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幼い頃、テレビで見たのと同じ、美しい花畑が広がっている。
一面が黄色い絨毯で敷き詰められた花畑を少し進めば、その花畑に似合わない断崖絶壁が顔を覗かせた。
その下には大きな湖があった。
ウォレスはこんな危ないところで、グミモンとチョコモンと一緒に遊んでいたのか、と花畑に佇むウォレスとグミモンの背後から見守りながら、大輔は思う。
早朝の、まだ少しだけ肌寒い時間帯。
薄っすらと朝靄がかかった花畑は、不気味なぐらい静まり返っている。
その花畑、断崖絶壁の下に広がる湖を眺めながら佇むウォレスとグミモンを尻目に、大輔は顔を上げる。
抜けるような縹色の空の向こうに見えたのは、沢山の絵具を付けた、沢山の筆をキャンパスに走らせたような模様を描いた背景の中、人形のようにピクリとも動かない、囚われた先輩達。
項垂れ、力なく座り込んでいるその姿は、大輔が知る姿よりもずっと小さい。
恐らく、今の伊織よりも小さいだろう。
その小さい先輩達に、ぴょこぴょこと近づいてくる小さなものがいた。
スライムのような手足のない身体に、頭部に3つのちょこんとした角が生えているもの。
小さくなった先輩達を覗いては、がっくりと項垂れている。
全員確認し終わった後、しょんぼりとしながら何処かへと去って行ってしまった。
ゆらりと、輪郭が揺らぎ、ぼやけた。
不気味な斑の背景に、小さいものを中心に波紋が広がる。
揺らいだ輪郭が闇に溶け、その闇を吸い込んだようにぬうっと輪郭が大きくなった。
「…………来る」
大輔が見上げた空から、不自然な風が吹き、4人の子どもとデジモン達を通り抜けていった。
ぼそりと大輔が呟いた直後、黄色の地面に3つの爪が付いた足跡が踏みしめられる。
どすん、と重たいものが降り立った衝撃で、地面を彩っていた黄色が根ごと毟られ、風に乗って無造作に放られる。
空間が熱で犯されたように歪んだ次の瞬間、毒々しい赤い毛並みの獣が姿を現わす。
「チョコモン……」
──う゛……ぅお、れす……
戸惑い気味にウォレスが名を呼べば、獣……チョコモンはウォレスの記憶の中のものからは想像がつかないほどの低い声で、唸るようにウォレスの名を呼ぶ。
──うぉ、れすぅ……
「チョコモン……僕のことが分かるんだな……?」
姿も声も、何もかもがウォレスの知っているチョコモンからはかけ離れている。
それでも、この獣は間違いなくチョコモンだ。
だってグミモンには分かっているから。
……その左腕に巻かれている白い布が、何よりの証拠だから。
──ぅぉ、うおー……うぉお、れぇ、すぅ……
「前みたいに、一緒に暮らそう……?」
真っすぐチョコモンを見上げながら、ウォレスは言う。
これは賭けだ。最後のあがきだった。
昨夜大輔に言った通り、もしもチョコモンがウォレスに逢いたがっているのなら、この花畑で遊んだ時の楽しかった記憶を思い出してくれるかもしれない。
そうしたら、グミモンとも戦わずに済むかもしれない。
ウォレスが望んでいるのは、ただ1つ。
グミモンとチョコモンと一緒に“帰りたい”、だ。
──いっしょ、に?
