1.
ドロレスは、仄かな陽光の暖かさに目を覚ました。
ユグドラシルにおいて、暑さ、寒さというのは、自身の属性に応じて
森の中での野営で夜露を凌いだ
彼女は、自身の記憶に何らかの問題が生じている、と確信しつつある。
ドロレスの自己認識としては、彼女はユグドラシルの世界の一つ、ヴァナヘイムの住人。ギルド
はっきりしている記憶としては、ドロレスはユグドラシル最後の日……が何を意味するのか、今の彼女にはよくわからない……をギルド拠点
そこへ、しばらく会っていなかったギルドの切込隊長、人間種の
そうこうするうちに、ユグドラシルが終わるとされたユグドラシル時間の正午を迎えた……はずだが、その後の記憶が支離滅裂だ。名前もわからない何処ぞと知れぬ
以来、行く当てもないままに
彼女が自身の記憶を疑う第一の理由は、ヴァナヘイムの他にもう一つ、彼女が行き来して暮らした<
ただ、今あるここが<
それは、自分が容姿端麗な女エルフの
これがすべてであれば、失われたのは過去の記憶の一部、ということになるが、事態はもっと複雑で込み入っている、と彼女は考えている。彼女にそう考えさせる第二の理由、手帳、を
これは、ギルドの仲間と冒険するに際し、主に
一方で、最後の頁の見開きは、こちらも確かに自身の筆跡に間違いはないものの、これだけは自分で書いた記憶がない。しかも、その内容が不可解だ。
走り書きされたそれの大半は意味不明な数字の羅列だ。自分の筆跡で書かれたそこに秘められた意図を自分で探る、というのも
彼女は随分な時間をその解読に費やしたような気もするのだが、あるとき、ふとその一部、掛け算と思しき一連の係数の一つが、ギルド拠点
これに並んでいくつかの数字があるのだが、やたらと桁の大きな数と小数点以下の小さな数が掛け合わされていて、その積がすべて加算されて先にみた半年分のギルド維持費と比較されたことが読み取れる。とすると、大きい方の数字はギルド維持費に充てるべく集められた何らかの資材で、小さい方の数字はそれを<
明らかなのは、これがこちらの
だからこの一連の試算は、こちらにやって来て以降のドロレスが、共にやって来たギルド拠点の維持を図っておこなわれたものとしか考えられない。が、自分にはその記憶はおろか、ギルド拠点が今何処にあるのかすらわからないのだ。
つまり、失われたのは過去における<
現在進行形で記憶を失いつつある!
この、記憶を失いつつある、という自覚はもちろんドロレスを気味悪がらせたが、それは彼女が感じている不安のほんの一部でしかなかった。
以上の仮説が正しいとして、どうして自分はギルド拠点の維持を試みたのだろうか。もちろんそれが拠って立つ拠点だから、というのもあろうが、彼女には、自分がそうしたであろうと考えるに足る、彼女の属したギルド
と言うのも、ギルド拠点
そして、他の手製NPCについて質より量を優先させるほど強力であった元レイドボスNPC、
ドロレスは、失われた記憶の中の自分は、ただただこの
ユグドラシル最後の日の時点で、宝物殿には意味もなく向こう三ヶ月ほど拠点を維持可能なユグドラシル金貨が残されていた。手帳に書かれている資金調達計画がうまく運んでいたのであれば、更に六ヶ月は延命が叶ったはずだが、もっともはっきりしているこの
とすると、もっとも楽観的な見通しでも、
だが、それすらも、あらゆることにユグドラシル時代にはなかった質感を覚えつつも、その一方でまったく現実味を感じることが出来なくなっている……そもそも彼女にとって、現実、とは何であろうか?……ドロレスには、辛うじて自分が物語の主人公であるとの希望を
真に彼女を不安にさせるのは、一連の数字が書き込まれた手帳の隅、一番最後に書き加えられたとみえる文言の、なお増しての奇怪さだった。
そこに見える言葉。
<神聖アインズ・ウール・ゴウン帝国>
とは……いったい何だ?
