いかにラロウドが逸脱の翻訳家と言えど、初めての言語体系を理解するのには幾許かのラグがある。
「ふわぁ……あなたのあいては、わたし」
『
理解の出来ない言語を発するという発想を持つものはこの世界には存在しない。
故に、その言葉はメナイサには理解の出来ないものであり、ラロウドのことは至極気味の悪い生き物に映った。
「……なに?」
『泡の大きさと弾ける量か……なるほど、理解した』
ラロウドの中で、ごぽごぽ、と泡が立つ音が鳴る。体内が急速に作り代わり、ラロウドがメナイサの在り方に“適応”していく。
これこそが、逸脱の適応力を持つラロウドの翻訳術である。
『君達は何故、戦う?』
果たして、その言葉はメナイサに理解出来るものとなった。
いきなり自身と同じ言葉を話したラロウドにも、メナイサが動揺することは無い。驚きを感じるには感情を動かす必要があり、それは面倒だからだ。
分かるようになったのなら、それで問題無い。
「アレカがそうきめたから」
『演劇、か。彼の脚本は
「そう。アレカはゆうしゃになるの。わたしも、それをみたいの」
アレカはメナイサに言ったのだ。メナイサやソライソに負けないくらい、おっきいことを成し遂げる、と。
『では、この脚本の結末を、君は知っているのか?』
「……? アレカはゆうしゃになるの。わたしはそれをみるの」
『そうか』
メナイサがそれを疑うことは無い。アレカがやると言って出来なかったことなど、たったの1度しかないのだから。
『彼の脚本では、君はここで死ぬことになっている』
「うるさい。しんで」
海が湧き、星を呑み込む。
第五幕。湧き出るメナイサ、対、飛来せしラロウド
◆
逸脱の適応を持つラロウドは、例え水中だろうと十全に活動することができる。
そして。
『“水行”』
ラロウドの魔術支援を受けた狼達も、同様に水中活動ができる。丁度、村人を海から救った時のように。
これで条件は対等だ。
とは、ならない。
「みんな、いってきて」
波の底から、光が立ち上る。
青白い燐光の群れ。
発光魚たちが、水面を飛ぶように頭上を囲い、一層強い光で狼達の視界を奪う。目眩しだ。
海の向こうから一本角の巨魚が躍り出た。
鋼鉄を思わせる角の槍は突き上げられた瞬間に周囲の水圧を歪ませる。
轟音とともに水が爆ぜ、数匹の狼がその衝撃に呑まれた。
竜に傷一つ付けることが出来なかった海の生物達は、決して弱かったわけではない。
『……衝撃波。なるほど、理解した』
ラロウドが唸る。
水中という場において、声を届かせるという行為そのものが至難の業だ。ラロウド以外にとっては、だが。
水の抵抗を計算し、音の歪みを絶えず修正し続ける。ラロウドの吠えは、水を震わせるたびに形を変え、陸と同じ明瞭さで群れに届いた。
狼たちは水流を裂きながら、ひとつの意識として泳ぎ始める。
ひとかたまりとなり、水の流れを加速させ、衝撃を拡散していく。
だが。
「むだ、だから」
巨大な影が浮かび上がる。
その外殻は鋼のように硬く、脚が海底を踏みしめるたびに砂が舞い上がる。鎧のような外殻を持つ巨蟹だ。
その甲殻の隙間から、無数の小さな生物が出入りし、ひとつの海底都市のように脈動していた。これがメナイサの持つ最大だ。
「まもってあげて」
巨蟹の甲羅が潮の防壁を形成し、狼の進行を遮断する。
爪による引き裂き、牙による噛みつき。その全てが甲羅の前には歯が立たない。
今のラロウド達に、これを覆せる有効打は、魔術しかない。しかして、ラロウドの魔力には限界がある。ヒジリのように何でもできるわけではないのだ。
故に。
『らるろろろろろ』
ラロウドは逸脱の翻訳家だ。意味を読み解き、そして伝えることにこそ、それの特別はある。
『ウオォォォン!』
多数の狼による、強い言葉を込めた遠吠えが、内なる力を呼び覚ます。
この世界の者は会話を別の法則に頼っている。だが、狼達は違った。
「それ、なに?」
『魔術だ。I……私の使っているものと同じだよ』
ラロウドの配下の獣は、一匹残らず“彼方”よりの魔術形態を擁している。
◇
