コン、コン。
「ん……日も落ちて随分経つというのに。
鍵はかけていないから勝手に入っておいで。」
不意に聞こえた
コン、コン。
再び扉が叩かれる。
「……ったく、
ちょっと待っていておくれよ。」
やりかけていた手仕事を
「……見ない顔だね。」
扉の外にいたのは三十になるかならないかの年頃の女。
短く切りそろえた髪、不美人ではないが化粧っ
自身
「夜分に申し訳ない。」
女はぶっきらぼうな口調ながら、まず夜更けの訪問を詫びた。
その媚びぬ素振りから、男はますますただの村娘ではない、との確信を深める。
それにしても。
月明かりのせいか、やけに顔色に血の気がなく青白い。
「
各戸の菜園で個人で栽培されたものを例外に、村の農場の産になるものは
酒が無償で供されれば、無遠慮な
「もちろん構わないとも。」
男は気安くそう応じた。
村人が二千人にも満たなかった初代
背を向けて
「
男は立ち止まって振り返り、随分なことを言うじゃないか、という顔をした。
これを求める
「……何と交換に?」
一見手ぶらに見える女に、訝し気に男は問う。
よもや
対して、戸口に佇んだままだった女は、すっと横に身を
何をやってるんだ、と男は首を傾げたが、さきほどまで女が立っていたその後ろに、それまでまったく気配を感じなかったもう一人の人物があるのに気づいて息を呑んだ。
「な……なんだ?」
女も体格が良かったが、暗闇の中から滲み出るように姿を現した自分よりは若く見える中年男性は、これまた
その黒服が無言のまま、足音も立てず滑るように近づいてきて、さては押し込み強盗か!と身構えるも、黒服が両肩に担いでいた荷が、どさっ、どさっ、と無造作に戸口の土間に投げ入れられて、酒蔵の管理人は再び息を呑んだ。
「こ……こりゃまた!」
投げ込まれたものは、見事な体格の鹿が二頭。
酒蔵の管理人は大慌てでこれを検分するが、いったいどうやってこれを狩ったものか傷一つなく、でありながら
「そうは見えないが、あんたら凄腕の狩人なのかい?」
管理人の問いに男女いずれも応じる様子はない。
「……まぁいい。これほどの逸品なら申し分はないさ。少し待っていてくれ、丁度よいものがあるんだ!」
男女を待たせたまま管理人は室内に戻り、地下の
「先だって祝い事があったときに詰めた余り物なんだがね。出来の良かった七年もので評判も上々だったんだ。気に入ってもらえると思う。持って行ってくれ。」
管理人がそれを差し出すと、黙ったままに女が手を差し伸べてこれを受け取った。
「またこういう獲物があれば是非届けておくれよ。地下の樽には他にも自信をもってお勧めできるのがまだまだあるんだ。あんたらのために瓶に詰めておくから。」
この言葉に女は黒服の男を、チラリ、と振り返った。
そちらを一瞥するでもない黒服は、ただ
「また、満月の夜に。」
自然と管理人の視線は黒服が指差した
「あ、あぁ!満月の夜だね。きっといいものを用意しておくよ!」
管理人がそう言い終わるのを待たずに黒服は身を翻し、駆け去ったわけでもないのにその姿はたちまちに宵闇の中に消えてしまった。酒瓶を抱えた女も、やはり物音一つ立てずにその
「……薄気味悪い連中だが、悪い取引じゃないな。」
満足
「しかし……」
と、思った通り、面白いようにすいすいと剥ぎ取れる皮の質感を楽しみながら男が呟く。
「確かアレは三本残っていたような気がしたんだか。
……勘違い、だったかな?」
後ろから追いついた女は男の傍らに歩み寄り、黙ったままさきほど手に入れた二本の酒瓶を差し出したが、男はうち一本のみを受け取った。
「グラスも
女はやや申し訳なさそうにそう言うが、男にそれを気にする様子はない。
黙ったままに右手で瓶の底を掴み、
女は引き続き不安げに男の様子を見つめているが、やがて男はやはり無言のままに、瓶の胴を握り直してそのまま
「……どう?」
と、女が問う。
「雑味。」
即座に男がそう言うので女は顔を引き攣らせたが、男は再び瓶を傾けて、さきほどよりも多くの量を口に含んだ。しばらく口腔でこれを転がした
