フレイアの暴走によって意識を失っていたハヤテが目を覚ました。
後遺症の類もないと診断され、そのまま任務に復帰できるかと思いきや、事はそう簡単な話では終わらなかった。
暴走したフレイアとの共鳴現象によりハヤテは尋常ならざる能力を発揮した。それと引き換えにヴァール化にも似た暴走状態に陥り、挙句には反動で意識を喪失。トリガーか他の隊員が間に合わなければ墜落していたことは間違いない。
いつまた堕ちるかもしれない隊員を飛ばすわけにはいかない。メッサーと同じ轍を踏ませるわけにはいかないと、アラドは心を鬼にして待機命令を言い渡した。
共鳴によってヴァール化ないし暴走しないかどうかを証明できない限りは任務への復帰を認められない。その証明をするため、ケイオス科学班立ち合いのもと実験が行われることになった。
フレイアの歌でハヤテが暴走しないことを証明できれば何も問題はなかった。しかし、実験は失敗に終わる。ハヤテが暴走したからではなく、フレイアが歌えなかったがために。
ハヤテを暴走させ墜落させかけてしまったという事実は、フレイアの心に重く伸し掛かっていた。歌が歌えなくなるほどに。
歌えない以上、実験の継続は不可能である。ハヤテの任務への復帰は先送りにされ、フレイアも歌えないままに終わった。
実験を終えて気落ちするフレイア。あまり誰かと顔を合わせたくない、特にハヤテとは会ってもろくに顔を見ることもできない気がした。
人目を避けるようにエリシオンを彷徨って──
「──フレイア」
凛とした虹色の声に呼び止められた。
驚いて振り返ればそこには美雲が一人で居る。フレイアに用があるのか、控えめに上げた手が小さく手招いていた。
「少し、話さない?」
美雲からの滅多にない誘いに目を見開くも、先の実験のこともあってフレイアは素直に頷き難かった。
少しの間悩み、フレイアは小さく頷きを返した。
通路のど真ん中で立ち話するのも邪魔だろうと、美雲とフレイアは場所を移す。人目につく場所はフレイアが避けたそうだったため、人気のない休憩室へと足を運んだ。
「林檎ジュースでよかった?」
「あ、あんがとございます」
紙コップの林檎ジュースを受け取り、ちびちびと飲み進める。対面に座った美雲はミルクココアを選んでいた。
互いにドリンクで喉を潤して人心地つく。美雲と二人切りという珍しい状況に対する緊張も多少なりとも解れた。
「歌えないみたいね」
「……ごめんなさい」
「怒ってない。それだけ、フレイアにとって彼が大切なんでしょ」
美雲の声音にも表情にも責めるような色はない。てっきり厳しい言葉を掛けられると思っていたフレイアは拍子抜けした気分だった。
「歌を歌いたくなくなった?」
「そんなことない! そんなことない、けど……」
勢いよく否定するもあっという間に萎んでしまうフレイア。感情に呼応するようにルンも青く落ち込んでいた。
フレイアは顔を俯かせたまま訥々と己の心情を吐き出し始める。
「歌いたい。ワルキューレのみんなと、美雲さんと一緒に歌いたい。でも、私が歌ったらハヤテが飛べんくなるかもしれん……」
今回の実験はそもそもフレイアが歌えなかったことで流れた。だがもしも歌っていた場合、それでハヤテが暴走してしまったらどうなるか。ハヤテはΔ小隊で空を飛ぶことができなくなってしまう。
「Δ小隊はハヤテがやっと見つけた飛びたい場所なんよ。それを、私のせいで、奪いたくない……」
フレイアとハヤテが出会ったのは惑星アル・シャハル。丁度トリガーがフォールド事故によってこの世界に招かれた日である。
ワルキューレのオーディションを受けるためにウィンダミアから密航したフレイアは、やりたいことも見つけられず各地を転々としていたハヤテと出会った。
やりたいことを、大切なものを見つけられずにいたハヤテがやっと掴み取ったパイロットの道。自由に空を飛ぶために命懸けで生きていることを誰よりも知っているからこそ、フレイアは歌えなくなってしまう。
目尻に涙を滲ませながら胸の内の想いを吐露するフレイア。美雲は真剣な表情で耳を傾け、心中でよく噛み砕いて言葉を選びながら口を開く。
「フレイアは歌いたい。でも、ハヤテに飛んでほしい。間違いない?」
