“彼女”とも、あながち無関係ではない。
だが余計なことを言って、心配性の彼女を不安がらせるのも本意ではないので、何と言ったものか、と大輔は間延びした呻き声のような返事だけを返した。
本鈴が鳴り、担任が教室に入ってきたのは、その時である。
後でね、とヒカリは言い残し、通路を挟んで隣の席に座った。
「この新学期からの、えー、君達の新しい仲間を紹介しよう」
全員が席についたのを確認した教師は、おはよう、という挨拶の後、そんなことを言った。
今は4月、今日は始業式の日である。
5年生になったばかりの今日で、転校生が来るなんて珍しい、とクラスメート達は興味津々だ。
欠伸を噛み殺していた大輔は、新しい仲間、と聞いて先ほど校庭で会った子を思い出す。
まさかな、とぼんやりと教師の方を眺めていたら、そのまさかが起こった。
ガラリ、と教室の扉が開き、中に入ってきたのは黄色と緑の服を着た、金髪の男の子。
屋内だからなのか、帽子を脱いでいる。
やっぱ転校生だったのか、と大輔は興味がなさそうな眼差しを転校生に向けた。
「タカイシタケルくんだ」
「タカイシタケルです。よろしく」
黒板に転校生の名前が書かれる。
高石岳、と書いて、タカイシタケル、と読むらしい。
名前は純日本人だが、顔つきは何処かの血が入っているような顔だ。
“アメリカに住んでいたことがある大輔”は、彼がダブル……日本人と何処かの国のハーフだと、すぐに見抜いた。
アメリカ人やイギリス人などの、アングロサクソン系ではなさそうだ。
どちらかと言うとラテンっぽいな、イタリアかな、スペインかな、それともフランス?とどうでもいいことを考える。
「席は、えー、八神の隣だ」
「はい」
担任に言われ、タケルは言われた席……ヒカリの隣に座る。
それを何となく眺めていると、席についたタケルが嬉しそうに、ヒカリに声をかけた。
「久しぶり!」
「背、伸びたね」
──へぇ……?
大輔の目が丸くなる。
幼馴染は明るい子ではあるものの、積極的に男子と話したり、自分から会話をしていくタイプではない。
どちらかと言うと聞き役に回ることが多いヒカリが、転校生と楽しそうに会話をしている。
……自分以外の男子と、そんな風に喋るなんて珍しい、と大輔はようやくタケルに対して興味を抱いた。
──誰かが、呼んでいる。
今日は始業式のため、授業はない。
始業式に出て、教室に戻ってから明日以降の簡単な予定を聞いたり、時間割等のプリントをもらったりして、この日は終わる。
いつもなら終了と同時に教室を飛び出して、サッカーの部活に向かう大輔だが、始業式だから部活もない。
だから大輔は、帰宅しようとしているタケルとヒカリに、遠慮なく話しかけた。
「なぁ、お前」
その言葉を聞いたヒカリが、咎めるように大輔を見やった。
「ダイくん、お前じゃなくてタケルくん、ね」
「あ、悪い……えっと、タケル?って呼んでいいのか?」
ヒカリに叱られた大輔は、素直に謝罪し、タケルに確認をする。
ヒカリを怒らせたら怖いのだ、“彼女”みたいに。
生まれた時からヒカリを知っているから、彼女の性格だってよーく知っている。
よろしい、とヒカリは微笑んでくれたので、ひとまず胸を撫で下ろした。
一方、タケルはタケルで、目を丸くした。
タケルも、ヒカリのことはよく知っている。
3年前から共有している秘密を抱えた仲間で、初めて“護らなければ”と思った女の子だ。
尊敬している人の妹で、身体が少し弱くて、そしてその身に不思議な力を宿した女の子。
輪の中にいても、会話を弾ませるより、耳を傾けて寄り添うように相槌を打つ方が多い彼女が、感情をさらけ出して、咎めるような眼差しと言葉を向けたことに、タケルは驚いたのだ。
だが今はそんな仲間に驚いている場合ではない。
「うん、もちろん、タケルでいいよ。それで、君は……?」
