ハティノの道すがらが水没した。丁度、アリモ列村へと続く道である。
残るは遠くイターキへと続く道を残すのみとなり、他は山に囲まれている。ハティノの地はほとんど、外界から隔絶されたといえるだろう。
アリモへと向かおうとしていたテンデにとって、それは良くない事象であった。
「はぁ、本当に水浸しだ。向こう岸が見えねぇや」
ただの水溜まりだったのなら、何とか渡ることもできただろう。だが、それは水溜まりと呼ぶには深すぎた。
ここが元々急勾配の坂だったことを感じさせない程に水が溜まっており、それが自然に出来るようなものでないことは明らかだった。
「一体誰がこんな馬鹿なことを……それに、この匂いは……塩か?」
磯の香り。
海を見たことの無いテンデにとって、その香りは単に塩と同義に思われた。
その水に興味を持ったテンデは、身を大きく乗り出して水面を覗き込む。
水の中は少し濁っており、目を細めて見なければ、中がどうなっているか見えづらい。
よおく目を凝らして見れば、何かが動いているようにも思える。
そして。
水中に存在する何かと、
「うわっ!!」
驚愕の事実に体勢を崩したテンデは、地面がぬかるんでいることも原因して大きく足を滑らせることとなる。
果たして、彼は水の中へと吸い込まれていった。
ずぶり、と。身体が水底へと沈んでいく。
慌てて手足をばたつかせるが、足が地面に届かない。いや、地面が無い。ここは坂道だったはずなのに、まるで底の無い穴のように、深い。
水中で息はできない。それは地上で暮らす生物にとって当たり前の知識である。
では、なぜテンデは溺れていないのか。
パニックに陥りかけた意識が、ふと、違和感に気付く。
苦しくない。肺が水を求めている感覚がある。吸い込んでいる。水を、吸い込んでいる。
肺に水が溜まる。だと言うのに、支障がない。
それどころか、心地よささえ感じる。まるで羊水に浮かぶ胎児のように、温かく、安らかで。
深い。
どこまでも、深い。
光が届かない。上下の感覚すら曖昧になっていく中で、テンデは沈み続けた。
そして、気づいた。
目だ。
大量の視線が、テンデに向いている。
闇の中、無数の光点が瞬いている。それは星空ではない。生物の、眼だ。
根源的な恐怖を呼び覚まされるような感覚。
「【テンデよりハティノの水へ──】」
その声が、ハティノに届くことは無かった。
不発に終わった自身の詞術を不審に思う。
まるで、ここがハティノではないとでもいうかのような。
なりふり構う時間などない。もがき上がろうとするが、身体は動かない。いや、動かす必要が無いと、何かが囁いている。
「うごかないで」
初めて聞く声。だというのに、どこか心地いい。まるで、原初に刻まれた母のような。
徐々に、目が慣れてくる。
闇に溶け込んでいた輪郭が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
魚だ。
見たことも無い形状の魚が、そこかしこに泳いでいた。
平たく薄い身体で、ひらひらと泳ぐもの。触手のようなものをうねらせるもの。発光する器官を持ち、青白く光を放つもの。甲殻に覆われ、無数の脚をうごめかせるもの。
巨大な一角を持つ魚が、ゆっくりとテンデの横を通り過ぎる。その角は槍のように鋭く、だが攻撃の意思は感じられない。
透明な身体を持つ小魚の群れが、きらきらと光を反射させながら舞う。その動きは統率されており、まるで一つの生命のようだった。
それらが、テンデの周囲を取り囲むように、ゆらゆらと漂っている。
恐怖は、不思議と薄れていた。
彼らに敵意は無い。ただ、物珍しそうに、テンデを観察しているだけだ。
不意に。
魚達が一斉に左右に分かれ、道を作る。
出来上がった道を悠々と泳いでくる生物が居た。
それはテンデの何倍もある巨体であり、流線形の体躯には毛が無く、濡れた皮革のように鈍く光っていた。
下半身からは太く長い触腕が幾つも生えており、それらを覆うように硬い殻が重なり合っていた。
聞いたことがある。
海という、水底の地を統べる種族。
「
「あ? ……
底冷えするような声色は、どこか幼さを感じさせる。
先程聞こえた母を思わせる声と違うことだけは、容易に理解することが出来た。
「あ、足を滑らせて……気づいたらここに」
「しるか。なら、早く出て行け。今は忙しいんだよ」
ウルナの口から、ごぼごぼと泡が漏れる。
それは次第に渦を成し、テンデへとぶつけられる。そうして、渦を成した泡に包み込まれる。
「な、なんだ!?」
視界が歪む。
世界から放り出されそうな悪寒。
「【テンデよりハティノの水へ──】」
咄嗟に発動しようとしたのは、水よけの詞術だ。だが、先程と同じように、それらがハティノに届くことはない。
「詞術が、発動しない……」
