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トールが飲ませた薬の効能で右目と左腕を再生回復されたハジメは今、トールの腕に抱かれ穏やかな寝息を立てている。
「……トール姉さま、ハジメは、もう、大丈夫?」
目元に溜まる涙を拭いながら、一応の回復状態は見て取れるものの、ユエはハジメの容態をトールに問うと、ユエを一瞥してからトールは視線をハジメへと戻して、ハジメの腹部を左手で撫でながら彼女に答える
「ハジメさんの傷はちゃんと癒えていますよ、もうそろそろ目も覚めるでしょう。」
「ん。」
トールの返答に安堵し、ユエはホッと人心地が着く。あのヒュドラがこの階層のガーディアンだとするならば、もうこの階層で戦う事も無いだろう。もし、他の強大な魔物が現れたとしても、トールがいれば大丈夫だろうとの安心感もある。
「貴女も少し休んでいなさい。疲れているでしょう。」
立ったまま、自分とハジメを見つめるユエにトールは休息を促す。トールの言葉をユエは意外に感じたのか、瞼をパチパチと数度まばたきをして驚きを見せるが、その言葉に従いそのまま床にペタリと女の子座りで腰を下ろした。
腰を落ち着けてユエは胸元にハジメを抱くトールを無言でじっと見つめる。探索拠点でハジメから話を聞いた時から、ずっと会いたいと思っていた相手が自分の目の前にいる。
異世界からハジメの世界へと訪れたドラゴン。ハジメと二人で連携しても酷く苦戦したヒュドラを、戦いと呼ぶにはあまりにも戦力差があり過ぎて一方的に蹂躙しなぶり殺しにしてしまう程の、途轍もない実力。それもおそらくは実力の片鱗程度を見せただけに過ぎないのだろう。
その姿のなんと頼もしかった事だろうか。しかし、ユエはトールに対して僅かな恐怖を抱いている。それは誰も知らないはずの自分の本当の名前で、彼女に呼ばれた事が原因であった。今となっては忌むべき捨て去った名前を何故彼女が知っているのか。
「貴女も色々疑問もあるでしょうけど、話はハジメさんが目覚めてからでも構わないでしょう。」
じっと、ユエが何かを言いた気に自分を見つめている事に気が付いたトールが答える。トールとしても、彼女に対し言っておかねばならないと思っている事もある。しかしそれは後で良い、今はハジメが目覚めるのを待つ事こそが最優先である。
「ん。」
トールの言葉を受けユエも、彼女の言にこそ理があると認め頷く。ハジメが目覚める時を二人は静かに待つのだった。
「………っ………」
ピクリとハジメの身体が小さく震え、その口から小さな後息が漏れる。ハジメのその反応に彼の様態を見ていた二人が、直ぐ様反応する。
「ハジメさん!?」
「ハジメッ!?」
もしやハジメの目が覚めるのかと、ハジメの名を呼ぶ二人の声には喜びの感情が溢れているのが見て取れる。そうして二人が見守る中でハジメの顔が引くつき、目元が小さく震えると、ハジメの閉じられていた瞼がゆっくりと開かれて行く。
「………………ぁ?」
ハジメの口から小さな声が漏れる。瞼も開き意識も戻り始めている様だが、まだ完全覚醒には至らないのか、ハジメの様子は呆けており、目の焦点も定まらず、自分が置かれている状況も何も理解が及んでいない様だ。
「ハジメさんッ、私が解りますか!?」
ハジメの半身を抱いて、彼の顔に自分の顔を近づけてトールはハジメに呼び掛ける。しかし、ハジメの目の焦点も合わず意識も覚醒には至ってはおらず、しかしボヤけた意識の中でハジメは彼女の名を掠れた声で呟く。
「ぁ……トール………」
「はぃ、はいッ!私ですトールですよハジメさん!」
涙の雫を溢して、自分の名を呼んでくれたハジメにトールは歓喜も顕に返事を返す。三ヶ月振りに聴く想い人の声に、もうトールの胸は張り裂けんばかりに熱くなる。
『トールの顔が見える……ハハッまだ夢を見てるのかよ俺は、全くなぁ、いくらトールに逢いたいからって女々しいにも程ってのがあるだろう。けどまぁ、夢の中でもトールに逢えて嬉しいっちゃ嬉しいけどな』夢心地の半覚醒状態の精神の中で、ハジメは現実をはっきりとは認識出来ておらず、そんな取り留めもない事をボンヤリと考えている。