*
「ゲンさん、どう思われやすか?」
「野営ノ
真新シイモノデハ……ナイナ。」
見渡す限り低木の荒野の一角の窪地にしゃがみ込んだ
既にその名も忘れ去られた
顔触れは、ゲン、マイシューマツに加え、同じく
トブの大森林生まれの三人組、ゲン、マイシューマツ、フーライトルの只今の身分は、よく言えば新王サミュエル・エルキュルハウゼンの友人であり食客、端的に言えば傭兵、ということになる。
王の信任状を携えて村を巡ればおさおさ粗略に扱われることはない。彼等に委ねられた任は、第一には王国の南の防衛線の視察であり、第二には、村人の中からこの
ふと見れば、少し離れたところで
「弔いの跡でもあったのかい?」
フーライトルがそう呼び掛けると、問われた男は、
「気休めですが、聖水でもくれといてやろうかと。」
と応じる。然るべく<
「葬られているのが噂を聞かなくなって久しい
そう問う男に、ゲンは黙礼を返して同意を示した。
一年半前まで、
支配下、といっても体系的な統治機構が存在したわけではない。その顔触れから南方、アベリオン丘陵の辺りに源を発すると解されていたその連中は、半年に一度貢納を求めてやってくるだけで、その一部が村に残留して大きな顔でのさばっていたことを除けば、直接的には村々に何ももたらさなかった。
更に半年前に、突如として貢納の要求が四十倍に跳ね上がったことをきっかけに動乱が生じ、義侠心から
そういう背景があるので、荒野に埋葬された何者かに聖水を注ぐ
諸村の庇護者として王の名乗りを上げたサミュエルは、その即位に際し、端的にたった三つの
<汝、殺すなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、欺くなかれ。>
これがエルキュル王国の法のすべてだ。
実際の統治は、形式上国王の信任によってその地位にあるとされる村々の領主に委ねられている。
国王サミュエルは王都リ・エルキュリーゼ南端の仮宮をその本拠としており、ここにポリス・ウロヴァーナ以来彼に付き従う部下三十余名が、
王国騎士の半数強は二人一組で諸村に派され、国王から課された国民の唯一の義務となる、
<各村落は常任三十名、予備役七十名、計百名の槍隊を備えよ。>
を実現するために活動中だ。
サミュエルたちは、建国から一年余を経た今も、神聖……帝国からの反撃があることに対する警戒を怠ってはいなかった。いざ事あるときに、最初に帝国軍と対したリ・エルキュリーゼの槍隊を率いてこれに当たっては遅れを取ることになる。なので、村々に防衛の一隊を備えることは急務であり、同時にそれは、村人たちに、自分たちは国王の庇護を受ける存在でありつつも、自分の身は自分で守るのだ、守れるのだ、という意識改革を迫ることも企図されていた。
これとは別に、サミュエルは
国家としてのエルキュル王国の統治体制はこれがほぼすべてであるが、加えてサミュエルは、ゲンを含むトブの森からの義勇軍の中でも酔狂から森に帰らず残った者たちに声をかけ、信任状を与えて南端の村々での冒険者育成を依頼した。
古来、国家が動員する軍と、個人の矜持で行動する冒険者は、似て非なるもの、と観念されている。前者が訓練と規律でもって脆弱なる個が集団で力を発揮するもの、と考えられているのに対し、後者は能力に秀でた個人が自発的な意思と鍛錬で当たるもの、と考えられていて、言うなればそれは表裏、水と油の関係だ。
リ・ウロヴァールにあって種々の過去からの文献に親しむ機会のあったサミュエルは、歴史上しばしば能力に秀でた個人のみを集めて軍を編成する、つまり、冒険者軍、的なものを創設しようとする試みがあったことを知っているが、それらはすべてある規模に達した時点で失敗に終わったこともまた承知している。むしろそれは車の両輪のようなものであって、重ね合わせることには百害あって一利もないが、それぞれが潤滑に回ることで社会の支えとして機能するものだ。
元を
ゆえにサミュエルは、ゲンたち、個人の矜持に拠って立つ
ピュィーーー!
不意に鳥の鳴き声を模した指笛が吹き鳴らされた。
窪地から斜面を昇ったところで周囲を見渡していたフーライトルが発したものだ。その意を察したゲン、マイシューマツ、三人の男たちは姿勢を低くした。
もっとも。
ゲン、についてはそんなことをしても付け焼き刃、の感もなくはない。
「ドウシタ?」
小声で問うゲンに、身を伏せてなお遠くの何かを伺っている様子のフーライトルが答える。
「人影です、しかも奇妙なことに一人でさーな!」
彼等の基本方針としては、帝国の残党と疑われる者と出食わした際は様子見した上での即時撤収が事前に決められてはいたが、こういう
「あちらはこちらに気づいてますぜ、まっすぐ向かって
「……先手ヲ取ロウ。」
即座にゲンは決断した。
もっとも、戦闘しようというわけではない。
「私ト、フーライトルデ
他ハ此処デ待機シ、戦闘ニナルヨウデアレバ加勢セズニ一旦
マイシューマツはともかく、他三人の冒険者見習いはまだ戦力と見做すには覚束ない連中だ。
「承知しやした、どうかお気をつけて。」
ゲンの意を察したマイシューマツが手早く三人の男たちを手招きし、窪地の死角で様子見するように指示すると、男たちは素直にこれに従った。これを見届けて、ゲンは得物の
「オーイ、オーイ!」
フーライトルも、相手に敵意ありと見られぬよう
相手から応答はないが、特に物怖じする様子もなくこちらに近づいて来る。ややあって、その容姿がはっきりとわかるようになった。長身で細身、柔らかい
「オーイ、ドウシタ、仲間ト
そう問いながら、ゲンは、サミュエルが即位を宣言する直前、
そうこうするうちに、女は何者であるかはっきりとわかる距離まで迫った。
女
背に
これ以上近づくと戦闘の間合いとなることを憚って、ゲンは一旦歩みを
「ヨモヤ、トハ思ウガ……言葉ガワカラヌカ?」
仮に本当にそうであれば口にしても詮のないことではあるが、フーライトルに自分の懸念を伝える意図も込めてゲンはそう言ってみたが、意外なことにこれには女の方から反応があった。
「それはこっちの台詞。
おまえは見たところ
……随分なご挨拶だな、とゲンはため息をつく。
「失敬なことを言ってもらうと困るね、
ゲンは咄嗟に、
「こちらは国王陛下の親友にして、王国にこの人あり、と知られた義の巨人、名は
と、肩を
ナンデ……オマエガ私ノ名乗リヲスルンダ?