「当たり前だ。ここはママの領域だぞ」
深獣はこの水地そのものが名前を持つ土地であると、ここはハティノではないと、そう言っている。
「じゃあ、出ていけ」
ウルナの触手がひと振りされる。水の抵抗を一切感じさせない動きによって、触手が叩き付けられる。
痛みは無い。全てはテンデを包む泡の渦が吸収したようだ。だが、勢いそのままにテンデは水面の方へと飛ばされてしまった。
とてつもない浮遊感に、気持ちが悪くなる。
やがて、吐き捨てられるように水中から放り出され、地面へとべちゃ、と吐き捨てられた。
「な、なんだったんだ……」
困惑のまま呆けること暫く。
鈍る思考を徐々に回転させ、目の前の現実を受け止める。
アリモへと続く道は水没しており、その水溜まりには深獣を含めた無数の生物と、それがママと呼ぶ何かが存在する。
いち村人の理解できる範疇を優に超えている。故に、テンデに分かることはただのひとつだけだった。
すなわち、この地に何か良くないことが起こっている。
この事実を皆に伝えなければ。
震える膝に拳を叩きつけ、無理やりに立ち上がろうとする。しかし。
「──きた」
それはその場の誰のものでもない声だった。
泡のはじけるような音であるそれは、テンデにとって認識のできる“声”だった。すなわち、先程の母を思わせるそれと同じ声だ。
しかし、そんなことは既に思考の隅に追いやられていた。
水没した道とは違う方向、つまり道すらない山中の方向。その先にあるのは、魔王死せる地、クタであるはずだ。
そこから現れる者がいた。
巨大だった。血濡れの身体は無数の傷が刻まれており、その傷は彼女の持つ巨大な鉈によってもたらされたものであると、容易に想像することが出来た。
「い、嫌だ。助けて。声が、声が聞こえる……! 怖い怖い怖い!」
彼女の顔には抗いようの無い恐怖が刻まれていた。恐らくは、身体の傷なんかよりも深い、心の傷が。
誰の目にも明らかだった。
「魔王軍」
ここは最後の地、クタにほど近い土地である。魔王軍を目撃したのも数回やそこらではない。
ハティノの土地が今も存続しているのは単なる偶然に過ぎない。いつ滅んだとしてもおかしくはなかった。
丁度今日こそがその日であると、テンデが覚悟するのにそう時間を擁することはなかった。
しかし。
「ふわぁ。アレカのいうとおりだった。“いらないやつ”がきた」
泡が弾ける。声は水面から聞こえている。
「いってきて、ウルナ」
「ママ。うまくいったらたくさん褒めてね」
否。声を発しているのは、まぎれもなく、水面そのものであった。
水たまりであったはずのそれが、波となって大きく盛り上がる。
波の中には包み込むように深獣が内包されており、それらはうねるようにして巨人へと向かっていく。
未知の現象を前に、波に鉈を振り下ろす巨人だったが、ぬっと伸びた触腕にそれを阻まれる。
「ママに触るな」
巨人の膂力、それも脳のリミッターが外れているであろうそれを難なく受け止め、そして腕を締め上げる。
巨人が狂乱に喘ぎ、その場から逃げ出す為の一手を打つ。
「【ベ、ベルカよりハティノの土へ……嫌だ……蠢く群影。鉄の期限……怖い……砕ける波……孵れ!】」
詞術の詠唱。
水浸しの地面が幾つも盛り上がり、小山を作る。
「ふん、
爆破。形成された小山を起点として、光が炸裂する。意味は無いと分かっていながら、テンデは身を屈めて衝撃に備える。
しかし、何も無い。起こるはずの衝撃、そして炎と音を吸収するように爆破を蓋したのは、ウルナの発した泡に他ならなかった。
「それだけか?」
自身の詞術を完全に防がれた巨人だったが、隙をついてウルナの触腕から逃げ出すことはできた。荒い呼吸からは刻まれた恐怖を色濃く感じ、見ているだけでこちらが狂ってしまいそうだった。
そして、巨人はテンデの方を見た。
「ひっ」
「た、助けて、声が聞こえる……聞こえるんだ!」
その言葉とは裏腹に、巨人の身体はテンデを殺すためのそれを遂行した。
振り下ろされる鉈。しかし、それを防いだのもまた、深獣の触腕だった。
波はウルナを巨人の元へと運び、ウルナはその触腕にてテンデへと迫る鉈を防ぐ。
「そっちは狙うな」
ウルナはテンデを守ってくれたのか。それはわからないが、事実としてテンデは助かった。恐怖で腰が抜けたテンデは、動けないままに眼前の攻防を見続けるしかなかった。
そしてそれは再び遂行される。
「【ベ、ベルカよりハティノの土へ……蠢く群影。鉄の期限……砕ける波……孵れ!】」
爆破の詞術だ。今度は確実にテンデも巻き込める距離。ウルナが泡を吐こうにも、テンデの真下から爆破が起きればそれも出来ないだろう。
テンデに抗うすべはない。ここでその命は潰えるはずだ。
だが。
何も、起きない。
二度目の詞術は、そもそもが不発に終わることとなった。
