タイガはオオカミの意識が自分から外れたのを感じた。
(野郎!また獲物を見つけやがったな!)
怒りで体が沸騰しそうになる。
このオオカミはさっきから同じような行動をしている。
タイガがこの場にたどり着いて、攻撃を放っても里の人間を襲い続けていた。
周りに人がいれば、そっちを優先して喰っているだろう。
戦っていてわかる。――お前に構っている暇などないのだ、と語っている。
オオカミはタイガを飛び越え獲物に向かっていった。
(まずい!)
タイガは振り向いた。そして、見てしまった。オオカミが狙っている獲物を。家屋の残骸にいる存在を。オオカミに睨まれて固まる少女を。
「やめろ!!」
タイガは絶叫していた。
今まで出したことのないほどの、届くはずのない、その叫び。
自分の体に鞭を打ち、愛用の槍を伸ばして走っていった。
何が起きているのかわからなかった。
夜、寝ようとしたら今まで聞いたことのない音が聞こえたのだ。
外でなにかあったのか、調べる為にお父さんとお母さんは『ここでじっとしてなさい』と私を抱きしめて外に出ていった。
しばらくするとお父さんとお母さんの大きな声が聞こえた。『逃げろ』と。
その後に二人の叫び声が聞こえて、私の頭は真っ白になった。
ボリボリやグチャグチャっていう音と嗅いだことのない生温かい嫌な臭いを感じた。
里のみんなの声が聞こえたけど、私は家でじっとしていた、体が動かなかったのだ。
黒い塊が家を壊した時は、傷はなかったけど私はもう泣くことしか出来なかった。
夢なら覚めて欲しかった。
前を見ると大きな黒い怪物が金色の目で私を見て、真っ赤な口と白い牙を開いてこっちに向かってきたのだ。
ああ、ようやく悪い夢から覚める。
けど、怪物が私を食べることはなかった。
食べられる前に誰かが私の腰を掴んでその場から跳んだのだ。
(ああ、もう!やっちゃった、やっちゃったよ!!)
コウマはオオカミに女の子が喰われる前に影から飛び出し、抱えてその場から逃げたのだ。
(やっちゃった以上は……どうにかするしかない!)
女の子を助ければ自分も危険な状態になると分かっていたが、それでも助けようと体は動いたのだ。
オオカミが自分と女の子を見る。その瞳は怒りに染まっている。
目を見れば分かる。――よくも自分の獲物を奪ったなと。
女の子が自分の着物を震えながらギュっと握った。
オオカミが自分たちに飛び掛かった。
(ああ、これが死ぬ直前のあれか……)
コウマは他人事のように思った。周りの風景が限りなく遅く感じていたのだ。
人間は生命の危機に際して脳内物質の過剰分泌で集中力が上がるというが正にこれがそうであろう。
自分の隣で震える女の子、牙をむき出しにして迫ってくる巨大なオオカミ、槍を持ってこちらに何か叫んで走っている父、タイガ。
オオカミの牙は名工が作り上げたどんな刀剣よりも鋭く、美しかった。
(あれで体を食いちぎられるのか、嫌だなぁ)
自分が死んだらどうなるのだろう。この女の子も喰われるだろう。男として生まれた以上は助けたい。母はショックで体を壊すかもしれない。父も自分の成長を見るのが生きがいだと聞かせてもらった。自分に無償の愛をくれた二人を悲しませたくはない。
(生きたい、生きたいな)
ならばどうする?
後方へ逃げる。論外。相手は自分より速い父でも追いつけない相手、あっという間に追いつかれ喰われるだろう。
迎え討つ。これも論外。自分が今持っている装備はナイフのみ。リーチが短すぎるし、抜刀して当てようとしても毛ではじかれて終わるだけだろう。
左右に逃げる。これもまた論外。例え一撃は避けれても、返す刀で喰われるのがオチだ。あ、返す刀じゃなくて返す牙か。
最後の手段は――
(やっぱり、これしかないよな)
覚悟は決まった、ならば実行するのみ。
帰ったら、祖父のものと合わせて、死んだみんなの分の線香を上げることにしよう……。
(父さん、見ててね。僕は……あなたの息子だ)
女の子を抱え、『それ』をやった。
タイガはオオカミが二人に跳びかかったのを見た。
「アァァァァァァ!!コウマっ!!」
なぜコウマがいるのか驚いたがそんなこと今はどうでもいい。
オオカミがコウマに牙を向けた。絶望がタイガの心を埋め尽くす。
二人がいた場所にオオカミが着いた。だが、オオカミの口には何もなかった。
(コウマは!どこへ!)