ゲンは、まるで自身を言葉の通じぬ獣であるかのように言う女よりも、むしろフーライトルの芝居がかった振る舞いに呆気に取られたのだが、対する女の返しはさらに
「
「な!」
今にも飛び掛からん勢いのフーライトルの襟袖をゲンの大きな指先がひょいと
どうやら情誼の通じぬ相手ではないようだ、とゲンは思う。
が、只者でないのは確かだ。正直なところ、よもやそんなことになるまい、とは思いつつも、ゲンは彼女と得物を交えたとして、勝てる
そして、以前にも似たような者と行き当たったことがある、と思い起こした。
純血の
そしてその印象は彼に、王国建国の契機となった戦いの中で出会い、いつの間にか何処かへと消え去ってしまった三人組、アルファ、ベータ、ガンマを思い起こさせた。彼女らもまた絵に描いたような整った顔立ちで、人間種に恋心を抱かぬでもないマイシューマツ、フーライトルはめろめろになっていたものだが、この女森妖精からも同じような印象を受ける。
そしてゲンは、アルファ、ベータ、ガンマは、その美しい姿とは裏腹に、まともな人間ではなく、異界から我々には
これは……触れ得ざる者、という奴か!
ゲン自身は、幼少の時分に兄貴と慕った義理で今も付き従う羽目になった王サミュエルから教わった言葉だ。
曰く、この世界には、恐ろしい力を有し、我々とはまったく異なるものの考え方をしつつも言葉の通じる触れ得ざる者、があると。サミュエルは、自分たちが立ち向かって撃退した神聖帝国を名乗る無頼どもをまったく恐れてはいなかったが、その背後に触れ得ざる者があるやも知れぬ、と疑っていた。
加えて、自身が王位に推された背後にもその触れ得ざる者の意図が働いた可能性もある、と聞かされて、正直なところゲンは、サミュエルがあまりに大きな
そして、
ドロレスを苛立たせていたのは、この
だから、地平線の彼方から雄叫びを上げて歩んでくる巨人を認めたとき、それが単なるポップモンスターなのか物語の進行に関わるNPCなのかはさておき、ともかく何者であるのかを確かめよう、と思った。
驚いたのは、近づくにつれて彼女からすれば雑魚モンスターに過ぎないトロールが、生意気にもユグドラシル標準語である日本語で話しかけてきたことだ。随伴したさらに雑魚のゴブリンは、このトロールが国王の親友であり、ゲンガンという立派な名すら持っていると言うではないか。
真偽はともかく、国王の親友、なる存在との出会いが
「おまえはゲンガンというのね?」
何やらこちらに向かって苛立っている様子のゴブリンを無視してトロールにそう問えば、
「ゲン、ト呼ンデモラエレバ結構。」
と応じられた。
「ワタシは
ユグドラシルの
「……ドロレス、でいいわよ、ゲン。」
「アァ、済マナイ。チョット長クテドウシヨウカト迷ッテイタ。」
この返しに、今度ははっきりとドロレスは、ウフフフ、と蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あっしはフーライトルと申します。どうぞ、お見知りおきを、ドロレスの
ゴブリンがゲンの前に身を乗り出してそう名乗るが、ドロレスからすると、国王の親友だというゲンのオマケにしか見えないゴブリンは、強いて相手にする価値があるようには思えない。ただ、ニコリ、とお義理の笑みを返してやれば、見るからにゴブリンは鼻の下を伸ばした。やはりこいつらは
しかし……。
ドロレスは呻吟する。
憶えている限りにおいて、ユグドラシルで
「ここは何処なの?」
彼女としては情報収集の第一歩として至極当然のことを尋ねているつもりでそう言ったが、問われた
「
真顔でそう言うゲンに、流石に単刀直入に過ぎて馬鹿っぽかったか、とドロレスは頬を赤らめた。
「あぁ、言いを改めるわ。ここは何という
やはりゲンは不思議そうにしている。