「そうだよ!」
──じゃあ、かえろう、あのころに
無機質に光を反射するだけだった、ルビーのような赤い眼が、ぎゅっと閉じられた。
無邪気に笑うその姿に、ウォレスはチョコモンの面影を見て……。
大輔とグミモンは、ぞわりと背筋に寒気が走った。
《だから、ここにきて?》
突如として聞こえてきたのは、場違いなほどに可愛らしい少女の声。
《ここは、さむい》
ブイモンと、ホークモンと、アルマジモンは、息を呑んだ。
《ここには、だれもいない》
すぐ目の前まで迫るチョコモン。
ウォレスはただじっとチョコモンを見上げるだけだった。
更にぞわぞわとした嫌な感覚が、大輔の足元から這い上がってきたから、大輔は咄嗟に走り出す。
伸ばされたチョコモンの手が、空を切った。
ウォレスの傍に控えていたグミモンが、そっとウォレスを後ろに押したからだ。
『ダメだよ、チョコモン』
グミモンには、分かっていた。
分かってしまっていた。
チョコモンがどうしたいのか、ウォレスと、どうしたいのか。
『じゃま、するなぁあっ!!』
それではいけない。
チョコモンがどうしたいのか、それを実行したらどうなるのか、グミモンにはよく分かっていた。
だから、止めようとした。
グミモンとチョコモンは兄弟だけれど、それでも決定的な違いが生まれてしまったから。
ばしん、とチョコモンの丸太みたいに太い腕が、グミモンを吹っ飛ばす。
「グミモンッ!!」
慌てて駆け寄るウォレス。
チョコモンが振るった腕の勢いで、吹っ飛ばされたグミモンが地面に叩きつけられた衝撃で、沢山の花が宙を舞う。
痛みでのたうち回るような呻き声をあげるチョコモンを、ウォレスは信じられないものを見るような目で見つめた。
「チョコモンッ!グミモンに何をするんだっ!」
ぐったりしているグミモンを抱き上げながらチョコモンに抗議をすれば、チョコモンががくりと首を傾げながら、その大きな口を開く。
『かえりたい』
《カエリタイ》
「っ!?」
駆け寄ろうとした大輔の足が、突然掴まれたように止まる。
ぞわりとした悪寒が、再び全身を駆け巡ったせいだ。
チョコモンの声が、聞こえる。
悍ましい低い声と、少女のような可愛い声が、
『かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい、かえりたい……』
《カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ……》
『…………………ぁ、』
ゆらゆらと激しく揺れるチョコモンの身体は、まるで中にいる生き物が無理やり動かしているみたいに、不自然で、不気味だった。
その様を見た京と伊織は言葉を失っているし、大輔は大輔にしか視えないものが視えているようで、いつになく険しい表情でチョコモンを睨みつけている。
ブイモンとホークモンとアルマジモンは、チョコモンから目を逸らせず、喉の奥に引っかかった言葉を、辛うじて落としたような声を出した。
1本の花が、宙を舞う。
チョコモンが言葉を発するたびに、周りの景色の様子が変貌していく。
徐々に失われていく色鮮やかな光景に変わって、夕闇に包まれたような色が、空を染めていく。
宙を舞った花が、闇に溶けるようにぼろっとその形を崩した。
「……ダメだよ、チョコモン」
ウォレスは、悟る。
チョコモンがどうしたいのか、何をしようとしているのか。
ウォレスは、チョコモンに逢いたかった。
グミモンも、チョコモンに逢いたかった。
チョコモンだって、ウォレスとグミモンに逢いたかった。
その気持ちは嘘ではないはずだ。
だって大輔がそう言っていたのだ。
人にはない力で、チョコモンがどうしたかったのかを教えてくれたのだ。
間違いなく、チョコモンはウォレス達に逢いたがっていた。
………でも、逢いたかったけど、逢いたい気持ちは同じだったけれど、“同じ”じゃなかった。
ウォレスとグミモンは、チョコモンと一緒に“帰りたかった”けれど、チョコモンはウォレスとグミモンと一緒に、“返りたかった”のだ。
ウォレスとグミモンは、チョコモンを連れて家に帰りたかったのに、チョコモンはそうではなかった。
チョコモンが“かえりたかった”のはウォレスとグミモンのところではなく、“あの頃のウォレスとグミモン”のことだったのだ。
その決定的な違いが、両者の間に亀裂を生む。
「もうあの頃には、戻れないんだ。ここからやり直そう……?」
それでもウォレスは諦めずに、チョコモンに話しかける。
《きて》
ウォレスが伸ばした手を、
『ここに、きてぇえええええっ』
チョコモンは、振り払ってしまった。
「……………チョコモン」
ウォレスは、チョコモンに逢いたかった。
「僕は、」
グミモンだって逢いたかった。
『………………』
チョコモンも、同じだった。
「………いけない」
でも、もうあの頃には“戻れない”。
『ぅ、う゛う゛う゛う゛う゛……っ、の゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛っ!!』
「っ!!」
空気が振動する。
肌を突き刺すような、細かい針がいくつも飛んでくるような痛みを覚えた大輔は、はっと目を見開いた。
チョコモンが大きく咆哮したと同時に、周りの景色が一変する。
まるで色が反転したように、辺りは闇に包まれた。
同時に、闇の力が辺りに充満したのを感じた大輔は、ブイモンに目配せをして走り出す。
ブイモンも、赤い眼の瞳孔を見開かせて、全身からチョコモンに対する警戒を発していた。
「ウォレスッ!!」
チョコモンの悲痛な咆哮を真正面から受けながら、その場に仁王立ちするウォレスの隣に、大輔は並ぶ。
ブイモンも、パートナーを護るためにグミモンの隣に立った。
ビシビシと空気に乗って伝わってくる、濃厚な闇の気配。
………その闇の中で、大輔は確かに“視た”。
「…………っ!?」
チョコモンが大きく咆哮した後、闇に包まれた世界で場違いなほどに明るい光が、チョコモンを包み込む。
球体になってふわりと浮かび、その中でチョコモンのデータが書き換えられていった。
光が弾けて、次に姿を現わしたのは、大きな二足歩行のウサギ。
手足が異様に長く、しかしあの毛むくじゃらの獣よりもチョコモンの面影があるデジモン。
ウォレスは拳を握りしめ、チョコモンから目を離すことなく大輔を呼ぶ。
「……倒してくれるか?ダイスケ……一緒に、奴を、倒してくれるか」
ウォレスとチョコモンの、“かえりたい”の意味がすれ違ってしまった今、チョコモンがウォレスの下に戻ってくることはもうないだろう。
……分かっていたことだ、最初から、そんなの。
チョコモンが再びウォレスの前に現れた時から、何となく分かっていた。
最初はウォレスのことを恨んでいるのではないかと思っていた。
7年もの間離れ離れになっていたのに、チョコモンだった時の面影など一切残さない姿でウォレス達の前に現れたのは、ウォレス達への恨みからなのではと。
それが怖かったから、ウォレスはこれ以上チョコモンに恨まれたくなくて、グミモンが攻撃することも止めていたのだ。
大輔から、チョコモンがウォレスに逢いたがっている気持ちが伝わってくると聞いて、少しだけ救われた。
だからウォレスは賭けたのだ。
チョコモンが自分に逢いたがっているのなら、話し合うことが出来るのではと。
話し合いの結果次第では、チョコモンと戦わずに済むかもしれない。
またあの頃みたいに、自分とグミモンとチョコモンと、3人で一緒に遊べるかもしれない。
一縷の望みをかけてここまで来たが……結果はこの通りだ。
ウォレスは飽くまでも、チョコモンを連れて帰りたかっただけだ。
“あの頃のように過ごしたかっただけ”であって、“あの頃に戻りたかったわけではない”。
それが分かり合えないのなら……取るべき道は、1つしかない。
「……いいんだな?」
「………………うん」
本当はいいわけなんかないのに、我ながら残酷な質問だな、と大輔はこっそり自嘲した。
すう、と一瞬息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
ウォレスの視界の先にいるチョコモンを睨みつけながら、大輔はズボンにつっかけたD-3にそっと手を添えた。
ウォレスの言葉を合図に、それぞれが動き出す。
グミモンは色を失った花畑を踏みしめながら、チョコモンに歩み寄っていった。
チョコモンを包んだのと同じような、緑色の光が球体になってグミモンを包み込み、その姿を変える。
サマーメモリーにつく前、ヒッチハイクの道すがらでチョコモンと戦闘になった時に見せた、グミモンが進化をした姿だ。
ジーンズを履き、両手にバルカン砲をはめたデジモンは、目の前にいるチョコモンの1/3にも満たない大きさでしかない。
それでも、ウォレスが戦うと決めたのなら、チョコモンを取り戻すためにもチョコモンを倒すというのなら、グミモンは戦うだけだ。
離れた位置で見守っていた京と伊織も駆け付け、パートナー達を進化させる。
勇気、愛情、知識、それぞれのデジメンタルが大輔達の願いと想いに呼応して実体化し、パートナー達に力を与えた。
まず動いたのは、フレイドラモンである。
細身の身体を生かして飛び出していったフレイドラモンは、大きく跳躍すると腕のアーマーに炎の力を纏わせた。
それを振り下ろそうとした時、眼下にいたはずのチョコモンが消えた。
否、消えたのではない。
跳躍し、空中にいたフレイドラモンの“目の前にいた”。
チョコモンが動いたのはほんの僅か、足先をほんの少し前に出しつま先で地面に触れたように動いただけだったのに、まるでチョコモンがいるフィルムといないフィルムを切り取ってくっ付けたかのように、唐突に姿を消したのである。
瞬きする暇もなく現れたすぐ目の前で、フレイドラモンは体勢を立て直すことも出来なかった。
にたり……