『はぁ〜、温かくてふわふわして柔らかくて、スゲェ良い気持ちだなぁ。出来りゃあずっとこうしていたいなぁ』などと、豊満なトールの胸元に抱かれているとも知らずに、その柔肌から与えられる快楽に浸る。
『けど、何時迄も夢の中に浸っている訳にゃ行かないんだよな』自分にはやるべき事がある。その為に、クソったれな迷宮で戦って来たのだ。ならば、精神をこの温かな楽園から離れなければならない。ハジメは心の中で楽園との決別を決意する。
「俺は、帰るんだ。みんなの、そしてトールの元へ!」
寝起きに、ハジメは“カッ”と眼力鋭く眼を見開き、変わらぬ自身の目標である『愛する人達の元へ帰る事』を、改めて決意表明よろしく宣言する。相変わらず、トールの胸に抱かれた状態で。するとそのハジメの宣言に間髪入れず返される声がハジメの耳朶を打つ。
「はいっ!一緒に帰りましょう、ハジメさん!」
「へッ!?」
欲してやまなかった懐かしく、そして明るく朗らかで澄んだ銀鈴の声が、自分の直ぐ側から聴こえてハジメは思わず素っ頓狂な声を発してしまった。そして瞼をパチクリパチクリと、数度まばたきをしてドアップで超至近距離に存在する相手の顔を認識する。
「ト、トール……なのか!?」
意外すぎる相手の存在にハジメは目を大きく見開いて、その名を呟くのだが、その頭の中は、えっ!?まさか!?何で!?と疑問符が幾つも幾つもグルグルと駆け巡る。会いたいと思っていた。誰よりも求めていた。彼女の元へ帰りたかった。その彼女が、トールが目の前にいる。これは現実なのかとハジメの混乱は続く。
「はい。そうです!貴方のトールですよハジメさん!」
ハジメの混乱を他所にトールは彼の発した疑問符に、瞳に涙を滲ませて歓喜も露わな声音で答える。そうして彼女の答えにようやくハジメも現状を認識し始めたのか、現状を改めて確認しだす。
目の前にドアップで視界いっぱいに見えるトールの笑顔。自分の身体はいまいち力感を感じられない事から、トールに半身を抱きかかえられているのだろう。そして左頬に感じられる、ふわふわとした柔らかな弾力。OK粗方理解した俺は今トールの胸元に抱きかかえられているんだな、とハジメは状況を整理する。整理する事は出来た!ただ、ハジメは一応健康な高校生男子である。ならば左頬に感じる温かで柔らかい膨らみに、次第に吸い寄せられる様に視線が移動する。
「楽園は此処にあった………」
万乳引力の法則に従って、その目に捉えた物を目の当たりにしてハジメはボソリとそう呟く。己の視界を支配する圧巻なまでのボリュームに、ハジメの心臓の鼓動は超速のビートを刻む。
「うへへへぇ。ハジメさんなら何時でも触って良いですからね!」
くしゃっと破顔して微笑むトールの笑顔にハジメは次第に理性がよみがえり、赤ぁッと顔が熱く上気させ『うおぉおッ!?』と慌てて、手足をワタワタとさせてトールの胸元から脱出する。
自分の腕の中からハジメの体温と重みが去って行くのをトールは内心に残念だと思うのだが、それよりもハジメが元気な姿を見せてくれた事の方が遥かに喜ばしく、そんな些細な気持ちは棚の上に放り出した。
「トール?」
「はい!」
慌てていたハジメは両手を床につけた四つん這いの格好で、トールの名を疑問文付きで呼び掛けてみると、ニッコリ笑顔のトールが元気よく返事を返して来た。
「本当に……トールなんだよな!?」
「そうですよハジメさん!」
着いていた両手を床から離して、膝立ちに姿勢を変えてハジメはゆっくりとトールへと近付きながら、もう一度呼び掛けてみた。間髪を入れずに返ってくるトールの返事に、ハジメはようやくこれが現実なんだと、次第に実感が湧いてくる。
膝立ちのハジメに併せる様に、トールも膝立ちとなり二人は真正面から向き合い、互いに瞳を向けて見つめ合う。しばし無言で向き合う二人の様子を、ユエは二人の再会を祝福しているのか、無表情ながらも少しだけ表情を崩し見守る。『ハジメ、良かった』と口に出さずに内心に思い止めて。
「トール……」
「ハジメさん。」