美雲の問い掛けにフレイアは嗚咽を零しながらも頷いた。
「なら、その想いをはっきりハヤテに伝えなさい。誤魔化すことなく、嘘をつかずにね」
「そ、それは……」
難しいことだ。暴走の危険性云々もあるが、胸に秘めた想いを明かすのはもはや告白と変わりがない。
落ち込んだ顔色を林檎みたいに赤くして、フレイアは照れを隠すように頬を抑えた。
多少なりと調子が戻ってきたフレイアを微笑ましげに見ながら、美雲は話を続ける。
「話が終わったら私の元へ来なさい。ハヤテを暴走させない歌い方を教えてあげる」
「え? そんなこと、できるんですか……?」
俄かには信じ難い美雲の言葉にフレイアは目を丸くする。
フレイアが歌えない原因の根本であるハヤテが暴走する危険性。そこが解決できるのならば、歌うことに対して恐れはなくなるだろう。
期待を滲ませるフレイアの眼差しを受け、美雲は力強く頷きを返した。
「同調と共鳴じゃ勝手は違うかもしれないけど、ある程度はできるはずよ」
美雲もまた、強制同調によってトリガーを堕としかねないリスクを抱えて歌っていた。
実際にシドニーの策略で強制同調を逆手に取られ、トリガーは危うく自我を塗り潰され掛けている。幸い数日の昏睡で済んだものの、一歩間違えればトリガーを殺しかねないリスクを見せつけられたのだ。
何も変わっていないように見えて、美雲はトリガーを潰してしまわないように細心の注意を払って歌っていた。無論、手を抜いたり加減するような半端はしていない。
歌を制御するという一点において、美雲はワルキューレの誰よりも優れている。フレイアも同じように歌を制御できるようになれば、ハヤテが暴走する可能性はぐっと下がるだろう。
「でも、私なんかにできるんかな……」
美雲と比べたらまだまだ未熟な自分にできるのか。フレイアは自信が持てなかった。
「ワルキューレに入ったばかりのフレイアなら無理だった。でも、今のあなたならきっとできる。私はそう信じてる」
「美雲さん……」
憧れの人から実力を認められフレイアのただでさえ脆くなっていた涙腺はぽろぽろと崩壊した。
「そんな、そんなん美雲さんから言われたら頑張るしかないんよ……!」
大粒の涙を拭いながらフレイアは顔を上げる。話を始める前の暗く陰鬱な色はもうなく、涙を滲ませながら元気一杯の笑顔を見せた。
「私、ハヤテと話してきます。ちゃんと話して、飛んでほしいって伝える」
「頑張りなさい。応援してるから」
「ほいな!」
いつもの調子を完全に取り戻したフレイアに美雲はほっと胸中で安堵の息を零した。
誰かをこんなふうに励まして立ち上がらせる経験なんてなかった。前までならば厳しい言葉と態度で余計にフレイアを凹ませていただろう。もちろん、ただ凹ませるのではなく自力で立ち上がれるようにも多少なりとするが。
慣れないことをして少しばかり気疲れした美雲は、真剣な眼差しで見つめてくるフレイアに気付かなかった。
「──美雲さんは、トリガーさんのこと好きなんですか?」
完全に油断していたタイミングでの問い掛けに美雲は身も心もフリーズした。
彫像のように固まってしまった美雲に、フレイアは言葉を続ける。
「私は……私は、ハヤテが好き。飛んでる時のハヤテが好き、飛ぶことが好きなハヤテが好き、私の歌を大切にしてくれるハヤテが好き」
偽ることのないフレイアの想いに美雲は面食らう。
フレイアとハヤテが互いを憎からず想い合っていることはΔ小隊とワルキューレにおいて公然の秘密であった。あのトリガーですら、なんとなく察して二人切りになりそうな場面では席を譲るくらいだ。
二人が想いを伝え合ったことはなく、焦ったくも甘酸っぱい恋愛模様を見せていた。そんなフレイアが今、己の想いをしっかりと認めて口にしている。
「この想いを伝えるかはまだ分からんけど、好きって気持ちに嘘はつけん。いつかは、ちゃんと伝えたい」
何故か包帯を巻いた手を抱き締めながら想いを告白したフレイアは、困惑した様子の美雲を真っ直ぐと見据える。
「美雲さんはどうなんですか?」
「……分からない」
不安をかくすように腕を抱きながら、美雲はポツリポツリと胸中を渦巻く想いを口にする。