凶星が落ちるその前に、ラロウドは落ちてきた。この星から人を守るためである。
『ぐるるる……』
山中。
狼が一匹、飛来せしラロウドを警戒している。
この世界の狼は群れで行動しない。
数が多ければ多いほど、人に見つかりやすくなるからだ。
群れた獣は対処に骨を折る。この世界の民の常識であり、狼もまた、それを認識していた。
獣には、明確な意思がある。詞術を介す生物は誰一人として知らない事実だ。
『……』
思念を飛ばす。丁度、ヒジリにしたことと同じように。想いを直接飛ばすのは何より簡単で、ラロウドの好みだった。
返答は無い。この生物は思念で疎通する訳ではないと理解し、狼の言葉を再現する。
『らるろろろ』
発したのは流音。狼の言語は分かりやすく、ラロウドはすぐにそれを理解する事ができた。
狼とラロウドは、言葉を交わす。
この地に落ちて初めての会話だった。
『ウォォォン』
『らるろろろろろ』
──わかった。
心を伝えるのは、ラロウドの得意とするものだ。
つまるところ、狼は死にたくない、種を絶やしたくないのだ。
ラロウドは違わない。それはただ全てを訳し、言葉を紡ぐ存在だ。
狼は自身の仲間を呼んだ。群れることはないが、複数の狼によるコミュニティは存在する。そうしなければ、生きていけないからだ。
ラロウドは、狼に生きていく為の力を伝える。
生きていく為の力とは、すなわち魔術だ。
ラロウドはヒジリの言葉を翻訳し、魔術を伝える。発声方法も言語体系も世界すらも全く違う
逸脱の翻訳家であるラロウドにはそれが出来た。容易いことだった。
『らるろろろろろ』
──人を助くのだ。君達が生き続けるには、人と手を取り合う必要がある。
ラロウドなら、それができる。
ラロウドになら、いずれ人と獣が手を取り合う、新しい時代を築くことができるのだ。
◆
ラロウドに扱える魔術は多くは無い。言葉を届けるのみで使える詞術とは違い、魔術とは己の内に秘める魔力を使い、様々な現象を呼び起こすものだからだ。
例えば星を堕とすなどという天変地異の様な現象を引き起こすには、膨大な魔力が必要となる。この世界でそれができるのは、神籬のヒジリただ一人である。
だが、狼にもそれが使えるのなら。共に魔力を込め、言葉を合わせ、全く同じタイミングで詠唱したのなら。
『らるろろろろろろろ』
海が割れる。
音も無く、衝撃すらも無く、空間ごと裂ける。
詠唱の同調。これはヒジリにも成せない、ラロウドだけの秘奥だ。
「なんなの、もう」
巨蟹の殻が真っ二つに割れる。致命傷だ。
中に潜む魚達も無事ではない。
「やめてよ」
自身の子供が失われていく。
メナイサにはそれが耐えられない。
「【メナイサの子供へ。拡散する慈愛。練り込む紅果。赤熱波動。洗え】」
巨蟹の組織が結合し、元に戻っていく。多種多様な魚達も、その全てが元通りに再生していく。
自身の育てた数多の生物を対象とした生術は、逸脱の保育士であるメナイサにしか無し得ない妙技だ。
「いやだけど、やらなきゃ」
メナイサの言葉に魚達が動く。
攻撃か……否。
魚達が取った行動は、避難だ。
「【メナイサの海へ。昏き底を混ぜる。震える標。星を右に。回れ】」
海の一部、ラロウド達中心としたその場所が紫色を帯びる。
環境が変わる音がする。
それは自身の一部を生物にとって致命の物に変えてしまう環境変化の詞術。絶死海とは別の、メナイサの切り札の一つだ。
適応の逸脱を持つラロウドにその攻撃は通用しない。だが、狼達は。
血の混じった泡を吐く彼らに即座に反応したのは、やはりラロウドであった。
『らるろろろろ』
ラロウドの吠えに従い、狼達が戦場から離脱する。
「にげるの?」
『I……私は逃げないさ。君を放っておけば、多くの犠牲がでるからだ』
「ひとりで、たたかうの?」
『ふ』
ゴムで出来た星獣の顔からは、表情が見えない。だが、その無機質な
『
「しんで」
ラロウドの死角から、覆い隠すように帳が迫る。
周囲の色に同化する擬態能力を持ち、毒に耐性のある軟体生物だ。そもそも、今この場を満たしているのは彼らの毒を再現したものである。