同じ赤のはずなのに、フレイドラモンの闘志が宿ったその目とは真反対の、無機質な赤い眼が三日月のように歪められた。
次の瞬間、フレイドラモンは悲鳴を置いてけぼりにして吹っ飛ばされ、絶壁の岩に叩きつけられた。
回転をしたことで異様に長いチョコモンの腕が、まるで鞭のように柔らかく、そして勢いよくフレイドラモンを捉えたのである。
目を見開いた大輔が見たのは、叩きつけられた反動で岩を跳ね返る、フレイドラモンの身体。
それを見ていたホルスモンとディグモンは、接近戦は危険と判断し、遠距離での攻撃に切り替えようとチョコモンから距離を置いた。
しかし、先ほどフレイドラモンに一瞬で距離を詰めた時と同じように、チョコモンは瞬きする間もなく移動し、ホルスモンとディグモンの首根っこを掴んで、互いの頭部をぶつけてやる。
意図しない痛みを負った2体は、ぶつけたことで脳と視界を揺さぶられてしまった上、そのまま勢いよくぶん投げられた。
その勢いは凄まじく、チョコモンを中心にして突風が舞い上がったほどだ。
グミモンが跳躍する。
両手のガトリングを構え、何十発という弾丸をチョコモンに向かってぶっ放した。
チョコモンはなめらかな動作でバク転をし、それらを涼しい顔で回避する。
断崖まで追い込んだが、チョコモンはひょいと軽い身のこなしで崖を跳び、数メートルしか離れていない向かいの絶壁に、しがみ付くように着地をした。
人間ならばまず真似できない動きで、絶壁を四つん這いで横に移動するチョコモンを追い、グミモンは足の爪を絶壁に食い込ませるように張り付いて、再度ガトリングを放つ。
当たった銃弾が崖の岩を抉り、幾つもの細かい石になって、ポロポロと落ちていった。
ダン、ダン、ダン、と撃つ度にその反動でグミモンの身体が後ろへ下がっていく。
ここが地面ならば踏ん張って堪えることができるのだが、絶壁ではそれも出来ない。
だがグミモンは構わず撃ち続ける。
あいつを倒してほしいと、ウォレスが望んだから。
しかし縦横無尽に動き回るチョコモンに銃弾は掠りもせず、それどころか撃った反動でバランスを崩しながらも空中で撃ち続けるグミモンの下へ一気に距離を詰め寄り、その顔を鷲掴みして放り投げた。
まるで丸めた紙くずをぽい、と何気なしに投げたかのように、軽々と。
高速回転をしながら湖に通じる川へ、水切りをする石のように何度も水面をバウンドする。
くそ、とウォレスと共にグミモンを追いかける大輔は、舌打ちをする。
「チョコモンのやつ、遊んじゃいねぇかっ!?」
「……っ」
ダンッ!と、水面を切っていたグミモンの身体が、絶壁に叩きつけられる。
全身に痛みが走り、ずる、と落ちたグミモンの両腕にはまっているバルカン砲が、派手な音を立てた。
『ぅ、ぐぅ……っ!』
痛みで呻きながらも、何とか上半身を起こそうと、バルカン砲で身体を支える。
ぴちょん……
水面に波紋が広がる。
音もなく、そして水面ぎりぎりのところで、チョコモンがじっとグミモンを見据えながら浮いていた。
『………………』
『………………』
見つめ合う両者。
かつて一緒だった兄弟。
昔々、ウォレスにどっちがおにいちゃんなの?って聞かれた時、泣き虫で甘えん坊で、臆病だったチョコモンは珍しく、自分がおにいちゃんだよ、なんて主張していたっけ。
気が強いグミモンは、チョコモンは泣き虫だから違うよーってからかったら、ちょっとした喧嘩になってしまった。
取っ組み合いの喧嘩になって、ウォレスがオロオロするのも無視して、おにいちゃんは自分だって互いに言い合って、とうとうウォレスがやめろって怒鳴るぐらい派手に喧嘩もしたんだ。
その時はちょうどウォレスのママは留守だったんだけど、ウォレスの部屋がしっちゃかめっちゃかになっちゃって、ママが帰ってくる前に3人で急いで部屋をお片付けしたことも、グミモンはちゃんと覚えてる。
後から痛みとか恐怖がじわりじわりと襲ってきたようで、チョコモンはその日の夜にぴいぴい泣きだしてしまったから、やっぱりチョコモンがおにいちゃんはないよ、ってグミモンは溜息を吐いたのだ。
普段だって自己主張が強いグミモンとは正反対の、消極的な性格なのに。
グミモンが怒るとすぐにごめんね、って引っ込んじゃうのに。
……それぐらい、喧嘩も争いも嫌いで、怖がっていたのに。
背後の背景がぼやけるぐらい、輪郭を滲ませながら佇むチョコモンを見つめながら、グミモンは在りし日のことを思い出していた。
今は命がけの戦いの最中だというのに、何故そんな何でもなかったはずの日常の一コマなんか思い出してしまったのか。
心の何処かで、本当はチョコモンと戦いたくなんかない、なんて思っているからなのだろうか。
それとも……。
そんな考えを振り払うように、グミモンは右のバルカン砲を構える。
あの頃にはもう、戻れない。
帰れない、返れない。
歪む視界を無視して、グミモンは狙いを定める。
チョコモンも、長い身体を前のめりにして、戦闘態勢に入った。
ばしゃん、と水面が叩きつけられるような音がした。