「今まで恋愛なんて興味なかった。いいえ、歌以外のものには興味を待とうとしてこなかった」
歌さえ歌うことができればいい。ケイオスの人間によって少なからず誘導されていたとはいえ、歌以外に興味がなかったのは事実だ。
「でも今は、歌以外のことも知りたいと思う」
変化の切っ掛けはトリガーの存在だろう。
美雲の歌でフォールド事故に巻き込まれた、別次元の宇宙から迷い込んだ人間。信じられないパイロットとしての技量を有する異邦の英雄。
なぜトリガーが呼ばれたのか、どうしてトリガーを呼んだのか。興味を抱いた理由はそんな些細なことだった。
トリガーの飛び方を見て、話をして、多少なりと気に掛けて。少しずつ分かったことは、トリガーと自分が似ていること。あるいは、似ていたとも言うべきか。
昔のトリガーは美雲と同じように、
トリガーに興味を持って関わり、少しずつ他のことにも興味を持った。それは食事だったり、誕生日だったり、あるいは
美雲を担当する研究員が言ったように、トリガーの影響は少なからず美雲を
「まだ知らないことばかりだけど、色んなことに興味を持ってみたいと思う。恋愛も、その一つかもしれない」
でも、と美雲は何処か寂しげに目を伏せる。
「クローンである私に、誰かを好きになったり愛することができるは分からないけど……」
ワルキューレやΔ小隊の面々は抵抗なく、ありのままの美雲を受け入れてくれた。しかし誰もがそうとは限らない。倫理を無視したクローンであることを受け入れられない人間はいるだろう。
普通の人間ではないこの身で、普通の人のように誰かを好きになれるのか。誰かを愛することができるのか。美雲は自分自身を疑っていた。
微かに不安な面持ちで目を逸らす美雲に、フレイアは安心させるような声音で答える。
「大丈夫。美雲さんならちゃーんと人を好きになれる。誰かを愛することができる。私が保証します!」
いひひ、と何処か嬉しそうに笑うフレイアには何かしらの根拠があるようだった。その根拠を話すつもりはなさそうであるが。
「……そうだといいわね」
悩み込むのも馬鹿らしくなるようなフレイアの笑顔に触発され、美雲も穏やかな微笑を零した。
その後、フレイアは早速とばかりに休憩室を飛び出しハヤテの元へ向かった。二人がどんな話をして、どんな言葉を交わして、何処まで想いを伝え合ったのかは当人たちにしか分からない。
ただ、再度行われたフレイアとハヤテの実験において、フレイアは全力で歌い、ハヤテも暴走しないことをしっかりと証明した。それが答えである。
Δ
晴れてハヤテが任務へと復帰して間もなく、次の作戦が決定した。
作戦内容はウィンダミアが擁するとされるプロトカルチャーシステム中枢の破壊。各地のシステムを地道に破壊するのではなく、一手で戦争を終結させる作戦が立案された。
ウィンダミアが確立した風の歌の結界を一つずつ破壊する手も検討されたものの、作戦回数が増えればその分リスクも増える。シドニーの介入も危惧しなければならない以上、リスクの大きさよりも回数を避けた形だ。
また、中央の新統合軍の動きに妙なものがあるのも理由の一つである。惑星ヴォルドールのシステムが崩壊し、結界が一部崩れたあたりからきな臭い動きをしているのだ。
新統合軍には七年前にプロトカルチャー遺跡を次元兵器で破壊しようとした前科がある。ケイオスとレディMはかつての再来を危惧し、戦争終結を急いでいた。
作戦前日の夜、アイテールの格納庫にて。ギリギリまで機体の調整に精を出すメカニックに混じり、トリガーは自身の機体の確認を行っていた。
「明日は決戦だし、休んだほうがいいんじゃないか?」
「それを言うのならトリガーもよ」
「そうなんだけどさ……」
トリガーの作業を少し離れた壁に背を預けて眺める美雲。格納庫に姿を現すことなどない美雲の登場に、メカニックたちが珍しいものを見るような目を時折向けていた。
「機体の整備はマキナたちがしてくれたんじゃなくて?」
「そうだな。何処の調整も完璧で、EMC兵装も問題ない」
無人機に少しでも性能面で追い付けるようにマキナ率いるメカニックたちが試行錯誤して仕上げた機体だ。資材の問題で一つしか用意できなかったEMC兵装もしっかり作動する。問題など一つもなかった。
