落羽物語   作:庭鳥

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 喜びに種類があるように、苦しみにも種類があるではなかろうか。満たされた者たちの痛苦を短編にしました。



エバーグリーンの憂鬱

 失われて初めて人はその大切さに気付くという。であれば、一生変わらぬ私は何一つ大切なものなど気づけないのではないだろか。そのように思うのだ。失わぬ代わりに、何一つ本質的には持ち合わせていない。精神的な空虚さのみが支配する。

 

 ちらりと傍らの街路樹を見た。同じだ。それを見てほくそ笑んだ。

 

 私の悩みは一生見た目の変わらぬ常緑樹のようではないか。ずっと葉を落とさず、しかし自由に着飾ることが出来ない。マイナスもなければプラスもない、エバーグリーンの憂鬱だ。きっとこれは傲慢な悩みだろう。資産家の倅として生まれ、何不自由なく育ってきたと思う。だが私には一向に幸せという存在を知覚できなかった。

 

 公園のベンチに座った。その葉がひらひらと風に揺れ、落ちかけているようであった。私はそれを笑いながら見ていることにした。心持はそれが落ち切るのを見ている病人の心である。葉が落ち切るときに私は死ぬだろう。そのような表現を見るたび、私は心中で思った。彼らは心の奥では、それが落ちることを望んでいるのだろうと。自分の病魔の解放と、可哀そうな自身への世間からもたらされる情、そのようなものを心待ちにしてセンチメンタリズムに浸っている。私はそのような病人が大嫌いであった。いや、むしろ愛玩していたという方が近い。病人は巡礼者の如く、死にただひたすら向かっていく方が美しい。

 

「ねえ、お兄さん。」

 

「うん?」

 

「なんで木なんか見つめているの?」

 

「病人を嘲るためさ。」

 

 私はそう言ってからようやく幼い声の方に振り向いた。私の腰かけたベンチの反対側の端には、いつの間にか少年が座っていた。溶けかけたアイスを口に突っ込みながら、暑さでもだえるその氷塊をどこか冷ややかに眺めている。水滴がぽたりぽたりと落ち、その少年の腿を甘くべたつく液体が汚したのを見ていた。

 

「悪趣味だね。」

 

 少年が眼鏡の奥で鋭い目をこちらに向けながら言った。正直なところ、驚いた。私は何一つ説明したつもりなどなかった。

 

「……ほう、わかるのかい。」

 

「さあ、全然?でも趣味の悪い人だとはわかったよ。」

 

 少年がまた、ぺろりとアイスを舐めた。彼の顔には見覚えがあった。どこで見たのだろうか、と思い返したとき、少年の帽子が風で飛んだ。彼は面倒そうに帽子の元に走っていき、そして砂を払いながら戻ってきた。私としてはその行動は不自然であった。てっきり彼はそのまま立ち去るものだと思っていた。しかし、彼は目の前の椅子に再び座りなおし、私を睨むように見ていた。ともかく彼については思い出した。

 

 確かテレビに出ている子役。笑顔の可愛らしい、ドラマか何かに出ている子役であった。私は彼を見るたびにその心情を想像するのが好きであった。彼は満たされているのだろうか、それとも親にいいようにされる操り人形であるのだろうか。彼は才を持った稀有な人なのだろうか、エバーグリーンの憂鬱を抱えているだろうか。テレビの薄い液晶越しに、その感情が伝わってくることはなかった。

 

 その彼が今では冷たい表情を見せながら、同じく凍れる視線を私に向けている。私はどこか興奮する思いがした。それはむしろ情欲に近しいものであった。彼の唇が微妙に動き、その柔らかく温かな吐息と共に空気を震わせる。その音が僕の鼓膜を揺らし、電気信号は私の脳髄まで響く。私は本能に近しい部分として、彼の近くに身を置くことに喜びを覚えていた。

 

「貴方は悪趣味な人だ。」

 

「そうだろうね、私も辟易しているんだ。」

 

「……先日祖父が死にました。病気でです。貴方、どう思います。」

 

「どうって……。」

 

 私はその言葉に困惑した。平易に、一般的な追悼の言葉を口にしようとして、その唇をぴたりと止めた。それは決して世間一般に堕すことを疎んだわけではない。むしろ私が世間に抱いていた感情は憧れのそれであり、私の持ち得る金だの地位だの、そんなものは空虚で無価値なものであると感じていた。彼らが努力して持ち得るものを、私は既に手に入れてしまっている。彼らが人生をかけて挑むべき命題というものが、情熱というものが、私には最初っから存在しえなかったのだ。私は彼らを妬んでいた。

 

 私は心の奥底から、暗い嘲りが浮かんでくるのを感じた。それは彼に対する返答、というよりもむしろ私に対しての嘲笑であった。私は突然素晴らしいこと思いついた。私自身に向ける言葉を、代わりに彼に投げかけることを思いついた。

 

「いや、ウン。君の祖父は病気で死んだのか。病死とはね、私が最も嫌だと思う死に方だよ。だって、そうだろう。ギロチンで処刑されたマリー・アントワネットだって苦しんだのは首をはねられる一瞬だろう。ライフルで撃ち殺される兵士だって、大抵は何日も何年も苦しんだりはしないさ。病人だけさ。生きたまま腐って、毒が回るようにただ死の淵に向かって歩かされる。大丈夫です、すぐ治ります、そんな心無い医者の言葉を信じ込ませられる。生きたいというだけなのに、それが病人には出来ないんだ。」

 

「ふうん、そうですか。」

 

「……。」

 

