静かな夜。
伊地知虹夏は、頼りない足取りで下北沢を歩いている。
「……」
駅から自宅までの道がやけに遠い。
今日は、虹夏は一日休みだった。それを利用してバンドメンバーのひとりの家に遊びに行った。
その帰り道。自分の考えは思い浮かばない。なのに、考えたくもないことは何回も何回も浮かんでは消える。
好きな子の部屋での二人きりの時間。好きな子の忘れることのできない言葉。
『特にき、喜多くんは……』
そりゃそうだよね。喜多くん本人にはもっての他だし、その喜多くんが矢印を向けてるリョウに言うのだって怖いもんね。
『ど、どうすればいいのか、ぜんぜん、わからなくて』
そうだよね。もしかしたら初恋なのかもしれない。その自分の気持ちにどう向き合えばいいのかも、どう動けばいいのかわからないよね。僕だってよくわかる。今、僕も初恋なんだから。
『……むしろ虹夏くんじゃないと……』
そうだね。リョウでも、喜多くんでもない。僕だから言える。お互い、結束バンドの大事なメンバーで。ぼっちちゃんにとっては、僕は大事な
「……喜多くん、か。そりゃかっこいいもんね。イケメンで。誰にも優しくて。スポーツも勉強も万能で、成長著しくて……」
僕とは全然違う、才能のかたまりみたいな奴。
文化祭でも助けてくれた、そんな奴。好きになるに決まってるよね。
「……」
虹夏は、ため息すら付けないくらい、生気のない表情でトボトボと歩く。
結局、ひとりが自分の想いを告げてから、虹夏は流暢に言葉を出せないままだった。自分の吐き出した言葉にすら戸惑っていたひとりが、虹夏の変化に気が付くことがなかったのはいいことなのか、悪いことなのか。
『す、す、すみません、急にこんなこと……』
『ううん、いいんだよ。まあ、確かに驚いたけどね』
『そ、それで……』
『今は何も言えないけど……でも、頑張ってね。応援、するからさ』
『あっありがとうございます……』
『とりあえず、さ。喜多くんにはばれないようにしないとね。ぼっちちゃん、体が変形しないようにしないと』
『あぅ……』
そんな風に、思ってもいないことしか言えなかった。応援なんてしたくない。いいわけない。信じたくない。
喜多くんにばれてほしくないのは本心だ。でもそれは、ぼっちちゃんのためなんかじゃない。自分のためだ。
控えめに『ありがとうございます』というひとりがすごく可愛くて、それがどうしようもないくらいに嫌だった。
これから考えていたこと。リョウや郁三に冷やかされることのないように、少しずつひとりとの時間を作って、距離を縮めて。それで想いを伝える。ぼんやりと考えていたことが、全部否定された。
それこそ、これから自分がどうしていけばいいか、まったくわからなくなって。
でも、だからってこの想いを抑えることなんてできやしない。
昨日まで心の中で流れていた、流行りのラブソングが歌えない。
そんな、静かな夜。やっと、虹夏は自分の家に帰ってきた。
虹夏は緩慢な動きで自宅の扉を開けた。
「……ただいまー」
家に帰ればまず、靴を脱ぐ。日本人にとっての当たり前の行動。
それが、今日は少しだるい。
「お、やっと帰ってきたか」
姉がやって来た。伊地知星歌は、仕事帰りのラフな格好でいる。
「……姉ちゃん。ただいま」
「遅かったな……なんかあったのか?」
「別に。ごめん、ご飯作るよ」
「……それはありがたいけど、その前に部屋行ってこい」
「どうしたの?」
「お姫様が来てるぞ」
「あー……」
靴をそろえてしまって、星歌とすれ違って、そうして自室へ。
自室はもう光が点いている。自分が出かける前に消し忘れたわけでも、星歌が点けたってわけでもない。
扉を開ける。自分のベッドに目を向ける前に虹夏は口を開いた。
「なんでいんの、リョウ」
「お帰り、虹夏」
リョウが虹夏のベッドで寝転がってくつろいでた。さも当たり前のように、この部屋にある
上着を椅子に掛けて、鞄を置いて。立ったままゆらりとリョウに向いた。
「……なんでいんの?」
「バイト帰り」
「知ってる。だからなんでいんのって」
「ご飯作って」
「作るけどさぁ」
「嘘。今日はもうすぐ帰るよ。虹夏の顔も見たし」
「そう。珍しい」
リョウは寝転がったところから起きて、けどベッドからは離れない。
「はい」
「なにが?」
「座れば」
「リョウがいんじゃん」