「ただ、ちょっと確認と保険をな……」
機体の具合を確認しつつ、トリガーは片手でコンソールを操作する。
「手慣れているのね」
「向こうでエイブリルに整備の基礎は一通り教わったからな。あとはマキナの教えの賜物だよ」
「エイブリル……」
トリガーの愛機であったF-22《ラプター》を整備したメカニックである。美雲が知っている情報はそれくらいだ。
「凄腕のメカニックでな。スクラップからでも機体を作り上げられるような女だったよ」
遠くを見るような目をしつつ、トリガーは懐かしむような声音で語る。
「エイブリルには何度も助けられた。きっと、俺の知らないところでも助けてくれてたんだろうな」
マキナがラプターから想いを受け取ったように、エイブリルはなんだかんだとトリガーに世話を焼いていた。そこにどんな想いがあったのか、今となっては知る術もない。
嬉しそうに、それでいてどこか寂しそうな表情を浮かべるトリガー。普段は見せない珍しい顔に、美雲は微かに胸の内側がもやつくような感覚を覚えた。
「その人のこと、好きだったの?」
口にしてから、しまったと顔を顰める美雲。フレイアに妙なことを聞かれた影響か、普段なら絶対に尋ねないようなことを尋ねてしまった。
トリガーも美雲らしくない問い掛けに目を丸くし、思わず作業の手を止めてしまう。
「好き……仲間としてなら、そうだな。エイブリルがいなかったら、俺は空を飛ぶこともままならなかったかもしれないし」
「そう……」
「まあ、それを言えば美雲も同じだけど」
一度整備の手を止めてトリガーは美雲に向き直る。
「美雲のおかげで俺は今ここにいて、もう一度飛ぶことができてる。それだけじゃない。美雲の歌に何度も背中を押された。君のおかげで、今の俺があるんだ。だから──」
無邪気な子供みたいに笑いながらトリガーは素直な想いを打ち明ける。
「──美雲に出会えてよかった」
もはや告白同然の言葉を素面で言うだけ言って、トリガーはせっせと作業に戻る。爆弾を落とした自覚がないのか、上機嫌に鼻歌まで歌っている始末だ。
不意打ちで爆弾を落とされた美雲は沈黙。誰にも顔を見られまいと俯いたまま、身体ごとトリガーから距離を取る。
「……ごめんなさい、やっぱり先に休ませてもらうわ。おやすみなさい」
「え? あ、うん、おやすみ」
ろくに顔も見せないままスタスタと格納庫から出ていく美雲に首を傾げつつ、トリガーはそのまま作業に戻ってしまう。美雲と擦れ違ったメカニックたちがぎょっと目を剥いているのにも気付かなかった。
トリガーは作業を続行する。レイナに無理を言って組み立ててもらったプログラムをアップロードし、問題なくインストールできたことを確認して一息吐く。
「これでよし、と。作動しないのが、一番なんだけどな……」
憂鬱そうに溜め息を吐いてトリガーは片付けを始めるのだった。
一方その頃、トリガーから逃げるように格納庫を飛び出した美雲は──
「…………」
格納庫からある程度離れたところで立ち止まり、ふらっと通路の壁に肩を預ける。俯いた顔がどんな表情を浮かべているのかは知れないが、雪のように白かったうなじは真っ赤に染まっていた。
早鐘を打つ胸の鼓動を抑えるように手を当て、熱っぽい吐息を零す。
「フレイアが、余計なこと言うから……」
フレイアが聞いたら猛抗議しそうなことを美雲は恨みがましく呟いた。
前までなら他人の言葉に一喜一憂することもなかった。歌さえあればと、大切なものが一つだったならばここまで心が揺れ動くこともなかったはずだ。
それもこれもトリガーの無自覚な発言が原因だ。殺し文句を口にしておきながら本人は平然としており、耐えられなかった美雲が逃げ出すはめになった。
距離を置いて冷静になると、今度はふつふつと腹が立ってくる。
自分は顔も合わせられないほど動揺したというのに、あの男は呑気な様子で発言の意味合いにすら自覚がなさそうだった。これでは自分が無駄に意識しているようで馬鹿みたいではないか。
「大馬鹿野郎……」
拗ねた子供みたいな呟きが誰もいない通路に響いた。