帳とはすなわち口である。多足の中心に大きな口を持つそれは、ラロウドを頭から飲み込もうとしている。全身を噛み砕いてしまえば、いかなラロウドと言えど生き残れないだろう。
『ああ、既に仕掛けておいたよ』
軟体生物が、見えない力場に弾かれるように吹き飛んだ。
初めから、読んでいたのか。
ラロウドには知りえないことのはずだった。それこそ、上から波の揺れでも確認しない限りは気づくことはない。そのはずだった。
『ぴぃ、ぴぃ』
鳥が上空を旋回している。俯瞰した視点は、戦場において破格の情報量を持っている。
その視点を、ラロウドと共有する術を持っているのだとしたら。
『ひゅるるるる』
ラロウドが従えるのは、狼のみに限らない。
それは、星を統べる百獣の王である。
◆
心を持たぬ生物とは、狼のみではない。
鳥や兎、虫に至るまで様々な生物が詞術とは異なる法則で生きており、そしてそれらはこの世界の住民にとっては、倫理を問われる形態ではない。
彼らは虐げられるべき存在であった。
ラロウドだけが違った。彼らの言葉に耳を傾け、理解をしてくれた。共に生きる術をくれた。
だからこそ、獣たちはラロウドをこそ王と認めたのだ。
獣と心を通わせ手を取り合い、統べたラロウド。
魚をただ自分の手足とする為に育み、従えたメナイサ。
2体の違いはそこにあった。
ラロウドが命じずとも、獣達は己の意思でラロウドに味方する。情報を与え続けてくれる。
その情報の全てを、逸脱の翻訳家であるラロウドはキャッチし続ける事ができる。
ラロウドはアレカの脚本を読んだが、その通りに動けるわけではない。
アレカの脚本は、演じることを前提に作られたものではない。むしろその逆、自然に行動したはずのそれを演技として落とし込むことこそ、アレカの脚本の真髄であった。
足運び一つとっても正確に再現出来なければ、蝶の羽ばたきがいずれ嵐を起こすように、全てが狂ってしまう。
だからこそ、ラロウドは終わりのみに注視することが出来た。
メナイサが起こす間違いこそが、その好機であると分かっていたからだ。
「やっと、わかった」
対象を観察し続けていたのは、ラロウドだけでは無い。
メナイサが苦戦していたのは、ラロウドの身体構造を知ることである。通常、自身の領域内に取り込んだ対象は、即座に自身の子供として詞術の対象にすることができていた。逸脱の保育士であるメナイサにのみ可能な神業だ。
だが、ラロウド──
だからこそ、メナイサはラロウドをずっと調べていたのだ。
そして今。
「メナイサからラロウドへ──」
メナイサは、自身の海に入った者を自身の子供と定義し、言葉を届けることができる。
その、はずであった。
「なん、で」
ラロウドに言葉を届けることは出来ない。
なぜか。
それは、至極簡単な一つの答えだ。
『らるろろろ、ラロウド。それは、I……
ラロウドとは、彼の個体名を指すものでは無い。
名前の分からない者に、在り方を理解の出来ない者に声を届けることは出来ない。
ラロウドに、詞術は通せない。
◇
全ての心持つ生物が詞術で会話できるこの世界でも、生まれたばかりの子供がすぐさま流暢な言葉を扱えるわけではない。成長していく中で、内なる言葉の体系を自然に形作っていく必要があるのだ。
そうして自分だけの言葉を身につけていく過程の中で、その言葉が身の回りにある物事にも語りかけられる言葉であることにきづいていく。それが現象を動かす詞術だ。
飛来せしラロウドは、客人だ。
ここより以前には、他の客人がそうであるように、“彼方”と呼ばれる別世界に存在していた。
他と違う点をあげるとするならば、それはラロウドが“彼方”の地球とは違う星から来た存在であるという点だ。
その星には、大気も重力も存在しなかった。
彼らを地に縛るものは何もなく、宇宙空間に適応した生物こそが、ラロウドの祖だった。
重力ではない異質な結合によってまとまった彼らは星そのものであり、丁度ボールを真っ二つにしたような形状の超々巨大生物だった。
それを観測できた者には、ただ“半球の星”、