『遊びは終わったよ、ウサギちゃん』
フレイドラモンだ。
絶壁に叩きつけられ、岩の欠片と共に落ちていったフレイドラモンだったが、ようやく戦線復帰したようだ。
大輔はよく言った、と声を上げる。
ひゅーん、と空気を切り裂くような音が、後ろの方から聞こえてきた。
『貴方は強すぎる……!でも、我々は負けられない……っ!』
同じく復帰したホルスモンがそう言いながら、空を舞っていた。
チョコモンに一撃も入れられず、それどころか進化して早々に、ディグモンと共にぶん投げられた悔しさは、筆舌に尽くしがたい。
しかしどれほど相手が強くとも、それはホルスモンが戦わない理由にはならない。
護るべき人が、護るべき世界がそこにあるのなら、ホルスモンは何度だって立ち上がる。
『俺もいるだぎゃー!』
どぉん、と何かが爆発したような音がした。
次いで、硬く細かいものがあちこちぶつかりながら落ちていく音。
チョコモンが音のした方向へ顔を向けると、黄色いボディーに紫色で模様が描かれているものが、絶壁に空いた大きな穴から顔を覗かせていた。
特徴的な語尾を付けて現れたのは、ディグモンである。
ホルスモンと同じく絶壁に叩きつけられたディグモンだが、自慢のドリルで絶壁に穴をあけ、掘り進めてきたのである。
そうして集まったフレイドラモン達だったが、四方を4体のデジモンに囲まれたにも関わらず、顔色どころか表情1つ変える様子のないチョコモンに、大輔は違和感を覚えた。
静まり返る空間。絶えず聞こえてくる、水が流れるような音は、何処か気持ちや感情を不安にさせる。
いつ飛びかかろうか、と隙を伺う4体とは裏腹に、チョコモンは飽くまで自然体だった。
異様に長い腕をだらん、とさせ、自分の正面にいるグミモンを見据えている。
ぴちょん、とチョコモンを中心に、波紋が広がった。
……空気に乗って、電波のように伝わってきた、チョコモンの気持ち。
「………っ!」
それを受け止めた大輔が見たのは、すーっと音もなく水の中へと吸い込まれるように沈んでいく、チョコモンの姿。
同時に、ぶわりと大輔の額から大量の冷や汗が流れた。
ど、ど、ど、と心臓が激しく鼓動を打ち、足元がじわじわと冷えていくような感覚。
背後から刃物の切っ先を突き付けられているような、その切っ先で背筋をなぞられているような悪寒が走る。
大輔は、この感覚を知っている。
「……逃げた?」
「まさか……っ」
何も感じていない様子の京と伊織は、チョコモンが消えた辺りを見つめて、そんなことを言っている。
今だけは、そんな2人を羨ましいと大輔は思った。
だが大輔にとって幸運なのは、この“感覚”を感じ取っているのは、大輔だけではない、ということである。
険しい表情を浮かべているフレイドラモン、空から様子を伺っているホルスモン、自らが開けた穴から下を覗き込んでいるディグモン、じっとチョコモンが消えた辺りを見据えているグミモン。
それぞれが、いつでも技を打ち出せるように構えている。
暗闇に包まれたこの空間に漂う闇の気配を、デジモン達は肌でピシピシと感じ取っているのだ。
前から、後ろから、色んな角度から殺気のような、突き刺す視線を感じてしまい、落ち着かなかった。
「………………」
その異様な空気を感じ取り、京と伊織も口を噤んで大輔と同じように下を覗き込む。
ウォレスも大輔の隣に立って下を見下ろしていたが、その表情は強張っていた。
どのぐらい、時間が経っただろうか。
1分しか経っていないようにも感じたし、1時間も過ぎたかのようにも思う。
ぱしゃん……
水面が揺らいだ。
瞬間、水飛沫が不自然に舞い上がる。
周りの景色が、反転する。
黒は白に、青は赤に、世界が書き換えられていく。
すー……
消えた時と同じように、音もなく現れたチョコモンは、更に変貌していた。
ウサギのようなフォルムは変わらなかったが、その体色は正しく“闇に染まっていた”。
ピエロを彷彿とさせる襟の形、赤かった眼は三日月のように弧を描き、口元もにたりと意地の悪い笑みを浮かべていた。
波紋を広げながら水の中から現れた“其れ”は、全身にノイズが走っていた。
掲げていた右手を振り下ろすと、その勢いで右手から無数の小さな黒い塊が、水飛沫のように生み出される。
「……チョコモン、なのか……?」
呆然と、ウォレスは呟く。
先ほどまでの姿は、ウォレスも知っているチョコモンとよく似ていた。
しかし眼下にいるチョコモンは、大輔達が見下ろしている先にいるチョコモンは、フレイドラモン達が取り囲んでいるチョコモンは、ウォレスが知っているチョコモンとは似ても似つかない。
そこで初めて、ウォレスの額から冷や汗が流れた。
ど、ど、ど、と心臓が身体を突き破りそうなほど、激しく波打っているのが分かる。
握った拳が震えているのは、強く握りしめているからではない。
何だ、何だこの感覚は。
閉塞感のようなものを覚え、ウォレスの呼吸が激しくなっていく。
あいつは、何をしようとしているんだ──?