「な、なんで、どうして」
「どうした? ここは既に、ママの領域だ」
地面から潮の香りが滲み出る。ぬかるんだ土は、その全てがあの湖に侵されていた。
「【ウルナよりメナイサの海へ。透き通る空。零下の蔓。夜狩りの針。発せよ】」
深獣は、ハティノとは言わなかった。メナイサの海と呼ばれたその湖から、鞭のような形状の水が迫り上がり、巨人へと迫る。
「く、来るな! ううあ〜〜ッ!」
巨人は人族の頂点だ。
深獣は海の頂点である。
であるならば、この地が海となった今、
水の鞭が巨人の足へ絡みつく。巨人は力無く鉈を振るが、水であるそれは切れた傍からくっつき、物理が意味をなさない。
そして鞭の根元を持ったウルナがその触腕を大きくうねらせる。
力は鞭を伝い、増幅されていく。
その先端にある巨人の足がふわりと宙に浮く。
そして。
それは巨人を、釣り上げた。
「ぎぃ〜!」
逆さ吊りのまま山の方へと放り投げる。木々をなぎ倒しながら、巨人は地面に叩きつけられる。
「もう近づくな。次は殺す」
「ひ、ひぃ……たす、助けて……」
巨人は翻って駆けてゆき、そのまま山の奥へと消えていった。
ウルナを包む波が収縮するように湖へと戻っていき、やがてただの水溜まりへと戻る。
その光景をぼう、と眺めていたテンデは、ようやく取り乱すことができるまでに精神を持ち直した。
「な、なんなんだよ、一体どうなってんだ!」
「ふわぁ。うるさい、なぁ」
声が聞こえる。ウルナではない。
水面が波紋を作り、音となっているのだ。
「おまえは、なんなんだ」
「わたしは
かつて、開闢のモナドという魔王自称者がいた。山脈を動かし、海を割ったとされる強力な詞術士だ。
三年程前に
そんな開闢のモナドが作りし魔族がふたつ、
「どうしてこんな所に、そんなやばいのが現れるってんだよ……」
「“げき”をするの。そのためには、あなたがいなくなるとこまるの」
「げき……劇?」
メナイサの言葉は要領を得ない。劇とは何を指すのか、なぜ自分が居なければならないのか。
その答えが明瞭に帰ってくることはなかった。
「もう、いっていいよ」
次はないかもしれない。
海の気まぐれひとつで、テンデは命を落とすだろう。
踵を返し、ふらふらを歩みを進める。
一度たりとも、振り返ることはなかった。
そして。
メナイサが水底から浮かび上がらせた拳大ほどの物体。
それは、防水加工が施されたラヂオだった。
「あれ、なんだったの?」
〈裂震のベルカ、英雄だ。最も、今となっちゃあ見る影も無さそうだが〉
「ふぅん。おいかけなくていいの? またくるかも」
〈
「そっか」
ラヂオの先に居る人物は、ラヂオ越しの音声を傍聴していただけであるというのにその正体をピタリと言い当てた。
「あっちは?」
〈テンデも。放置でいい〉
「いわれたとおりにしたけど、よかったの? わたしが、ばれちゃうよ」
〈問題ない。テンデは村には
「そうなの?」
まるで見てきたかのように。そうなると分かっているかのように断定的な口調で、ラヂオの主は続ける。
〈そもそもからして、テンデがここに来ることは俺の
彼は常人には理解出来ない結論ありきで喋っている。メナイサはそれを良くはわからないが、それはいつもの事なのであまり気にしないことにしている。
〈俺の知覚範囲を超える奴なんて、そうは居ない。ってことは、選択肢は絞られてくる〉
おそらく顎に手を当てて思案しているんだろうな、と。声色だけでそれが分かるくらいに、彼の
〈村の方向にメナイサの子を放てるな? それで村に干渉してるやつを炙り出す〉
「むらびとがしんじゃわない?」
〈大丈夫だ。いざとなったらヒジリがどうにかする。そうなるように
「そっか。じゃあ、いってきて、わたしのこども」
波が押し上げられる。
大きな波紋と共にメナイサから這い出たのは、人ほどの大きさの巨大なヤドカリやカニ、フナムシだった。それらはギチギチと音を鳴らしながらハティノの方向へと侵攻を始めた。
〈脚本は書き換えない。舞台は間に合わせる。その為に
凶星が落ちる数日前の出来事だった。脅威は確実に、このハティノの地を蝕みつつあったのだ。
〈それに、ダイダンガは既に動き出している。ミナギもだ。俺たちの前日譚は、もう始まってる。ここからが正念場だ。いけるな、メナイサ〉
「ソライソと、アレカのためだから、がんばる」
〈ああ、頑張ってくれ。愛してるぜ〉
「うん。わたしもね、だいすき」
凶星の舞台には、生きた海が存在する。
それは海と接続することで、自身の存在を大幅に拡張している。
それは自らの胎内を、
それは自身の育成した、無数の海洋生物を味方につけている。
あまねく生命を内包した、ひとつの
湧き出るメナイサ。
せっかく近いので、裂震のベルカさんに来てもらいました。