見つめ合い互いに名を呼び合う二人、その二人の間にだけ爽やかな風が吹いている様な背景をユエは幻視する。それは恰もキック・オフっている様だと、昭和のジャンプ読者ならば突っ込んでいるだろう。
閑話休題。三ヶ月前、トールとハジメの身長はトールの方が十センチ程高く、少しだけハジメの方が彼女を上目で見る形であったのだが、今は魔物肉の影響で変貌しはハジメの身長はあの頃よりも十センチ以上も伸びてしまい、二人の視線の高さはより近いものとなっていた。しかし今の二人にはそんな事など些細なもの。
「トール、会いたかった!」
「私もです、ハジメさん!」
見つめ合う二人はやがて、あふれ出る思いに従ってヒシと抱きしめ合う。とめどなくあふれ出る愛おしさと言う感情を互いに抑えきれず、互いの熱と存在感を確かめ合う様に強く抱きしめ合う。左腕をトールの背中に、右腕でトールの頭を熱く抱きしめるハジメと、両の腕をハジメの背に回りして、彼を抱きしめるトール。その光景は何処か神聖にして厳かなものの様で、ユエは間近でその光景を言葉なく見つめている。
そんな時間がどれ位い続いたのだろうか、如何に神聖で厳かであろうとも、長く見続けていれば飽きもくる。ユエはまるで自分だけが蚊帳の外に置かれた様な疎外感を感じてしまい、態とらしく咳払いをして見せた。
「!!」
「チッ!」
その咳払いに二人は抱擁を解き離れる。我に返りユエに対して若干の気不味さを感じるハジメと、良いところで邪魔をされたと舌打ちを打つトール。その態度の差がユエに対する二人の気持ちと信頼度の差なのである。
方や一月余りの時を、共に死線をくぐり抜けてきた戦友であり、築かれた信頼感も高く情もある。方や三ヶ月間探し求めた想い人の側にいつの間にかちゃっかり居着いた、お邪魔虫。しかも厄介な事にハジメは彼女の事をおそらく信頼しているだろうし、更にはトールの目から見ても
「まあ、その悪いなユエ。もう知ってるだろうけど、彼女がトール………」
照れ臭げに頭を左手で掻きつつユエにトールを紹介するハジメだったが、異変を感じてその言葉が途中でフリーズする。後頭部に回していた左手をハジメはまさかと思いながらもおずおずと目の前に持ってくると、カッと目を見開いて自分の左手の掌を、そしてくるりと回して手の甲をと忙しなく確認する。まさか嘘だろう!?こんな事があるのかとハジメは驚愕する。骨があり肉があり血液が通っている義手では無い、失ったはずの左腕が再生している。
「なっ、何ぃッ!?おっ、俺の左腕が、あるぅッ!?」
「ああ、それならファフニールさんに頂いたエリクサーで治療しておきましたよ。」
若干ジョセフ入った言い回しでハジメが左腕が再生している事を驚いてみせると、トールがその経緯をアッサリと解答を示す。それを聞いたハジメはトールに目を向けると、彼女はコクリと頷く。
「そっ、そうなのか。マジかぁ。」
己の左腕が再生した事はとても喜ばしい事であるはずなのだが、ハジメの心境は何故か複雑だった。その思いが表情に出ていたのかトールは何故ハジメがそんな表情を見せたのか疑問に思い、ハジメに尋ねる。
「あの、もしかして私は余計な事をしたんですか………」
「えっ、いや!そうじゃないんだけどな。トールにもファフニールさんにも感謝してるよ、マジで。ただ、俺の中に燻る中二魂とオタク魂がなぁ。」
今後技能の向上やより強く高い硬度を持つ金属を手に入れた暁には、ハジメは己の義手を更に改良していきたいと思っていたのだ。その気持ちをハジメはトールに話すと、彼女はなんともハジメらしいと微笑む。
「やっぱりアームパンチはお約束だよな。この辺りに排莢機構を設けて………」
「だったら、パワードスーツっぽい感じで造っても良いんじゃないですか?」
「あ〜、そうだな。なるほど……」
ハジメの戯れ言に、トールが嬉しそうに合いの手を入れる。しばしの間、いつも通りの二人の日常が其処にはあった。しかし、トールは其処で態度を改めてハジメに向き合い、悲痛さを表に出して謝罪の言葉の述べる。