チョコモンから飛び出してきた水飛沫のような、小さな黒い塊が空中を漂い、大輔達がいる断崖の上まで飛んできた。
この黒い塊が何なのか、京も伊織も全く見当がつかない。
ただ京が言った、チョコモンの淋しい心が彷徨っているみたいだ、という言葉が、妙に印象的だった。
そうなのかもしれない、とウォレスは空中を漂う黒い塊を掬い上げるように、両掌を胸の位置まで上げる。
しかし、
「………………」
京達が黒い雪に見とれている間にも、大輔はチョコモンから目を離さなかった。
見開かれた目は小刻みに揺れており、無意識に呼吸も浅くなっていた。
猪突猛進で、どんな敵だって怯まずに突っ込んでいく大輔が、珍しく及び腰になっている。
じり、じり、と少しずつ後ずさりをしながらも、チョコモンから目が離せない。
異変は、大輔だけではなかった。
バルカン砲を構え、いつでもチョコモンを攻撃できる体勢を取っていたグミモンも、感じ取っていた。
円らな瞳が揺れている。
目の前で佇み、浮かんで、じっとグミモンを見つめているチョコモンを見て、
「あいつ……」
『……お前は』
大輔が、グミモンが、
「『誰だ──?』」
そう、言った途端。
にたぁり
「っ!!」
ぞわり、と大輔の背筋に寒気が、悪寒が走った。
息を呑んだと同時に、チョコモンだったモノが大きく口を開けた。
その口の中に闇を見た瞬間、漂っていた黒い雪が円を描きながら広がっていった。
身構えていたフレイドラモン達だったが、それがいけなかった。
ひゅーん、とホルスモンの身体が湖に落下していく。
いや、ホルスモンではなかった。
何故か退化をして、幼年期のポロモンになっていた。
『ぴきゃっ……っ、ぶはぁっ!っ、戻るものか……っ!』
ばしゃん、と水飛沫を上げ、一瞬だけ沈んだポロモンだったが、浮かび上がった時にはホークモンになっている、という荒業をやってのける。
『うぱぁあっ!!……んぐっ、だ、ダメだぎゃあ……』
ディグモンもウパモンに退化して、地面をバウンドしながら転がっていったが、何とか耐えてアルマジモンの姿を保つ。
『……っ、フレイドラモンに、進化、できない……!』
再びフレイドラモンに進化をしようと身体に力を籠めるが、込めた先から抜けていくような感覚に陥り、ブイモンはその場にへたり込んでしまった。
『……っ!』
分からない。グミモンには分からない。
目の前にいるのは誰だ。
ずっと、ずっと、どんなに離れていてもチョコモンとは繋がっていたのに。
どれだけ姿形を変えようとも、グミモンにはチョコモンが分かったのに。
……チョコモンの、逢いたいって気持ちはちゃんと伝わってきていたいのに。
それなのに、目の前にいるのはチョコモンのはずなのに、グミモンには何も伝わってこないのである。
そんなグミモンの戸惑いに目もくれず、チョコモンだったモノは再び右手を掲げた。
ぶぉん、と黒く悍ましいエネルギーの塊が、その掌に浮かび上がった。
『うわあっ!?』
「ブイモンッ!?」
直後に、ブイモンの悲鳴があがった。
断崖の下にいたはずのブイモンの身体が、宙に浮かんでいた。
ただ浮いただけではない。まるで磁石のN極とS極が惹かれ合うかのように、ブイモンの身体は宙を飛んで、引っ張られていた。
ブイモンは空を飛ぶ手段は持っていない。
なのに何故、と何もできない自分を歯がゆく思いながら、ただブイモンを見送っている大輔の耳に、別の悲鳴が届いた。
『ぐっ、だぁああっ!!』
水に叩き落されたホークモンだ。
翼をばたつかせて抵抗を試みているが、引っ張られる力の方が強いようで、呆気なく宙を飛ぶ。
アルマジモンも同じように引っ張られていた。
グミモンがアルマジモンの尻尾を掴み、耳を広げて連れていかれまいとしたようだが、抵抗虚しくグミモン共々チョコモンだったモノの下へと飛んでいく。
ふわり、とチョコモンだったモノが浮かび上がった。
両手を広げたかと思うと、引っ張られたブイモン達を巻き込むように、チョコモンだったモノはぐるりとその場で一回転する。