「相席」
「しないよ」
「じゃ、私の席?」
「一度たりとも許したことはないんだけど」
ため息を吐いて、虹夏は大人しく椅子に座った。
リョウはバイト帰り、虹夏とよく話す。それは主にSTARRYの中でだけど、たまにこうして勝手に部屋に入ってくる。ひとりと郁三が加入する前は特に顕著だった。
虹夏としては自分の部屋なので、リョウにかまうこともほとんどない。適当にリョウのちょっかいをいなして、たまに本気でキレて……なんてのがいつものこと。
「……」
「……」
今日の最初は沈黙。
「帰り。遅かったね」
「……そうだね」
「店長もちょっと気にしてた」
「だからごめんって」
「どこに行ってたの?」
「別に。遊びに行ってた」
「誰と?」
「……別に、誰でもいいでしょ」
「でも、インドアの虹夏が」
「誰でもいいって言ってるだろっ」
少し強い声が出た。リョウの言葉が止まった。
「ごめん、言い過ぎた」
「……こっちこそごめん、虹夏」
立ち上がった虹夏の表情が、リョウには見えない。
「もう少し休んでれば。僕、夕飯作ってくるから」
「……うん」
虹夏が乱雑に──いや、淡々と扉を閉めた。
虹夏の部屋に一人取り残されたリョウ。動かない扉を数秒眺めてから呟いた。
「いや、なに、今の」
リョウにしては珍しい呻き。いや、それも虹夏の様子が明らかにおかしいからだ。
「……なに、今の」
虹夏のことを、性格も趣向も含めてよくわかっているリョウ。ここ数日の虹夏の様子がおかしいことは当たり前のように理解していた。
そしてここ最近で虹夏の様子がおかしい原因といえばもちろん……
「……ぼっち」
今日、STARRYでのバイトがあったのは自分だけだ。郁三は『この日は学校の友達と遊びに行くんですよ~!』と聞いてもないのに言ってきた。ひとりは特に何かがあるとは言ってなかったけれど、その何かがあるわけがない。家、つまり神奈川の自宅にいるはず。
虹夏はインドア派。外に遊びに行くなんてめったにない。それも自分に何も言わないなんてこれまでなかった。
『誰と行くの?』
『中学の友達だよ。ほら、あいつ』
『誰?』
『リョウも同じクラスだったでしょーが』
『どこに行くの?』
『秋葉原。
『私も行く』
『そう言うと思った。早く準備してよ』
大体この会話が通常運転だったのに。今日のあれはなんだ。
虹夏がここまで切羽詰まって隠すなんて、いくら何でも異常事態すぎる。
何か口実を作ってぼっちの家に遊びに行ったのか。でもそれだけじゃ温厚な虹夏があそこまでとがるわけがない。
……正直、ちょっと怖かった。
せっかく起きたのに、また頭からベッドに突っ伏す。漫画はもう持たない。代わりに枕を抱きかかえる。
「虹夏の馬鹿、ちょっと怖かった」
そうとしか言えなかった。
ベースが恋しい。
「……にじかのばか」
そのまま、しばらく動けなかった。
────
星歌、虹夏、二人の食卓。いつもの風景。もしここにリョウが加わると、いつもじゃないけどよく見る風景。
『いただきます』
姉弟の声が重なった。
星歌が回鍋肉をつまむ。虹夏がお米に箸を通す。
星歌がご飯を食べる。虹夏が味噌汁をすする。
星歌がスープを飲んだ。虹夏が回鍋肉をもぐもぐと。
この繰り返し。
星歌は虹夏を見て、口を開いた。
「……なぁ」
「なに?」
虹夏が返した。
「今日、なんか空気が張り詰めてねぇ?」
「そんなことないんじゃない?」
「……」
「……」
「いや、張り詰めてんじゃん」
星歌は思う。
そもそも家事をちゃんとこなしてくれる虹夏が、連絡もなしにここまで遅くなることが異常事態だ。加えて、帰ってきた様子もおかしい。リョウに対する態度もちょっとおかしい。
妙だ。
年頃のいけ好かない弟だけど、姉弟仲はいい二人。
「で、虹夏」
「なに? 姉ちゃん」
「別にいつもニコニコでいなくてもいいけどよ。そんなに辛気臭いとちょっと気になるだろ」
「……」
「今度、外で食べるか。久しぶりに」
「いいんじゃない?」
「それか、たまには二人でデートでもするか」
虹夏の眼が細くなった。
「姉弟でデートとか気持ち悪い」
「言うなよ。母さんの言葉、あったろ」
「はいはい」
「だからな。いい加減ちょっとくらい喋ろよ」
「……」
虹夏の口がひん曲がる。
「言えないよ」
「どうして」
「……秘密、だから」
「秘密ねぇ」