「荒々しくも力強いそれが、舌を心地よく包む。それは欠点、ではなく、むしろ深い森の香りを想起させる。決して洗練されてはいないが、だからこそ、野性
男は再び瓶を傾けて、今度はごくり、ごくりと音を立てて呑んだ。
そしてこう言う。
「礼を言おう。
何か、欠けていたパズルのピースが一つ、埋まったような気がする。」
「あなた……存外、詩的なのね。」
と、女。
これにも男は特に応じることもなく、再び酒を煽りながら、
「……いいの?」
これに男ははじめて、ニヤリ、と牙を見せて笑みを浮かべ、こう言った。
「村人を襲って余計な騒ぎを起こされるよりはましだ。」
*
太古の昔、バハルス帝国が興った古都
ただいまは、見渡す限りの
<
唯一の例外が、今、奇縁の
もっとも、これらの舗装街道はそれぞれの村まではつながってはおらず、そのかなり手前に設けられた荷馬車を係留する無人の駅で終わっている。これまた言うまでもなく、<
「
これまた
「もちろん私は、おまえたちの政治に口出しするつもりはない。」
そう断りつつも、キーノは結果的に知ってしまった
これに対しクスクルは、
「
と、守秘を求めた。
半ば正気を失っているとは言え、
そのつもりがないのだとしても、
「言われるまでもない。冒険者たるもの、依頼を通して知った秘密を他者に語ることはない。
こうして
キーノが敢えてそう言って笑うと、生真面目なクスクルも漸く笑みを浮かべた。
「
そんな会話を反芻しつつ平原を南へ、南へと黙々と歩むキーノは、今一度、どうして自分は誰に頼まれたわけでもなく
キーノの最大の関心事は、繰り返しこの世界へやって来る
一方で、悲劇は必ずしも
一度目の時分は、実年齢はともかくキーノ自身がまだまだ幼かったこともあって、人間、亜人社会の成り立ちに
ふと、キーノの視線は、双子忍者クゥイア、クゥイナと何やらじゃれ合いながら歩いている自身の眷属にして最も信頼する相談役、愛する
<
「丁度いい具合に街だの国だのがなくなったこの機に、生き残った連中を束ねて王様にでも名乗りをあげる?それなら、連中を守りたい、って話にも筋が通るわさ。ワタシはキーノちゃんの親衛隊長にでも騎士団長にでも、何なら政敵を片付ける刺客にでも、
無論キーノはこれを、大災厄を未然に防げなかったと分不相応な自責の念を抱え込んで打ちひしがれたキーノを立ち直らせるべく発せられた方便である、と理解しているが、今思えば、実はもっと深いところを衝いていたものだったのかもしれない、とも思われるのだ。
自身の真に望むところが、この世界の民草に安寧をもたらすこと、であるのであれば、クレマンティーヌの言うように、王の名乗りを挙げて一国を
「んで、キーノちゃんは
新
キーノの視線を感じ取ったクレマンティーヌがそう軽口を叩く。
もちろん冗談だ、とはわかっているが、どうするつもりなのか、という問いに明確な答えはない。
「もっとも、キーノちゃんは見た目だけはちっこい女の子だから、連中が推してくれるとも思えないけど。」
そして事実としては、この辺りの社会で女性が
「何ならワタシが代わりに初めての女
随分女の子の兵隊さんも増えたとは言え野郎が多数派なのは変わらないから、ワタシの色気でイチコロよ!」
「
左手は胸の前で丸みを作り、右手は斜め上に振り挙げて
……あれ?
冗談、でもないのか?
キーノのその思いは素直に顔に出る。
「やめてよキーノちゃん!そんなことするワケないでしょ!」
……
「それに、どう考えたってそういうのはワタシの
ワタシは生来の壊し屋。国を滅ぼすのは大好きだけど、国を興すなんて阿呆らしくて面倒臭くってやってらんないわよ!」
うーむ。
これは、あーよかった、というべきところ……なのだろうか?
別の意味で剣呑なことを聞かされた感がなきにしもあらず。
「そもそも。」
クレマンティーヌは問われず語りに続けた。
「国、だなんて大袈裟な話でなくとも、群れを組んで生きるのは人間、亜人だけじゃない。獣にだって鳥にだって群れで暮らす連中はいるわさ。ちょっと考えればわかることだけど、群れる理由は皆が
敢えて軽い口調で語られるそれは、でありながら、この世の真を
「キーノちゃんだってそうでしょ?
