身体はもう十分動く。
今なら奴を縊る事とて造作も無い事だ。
だのに。 私は相変わらずこうして記録綴るに留めている。
その原因ははっきりしている。
私は迷ってしまっているのだ。
昨日の出来事を記したい。
奴がふらりと現れるとそこかしこの動く屍に何事か声を掛けはじめた。
呪文の類かと勘繰ったが、私にも同じように声をかけてきた。
家族が見つかった人がいるから会いに行く。 と言った。
先日屍人の兵に聞いた通り。目覚めて二日目にも奴から聞いた話。
あの時はにわかには信じられず、 また、冒涜的であったため聞くに堪えなかった話だが、 此奴は戦場で斃れた戦士を家族に引き合わせる為に働いていると言うのだ。
背律と偽善の入り混じった妄言を、無茶苦茶の抑揚で話す此奴に、私は心底嫌悪感と侮蔑を催したものだった。
だが。
ここ数日奴のその所業が気にかかっていたのは事実だ。
いや今や、それは興味から関心に変わっていることを白状したい。
あの光景を見れば、私のこれまでの信仰にわずかばかりも歪みが起きるのは無理からぬこととどうか許してほしい。
奴に連れられて深い森や誰もいない荒野を歩いた。
皆歩調が遅い為、退屈を抑えきれず、 私は奴と話をした。
何故全員で移動するのか。
放っておくと勝手にいなくなってしまうから置いておけない
何故こんなことをするのか。
これから行った先で多分わかる
何処に行くのか。
都から足で一日程の場所の村らしい
何故今なのか。
家族が見つかったから、 また支度ができたから
支度とはなんだ。
死人を喋らせるには準備が必要だという。 例の作業か
神を何だと思っているのか。
世界
世界。 奴はそう一言で済ませた。
神とは、尊き創り主だ。
この試練の大地もまた神の創り錫た物であるなら、確かに神は世界そのものと言えるだろう。
だが、奴の言い草には畏敬の念は感じられなかった。 ただ当たり前の事のようにそう言った。
神は世界。 どういう意味なのだろう。
とはいえ、やがて件の村に到着した。
村の外れの林に息を潜める私たちの前で、 奴が何事かぶつぶつと唱えると突然辺りに霧が発ち込めた。 隣に居る者の顔を見るのがやっとと言える視界の塞がりに、 恐怖よりも焦燥が募った。
此奴、 やはり村を襲う気ではないかと胸騒ぎがした。
が、奴は我々に一瞥するとフラフラと歩いて行ってしまう。
皆がそれに続いた。 共に歩くのは奴に付き従っているようで遺憾だったが、 もし本当に村を襲われては敵わないので、私もそれに倣った。
霧に塞がれていたが、少なくない人気がその向こうから伝わってくる。
だのに、村人は誰も突然沸いた霧を不思議に思ってはいないようだった。
怖ろしい術。 もしこれで都を襲われたらと思うともう流れない冷や汗が背筋を伝う心地だった。
家々の垣根に沿って歩く内、 奴は柵を跨いで越えた。
足が有ったのか驚く間もなく、 皆よちよちと柵を越えていき、 近づくにつれ小さな家の裏手と思しき外観が見えてきた。
そこでは、物干しからいくつかの布を降ろす女の姿が在った。
女は手を止め茫然として奴を見ていた。 やがてその顔は恐怖に歪み、家へと駆けこんでいこうとしたが、足が縺れて倒れようとした。
私は駆け出して地面に触れる前に抱き止めたが、 女は私を突き飛ばして尻もちを搗きながら泣いて許しを乞うていた。
キィと音がして見れば、 家の裏手からまだ幼さの残る少年が現れた。
少年は最初灰色の景色と倒れた女を見てすぐに顔色を険しくすると奴と女の間に入って女を抱きすくめた。
勇敢な少年だった。 大声で奴を威嚇し、母親なのだろう、 女を必死で守ろうとしていた。
それをしばらくじっと見ていた奴は不気味な唸り声を上げた後、 ゴモゴモとくぐもった、歌のような詩のような不思議な言葉を紡ぎ始めると、 私の後ろから甲冑姿の者がゆっくりと歩み出て行った。
少年はその姿に身を竦めたが、 甲冑の内から響いた声に目を丸くし、 縮こまっていた母親も顔を上げた。
右手の先は切り飛ばされ、 身体の至る所に槍や矢が刺さったままの怖ろしい姿の怪物が目の前にいる。 私は最初、 また恐慌に陥ってしまうと憂いに胸を曇らせたが、驚くべきことに二人は涙ながらに甲冑に縋りついて歓呼の声を上げたのだ。
甲冑はそっとふたりの背に手を回し、 何かを呟いている。
悍ましい光景だった。
死者が動き、 生者に触れている。
だのに。 私はそれから目を離せなかった。
泣きじゃくる二人の顔が悲痛で、 それでいて安堵に満ちたものだったからだ。
甲冑は頻りに謝罪を述べているようだったが、 二人はそれを許しそれから三人は何度も愛を囁き合っていた。
奴は、 と見れば、時折低い唸り声を上げながらそれをじっと眺めていた。
どれくらい経ったか。 甲冑が二人の肩をそっと離すと、 奴の方を向いて頷いた。
奴がまた低く何かを呟くと、霧が一段と濃くなり奴以外の他に見える者は無くなる程に周囲が染まっていった。
名残惜し気に振り返る甲冑と、 それを見送る二人。
やがて霧の真ん中に浮かぶように立つ奴だけが残り、一つゆっくり頷くと踵を返してまた柵を越えて林へと向かっていった。
私も慌てて後を追い、 そしてこの洞穴に戻ってきた。
甲冑の者は、霧が晴れた道中の林で突然倒れ伏し、私と他の者で担いで帰ってきた。
男は事切れ、元の躯と成り果てていた。
奴は彼をここに埋葬するというが、死んだ場所で埋めねば神は掬い上げてはくださらぬと告げると、 神はそこまで不器用じゃないなどと宣う。
奴が器具を用いて甲冑を取り外すのを、 私は黙って見ていた。
露わになった男の顔は、肌青白く目は落ち窪み、 左の目は抜け落ちて眼窩を篝火に晒していたが、酷く穏やかで安らかな笑みを浮かべていた。
奴の手で裸にされた男は、外で穴を掘っていた別の死人の手も借りてゆっくりと土の下に送られた。
私はずっと教えを守ってきた。
律とは正しきことであり、 また幸福であると断じてきた。
だが、 死者を蘇らせ、 死者が歩き、生者に触れ、誤った地に葬られる。 この全てが間違っている一連の出来事の間、 有ったのは人の安らぎだった。
そしてあの少年の透き通った力強い目の光。
あれは