飛来せしラロウド
◆
その日の夜、一筋の流れ星が地に落ちた。
禍々しい赤錆のそれは、不吉の象徴──凶星として、周囲の村々へと知れ渡った。
◆
雪の降る寒い朝だった。霜走りのイーラにとっては気にもならない、稼ぎ時の一日である。
その自慢の健脚を持ってして村々を渡り歩き、言葉を運ぶ……伝言を届けることこそ、イーラの役目だ。
今日の山模様や野生動物──狼の目撃情報など、伝えるべきことは山とある。その全ての情報を記憶し、辺りの村へと告げて回ることこそ、霜走りのイーラの毎日の仕事であった。
その日、彼は雪道をものともせず、最近異常に数を増やした狼の情報を村々へと伝えるべく、足を動かしていた。
元より勝手知ったる山。木々の隙間を縫うように歩を進め、いつも一休みをする開けた空き地へとたどり着いたその時、ふと、足を止めざるを得ない光景を目に入れる。
切り株に腰掛けた何かが。
そう、
『らるろろろろ……ろろろろ』
初めて見る造形。色は原色に近い赤か。
輪郭だけを見れば、それは幼子が粘土で作ったかの様な人型をしている。初めは粘獣が無理やり人間を象ったかと思ったが、それも違う。
その質感は、視界に入る情報を信じるのであれば。ツルツルのゴム質である。目や鼻、口のようなものも、適当に当たりを付けたように顔部分に偏在しており、一応は人と見てもいいのだろうか。
言葉が通じるのか……詞術を介するのかすらよく分からないその生物は、嫌に耳に残る、甲高い流音を絶えず発し続けていた。
どう見ても尋常ではない。
「霜走りのイーラ」はそれが何なのか気になった。不思議と恐怖は感じず、かと言って不安を拭いきるには不気味が過ぎる。
とりあえずは彼のゴム生物へと、声をかける。
「……君は?」
その声に、赤の人型は、ピタ、と声を止める。
そしてゆっくりと、首を90度横に曲げ、こちらを見据える。
『キリハ……キリハ? キリ、ハ、ラルロロ』
言葉、と言えば言葉か。しかし、ただ言葉を音として繰り返しているだけのようにも取れる。
つまるところ、この赤いゴム生物と意思疎通が取れそうには思えなかった。
『
「うぇ……僕はイーラ、霜走りのイーラだけど」
『ロクハシロラシリノイーラ……ロクハ、シロラシリ……ノ? イーラ……イーラ?』
少し流暢にはなったか。しかし、依然呟かれた言葉を繰り返すに過ぎない。
『イーラ。イーラだな。分かった。よろしく。イーラ』
──耳を疑った。
度肝を抜かれた、と言い換えてもいい。
なんにせよ、なんにせよ、だ。
彼の赤いゴム質の生物が、言葉を発した。
「言葉が、通じる。僕の言葉が、分かるか?」
『なるほど。おかしなことを聞く。
先程の、発されただけの言葉を繰り返す……反響言語が彼なりの冗談であったかのように流暢に言葉を紡ぎだすゴム生物。それは、今、自分の言葉を覚えたという。
詞術による会話が前提であり、言葉を覚えるという概念を持たない「霜走りのイーラ」には、眼前のゴム生物の言葉の意味を完全には理解することが出来なかった。
「君は、なんなの? 見たことも無い、その、姿をしているけど」
『ラルロロ……
「落ちてきたって……何処から」
『上からだ』
掌のない腕を天に突き上げ、ゴム生物は言葉を返す。もはや疑いようも無いほど、ゴム生物は言語を介していた。
「君は、なんなの?」
『
「ラロウド……二つ目の名は?」
『……二つ
何もかもが分からない。
そんな中で、目の前のゴム生物について確かであることは、彼の言葉に嘘が無ければ、ただ一つだけだった。
「飛来せし、ラロウド」
◇
【イーラよりハティノの風へ。霧散する木土。擦れる塵。起これ】
『……イーラよりハティノの風へ。
簡単な着火の詞術を行使するのに合わせ、ラロウドが言葉を紡ぐ。しかしてその詞術は行使されない。
詞術とは土地や生き物に意思を伝える事で現象を引き起こす術であり、言葉を合わせれば発動するものでは無いからだ。
「僕の言ってることそのまま繰り返したって意味ないよ」
その言葉に、ムキになったかのようにしきりに言葉を繰り返すラロウド。
まるで、詞術を知らない獣のように。しかし獣と言葉を交わせるわけがない。意味の無い仮定に思考を閉じる。
やがて、ふぅ、と、諦めたかのように一息零したラロウドは、詞術への興味を無くしたようで、次の獲物へと標的を移した。
『これはなんだ?』
「それ、って火の事……あっ」
燃え盛る焚き火へ、躊躇することなく手を挿しこむラロウド。反射的に手を引っ込めたのは、生物的本能が存在することへの証明だろうか。
『痛いな』
「火は熱いんだよ……いや、火を知らないって、そんなこと、ある?」
その疑問にラロウドが答えることは無かった。
『痛い、いや熱いか……なるほど。分かった、こうだ』
こうだ、と呟いたラロウドの腕が、徐々に黒ずみ、変色していく。そして、赤錆たかのように色を変えたその腕を、再び燃え盛る焚き火へと挿し入れ、ラロウドは関心したようにしきりに手を焚べていた。
その異様な光景に声を発することが出来ないままに、「霜走りのイーラ」はただそれを眺め続けていた。
◇
「そろそろ反対の村まで降りなきゃいけないんだけど……一緒に、来る?」
村の連中になんと説明すればいいのかまるで分かりはしないが、そんな提案が口を付く。
なぜなら、彼はラロウドを存外気に入っていたからだ。
しかし、ラロウドはにべもなく応える。
『いや、その必要はない。既に
赤、青、緑。目眩のしそうな程に眩い原色の光がラロウドの目から発され、まるで劇団のステージかのように目前を照らしだす。
咄嗟の出来事に対応することが出来ない。
身体が言う事を聞かない。
膝が折れ、一瞬の浮遊感。
受み身を取ることも出来ずにその場に座り込んだ「霜走りのイーラ」は、瞬きをすることすら出来ずにラロウドの目を呆然と見つめていた。
『らるろろろらろ、らる、ろろろろろ』
甲高い流音。その音がなぜ耳に残るのか、その理由は、今まさに解明されようとしていた。
「狼の、遠吠え」
『そうだ。彼ら
いつから身を潜めていたのか。辺りには、言葉の通じない、心を持たず、ただ鳴くばかりであった、そのはずだった生物達が犇めいていた。
彼らは唸りを上げ、今にも噛みつかんとせんばかりに涎を垂らし、「霜走りのイーラ」を睨め付けていた。
そんな
「ラロウド……なぜ、君はこんなことを。やはり、君とは、分かり合えない生物だったということ、か?」
『いいや、そんなことはない。ありがとう、イーラ。
ラロウド──凶星の先触れは、まるで十年来の友にそうするように、原色に光る赤錆た目を細め、朗らかに笑った。
──声が止む。
その日の夜、一筋の流れ星が──
それは詞術を理解しないままに、無数の言語を操ることができる。
それはあらゆる環境に順応し、適応し、進化を繰り返す。
それは詞術を介さない獣とすら対話を行い、懐柔させることが出来る。
意志を持たぬ獣を統べる、星を束ねる百獣の王である。
飛来せしラロウド。