タイガはコウマを捜し、すぐに見つけた。オオカミの腹の下にいたのだ。
(あれは、さっきの!)
コウマの行動にタイガは驚いた。自分に襲い掛かった生物の腹に潜り込んで、攻撃する技だったが、この戦闘では一度だけしかしていない。息子はその一度だけを見てぶっつけ本番でやってのけたのだ。
コウマは腹の下でナイフを抜刀術の要領で抜き、オオカミの腹を斬った。毛で防御され、ナイフは折れたが……。
「ヴォッ!!」
腹を攻撃されて驚いたのか、一際大きい悲鳴じみた声を上げた。
「この不良息子が!よくやった!」
タイガは獰猛な笑みを浮かべて、息子が作った隙をついた。
「どんなに固い毛を全身に持っても、ここにはないだろう!」
体を回転させて、遠心力により威力が上がった槍をオオカミの右目に叩き込んだ。
「グロアァァァァァァァァァァァァァ!」
鏃の付いた槍が眼球に深く突き刺さり、これまで聞いたことの無いオオカミの悲鳴が響き渡った。
(やった!さすが父さんだ!)
きっとタイガならやってくれると信じていたのだ。
だが、相手の生命力を二人は侮ってしまった。
オオカミは右目に槍を指しながら、後方へ下がる。
右目に刺さった槍を前足で叩き折った。折られた槍と刺さった鏃の部分が地面に転がる。
(まだ死なないのか、なんて奴だ!)
オオカミの体力にコウマは戦慄した。
勝利を確信したが、形成逆転されてしまった。
父であるタイガはオオカミが襲って来ても避けることができるだろう。しかし、避けたらコウマがオオカミの餌食になってしまう。そんなことはしないだろうし、抱えて逃げたら遅くなり追いつかれるだろう。そもそも相手を倒す武器ない。
(僕もさっきの避け方をもう一回やるなんて無理だ。どうする、どうする、どうする……)
コウマは自分を守るように立っているタイガを見て考えた。
遂にオオカミは飛び上が―――らずに何故か体勢を後ろ足に力を込める前に戻す。
「グルルルルルル……」
何故かは小さく唸り声を響かせただけで、コウマとタイガにそれ以上に向かってこない。
死すら覚悟していた二人にはただ困惑だけしか感じなかった。
家屋をなぎ払い、人を蹴散らし、肉を喰い、血を啜る圧倒的暴力の持ち主がいる。
牙で噛まれればコウマの躰など命ごと抉り取られて終わる。なのに襲い掛かってこない。
それどころか、オオカミはコウマとタイガに背を向けて逃げていった。
右目から血を流しながらも、軽快で機敏な足音を響かせて、死の化身が遠ざかっていく
目の前で起こった事実が信じられず、コウマはオオカミが森に消えていく光景をただじっと見ていた。
完全にその姿が森の闇に消えても、コウマが感じたのは安堵ではなく疑問だった。
人を殺すことなど容易い存在がなぜ逃げるのか。気まぐれでも起こしたのだろうか?あるいは慈悲か?いや、そもそもあのオオカミにはおかしな点が多すぎる。
なぜ、なぜと考えたが自分の腕の中で震える女の子を感じた。
「大丈夫、……もう大丈夫だよ」
なるべく優しい声を出して頭を撫でる。
「……え?」
「あいつはもうどこかへ行った。助かったんだよ」
コウマの言葉を理解したのか目に大粒の涙を流し、着物を引っつかみその胸に顔をうずめる。
「怖かった……怖かったよぉ……」
静かになった夜に鳴き声が木霊した。
オオカミが里を襲いそして立ち去ったその後。
太陽が上ると同時に里の人間は皆、当主であるタイガの屋敷へと集まっていた。
タイガは座りながら、あのオオカミについての情報を待っていた。
「そうか、シンジさんのところは全員……」
「シンジは足止めのために飛び込んで、その後奥さんも娘さんもみんな喰われちまった。ちくしょう!娘さんはまだ、赤ん坊だってのに!」
「なんなんだ、あいつは!」
「カミさんは大丈夫か?」
「お袋さんと親父さんを目の前で喰われてな……。まだ寝込んでるよ」
里の男たちが集まり、皆神妙な顔をして話を、自分たちの状態を確認しあっている。
「親方様」