ほんわか男子の虹夏が、ここまでおかしな様子でいる。そもそも秘密なら『秘密だ』ということ自体、いつもの虹夏じゃない。
「なるほど。デートでもしてきたと」
「……」
「ははーん。図星か」
「……」
「リョウがいるのになぁ」
「リョウは関係ない」
星歌は虹夏とリョウの関係を知っている。リョウの虹夏への感情も、なんとなく察しはついてる。クズな性格は直してほしいが、少なくともロックなんて小さい世界で虹夏とペアを組んでくれている。そういうのもあるから、星歌としてはリョウも可愛い妹分だ。
そのリョウが、虹夏の周囲の女子を人知れず排除していることも。そのおかげで虹夏に今まで浮いた話がなかったことも。
だから、虹夏にしちゃ恋愛事はさぞ難易度が高いだろう。星歌自身、別に自分が経験豊富とは思わないけれど。
「もちろん秘密は大事だけど。それでお前が壊れちゃ元も子もないだろ?」
「……」
「絶対に、どこにも漏らさねぇよ。だから喋ってみろよ」
「でも、それじゃ秘密が……」
「結束バンドのみんなにまで迷惑かけるぞ?」
その最後の言葉が効いたのか、虹夏はついに白状した。
箸をおいて、肘をついて。虹夏としては行儀が悪いことこの上ない感じで。
「……ぼっちちゃんから、相談された」
「ぼっちちゃん家に行ったのか。なに、ぼっちちゃんのこと好きなの?」
姉としてはしきりに共感する。なんせ可愛いぼっちちゃんだ。
が、星歌がニヤニヤする間もなく虹夏は続けた。
「喜多くんのことが好きなんだって。ぼっちちゃん」
「んん……」
「……」
「……ん!?」
星歌がむせた。
(え? え!?)
STARRY開店以来の衝撃。星歌の脳内が嵐のように回転する。
や、そりゃ確かにちょっとヒヤヒヤしてたけど。ぼっちちゃんのお父さんとも半笑いで語ったけど。美男美女の結束バンドだーなんて言ったけど。
虹夏がぼっちちゃんを? ぼっちちゃんは喜多を好きで? 喜多はリョウLoveで? で、リョウはたぶん、虹夏を……?
(まじかよ……)
地獄の結束バンドが、そこにあった。
「虹夏……お前、それ」
「言わないでよ。ただでさえ、僕は今ぼっちちゃんのことを裏切ってる……」
「い、言わねえよ。神様に、母さんに誓うよ」
「そう……」
正直、まずいことを聞いたと星歌は後悔した。
「お前、どうするんだ?」
「わからないよ。どうしたらいいかなんて、わかるわけないよ」
「……だよな」
「ね。言ったところで、変わらない」
確かに、星歌も大したことが言えなくなった。
「姉ちゃんの馬鹿」
「ぐっ……」
虹夏が軽い駄々っ子モードになっている。冗談抜きで非常事態。
沈黙のまま、食事を続ける。めちゃくちゃ居心地が悪い。
お互い、めちゃくちゃ無口だった。めちゃくちゃ黙々と食べた。
食後。普段だったら、星歌はソファでだらりと。虹夏は食器洗いに精を出す頃合い。
「虹夏」
「なに」
「こっちにこい」
「食器洗いが──」
「今日くらい私がやる」
「……食器、割らないでよ」
ソファに二人して座る。
星歌が虹夏の頭を撫でた。
「……姉ちゃんのばか」
「ハイハイ」
しばらく、その時間は続いた。
「今度、またみんなでライブだろ? 今のうちに、吐くもん吐いとけ」
「……わかった」
どうすればいいか、わからない。
今はただ、気持ちにならない言葉を吐くのが精一杯だった。
────
数日後。結束バンドのSTARRYでのライブの日。
結束バンドメンバーも拠点でのライブには慣れてきた。だから、まず最初は全員でバイトから入る。
文化祭ライブから約一か月。
郁三への初恋を自覚して驚天動地なひとり。
ひとりのカミングアウトに心が乱れた虹夏。
虹夏の態度の変化に不安が募るリョウ。
今日も元気いっぱいにリョウを崇拝する郁三。
そんな結束バンドメンバーを訪ねる人物が一人……。
「あたし、《ぽいずん♡やみ》14歳で~す!! 結束バンドさんを取材させていただきにきました~! きゃぴ?」
STARRYに、《ぽいずん♡やみ》現る……!
X年後……ファン1・2号による結束バンド恋愛アンケート
Q3 好きな人に何を望む?
ひとり「……わ、わたしに気づいて……なんて」
虹 夏「そのままのあの子が可愛いし、かっこいいんだ……でもかわいい服着てほしい……」
リョウ「私のことに気づけ」
郁 三「何も望みません!」