「左腕と右目は治す事が出来ました。けれどエリクサーをもってしても、ハジメさんを元の、三ヶ月前のハジメさんに戻す事は出来ませんでした。私がもっと早くこの世界を見つける事が出来ていればハジメさんは………」
目を伏せて後悔を滲ませた声音でトールはハジメに詫びる。確かにハジメの左腕と右目を取り戻す事は叶った。しかし、変わらずハジメの肉体には魔物の肉を口にした事で出来上がった不気味なラインが浮き上がって見えるし、色を失った髪の毛は真っ白なままであり、肉体も普通の人間を遥かに凌駕する程の能力を宿してしまったままなのだった。
それはエリクサーの薬効も変貌前のハジメの肉体がどの様な物なのか、それを知る由も無く、その効能を発揮するに当たり、元とした物が変貌し終えたハジメの肉体だったからであったのだ。
「ああ、その事なんだが、こうなっちまった事を今の俺はそれ程後悔していないんだよトール。」
俯くトールにハジメはそう答える。不安気な彼女をいたわる様に優しく、己の気持ちを彼女に示してみせた。
「えっ、どうしてですかハジメさん!?」
トールはハジメの心情を推し量れず、疑問をハジメに問わずにはいられない。それはハジメも重々承知であり、トールの問にハジメは答える。曰くそれは人間とドラゴンとの寿命を含めた生物としての差である。数百年から数千年の時を生きるドラゴンと高々数十年から長くとも百年を少し越える程度の短い寿命の人間。南雲家にて、穏やかな幸福な日々を得たトールであったが、確かに彼女自身もその寿命の差については認識しており、しかしそれは仕方が無い事だと、諦め、或いは割り切らねばと思い悩みもしていた。
「魔物の肉を食って俺は確実に、普通の人間の数倍とか数十倍の寿命を得たのは確実だと思うんだ。と言う事は、これから先俺はずっと永くトールと一緒に居られるって訳なんだ。まあ、それは当然トールが嫌で無ければって前提があるんだけどな。」
ニヤッと、悪戯な笑顔でハジメはトールにそう答える。その言動は今の必要以上に思い悩んでいるトールにそんな気持ちなど、捨て去って欲しいと願っての事だ。
「ハジメさん。本当なんですか?」
ハジメの思いと決意の程にトールは驚き目を見開いて、そう問う。
「ああ、本当だよトール。今言った様にトールが嫌じゃ無ければなんだが。」
今度は穏やかな笑顔を見せてハジメはトールに答える。ハジメの言葉にトールは否定では無く、「いいえ、いいえ」ブンブンと左右に顔を振る。
「そんな、嫌な筈ありませんよ!私はずっとずっとハジメさんと一緒に居ます!ハジメさんの側にずっとです!」
「ああ!喜んで、大歓迎だよトール。」
二人は互いの両手を握りしめて、これから先の互いの生を誓い合うのだった。めでたしめでたし大団円。と、ここでしめれば中々に格好良く終わっていたのだが、忘れては行けない。此処にはもう一人のヒロインが居る。
「ところでハジメさん!その娘の事を教えてもらって良いですか?」
トールがユエを指差し、表情に少し険を作ってハジメに詰め寄り問い質す。トールに問われたハジメは少しバツの悪そうな表情で、頭を掻きながらトールにユエの事を、どの様に説明するべきかと戸惑うも、ここはやはりきちんと紹介すべきだと結論付け、素直に紹介する事とした。
「あぁ、そうだった。紹介するよトール。彼女はユエ、俺と一緒にこの迷宮を攻略してくれた仲間だ。」
「そうですか。へぇ、仲間ですか。」
ハジメの答えに、ジト目でユエを睨みつつトールは尖った声音でそう言うと、トールに睨まれながらも平然とした態度でユエは頷いて口を開く。
「ん。私はユエ。ハジメに救われた女。」
淡々と真実を簡潔に述べるユエにを訝しみながらハジメに視線を送ると、ハジメもそれを頷き肯定する。それから、ハジメはユエとの出会いの一幕を語り出した。
迷宮の薄暗い一室に永き時を封じられ、たった一人捨て置かれていたユエ。一国の王として国家の為に民の為に懸命に務めを果たしていたにも拘らず、切り捨てられ裏切られたユエの身の上を。
「俺は、あんな寂しくて無情な部屋に閉じ込められてたユエの姿が、あの時の初めてあの山で出逢った時のトールの姿と重なって、放っておけなかったんだ。」