「強イテ言エバ、エルキュル王国ノ南ノ端、トイウコトニナルガ……」
「そうじゃなくて!」
ドロレスはゲンの言葉を
「私はヴァナヘイムから来たの。そういう意味での
ユグドラシルのNPCであれば、自身の存在する
「ヴァナヘイム……トイウノハ聞キ覚エガナイ。
「東?どうしてそう思うの?」
「私モ行ッタコトハナイガ、トブノ森ノ遥カ東ニ、エイヴァーシャー、ナル
再びドロレスは呻吟した。
「差シ支エナケレバ、ダガ。」
とゲン。
「間モナク日モ落チヨウ。私タチハ少シ早メノ食事ヲ取ッテ明日ニ備エヨウト思ウガ、共ニ食事ヲシナガラ話ヲ伺イタク思ウノダガ。」
「……そうね、悪くはないわ。」
ドロレスは、渡りに船、とこれに同意した。
「何モ荷ヲ持ッテオラレヌヨウダガ糧食ハアルノカ?
我々ハ余裕ガアルノデ分ケルコトハ出来ル。」
なんだ、このトロール。強面に似合わず随分とお人好しじゃないか、とドロレスは微笑む。
「私にはこれがあるから大丈夫。
おまえたちは食事をしながらで構わないわ。」
と、左手の薬指に嵌めた指輪を示す。やはり、ゲンは意図を察せない様子だ。
「<
ここ半年、私は何も口にしていないわ。」
「ナ!」
事も無げにそれを示したドロレスに対し、そんなものは御伽噺の中でしか聞いたことのないゲンは大層驚いて見せた。そして言う。
「……ナルホド、承知シタ。
ガ、詳シクハ知ラヌガ、飲食不要トハイエ、何モ飲ミ食イセヌハ心ガ乾キモシヨウ。
お人好しなだけでなく、こいつは存外人情の機微にも通じるのか。
「他ニ仲間ガアル、紹介シヨウ。コッチダ。」
ゲンは無防備に背をドロレスに向けて晒し、片手を振り上げてついてくるよう促した。
本当に妙なトロールだ、と思いつつ、他にどうしようもないので彼女は素直にそれに従う。
向かった先の窪地には、ゴブリンがもう一人と人間の戦士二人、
ゲンが何か指示を伝えると手早く焚き火が起こされ、ささやかな食事の準備が始まる。これを立ったまま眺めながらドロレスは、強いて
思った通り、ゲンというトロールが頭一つ抜きん出ているが所詮はレベル二十台後半。
「掛ケタラドウダ。」
ゲンがドロレスを傍らの
「口ニ合ウカハワカランガ、干シタ果実ダ。試シテミテクレ。」
と、
ユグドラシルにおける食事は無味無臭なもので、ただただそれを定期的におこなわないと
黙ってその果実を受け取り鼻先に持ってくると、ぷん、と甘い香りが鼻腔を擽って、本能的にこれを口にしたいという衝動が走る。それでも彼女は慎重に、やはり<
<
本来それが必要ではない自分が、それを必要としているに見える連中の一部なりとも奪うことにはいささか気が引けないでもないが、本能的な求めには逆らえず一口齧ってみる。
「……美味しい。」
口の
「ソレハ良カッタ。」
と、強面なゲンが微笑んだのがわかる。これがきっかけになったものか、それまで気にもしていなかった香ばしい薫りにドロレスは気づいた。見ればフーライトルたちが焚き火で何か干し肉のようなものを炙っている。
「……あれは?」
ゲン以外は相手にするだけ無駄だ、と考えている彼女はゲンにそう問い掛けたが、
「
ゲンがそう答えた時点で、ジャンが頃合いに焼き上がった串刺しのそれをドロレスに差し出していた。彼女自身の意思とは別に自然と手が出てそれを受け取る。
「念のために訊くけど。何の肉なのかしら?」
早速頬張ろうと口を
「
とフーライトルが応じて、思わずドロレスの手が
「騙されたと思って食べてご覧なさいな。これが存外イケるんですぜ。」
と、彼女に串刺しの炙り肉を差し出したジャンが笑う。勧められずとも、その香りの誘惑に抗う
「……あらやだ。本当に美味しいわ!」
彼女が喜色の声をあげると、
ここまで随分とうんざりとした気分を味わってきたものだが、この