「本宮大輔。俺も、大輔でいいぜ」
「分かった。それで、大輔くんは何の用?」
「ああ、うん。用って程でもないんだけど……聞きたいことがあって」
普段の大輔を知っている人なら、遠慮しているような態度を見てびっくりするだろう。
現にヒカリがそんな大輔を見て、目をパチパチとさせている。
しかしタケルは大輔を知らないので、大輔の態度を見ても何とも思っていなかった。
それよりも、
「聞きたいことって?」
大輔は自分に聞きたいことがあって、呼び止めたと言う。
それが何なのかを聞かなければ、話は進まない。
「おう。えっと……タケルってさ、ヒーとどういう関係なんだ?」
「へ?」
タケルの目が再度丸くなる。
パチパチ、と瞬きをして、大輔とヒカリを交互に見やった。
思ってもいなかった質問をされた、というのもあったが、それよりも聞き捨てならない一言を聞いてしまったからだ。
「ヒー?ヒーって誰?もしかしてヒカリちゃんのこと?」
「え?そうだけど……」
今度は大輔にキョトンとされた。
自分はヒカリをちゃん付けで呼んでいるのに、ヒー、と省略して呼ぶなんて、随分親しいのだな、とヒカリを見やると、後でね、と言いたげな視線をもらった。
なのでまずは大輔の質問に答えるべく、口を開こうとして……。
「あ、いたいた!」
言葉が出ることはなかった。
大輔の背後から声をかけてきた者がいたからである。
その人物が今朝出会ったばかりの、同じマンションに住む1つ年上の女の子だ。
「あ、京さん!」
「京ちゃん?」
「え?京?」
ほぼ同時に、3人が女の子に向かって言い放ったので、3人は顔を見合わせた。
「京さんのこと、知ってるの?」
「京ちゃんのこと、知ってるの?」
「京のこと、知ってんのか?」
ほぼ同時に、同じことを互いに訊ねたものだから、京と呼ばれた眼鏡の女の子は、思わず吹き出してしまった。
「笑うなよ、京」
「ごめん、ごめん。タケルくんとヒカリちゃんは、後で理由教えてあげるね。それよりさ、ヒカリちゃん」
どうやら京はヒカリに用があったらしい。
むくれる大輔を無視して、京はヒカリの下まで歩み寄ると、手に持っていた紙をヒカリに差し出した。
「太一先輩からメールが来てたのよ、パソコン部の方に」
「お兄ちゃんから?」
「そ、泉先輩宛に。もう卒業してるのにさ。発信元見たら、Dターミナルからだったんだよね。しかも内容が意味わかんなくて。どういうことか分かる?」
太一から届いたというメール。
京が持ってきた紙は、太一のメールの内容をプリントアウトしてきたものらしい。
ヒカリは紙に目を通し……さっと顔を青ざめさせた。
井ノ上京は、2年前に出来たばかりのパソコン部の部長である。
初代部長の次ぐらいにパソコン知識があった、と言う理由で現部長に任命されたのだが、部員数は部活として活動できるギリギリの数だ。
暇さえあればクラスメートや下級生達を勧誘しているのだが、なかなか人数が増えない。
その部員の中に、大輔とヒカリもいるのだが、大輔はサッカー部をメインにしているため、名ばかりの幽霊部員だ。
ヒカリも、パソコンでプログラムを組むより、デジカメで撮った写真をパソコンに取り込む方が好きらしくて、あまりパソコン部員らしいことをしてくれない。
パソコンルームに向かう途中、京はそんなことを大輔とヒカリに愚痴りながら、タケルのことも勧誘する。
太一から緊急事態の旨が書かれたメールが来ていると言うのに、呑気なものだ、と大輔は呆れているし、ヒカリは苦笑するしかない。
靴を履き替えていたタケルとヒカリは再び上履きを履き、京の後を追って大輔共々パソコンルームに向かっていた。
渡り廊下を駆け足で渡りきると、反対側の階段から上がってきたパソコン部の初代部長、泉光子郎と合流する。
今年の3月に卒業して、中学1年生になったばかりの光子郎が小学校に来た理由は、Dターミナルの充電が切れてしまったからだ。