とだけ呼ばれている。
その生物には、会話という機能が存在しなかった。ニューロン伝達による情報のやりとりのみを行う彼らにとって、言葉は不要であった。それぞれがひとつの細胞であるが如く、彼らはそれぞれの責務を全うしていた。
彼らはひとつの生命体に等しい存在だったのだ。
そんな彼らから、ラロウドが逸脱した所以はただひとつ。
彼だけが突然変異個体であり、あらゆる環境に適応できる逸脱を所有していた。
それに気づいた半球の星は、ラロウドに地球への接触を命じる。遥かの先にあるその星の生物と交流を計ることこそがラロウドの使命だった。
だが、ラロウドはその逸脱が故に世界から見放され、ついぞ地球に降り立つことは無かった。
神籬のヒジリとの会話は、ラロウドの生に置ける初めての会話であった。
個ではなく、ただ全であったラロウドに言葉は不要だったのだ。
同時に逸脱した個であり、理外の適応力を持つラロウドにとって、内なる言葉とは、存在する意味の無いものだった。
飛来せし
個にして全であり、それ以外を知らない彼は、一つ目の名を持たない。
◆
ラロウドは名前を持たない。正確には、メナイサが詞術を届けることの出来る名前を持たないという意味ではあるが。
「なんなの、なんで」
『
そしてそれは、メナイサにも同じ事が言えた。元々ただの粘獣であったメナイサもまた、大海を取り込んだ事で自我が引き伸ばされ、自意識が薄くなっていたのだ。
そう。湧き出るメナイサとは、ただの粘獣に他ならない。
であるならば。
好機に行われることとは。
初めに掛けた水中適応の魔術は、狼だけに向けたものではなかった。
『きゅい、きゅい』
傍らの小動物が褒めて欲しそうに頭を差し出している。ラロウドはその頭を軽く撫で、それが抱える球体の物質を受け取る。
「それは」
『極小のこれは、広大な海である君を維持するには、あまりにも小さいと言えるだろう』
メナイサの胎内には、多種多様、様々な魚達が犇いている。
「どうして、それをしってるの」
彼らはそもそも何かを騙ったり、思考を制限するなど考えを起こすことすらない。
故に、それは至極簡単な翻訳だった。
『教えて貰っただけだ』
「それ、は、だめ」
粘獣には核と呼ばれる部位がある。
『君の命だ。潰せば終わる』
ラロウドの手の内に、メナイサの命が握られている。ぞわりとした悪寒が駆け巡る。
それを潰されたら、メナイサは死んでしまう。
モナドが、ひとりぼっちになってしまう。
「だめ。【メナイサの海へ。昏き底を混ぜる。震える標。星を右に。回れ】」
海が沸騰した。
泡が吹き出し、天地が掻き混ぜられる。
もはやラロウドは立つこともままならない。
メナイサの核がその手からこぼれ落ち、その場から吹き飛ばされる。
なりふり構わない、自身の子供の犠牲にすら厭わないそれは、メナイサの焦りの現れだった。
しかし、ラロウドの適応能力はその程度の障害を意にも介さない。すぐに外皮の形質を変えると、再び核に向けて泳ぎを進める。
「【回れ】」
ラロウドが溶ける。メナイサの海が、溶解毒のそれへと変貌する。
「【回れ】、【回れ】、しにたくない……【回れ】、モナド……」
ラロウドが適応が追いつかないほどに、海の性質が切り替わり続ける。
海を育て続けたメナイサの終着点。
毒から毒へ、環境が様々に入り乱れる。
その全てがラロウドを大きく蝕んでいく。
メナイサは、自身たる海の領域において、絶対の権力を持っている。
全ては、あの地獄から始まったことだった。
◇
少しばかり密度が大きく、浸透圧の影響を受けやすい特異な
少しばかり体積が大きく、他の植物に寄生することの出来る特殊な
メナイサとラロウドは、それぞれが特別な生まれの突然変異であり、二匹は偶然にも独りぼっちで、惹かれあった。
二匹は種族を超えた絆で結ばれており、互いに身を寄せ合うようにして暮らしていた。
災厄が訪れたのは、そんなある日のことだった。
「あー? なになに、何こいつら、面白」