ばちん、とブイモン達を押し潰すように両掌を閉じた。
『うわっ、わっ、わあっ!』
『あぐっ!あでっ!』
『ぬぁあああ~!』
ぱ、と閉じた両手を開く。
ひょい、ひょい、ひょい、と両手を交互に、上下に動かしながら何をしているのかと見れば、チョコモンだったモノはブイモン達をお手玉にしていた。
ひ、と伊織は息を呑み、思わずと言った様子で京に縋る。
京も、縋ってきた弟分を抱き寄せたが、彼女自身もどうしたらいいのか分からず、口を噤んでその光景を見つめていることしか出来なかった。
チョコモンだったモノから電波のように伝わってきた気持ちをダイレクトに受け止めて、石のように硬直していた大輔も、ようやくその衝撃から帰ってきたが、打つ手がないのは彼も同じだった。
自分達に、戦う力はない。
だからこそ、自分達の強い想いを、気持ちを、願いを、デジモン達に力として与え、自分達の代わりに戦ってもらっているのだ。
そのデジモン達が成すすべなく、ただ蹂躙されているだけなら、大輔達に出来ることなどたかが知れていた。
「……やめろっ」
振り絞るように出されたウォレスの言葉は、悲痛に満ちている。
もう戻れないと、帰れないとウォレスには分かっていた。
チョコモンだって、本当は分かっているはずなのに。
どんなに願ったところで、想ったところで、時間の針は巻き戻せない。
楽しかった日々を思い出すことはあっても、あの頃には戻れないって。
──だから、こんなことになったのだろうか。
ウォレスは思う。
ウォレスがチョコモンのことを拒絶したから、チョコモンの帰りたいっていう気持ちを否定したから、だからチョコモンは怒ったんじゃないのか?
チョコモンはウォレスに逢いたがっているって、大輔はチョコモンの気持ちが分かるからって、それを信じて、自分の手を取ってくれることに賭けてここまで来たのに、チョコモンはウォレスを拒絶した。
最初はどうして、って思った。何で分かってくれないんだろうって。
ウォレスとグミモンはチョコモンと一緒に“帰りたかった”のに。
でも違った。今分かった。
チョコモンから見たら、拒絶したのはウォレスの方だ。
ずっとずっと、長い間独りぼっちでいたせいで、時間の感覚とかもなくなって、ウォレスが大きくなったことにも気づかずに、それでもウォレスに逢うために、チョコモンはあの日を彷徨いながら、縋りながらウォレスを探していたはずだ。
たった7年、されど7年。
1日だってチョコモンを忘れたことはなかった。
何度チョコモンを探しに、サマーメモリーに行こうと思ったことか。
でもアメリカの法律が、ウォレスの願いを阻んだ。
だから、待った。
1人でも外出できるぐらい大きくなるまで、それまでお家のことも率先してお手伝いして、お小遣いも貯めて、そしてようやくそれが叶った今年。
やっと逢えたのに、ずっとずっと探していたのに、どうしてこんなにもすれ違ってしまったのか。
昨夜大輔に否定されたはずの考えが、ウォレスの脳内をぐるぐる回る。
やっぱりチョコモンは、ウォレスを、グミモンを恨んでいたのではないか。
ずっとずっと探していたのに、まるで何も知らないような、覚えていないような顔をして過ごしていたウォレスを、憎んでいるのではないか。
ウォレスを独り占めしていたグミモンを、妬んでいるのでは……。
「違うっ!」
深い思考の渦に呑まれていたウォレスを引き揚げたのは、太陽のような暖かくも厳しい声。
がし、と硬直していた両肩を掴まれ、は、と我に返ったウォレスの視界に映ったのは、険しい表情を浮かべた大輔だった。
「昨日も言っただろっ!チョコモンはウォレスに逢いたがってたって!逢いたかっただけだって!チョコモンはウォレスのこと、恨んでないし憎んでない!」
「……でも」
だったら、あれは、その言葉は続かなかった。
続かなくとも、大輔にはウォレスの言いたいことが分かっていた。
「…………あれは、違う……っ!」
「え?」
ウォレスの肩を掴んだまま、大輔はチョコモンだったモノに顔を向ける。