あの部屋で彼女を救うと決意するに至った己の心情を、ハジメはトールの目を見て真摯に嘘偽りなく語り聞かせる。ハジメの側に別の女がいる事を内心でトールは不満に思っているものの、彼女の心情や生い立ちなどに付いて、多少は憐憫の情を抱けはする。
これも、一年余りの時を南雲家でハジメ達と共に生活した事により深まった人間に対する理解によるものだろう。しかしそれだけでは無く、彼女の心根が基本的に情が深いと言う一面もあるのだろうが。
「そうですか。分かりました、では取り敢えずは、私も“あの娘”の事を受け入れるとしましょう。」
これは“最大限の譲歩”ですよと言わんばかりにトールは、ユエとハジメに言い含める様にそう告げるのだった。
「ところでですがハジメさん。そのユエと言う名前は、もしかしてハジメさんが付けたりなんかしますか?」
「えっ……ああ、そうだが、何でトールがユエの名前が本名じゃあ無いと、知っているんだ!?」
トールの質問が意外すぎてハジメはトールに問うのだが、トールはそれには答えずに、プルプルとその身を震わせ始めた。かと思うと、クワッと目を見開きハジメに詰め寄りこう宣うのだ。
「ズルいです!」
ズビシっとユエを指差しトールは叫ぶ。
「はぁ!?どうしたんだよ突然!?」
「だってこの娘だけ、ハジメさんに名前を付けて貰うなんて、私だってハジメさんに名前を付けて欲しいです!」
突然何事とハジメがトールに問い返せば、トールはいかにも不公平だとハジメに訴えるのだ。新たな人生をスタートさせる為に過去の名を捨て新たな名前で生きて行く。しかもその名付け親にハジメがなっているとは、トールにとってこれ程羨ましい事は無い。
「むふ!」
トールの豹変に、自分は特別な立場にいるのだと知ったユエは得意気に胸を逸らしてニヤリと微笑む。
「貴女は、何を得意気になっているんですかッ!そうだ、今からでも遅くありません。ハジメさん、私にも名前を付けてください!さあ、今すぐ!!」
その姿にトールは更に激昂して、ハジメに詰め寄る。彼女ばかりがズルい。自分だってハジメに名前を付けて呼んで欲しいと、トールは欲望いっぱいにハジメに要求する。
「イヤイヤイヤ、そんな事出来る訳無いだろう!トールには親父さんが、ダモクレスさんが付けた立派な名前があるんだ。それを俺が勝手に変えたなんて知られた日には、俺がダモクレスさんに殺されっちまう!」
しかしユエとは違い、トールの父ダモクレスは分かり辛いが彼は娘であるトールに対する家族としての情をハジメは何となく感じている。そうであれば、トールの名をハジメが変えるなど、トールとダモクレスの絆を壊してしまう行為になるのではないかと、ハジメは思うのだ。
「え〜っ!!嫌です。私もハジメさんの付けた名前が良いです!」
だが、そんな事は知らんとばかりにトールは首をフリフリ身体をフリフリとして、あたかもイヤイヤ期の幼子の様に我儘を押し通そうとする。はて困った。どうしたものかとハジメは思案する。思案しながらハジメはトールに語り掛ける。
「そうは言ってもだな。何と言うかだ、俺としては………そうだな。もし、近い将来俺とトールの間に子供が出来たら、その時は俺がと考えているんだが………」
ハジメの言葉を聴きながらトールの表情がみるみるうちに変化し始める。それはある意味とても重い言葉なのだが、ハジメはその事に無自覚の様で気が付いていない。
「………ハジメさんッ!!」
ハジメの言葉を聴き終わり、トールの思いは次第次第に高まって行き、ぱあっと彼女の表情は朗らかに崩れ顔全体を紅潮させて、ズイッとハジメに詰め寄った。
「おっ、おう!?」
「今言った事、本当にそう思っているんですよね!私とハジメさんの間に子供がって、ハジメさん、その気があるって事で間違いありませんよね!?」
トールのあまりの勢いにタジタジとしながらもハジメは何とかその場に踏み止まって、押し迫る彼女の言質確認を肯定してみせる。
「あ、ああ、将来的にはそうなったら良いなとは思っていたんだが………」