 私の言葉を、彼はさらりと受け流した。それはまさしく、頬を撫でつける風のようであった。私の期待した反応では決してなかった。彼は突然手に持っていたアイスを地面に投げた。熱波にやられた溶けかけの氷塊が、地面にしみこんでいく。一瞬だけ蟻がわらわらと逃げていくが、勇敢な一匹がその恐ろしい質量の物体を餌と認識すると集まり始めた。彼はそれをじっとみつめて手に染み付いた甘味で粘つく水滴をぱっぱとはねのけた。

 

「まあ別に、そこに対して思うことはないんですよ。残念ながら。」

 

「そうかい……。」

 

 残念というのは無論私に向けた言葉であろう。私は落胆と同時に熱い期待を感じた。彼がこれから何を言うのだろうか。そこに首が飛ぶさまを眺める死刑の見物人のような、コロッセウムに死闘を見に行く野蛮な趣味を持つ市民ような、残酷性を含んだ好奇心を感じていた。私は普段、彼の出演するような作品を評価しなかった。ぼんやりと浮かぶ月のように、誰からも愛されることを望んだために生まれた廉価版の紛い物、その程度だと思っていた。ところが今、彼の言葉から出てくるのは一人の人間の魂の発露であり、一つの星の物語のように独善の塊なのである。私は彼に惹かれるものを感じた。

 

「貴方は悪趣味ですね。」

 

 彼は再びそのような言葉を言った。私はただ彼に視線を向けた。彼の言葉が待ち遠しかった。

 

「何をそんなに世間を憎しむんですか。」

 

「……。」

 

 彼の言葉は質問であった。私は彼の前で、いつの間にか賢者に教えを乞う愚者のような心持であった。その言葉で初めて、私は彼よりも随分年上であることに気づかされた。ゆっくりとずいぶん待ってから息を吸い込んで話始めた。

 

「私は別に、憎んでなどいないよ。」

 

「ではなんなんですか。」

 

「……憎んでなんかいない。退屈なんだ。」

 

「それだけですか、そうなんですか?」

 

 彼の言葉が、責めるように心のうちに入り込んだ。私は痛みながら、それがどうしてか嬉しかった。私の心は結局のところそれを望んでいたのだろう。私の心は傷つけられることを望み、それだけに飽き足らず終わらせられることを望んでいた。

 

「空っぽなんだ。」

 

「……。」

 

「何もかも得ているはずなのに、何もないんだ。……苦しいんだ。君には分かるはずだ。」

 

「……そうですか。」

 

 彼が立ち上がった。私はそれを見ていることもできなかった。心の内を吐露した反動は、まさしく息の抜けるようなものであった。肩の力が抜け、同様に恥辱から彼の顔を見ることも出来なかった。……突然、私の頬に冷たいものが押しあてられた。良く冷えた缶のコーヒーであった。彼はそれを私の手に押し当てて、自分もそのプルタブに力をこめた。さりげなく微糖のものを選んでいることに少しの可愛らしさを感じた。

 

「申し訳ないですけど僕には分かりません。」

 

「そう、かい。」

 

「……。」

 

「……。」

 

「二つ、言う事があります。」

 

「なんだい?」

 

「僕も実は救いを求めて貴方に話しかけたんですよ。」

 

「……もう一つは?」

 

「もう、僕は貴方に会おうと思いません。」

 

 彼の言葉には確かに落胆の色が込められていた。私は少しばかり後悔した。自身のためにではなく、彼のためになれなかったことを悔やんでいた。彼はコーヒーの缶を一息に飲み捨てると、いきなり立ち上がって駆けだした。その姿は住宅地の中に溶けて消えて、私と彼の薄い糸のようなつながりはそれでぷっつりと途切れた。私は彼の後姿を思い返し、次に地面をせっせと這う蟻の姿を見て、最後に鳴く蝉の声に耳を傾けた。減り始めたその声は、夏の終わりを感じさせた。

 

 

 

 永久に満たされぬ人生が不幸であるように、満たされ続けた人生も胸焼けを起こすだけの不幸だろう。液体を注がれ続けた容器はいずれ破壊を迎える。それがダムの如く広大であってもだ。

 

 彼は私を理解しないといった。ところが実のところ私は既に救われていたのだ。彼は私の心を理解などしていなかった。だが私は求めたものを手にしていた。即ち、彼という存在がいることを。妬ましく、光の如く輝くばかりの存在で、そして憂鬱を抱える宇宙を飛ぶ流れ星のような彼の存在が救いとなったのだ。私が求めたのは憂鬱そのものであった。舗装された景色のない空虚な道を私は憎んでいた。だがそこに私は輝くものを見出した。極めて明るく目障りな、高くそびえて世界を照らす美しい常緑の木を見出したのだ。

 

 彼は私のようなまがい物ではなく、まさしく永遠に輝く宝石であった。私が心のどこかで望み、しかし決して手に入ることがないから羨望したものであった。彼の姿は時折テレビで見る。その笑顔はいつの日かあの公園で見た、そのままだ。それを見つめる私の葉はとうの昔に落ち切っている。彼こそまさしく常緑の人であった。彼の表情に垣間見えた陰りこそ、何もかも持って生まれた者が夢見る悪夢であった。

 

 私はいつか、彼のような人にマイナスを与えることが出来るだろうか。いつしか彼を悩ませることが出来る一つの種になれるのだろうか。照らされ続けた彼の人生に差し込む少しばかりの影に、エバーグリーンの憂鬱になれるのだろうか。

 

 

 





 読後に水を差すような後書きですが、この短編集のタイトル、○○の××ってのばっかりですね。次くらいに脱却したいところではあります。

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