入り口のところからそれを打ち破る声が聞こえ、メガネをかけた男が入ってきた。
「どうだ、なんかわかったか?」
「ええ、『影』の危険種調査表にあのオオカミの存在がありました」
「報告してくれ」
タイガの言葉に男は持ってきた本を開いて答えた。
「はい。名は金剛餓狼。超級危険種に分類されます。普段は作った縄張りに住み、必要以上の狩りはせず、自分を襲ってきた相手と戦います。その相手が自分以上に巨大な存在、圧倒的な群れだったとしても敵意を持った相手に勇敢に立ち向かうそうです。賢く、人の言葉を理解し、縄張りに迷い込んだ冒険者や子供を人里に送ったという話も確認され、一部の狩猟民族においては恐怖そのものとしてまたは神として扱われてます。牙は例え鋼鉄でも易々と噛み砕き、黒の毛皮はどんな攻撃も通用しないとのこと。記録として縄張りに入ってきた同じ超級危険種タイラントと戦い、噛まれても生きていた、エビルバードの群れが襲ってきたのに対して全滅させたとあります」
報告を聞いた男たちは息を呑んだ。自分たちを襲ってきた相手の凄まじさは予想を超えていたのだ。
「ああ、毛皮についてはよく知ってる。何回か攻撃して無理だなと思ったわ。同じところに集中して何とか通用したな。あの後、何本か落ちてたのを拾って調べたんだが、一見細く柔らかでも引っ張ろうが斬りつけようが切ることが出来なかった。ちなみに、火や水をかけても駄目だった」
タイガの言葉が響き、悲壮感さえ漂ってきそうな無言の時がしばらく流れた。
「……こうしちゃいられないな。俺は準備が出来次第討伐に向かう。ほうっておくと近くの村が襲われるかもしれないし、森の生態系が無茶苦茶にされて、俺たちにもまた被害を出される」
集まった男たちは当主の案に対して異論を唱えることは無かった。
金剛餓狼と戦えるのはタイガだけであり、自分たちが行けば足手まといになってしまうから。
「それじゃ、いってくる。もうあんな馬鹿な真似はするなよ」
「う、うん。父さんも気を付けて」
タイガは屋敷の庭でコウマに出陣の挨拶をしていた。
朝、目が覚めたコウマを待っていたのは母からの説教だった。説教は一時間ほど続いて、その後はタイガからの罰だった。
タイガの格好は夜の時のような薄い格好ではなく、装備に包まれている。
動きやすい着物に、手を包む皮袋、腕と脚を守る甲鉄、背中には昨日の戦いで片方の槍の部分が折れたバトン、腰のベルトには包丁ほどの長さの短刀二本と何等かの液体が入ってる小さなビン、導火線がついた丸い球体がついていた。
コウマの格好もいつもと違っており頭の上には五冊ほどの本が、手は横いっぱいに広げられて水の入ったバケツを持っていた。
こんな格好をしているのはタイガは金剛餓狼討伐のため、コウマは母の言いつけを破った罰である。
「ぼ、僕はいつまでこんな格好をしてればいいの?」
「目の前の線香が全部燃えるまでだ。燃えたら休憩していい」
目の前には、十本ほどの線香があり、どれも差はあるが少しずつ燃えていた。
「あ、それとズルなんてするなよ、後でサキちゃんが見に来るからな」
サキとは昨日の夜、コウマが助けた少女である。
昨日の一件で両親が亡くなったため、今はマイのところで怪我人の治療を手伝っている。
「わ、分かった。生きて帰ってきてね、まだまだ教えてほしいことがあるんだから……」
「こっちだってまだまだ教え足りないんだ。くたばってたまるか」
そういいタイガは背を向けて歩いていく。
(父さんがあんな装備をするなんて……それぐらい本気ってことか。)
コウマはその背中を見て思った。タイガは里の中で最強の存在だ。
彼が敗けるということはつまり自分たちは日々、金剛餓狼の脅威に怯えなければならない。最悪、里を捨てるという決断をしなければなくなる。
一度生まれた里を捨て、またこのカルラの里を捨てる。それは里の人間にとって屈辱だろう。
線香がすべて半分を過ぎたとき肩口まで黒髪を切り揃えた少女、サキが来た。
「あ、あの大丈夫ですか……」
「あ、うん。大丈夫、大丈夫」