どうやらパソコン部宛に送られたメールの内容が、光子郎のDターミナルにも届いていたのだが、返信をする前に充電が切れてしまったらしい。
家に帰って自分のパソコンから送るよりも、小学校の方が近かったから、と光子郎は言った。
カタカタカタ、と慣れた手つきでキーボードを打つ光子郎を尻目に、京はニコニコとした笑顔を浮かべながら、ヒカリに訊ねた。
「ねぇねぇ、デジタルワールドって何処?新しいテーマパーク?」
訊ねられたヒカリは、困った顔だ。
これは、ここにいる自分とタケルと、そして光子郎しか知らない、特別な場所。
思わずタケルに縋るような眼差しを向ければ、タケルも苦笑している。
果たして京に話したところで、信じてもらえるか。
だってきっと“普通”の人は信じない。
自分の目で見たもの、耳で聞いたものではないものを、人は信じないからだ。
自分達の親でさえ、実際に見たものであっても理解してもらうのに時間がかかった。
何と答えたものか、と考えあぐねていると、成り行きで一緒に来ていた大輔がヒカリに呟いた。
「デジタルワールドって……もしかして、3年前の?」
「え?」
「太一兄やヒーが、デジモンとか言ってたけど、それのことか?」
「……太一さんを知ってるの?」
大輔の呟きに反応したのはタケルである。
太一と言えば、自分達が抱えている秘密に大いに関わってくる人物だ。
隣にいるヒカリの実兄であり、自分が兄と同じぐらい尊敬してやまない人。
その人を、知り合ったばかりの大輔くんは、“太一兄”と呼んだ。
ヒカリのことをヒーと呼んでいることと言い、自分以上に八神兄妹と親し気な様子の大輔に、タケルが身を乗り出すのも無理はないだろう。
自分を太一さんの弟にしてほしいと言ったことがあるだけに、余計に。
その疑問に答えたのは、大輔ではなかった。
「私達、幼馴染なの」
「え、そうなの?」
「だからぁ、何?デジモンって何?」
うん、とヒカリが頷くと同時に、京が割って入る。
だが京の疑問が解決することは、終ぞなかった。
「京さぁん!」
廊下から幼い声が聞こえてくる。
パタパタパタ、という駆け足と共に、パソコンルームの扉から顔を覗かせたのは、今朝タケルがマンションのエレベーターで京と共に出会った子、火田伊織だ。
京にパソコンの修理を依頼していたようで、いつまで経っても来ないから迎えに来たようだ。
後ろ髪を引かれるような表情を浮かべながらも、伊織に急かされるような眼差しを向けられたので、がっくりと肩を落としながら教室から出て行く。
後で聞かせてよ!という台詞を残して。
「あーあ、あーなると京の奴、しつこいぞ?」
「うーん……」
どーすんだよ、とジト目でヒカリを見やれば、誤魔化すように微笑みながら舌を出したから、大輔は軽く小突いてやった。
痛がる素振りを見せなかったので、本当に触れるぐらいの強さだったのだろう。
見たことのない表情を見せるヒカリと、それを引き出した大輔を見て、タケルは何度目かの瞬きをした。
タン、とキーボードの音が鳴りやむ。
「……やっぱり、ゲートが開いてる」
確認していたのは、メールだけではなかったようだ。
見たこともない画像が表示されているのを、光子郎の背後から確認した大輔は、何故か分からないが言い知れぬ予感が脳裏を過った。
ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が強く、早くなる。
タケルとヒカリは、そんな大輔に気づかず、光子郎と共に“何か”を取り出して、パソコンの近くに寄った。
──助けてあげて
不意に思い浮かんだのは、今朝の夢。
自分と同い年の“彼女”がいて、“彼女”が指さした光の玉から生まれてきた、“不思議な生き物”。
(デジモン……デジモン……もしかして、今朝見た夢って……!)