じろりと睨め付けるような瞳は、生物のことを実験材料としか思っていないような、この世の全てが自分の為に存在すると、本気で信じているような、そんな昏さを秘めていた。
「ハハハハハッ! いいねえー! 俺がもっと
その日から、粘獣と混獣の地獄は始まった。
開かれ、刻まれ、結合され、掻き混ぜられた。苦痛だった。
実験は丁度、小一ヶ月程続いた。
「うーん、飽きたなー。単一の機能は面白いと思ったんだけどなー。そんなこと無かったかも」
男は突然変異である珍しい粘獣と混獣を戯れに弄り回し、そして興味を失った途端に一切の躊躇いもなく放り捨てて消えた。
「まー、少しは楽しめたかな。お前ら、俺に感謝しろよー。じゃーな! ハハハハハハ!」
名を、色彩のイジックという。
イジックは最悪だった。
粘獣は浸透圧による自他の境界を受け付けない身体に改造された。そしてイジックは、粘獣をあろうことか、湖に捨てたのだ。
特に理由は無かった。その方が長く苦しむかな、と思っただけだ。
自我が拡張され、自己の領域が不鮮明になった。溶けだしそうな自意識を繋ぎ止めるために、粘獣はこの湖を自分のものとし、操りきるしか無かった。苦痛だった。
自分が薄く、引き伸ばされていく感覚。ふわふわと浮き上がるのと、ずしりと沈みこむのを混ぜ合わせたような感覚。
それでも、粘獣がそれを耐えられたのは、傍らの根獣が、自らの体を使って更なる水の流入を堰き止めてくれていたからだった。
もし、他の水流と合流してしまえば。
もし、雨でも降ってしまえば。
粘獣の自我は水に溶け、消えていってしまっただろう。
そうならないように、根獣はぐずぐずに根腐れして行く自身の身体を省みることなく、ずっと粘獣を守り続けた。
森を維持するべく聳え立つもの。
根獣はいつしか、その土地を、山をも自身の身体として取り込んでいた。
そして、転機は訪れる。
生きとし生けるものは、長く苦しんだその分だけ救われるべきだ。
「だれ……?」
「うわ、なんだこいつ。水が喋ったぞ」
どれだけの時間が経ったのかも定かではない。
「あー、
「みて、る? みてる」
明後日の方向を向きながら、その
「はっ、ついに俺にも御鉢が回って来たってわけか?」
辺境の山奥らしいこの場所に人間が現れるのは珍しい。
大体が喋る湖を恐れて逃げていった。討伐隊を組まれた時は流石にもうダメかと思った。根獣が追い返してくれなければ、死んでいたかもしれない。
「いいぜ、ならばここを俺の“過去編”としよう」
でも、その人間は特異な見た目の粘獣と根獣を目の当たりにしても、怖がったり排除しようとしたりもせず、どころかキラキラとした目でこちらを見てくる。
「俺とお前らは今日から家族だ。名前は……メナイサとソライソ。いい名前だろ?」
名を、開闢のモナドという。
◆
「【メナイサの海へ。天地の境。捲られる帳。時を堕とす。開け】」
天地がひっくり返る。
海内の圧力がめちゃくちゃになり、強烈な海流が発生した。
『……ふむ』
「どっかいって……はやく、はやくしんでよ……」
『できない。I……私には使命がある。まだ、死ねない』
ラロウドが水の抵抗を受け流す為の膜を生成する。身体すらも流線型に変質させ、少しずつメナイサに適応していく。追いつかなかった適応が、徐々に追いついていく。
一歩、また一歩と歩みを進める。まだ核には至らない。ラロウドが手放したメナイサの核は、海流の中心に守られるように安置されていた。
はやく殺さないと、自分が死ぬ。
でも、まだ大丈夫だから。そう、思っていた。
ラロウドの目だと思しき器官が細かく分裂する。虫の複眼のような見た目のそれは、海流の隙間を容易く見破る動体視力を要していた。
そして、ラロウドが、メナイサの核を
『“転来”』
魔術。視認した物を手元に送る、召喚の魔術だ。
再びラロウドの手に、核が渡る。
「いや、いやだ……【メナイサの海へ。寄る辺の際。沈み込む影。熱の無い顔。落ちろ】」
苦し紛れに放った詞術は、静電気を発生させる弱い熱術だ。
しかしそれは以外にもラロウドに良く効いた。
水に対する適応は粗方完了しようとしていたラロウドにとって、それは新しい概念だったからだ。