「そ、そうですか」
「……」
「……」
サキの問いに答えると沈黙してしまい、気まずい雰囲気になった。
「親方様は大丈夫でしょうか……」
「多分、大丈夫だよ。森の中だから、足場も多いし有利だと思うけど……。いや、相手は全身を鎧で守っているようなもんだ。首につけた傷を狙わないといけないから厳しいな……」
コウマはタイガが敗けるとは思っていない。だが、相手は超級危険種、油断をしていい相手ではない。
しばらくすると線香は燃え尽きコウマは罰から解放された。
「ああ~、疲れた。肩が痛いよ」
「あ、あのこれ……使ってください。汗……かいてると思って」
そういって差し出されたのはタオルだった。
「うん、ありがとう。使わせてもらうよ」
「い、いえ」
コウマがタオルを受け取るとサキは俯いたが、すぐに顔を上げて尋ねてきた。
「あっ、あの……どうして私を助けたんですか?」
「えっ、どうしてって……」
サキの質問にコウマは困惑した。
「助けて欲しくなかったの?」
「い、いえ!そうじゃなくて……私を助ければ食べられて死んじゃうところだったんですよ!それなのにあなたは私を助けてくれました!どうしてですか!」
強めの口調で問われたため、コウマはあの時の自分の思ったことを思い出して答えた。
「自分でも正直なところ……わかんない」
「……え?」
「いや、助けにいったら僕もピンチになるのは分かってたんだ。相手はあの化け物オオカミだ、逃げれるわけない。けど、オオカミが君を食べるところを想像したら、「嫌だなぁ」と思ってね。そしたら体がすでに動いていてね、君を助けていたんだ。……要するに僕は君を死なせたくないから助けた。……それが理由じゃダメかい」
その言葉を聞いてサキは顔を真っ赤にしていた。
「わ、私、マイ様のお手伝いに行ってきます!」
サキは顔に手を当てて逃げるように走っていった。
「あ!タオルはいいの!?……行っちゃった」
残されたコウマはサキの行動に驚いたが、ふと討伐にいった父を思い浮かべた。
「父さん、大丈夫かな……」
コウマは胸騒ぎを覚え、空を見つめた。
タイガが森に入って二日がたった夜。
タイガは体力を回復するため、太い木に登っていた。
金剛餓狼を見つけるのは簡単だった。右目を潰した際に流れた血の跡を追いかけたら、近くの山の洞窟の中に潜んでいたのだ。
遭遇したら、すぐに戦闘に入った。前回の戦いで右目を潰したため、死角が出来、そこに潜り首に付けた傷に集中して攻撃した。
同じ場所に高速で連撃を行い、相手を砕く。
タイガが『影』で初任務をこなした時から使ってきた最も得意とする攻撃。相手を砕くことのみを追求し、先代の当主である父もタイガの威力まで届くことがなかった必殺の高速精密連撃だ。
タイガはこの技に絶対の自信を持っていた。自分の戦いの結晶だと。だが、その自信も揺らいでいた。
「はぁ、はぁ、……あの化け物オオカミめ!あと何回撃ち込めばくたばるんだよ!」
木の上で休んでいたタイガはもう何回目となる言葉を叫んだ。
金剛餓狼の首に打ち込んだのはいいものの、相手の防御力と体力は予想を遥かに超えていたのだ。
その数は四百を超えており、それ以上は数えてなかった。
金剛餓狼の一撃必殺ともいえる反撃を避けながら、たった一つの傷に打ち込む。それはタイガの精神と体力をゴリゴリと削っていった。
体力の限界を感じたタイガは、腰につけた悪臭を放つ煙爆弾を使い撤退した。
幸い、金剛餓狼は追ってこなかったことにより、体力回復に勤しむことが出来た。
そんな戦い方をもう九回は行っている。
タイガは先端に鏃がある自分の愛用の武器、独鈷所槍を見た。自分の技に耐えるために鏃の部分の切れ味を潰して、耐久性のみを追求した試行錯誤の末に作られた特注の武器であり、長い戦いを共に潜り抜けた相棒だったが、初戦で片方の槍は折られ、残った鏃はボロボロとは言わないが欠けていた。
「悪いな、相棒。もう少しだけ付き合ってくれ」
タイガは木の上から降りて、十回目の戦いに挑んだ。