走り出した大輔は、もう止まらない。
「なぁっ、俺も連れてってくれよ!」
「えっ!?」
大輔がいることをすっかり忘れていたのか、何かを持ってパソコンの前に立った光子郎の身体が跳ねる。
代わりに、タケルが申し訳なさそうに答えた。
「ごめんね、それは無理なんだ。誰でも簡単に行けるところじゃないんだ」
“あの頃”は両手で持たなければならないぐらい大きいと思っていた“それ”は、もうタケルの片手に収まるほど小さい。
みんなについて行くことしか出来なかった、“あの頃”じゃない。
だからこそ、何の予備知識もない大輔を連れて行くことは出来ないのだ。
“あそこ”がどんな場所か、生身の人間にとってどれだけ危険な場所なのかは、3年前から知っている。
太一を“太一兄”と呼ぶほど慕っているのだから、その太一がピンチと聞いて居ても立っても居られない気持ちは分かるが……。
「……夢を、見たんだ」
「……夢?」
険しい表情で睨むようにタケルを見つめていた大輔から、ふっと力が抜ける。
握っていた拳を解き、目を伏せ、俯き、ぽつりぽつりと大輔は言葉を紡いでいく。
「て……知り合いが出てきたんだけど……そん時、見たこともねぇ不思議な生き物もいたんだ。よく分かんなかったけど、今なら分かる。あれ、たぶんデジモンだ。『助けてやってくれ』って、夢の中で知り合いに言われたんだ……」
ただの夢だと、他人(ひと)は笑うだろう。
根拠などないと、他人(ひと)は言うだろう。
それでも、大輔は。
「もしかしたら、夢に出てきたそのデジモンってやつ、今すっごく困ってるのかも。俺に助けを求めてんのかもって……俺、そいつを助けたい。勿論太一兄も助けたいけど……夢に出てくるぐらい困ってるんだったら、俺、行かないと!」
心からの言葉が、真っすぐタケル達にぶつけられる。
大輔だって無茶を言っているのは分かっているのだろう。
デジモンのことも、デジタルワールドのことも、太一やヒカリからある程度聞いている体のようだったが、それでも完全にデジモンのことを理解しているわけではないはずだ。
あの世界に行くためには、ただ行きたいと言う思いだけでは行けないのである。
それを含めて、大輔はデジタルワールドに行きたいと訴えてきている。
その目に宿っている強い意志は、まるで燃え盛る炎のようだと、タケルは思った。
「気持ちは分かりますが……大輔くんにはその資格が」
「……分かった」
大輔の真っすぐな言葉に返事をしたのは、タケル、ではない。
え、と小さく声を漏らしてそちらを見やれば、真剣な表情を浮かべたヒカリがいた。
先程の返事は、ヒカリがしたものだった。
「一緒に行こう、ダイくん」
「!サンキュ、ヒー!」
「ちょ、ま、ヒカリさん!?」
慌てるタケルと光子郎を尻目に、ヒカリは大輔の下に歩み寄ると、彼の手を取ってパソコンの前に移動した。
手に持っているものをパソコンに向けたので、ヒカリが本気で大輔を連れて行こうとしているのだと察したタケルと光子郎は慌てた。
「ヒカリさん、落ち着いて下さい!」
「ヒカリちゃん、流石にダメだって!危ないよ!」
「大丈夫!ダイくんは私が護る!」
「違う!そうじゃない!」
真面目な表情でズレたことを言うものだから、タケルは思わず突っ込んでしまった。
しかしタケルが言っても、ヒカリは構えるのを止めないので、光子郎は困惑しながらも彼女を宥める。
「ヒカリさん、貴方も分かってるでしょう?デジタルワールドに行くには、“これ”がなければ……」
その時である。
ヒカリがやろうとしていることを遮るかのように、パソコンが光り出した。
パソコンに伸ばしていた手を引っ込めるヒカリ。
青と赤と黄色の光の筋が、パソコンから飛び出していく。
青い光は、パソコンの目の前にいた大輔に、そして赤と黄色はパソコンルームを飛び出して、何処かへと飛び去ってしまった。
「こ、これ、は……?」
光が消える。大輔の手に平には、タケルやヒカリが持っているものよりも少し大きい、ポケベルのような機械。
タマゴのような形で、液晶ディスプレイと、その横に上下の三角のボタンが2つ、そのすぐ下には赤い小さなボタンと、左右に押し込めるボタン。