もしキーノちゃんたちにその気があれば、魔神との戦いの
でも、キーノちゃんたちはそうしなかった。
それは、キーノにとってはなかなかに耳の痛い指摘だった。
もちろん、どう考えても当時の自分にそんなことを試みる技量も覚悟もなかったのはわかっている。一方で、ツアーを含む十三英雄たちが、魔神の撃退のみに専念し、その後の人間、亜人社会の再興を為るに任せた結果はどうであったか。
スレイン法国は、存在しない神の威を騙ってひたすら民を薪に
その中で民草は数え上げるも馬々鹿々しくなるほどの悲劇に見舞われたことだろうが、果たしてそれらの悲劇は、キーノたちが身を挺して彼らを守り通したところの魔神によるそれと、何か違うだろうか。違わないのだとしたら、それらの悲劇に対しても、十三英雄は隠遁などを決め込まずに、民草を守るべく立ち向かうべきだったのだろうか。
「以前はこんなこと考えもしなかったんだけどさー。
存外ワタシは、あのアインズ・ウール・ゴウンと気が合うような気もするのよねー!」
「……はぁ?」
クレマンティーヌの驚天動地の発言にキーノは驚きの声をあげるが、言っている本人は特におかしなことを言っているつもりはないようだ。
「アインズさんは言ったわさ。みんな自由気ままに跳び回ってもらいたい、何かをやらせたいわけじゃない、どうして欲しい、こうして欲しいなんてのはない、って。
ワタシもまったく同感。
……なるほど、とキーノは息を呑む。
自分は、なまじツアーやアインズの存在を知ってしまっているがゆえに、本当は自分自身の内から湧き上がる思いから発していることを行動に移すに際し、無意識のうちにツアーやアインズの視点からみてそれは正しいことだろうか、呆れられたり咎められたりすることはないだろうか、と考える癖がついてしまっているが、そんなことを求められたことは一度たりとてないし、そもそも彼ら自身は名実ともにこの世界最強の存在であるがゆえに、キーノがそうであるような視点を外部に求めることが叶わず、常に自分の意志と決断を背負い続けざるを得ない
「好き勝手やってりゃ他の好き勝手と衝突することもあんでしょーけど、やり合って勝てばよし、勝てそうになければ節を曲げて媚びるもよし、叩きのめされて逃げるもよし、逃げもできずに滅ぼされて消えるも一興、でしょ。っつーかワタシら、それ以外に終わりがないんだから。」
達観したに聞こえるクレマンティーヌの言はまさにその通りで、彼女をその道連れに巻き込んだのは他ならぬキーノ自身だ。無論、キーノはそのことをクレマンティーヌに責められているとは思っていないし、詫びたいとも思わない。
これは、クレマンティーヌが好き勝手にやっていく上での覚悟を語ったもので、彼女が言う通り、おそらくはツアーもアインズも、その辺りはまったく同じなのではないか。
「ふふ……流石だよ、クレマンティーヌ。
おまえと話していると、もやもやと霧が漂っていた心の中に快い涼風が吹き抜けて晴れ渡るようだ!」
「よしてよ、キーノちゃん。どこぞの
「……ふぁ?」
「それに。
ワタシはキーノちゃんの眷属。
ワタシの力はキーノちゃんの力。
ワタシの言葉はキーノちゃんの言葉。
ワタシはキーノちゃんのためだけに今、此処に在るんだから当然よ!」
そう言いながら、歩きながら腰を屈めたクレマンティーヌがキーノの頬に軽く唇を触れる。
幾千年を経ても気恥ずかしく感じる喜びを覚えながら、キーノは、何が自分を只今歩む道のりに誘ったのかを自覚しつつあった。
簒奪が計画的なものであったにせよ偶発的なものだったにせよ。
<
自分は、新
覚悟のほどを問うてみたいのだ、と。
南へ向かうにつれて向かって左側、東から中央山嶺がせり出すように迫ってきて、呼応するように前方にも連山が現れて舗装路が荷馬車が留置された駅で途切れると、街道は谷間に入って趣をがらりと変える。
<
曲がりくねったそれは事実上の
谷の東側斜面を蛇行しながら進むこと二日、そのまま南進する谷に東からもう一つの谷が合流してきた。真っ直ぐ進めばカッツェ平野、合流して来た谷の方角に目指す
キーノたちは斜面に沿って東へ進路を転じるが、途中、谷間へと降りていく分岐路があった。否、それが道とわかったのはキーノたちだからであって、見分ける目を持たぬ