少し煮え切らなさを感じさせるものの、ハジメはトールの問いに答える。ハジメのトールを想う気持ちも彼女と同様、嘘偽りなど持たないハジメなのだから。
その後感極まったトールがハジメに抱き着いて子作りを迫ったり、それに便乗してユエまでもがハジメに子作りを迫り、トールとユエとの間にキャットファイトが勃発しようかとの事態に陥り掛けるが、ハジメが二人の間に入り宥めすかし、取りあえずは一旦それは将来へ持ち越そうと提案し二人も渋々その提案を飲み、しばしの平穏をハジメは手に入れるのだった。
「そう言えば、何故私がユエの名がハジメさんが付けたものだと分かったのか、と言う話でしたね。」
コホンと咳払いの真似をしつつ、トールが気を取り直してそう言うと、ハジメとユエがその言葉に頷く。
「そうですね、それを話す前にアレーティア、貴女は自分の過去と向き合う覚悟はありますか?」
三人車座に座った状態でトールはユエに向けてそう問い掛ける。過去を捨て、名前を捨ててしまうほどに、彼女は己の過去を倦んでいる。無理も無かろう。何百年もの間、真実も知らずに裏切られたと思い続けてきた彼女に、過去と向き合う覚悟を持てるのか。
「……………」
痛みをたたえた表情でユエは俯いてトールの問い掛けに答えない。否、答えられないのだろう。それ程までに彼女にとって裏切られたと言う現実と、その後の数百年に及ぶ孤独の日々は重く苦しい枷となっているのだ、そう簡単に答えられるものでは無い。
「おい、トール………」
ユエの心の傷を知るハジメは、トールの問い掛けがユエにとって些か以上に厳し過ぎる物であるとは思う。しかし、同時にトールの心根の優しさと知っており、単なる意地悪でそんな問い掛けを彼女がする筈は無いとも知っている。なので、トールの問い掛けはこれからのユエに取って必要な、乗り越えなければならない、一種の通過儀礼なのかも知れないと推察し、ハジメはトールに対する嗜めの言葉を区切ったのだ。
「なあ、ユエ。俺は話だけだがお前の過去の話を訊いて、ユエの心に深い傷を負ってる事は知っているし、同情心みたいなものも持ち合わせている。それを踏まえた上で言わせてもらうとだな、トールの言っている事はユエのこれから先の人生ってやつを送るに当たって重要な事なんじゃないかと思うんだ。」
「ハジメ………何故?」
トールからユエへと向き直ると、ハジメはユエの肩に優しく手を添えて彼女の心情に寄り添いつつも、トールの彼女に対する問い掛けの真意をハジメなりに推察して聞かせる。
「それは、俺がトールの事を知っているからだよ。トールはこんな時に決してユエの事を貶める事をする筈が無いってな。本人は認めないだろうがトールは優しい娘なんだよ。それは俺が保証する。」
フッと笑いながら、自信を持ってハジメはトールの心情と彼女の優しさが本物である事をユエに伝えるのだった。
「………ハジメ!」
ハジメの言葉に、ユエは沈んでいた気持ちが浮上する。トールの事は為人など含めてまだ直接は知らないが、心から信頼を寄せているハジメがそう受け合うのならば、ユエもトールを信じられると言うもの。
「もう、何を言うんですかハジメさん。それって肖像権の侵害と言うやつじゃありませんか、私としては甚だ不本意ですよ!
そんなユエとハジメとのやり取りに、トールは憤慨し不本意だと主張するも、紅く染まったその顔が照れ隠しの言動だと言う事が二人には確りと見て取れた。
「トール姉さま。」
ユエはトールを呼ぶ、フッと微笑み屈託無く信頼の念を込めてその名を呼んだ。
「何ですか?自分の事くらい自分で決めて見せなさい。でなければ、貴女がハジメさんの側にいる事を私は認めませんからね!」
ユエの呼び掛けにトールは態とらしく、突慳貪な態度を取って見せて、彼女に対して宣告を突きつけるかの様にビシッと指差して告げる。その言は、例えユエが過去と向き合う事を決意しようが、そうで無かろうが、ユエ自身が決めた事ならばトールはそれを尊重すると言っているのだった。
「ん!」
ユエも、トールの言葉の真意を確りと受け取り簡潔に返事を返す。ユエはどちらを選択するのか、それは次回で。
ユエさんの決意の程は如何に!?