アンテナのような黒い突起は、何かの電波をキャッチするためのものだろうか。
機械の左右は水色になっている。
形状は違うが、タケル達はそれが何なのかを理解し、そして同時に悟った。
──彼も、選ばれし者なのだと。
不思議な世界だ、と言うのが大輔の第一印象だ。
パソコンから飛び出てきて、大輔の手に収まった不思議な機械はデジヴァイスと言い、大輔達の世界とこの世界を繋ぐ大切なツールなのだと、ヒカリが教えてくれた。
大輔達の世界ではまず再現不可能な材質と、技術。
ネジ穴などは見当たらず、繋ぎ目もない。
機械にはあまり強くないが、これがオーバーテクノロジーで造られたものであることは、大輔でも分かった。
驚きは、連続して襲い掛かってくる。
つい先ほどまでパソコンルームにいたはずの大輔は、デジヴァイスをパソコンに向けると吸い込まれたかと思うと、鬱蒼と生い茂る森の中にいたのである。
歯ブラシにつけた絵具を、指で弾いてキャンバスにつけたような色合いの森を、ポカンと口を開けながら見回して、1つ目。
無意識に伸ばした右手が左腕に触れると、感触が何となく違ったので、見下ろしてみれば服装が変わっていて2つ目。
何処へ行けばいいのか分かっているかのように進んでいくタケルとヒカリの先導の下、物珍し気に辺りを見回していたら、深い森に場違いな自販機を見つけて3つ目。
頭上に沢山の疑問符を浮かべながら自販機に近づけば、沢山のナメクジが飛び出してきて、4つ目。
摩訶不思議は“現実世界でも慣れていた”と思っていたが、ここは現実世界以上だ。
ピコピコピコ、と絶え間なく鳴るヒカリのデジヴァイスが耳に慣れてきた頃、音のトーンとテンポが速くなっていったと思ったら、向こうから聞こえてきた同じ音。
タケルー!と、可愛い声がしたと同時に、音のする方からパタパタと翼のような耳を羽ばたかせて、大きなハムスターが飛んできた。
ギョッとなる大輔とは対照的に、タケルは嬉しそうな声色で、飛び込んできたハムスターを受け止めた。
これもデジモンか、と先ほどのナメクジとは偉い違う様にマジマジとタケル達を見つめていると、太一が駆け寄ってきた。
「太一兄!無事だったんだ!」
「っ、大輔!?何で大輔が……」
嬉しそうに駆け寄ってくる幼馴染兼後輩に、太一は混乱するばかりだ。
ここに来られるのは、資格を持つ者だけなのに、何故大輔が?
そう思って妹のヒカリの方に目を向けるが、ヒカリは気づかない。
大切なパートナーとの再会を喜び、そしてそのパートナーの身体を見て、異変を感じ取ったからだ。
そして道すがら、猫のようなデジモン……テイルモンが教えてくれたのは、耳を疑うような話。
少し前から“デジモンカイザー”と名乗る、ヒカリやタケルと同年代ほどの少年が、黒いリングを放って次々とデジモン達を操り、デジタルワールドを支配しようとしているらしい。
その操られたデジモンに襲われ、何とか難を逃れたものの、いつも身に着けているホーリーリングという指輪のようなリングをその時に失くして、パワーダウンしてしまったそうだ。
ホーリーリングを失くさなければ自分で対処できるものの、それがないせいで、これまで逃げることしか出来なかった、と悔しそうに肩を震わせている。
一瞬だけ見かけたそのデジモンカイザーは、太一達とは違う形状のデジヴァイスを持っていたとのことだ。
違う形状、と聞いて思い当たるのは、パソコンから飛び出してきて、大輔の手に収まった、あのデジヴァイス。
それを見せれば案の定、テイルモンが見かけたデジヴァイスは、大輔が持っているものとそっくりだと言った。
そのデジヴァイスのせいで、テイルモン達は進化が出来なくなっているとも。
太一は、それに見覚えがあった。
今太一達がいる洞窟で見つけた、ダチョウの卵程の大きさのオブジェに触れた途端、眩い光を発して、そこから飛び出していった3つの光のうちの1つ。
それを手にして、大輔がここにいると言うことは、導かれる答えは1つしかない。
ふ、と。
太一達の会話を聞いていることしか出来ていなかった大輔が、視線を逸らす。