キーノの知識としては、百年ほど前に
さらに半日進めば、キーノが憶えていた通り、ここまで絶えることのなかった針葉樹林が突然途切れて、南面する斜面に街道を挟んで段々畑が上下に連なる光景が現れた。開拓当初、こういった農地は村がある
夜半の
「……面倒臭いな。
夜中で誰の目もないし。跳ぶか?」
キーノが仲間を振り返ってそう問うと、既にクレマンティーヌは準備体操のつもりなのか屈伸運動を始めていて、双子忍者は何処から取り出したものか、全身でXの字を作れば丁度四隅に手足が届きそうな広さの布を銘々
「間違っても畑に墜ちてくれるなよ。
<
キーノが闇夜にひゅん、と飛び上がると、少し遅れてそれを追い越すように、自身、弩に放たれた矢になったかのようなクレマンティーヌが飛んで、続いて、手足の先で
そんなことを繰り返しながらさらに三日東進すると、南側は相変わらず谷間に面した急な斜面だが、北へ向かって緩やかな登りになった牧草地が見えてくる。ここでさらに東へと向かう街道から別れて北進すれば、中央山嶺の南端で小高い山に囲まれた高原となっている、目的地
早朝の柔らかな日差しを
その一団の中に遠目にも抜きんでて目立つ巨人の姿があって、街道を村へと歩むキーノたちに気づいたものか、若者たちの隊列から離れて歩み寄って来た。
その肩に担がれた、これ見よがしに目立つ
「アァ!思ッタ通リ、キーノ
……
カチン、ときつつも、誰の目から見ても可愛らしい少女でないはずがない自分を、敢えて
「おまえは……あぁ、ゲオルグソンか!」
「七年ホド前ニ息子ガ元服シテ、今ハ、ゲオルグ、ダヨ、キーノ
キーノの姿を認めて歩み寄って来た
「そいつは……おめでとう!
親父さんは元気にしてるか?」
キーノは百年前に語らった、当時ゲオルグと名乗っていた目前のゲオルグの父、初代ゲオルグソンの
「孫ノ元服ヲ見届ケテ、三年ホド前ニ身罷ッタ。」
「……そうか、悪いことを訊いたな。謹んでお悔やみを。」
だが、ゲオルグに気にする様子はない。
「ナーニ。親父ハ、グランゲオルグ、ヲ、三年ト少シ名乗ッタモノダ。悲シムコトナド何モナイサ!」
「そうか……では私もグランゲオルグの充実した生涯を祝福させてもらおう。」
「……カタジケナイ。」
ほんの一瞬、キーノはゲオルグの瞳に光るものを覚えるが、敢えてそれ以上は何も言わなかった。限りある命を生きる
「叔父ハロルド、ハ今モ元気ニシテイル。キーノ
「あぁ、そうさせてもらおう!
そうさせてもらうから、その……
キーノのこの言葉にゲオルグは八重歯を見せて破顔し、片手を村の方に差し出して
そして歩き出すや、こんなことを言う。
「シカシ惜シイコトヲシタ。キャラバッシュ、モ、キーノ……達ニ会イタガッテイタノニ。」
「……キャラバッシュというのは確か、おまえたちの新しい
キーノがそう尋ねると、ゲオルグは驚いて見せた。
「キャラバッシュ、ヲ知ッテイルノカ?」
「実は、そのキャラバッシュ・ペシュメルと少し
キーノは正直に来訪の目的を告げる。
対してゲオルグは、残念そうにこう答えた。
「デアレバ重ネテ残念ダ。キャラバッシュ、ハ、五日ホド前ニ、村々ノ視察カ何カデ僅カナ近衛ノミヲ率イテ東ヘ向カッタ、ト聞イテイル。」
「そう……なのか。」
「半月モセズニ戻ルトハ思ウガ、急グ旅デナイノナラ、ユックリシテイッテクレ。」
ゲオルグは、百年ぶりに当地を訪れた触れ得ざる者キーノが、自分たちの新しい
「キャラバッシュ、というのは。」
と、キーノ。
ン?と、先を進むゲオルグが振り返る。
「キャラバッシュは、どんな男なんだ?」
問われたゲオルグに、やはりそこに疑問を覚える素振りはなく、むしろ当然だ、といった構え。
「マダ五十ニナッタバカリノ若造デ剣ノ腕前モソコソコ。
ダガ、キャラバッシュ、ニハ、俺ニハ見エテイナイモノガ見エテイル。
ソンナ男ダ。」
ゲオルグの簡潔な人物評に、キャラバッシュを謀略で以て
少なくともゲオルグはキャラバッシュに敬意を払っているようだし、種族特性から他者の心根を直感的に見抜くのに
この時点のキーノは、その人となりに触れるまでに一波乱待ち受けていることをまだ知らない。