チョコモンだったものは、相変わらずブイモン達をお手玉にしていた。
「何で、ああなったのかは、分かんねー、けど、あれは、違う、チョコモンじゃ、ねぇ」
一言一言、強調するかのように途切れ途切れで会話を繋げる大輔は、興奮しているのか少し息を切らしている。
ウォレスの肩を掴む大輔の手は、力が入っていないのに震えていた。
「違う……?」
「分かんねぇっ!でも、分かる!あれは、チョコモンじゃねぇっ!」
大輔の言いたいことが、さっぱり要領を得ないので、ウォレスは戸惑った。
大輔も、くそ、と言いながら、どう言うべきか、どの言葉が適切なのか考えあぐねているようだった。
『があっ!』
『ぅぐっ!』
『だぁああっ!』
チョコモンだったモノは、ブイモン達を離す気配はない。
体勢を立て直すことも出来ず、成すがままにお手玉にされているブイモン達を、ウォレスはこれ以上見ていられなかった。
「っ、やめろ……っ!やめてくれぇえっ!!」
大輔を振り払い、ウォレスは叫ぶ。
変貌してしまったチョコモンに届くことを、必死で祈りながら。
だが大輔には分かってしまうのだ。
ウォレスの祈りが、チョコモンだったモノに全く届かないことを。
『………………』
ゆっくりと。
チョコモンだったモノはウォレスの方を振り向いた。
一瞬、自分の気持ちが届いたのかとウォレスは思ったが、すぐ隣にいた大輔はチョコモンだったモノが振り向いた瞬間、その気持ちをダイレクトに受け止めてしまい、ひゅっと息を呑んだ。
足が震え、上手く力が入らず、その場に膝をついてしまった。
直後、チョコモンだったモノはブイモン達をお手玉にするのをやめ、その大きな掌の中に4体をぎゅっと仕舞い込む。
ぐえ、という声はチョコモンだったモノの掌の中で吐き出されたため、大輔達に届くことはなかった。
身体を回転させながら、すー、と空中に浮かび上がると、その勢いで両腕を、両手を広げ、掌に握りこんでいたブイモン達をそのまま放り投げた。
『うわああああっ!!』
『がぁああっ!!』
「グミモンッ!!」
がしゃああんっ!!と派手な音が鳴る。
ぶん投げられたブイモン達の身体が、断崖に叩きつけられた。
その反動で跳ね返り、力なく落下していくグミモン。
恐らくウォレスの声は届いていないだろう。
チョコモンだったものは、出てきた時と同じように音も出さずに、静かに湖の中へと沈んでいく。
今度は何をするつもりなのか、また姿を変えるのか、とウォレスが注意深く湖を見つめていると、膝をついていた大輔が突然弾かれるように後ろを振り返った。
“────────”
「っ!」
不気味な嗤い声が、背後から聞こえた。
振り返る。
チョコモンだったモノが、いつの間にか後ろにいた。
「…………っ、ぁ」
ウォレスは小さな呻き声をあげる。
距離にして、約3メートル。
互いに手を伸ばして2、3歩歩み寄れば届くような、そんな距離。
ここまで近づかれて、ウォレスはようやく気付いた。
上から押さえつけられるようなプレッシャー、足元から這い上がってくる悪寒。
目の前にいるそれは、まるで月明りも無数の星も、街灯や懐中電灯すら持っていない、夜の田舎道に1人佇んでいる時のような心細さと恐怖が、デジモンという形になって存在しているかのような錯覚に陥った。
目を逸らしたいのに、その暗闇から早く逃れたいのに、それを許さない圧倒的な力。
逸らした先にもそれがいそうだから、何処にも逃げられないのではという恐怖が、ウォレスを支配していた。
……大輔の言う通り、これはチョコモンではないのかもしれない。
「っ、ウォレス……!気を付けろ……っ!」
何とか立ち上がり、ウォレスの隣に立つ大輔の声も、足も、全身も震えていた。
恐怖、というよりも、その恐怖を跳ねのけるための、抵抗のような震えだった。
何度も何度も深呼吸をして、自分を落ち着かせようとしている大輔に、しかしウォレスは返事を返す余裕もなかった。
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