大輔に話しかけようとした太一だったが、大輔の視線がオブジェに向けられているのを見て、口を開くタイミングを失った。
じ、とオブジェを見つめる大輔の目に、見覚えがあったからだ。
瞳の色素が若干薄くなって、何かを“感じ取っている”ような目。
幼い頃から何度も見てきたその眼差しに、やはりあのオブジェはただのオブジェではないのだと、太一に思わせるのは十分だった。
タケルがオブジェに気付いて、歩み寄る。
しかし既に太一は試した後だったため、ビクともしないほど重いことは分かっていた。
タケルも、ヒカリも、持ち上げることは出来なかった。
重い、と言うより強力な接着剤で固定されているのでは、と思うほどにピクリとも動かないのである。
まるで持ち上げる資格があるものを待っているかのように鎮座するそのオブジェを、最後に挑戦した大輔は、いとも簡単に動かしてしまった。
タケルもヒカリも持ち上げられなかったのを見ていた大輔は、何も言わずにオブジェに近づいて、両手でそれを掴んで、ひょいと持ち上げてしまったのである。
あまりにも呆気なく持ち上げてしまったものだから、太一もヒカリもタケルも、唖然と大輔を見つめることしか出来なかった。
直後。
「うわっ!」
「え!?」
オブジェがあったところから、オレンジ色の光の柱が漏れる。
封じていた光の中から押し出されるように姿を現したのは、青い身体にへにょりとした2本の角、身体を丸めているその姿は、まるで眠っているようだった。
硬く閉ざされた目が開かれる。
鮮やかな赤い目と、大輔の目が合った。
『イヤッホーイ!』
元気な声と共に、光の柱から飛び出してくる。
待ちに待っていた、と言いたげに、そのデジモンは大輔の周りをぴょんぴょん飛び跳ねた。
『やった、やったぁ!デジメンタル動いたぁー!』
場違いな程に明るく喜んでいる、そのデジモンに、大輔を含めたその場にいる者達は全員唖然としている。
そんな大輔達のことなど露知らず、そのデジモンはポカンと自分を見下ろしてくる、オブジェを持ち上げてくれた子どもに、手を差し伸べた。
『俺、ブイモン!お前、なんて言うんだ?』
「………………」
どうやらこのデジモンは、ブイモンと言う名前らしい。
太一のパートナーであるアグモン、ヒカリのパートナーであるテイルモン、そしてタケルのパートナーであるパタモンは、眉を顰めながらブイモンを見つめていた。
今の大輔は知らないが、デジモンは文字通りデータの存在であるためか、デジモンに関する情報は一通り頭の中に、データとしてインプットされている。
しかしアグモンも、テイルモンも、パタモンも、ブイモンと言うデジモンのことを知らなかった。
名前も聞いたことないし、頭の中のデータベースにも、ブイモンの姿形はインプットされていない。
オブジェを動かした途端に飛び出してきたことと言い、大輔の手元に飛んできた新しい形のデジヴァイスと言い、何かもっと自分達の手に負えないことが起こり始めているのでは、とアグモン達が懸念している時だった。
「……こいつだ」
『へ?』
「大輔くん?」
じ、とブイモンを見下ろしていた大輔が、ぽつりと呟いた。
その言葉を拾って、今までニコニコ笑顔だったブイモンはキョトンとなる。
それに比例するように、大輔の顔には笑みが広がった。
「こいつだ!間違いない!俺の夢に出てきた奴だ!お前だったんだな!」
『え、え?』
「いたんだ、ホントにいたんだ!夢じゃなかった!すっげー嬉しい!」
がし、とブイモンの肩を掴み、そう捲し立てると、大輔は全身で喜びを表現するように抱き着いた。
『っ!?』
「会いたかったぜ、ブイモン!困ってたわけじゃなかったんだな!よかった!」
周りを置いてけぼりにして、大輔は1人喜びを嚙みしめる。
夢に現れた“彼女”と、目の前にいるデジモン。
助けてやって欲しいと言われたから、ここまで来た。
確かに最初は、自分達の世界との違いに驚いたが、大輔の頭には太一を助けることや、このデジモンに会うことしかなかった。
“ここ”がどういう世界かなんて、大輔にはどうでもよかったのだ。
今大切なのは、この世界のことを把握することではないのだから。