手足が痺れ、核を取り落としたラロウドがその場に倒れる。
メナイサは水流を操り、自身の核を再びラロウドから突き放す。
横たわったままのラロウドの口に当たる部分が、忙しなく、忙しなく動いている。まるで何かを復唱するように。しかし、それはメナイサにも、どころかこの世の誰にも分からない言語であった。
全ての心持つ生物が詞術で会話できるこの世界でも、生まれたばかりの子供がすぐさま流暢な言葉を扱えるわけではない。成長していく中で、内なる言葉の体系を自然に形作っていく必要があるのだ。
そうして自分だけの言葉を身につけていく過程の中で、その言葉が身の回りにある物事にも語りかけられる言葉であることにきづいていく。それが現象を動かす詞術だ。
いかにラロウドが逸脱の翻訳家と言えど、初めての言語体系を理解するのには幾許かのラグがある。
『なるほど……
メナイサは初めから間違っていた。
「全く別の、I……私だけの言語が必要だったのだな」
ずっと、ラロウドは聞いていた。
ラロウドに詞術を聞かせ続けてはいけなかった。
メナイサが強烈な海流で、麻痺したままのラロウドを自身の胎内から追い出そうとする。
しかし、もう遅い。
「【メナイサの海へ。一様に静止し、歩みを妨げることの無いように願う】」
ラロウドは、詞術を翻訳してしまった。
逸脱の言語である、詞術に適応してしまったのだ。
言葉を持たないが故に全ての言葉に適応する逸脱の翻訳家は、史上でも類を見ない、詞術を使う客人となった。
◆
海が静止する。世界の終わりがそうであるように、メナイサの終わりもまた、近づいていた。
麻痺に適応したラロウドが、ゆっくりと歩みを進める。メナイサは何もできない。海は止まってしまった。もう動かすことはできない。
メナイサは、ここで死んでしまうのだ。
「うぅぅ……」
お母さんになりたかった。
モナドがお父さんで、ソライソはお兄ちゃんだ。
そして、いつかモナドとの子供を作って、そうして三人で育てていくんだって。
奇跡を起こせばいい。
メナイサの存在は奇跡だった。ソライソも奇跡の産物で、そんな二匹がモナドと出会えたのも、また奇跡だった。
メナイサの世界は奇跡で溢れている。だから、メナイサは一点の曇りもなく奇跡を信じることが出来ていた。
「うぐ、うぅぅ……うぅぅぅ」
奇跡は起こらない。
だってこれは、アレカの拵えた舞台だから。
全ては脚本の通りに起こることで、メナイサはもう助からない。
ラロウドは、メナイサがここで死ぬと、脚本に書いてあったと、そう言っていた。
メナイサは、アレカに見捨てられたのだ。
海が震えることはない。
だが、メナイサは泣いている。
ラロウドが、メナイサの核を拾いあげる。もう、それを止めることはできない。
「あいしてるの、モナドを」
「愛、か。理解する。I……私は、この地の生物を皆、愛している」
ラロウドの言うことは間違っている。メナイサは、モナドのことだけを、ただ1人だけを愛しているのだ。
「あなたには、わからない」
「……あなたには、わからない。I……私には」
「じぶんがないあなたには、わからないもん」
お母さんになりたかった。
お母さんは、子供のやることを叱って、そして笑って許してあげないといけないんだ。
「アレカ……ほんとうに、どうしようもなくて、いけないこ」
ここにモナドは居ない。メナイサはひとりぼっちだ。
でも、モナドはどこに居たって、メナイサのことは全部わかってるから。
だから、言わなくても伝わることを、
「でも、ゆるしてあげる」
ソライソを見殺しにしたこと。
メナイサのことを利用したこと。
無謀にも勇者なんて目指したこと。
ぜんぶぜんぶ、ゆるしてあげる。
だって、わたしはあなたのお母さんだから。
「だから、もういちどだけ──」
とぷん、と沈み込む。
第五幕。勝者は、飛来せしラロウド。
色彩のイジックさんに来てもらってます。
半球の星は、一問一答にて言及のあったゴカシェの図書館にある書物に記載されている星です。名称以外は捏造です。