『……お前、俺のこと知ってるの?』
「ん?知ってる……か、知らないか……って言ったら……知ってる?になるのか……?」
夢に出てきたのと寸分違わない姿なので、知っていると言えば知っている、が、デジモンという存在もデジタルワールドと言う場所も、大輔は知らなかった。
だからこれを知っている、と区分していいものかどうか迷ったが、ブイモンにとっては些細な事だったらしい。
大事なのは、自分を目覚めさせてくれた、目の前の人間の子どものことだ。
『俺に、会いたかったの?』
「おう!」
先程と違い、大輔は胸を張って答える。
“会いたかった”
一体どれだけのパートナーデジモンが、そう言われたことがあっただろうか。
パートナーとなる人間の子どもを待ち望んでいるデジモンのように、出会うことを楽しみにしてくれていた子どもがいるなんて。
『…………へへっ、そっか!』
ブイモンの顔に、先程以上の笑みが広がった。
「…………どういうことだ?」
そんな2人を見守っていた太一が、ようやく口を開く。
大輔が選ばれし子どもとして、この世界に呼ばれたというだけでも驚いていると言うのに、大輔は飛び出してきたデジモンを、嬉しそうに抱きしめた。
自分ですら、初めてこの世界に呼ばれた時は、パートナーであるアグモンに得体の知れない恐怖のようなものを感じていたのに、大輔は一切物怖じしなかったのである。
昔から怖いもの知らずなところはあったが、それがデジモン相手でも発揮されているのだから、太一が驚くのも無理はないだろう。
思わず、と言った様子でヒカリの方を見やると、どうやら理由を知っているようで、口を開こうとしていた。
しかし、ヒカリの口から理由が語られることはなかった。
何故なら洞窟内が突然揺れ、天井から崩れた石が太一達に降り注いできたからだ。
すわ地震かっ!?と慌てふためく中、タケルが天井を見上げ、声を張り上げる。
ぽっかりと空いて太陽の光が降り注ぐ洞窟の天井から、1体のデジモンが顔を覗かせていた。
トリケラトプスのような姿をしたデジモン、名前はモノクロモン。
目を紅く染めながら、天井の穴から落ちてきたモノクロモンは、大輔達に襲い掛かる。
凄まじい熱量の炎に追い立てられ、何とか洞窟から外に飛び出した大輔を、崖下から太一が誘導する。
直後、赤い炎が洞窟から真っすぐ放たれ、それに気づいたブイモンが大輔を崖下に突き落とすように庇った。
3メートル程の高さから落ちた大輔だったが、奇跡的に怪我はなかった。
だが真っすぐ放たれた炎は、その延長線上にいた太一を、それから先の方で待機していたヒカリに襲い掛かった。
太一は持ち前の運動神経の良さで何とか躱したが、ヒカリは避けた際に足をくじいてしまい、その場に座り込んでしまった。
あの様子では、走って逃げることはできないだろう。
デジモンカイザーの持つデジヴァイスのせいで進化が出来ない太一達のパートナーでは、モノクロモンに対して時間稼ぎすら出来ない。
『ダイスケ!デジメンタルアップって言ってくれ!そうしたら進化できるんだ!』
どうすればいい、と太一ですら狼狽える中、言い放たれたのは希望の言葉。
デジモンも、デジタルワールドのことも何も知らず、ただ太一のピンチを救うため、そして夢の中で出会ったブイモンを探すためにここに来ただけの大輔を、ブイモンは真っすぐ見つめてくる。
──もしかして、“これ”のことなのか?
夢で“彼女”が言っていたのは、このことだったのだろうか。
助けてあげて欲しいと言うのは、ブイモンが困っているのではなく、“この世界に起きた異変のこと”なのだろうか。
……だったら、
「やってやらぁ……!」
落ちた時の衝撃で壊れてしまった、兄のように慕って、憧れている人の真似をしてつけていたゴーグルを投げ捨てる。
ここが何処なのか、デジモンとは何なのか、何故自分がここにいるのか、今はどうでもいい。
「デジメンタルアーップ!!」
かくして物語は、始まりのページを迎える。
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