虹夏視点
下北沢
東京都世田谷区下北沢。サブカルで若者が賑わうこの繁華街の一角にあるライブハウス。
地下にあるこのライブハウスは最近できた施設。太陽の光はなくて、人工の光に照らされる無機質な黒と灰色の機材たちが、少しだけ退廃的な空気が漂うダークな世界。
そんな場所で、
「──喜多君が逃げたぁ!?」
大声が反響した。収容人数だけで全てを語れるわけではないけれど、ここはそこまで大きくはない。加えてライブが始まる前で客はいない。ライブの開始よりそれなりに早い時間なので演者もいない、ほぼスタッフだけの空間だ。
そこで、仮にも男子高校生の肺から吐き出された大声。目の前の女子は思わず耳をふさいでいた。その顔に煩わしさはあっても、嘘を言っているようには見えなかった。
ギターボーカルが、逃げ出した……。
虹夏はもう一度、今度は弱々しく聞いてみる。
「マジ……!?」
「マジ」
思わずうなだれてしまう。視界には気合を入れて磨いていたテーブルの光沢。珍しい金髪が虹夏自身の視界に映るけど、さすがに顔まではぼやけて見えない。どんな表情なのかはわからなかった。
ほんの少しぐずついて、意を決して顔を上げる。目の前には、最近虹夏とバンドを組むことになった昔馴染みの少女──山田リョウが変わらずに無愛想な表情で自身の青髪をいじっている。平気な顔で、テーブルとセットの椅子に座っていやがる。
聞いてみた。ギターボーカルが、初めてのライブの直前に逃げ出した、だって?
「あれだけ『リョウ先輩に憧れて!』って言ってたのに?」
「マジ」
「『俺カラオケで高得点連発してますから!』って言ってたのに?」
「マジ」
「マジ?」
「虹夏。私の言葉を真似したって美声は手に入らない」
「こんな時までいつもの調子だな!」
そもそも最初に反復したのはリョウなのに。
ちくしょう。こっちの気も知らないで、なんて毒ついてしまう。
「どうすんだよ~……初のライブでギターが逃げ出したとか、そんな前例ある?」
「少なくとも最高にロックしてるのは確か」
「あーあーそうでしょうよ。リョウはなんでそんなに平気そうなの?」
「まあ、虹夏と比べるとキャラが違いすぎるし」
「ああ……」
人付き合いの少ないリョウにとって、虹夏とまるで違うタイプの異性なんて苦手になっても仕方ない。むしろ逃げたことで好感を持ったまであるかもしれない。
「って、リョウの変人っぷりなんてどうでもいいよ」
「照れる」
「照れるな」
虹夏はもう、ツッコミするのも疲れてしまった。
今日は、自分が結成したバンド初のライブの日だ。いつの日か描いた夢のために、小学校の頃からドラムを練習してきた。STARRYというこの
目の前の山田リョウは同じく小学校からの昔馴染みで、最近組んでいたバンドを辞めたと聞いて引き抜いた。
加えて、声をかけてくれた男子学生を加えて、三人。個人的には四人構成の4ピースバンドでやりたかったところだけど。3ピースでも、2ピースだって世の中にはバンドがある。
とはいえ、参加した三人目が何も言わずに姿を消したなんて完全な予想外だ。今日はインストバンドの予定だった。逃げたギターがメインだったのだ。
姉が作った箱で、自分が立ち上げたバンドが初めてライブをする、そんな少し感傷に浸れるような日になると思ったのに。
ただ演奏がうまくいかなかった、なんてレベルじゃない。このままではバンドどころかライブそのものがめちゃくちゃになってしまう。
「こうしちゃいられない!」
虹夏は立ちあがった。
「どうするの?」
「新しいギターさん探してくる!」
「えー、今から?」
「ここは下北沢! 探せばその辺に転がってるかもしれないしさ!」
「転がるギター……」
「ギターじゃなくて人! この際、下手でもなんでもいいよ!」
幸いというべきか、すべての決定権を持つ姉はまだ来ていない。今ならまだごまかせるかも知れない。
足早に駆け出す。鞄も何もかもおいていく。学校帰りの制服のポケットにケータイと財布を詰め込んだ、ほとんど着の身着のままの状態で。
「姉ちゃんにはうまくごまかしといて!」
何か文句らしいものを言っているリョウの言葉なんて、もう聞こえない。
地下から飛び出して、地上の下北沢にあがる。自分たち帰宅部の学生が帰ったばかりの昼下がりだけど、GW明けの季節は過ごしやすい。走ることに大した抵抗はない。
小走りでとにかく動いて、目に付く人たちの格好を確かめる。その人たちの中で、ギターケースを持っている人がいたらとにかく声をかける。男女問わず頼み倒す。「サポートギターをやってくれませんか」って。
当然断られた。当たり前だ。別の用がない限り、ギターケース背負ってその辺たむろしている方が珍しい。人がよくて痛快なら、もしかしたら快く引き受けてくれるかもしれないけれど。誘われるためにギターケース持って歩くなんてなかなかない。
二人、三人と断られた。これからセッションしなきゃとか、もうすぐ別のハコでライブがあるとか、そりゃ至極真っ当な理由だらけ。
けど、諦められない。そう簡単に始めたことを終わりになんてできやしない。
そうして、かいた汗が不快になるまで走った頃。
公園でギターケース背負って黄昏ている女の子を見つけた。
「あっ……ギターッ!?」
「ぃひっ!?」
断り続きの中で唐突に見つけたもんだから、虹夏は大声を出してしまった。しまった、と思ってももう遅い。叫び声は女の子に伝わって、その子は見るからにおっかなびっくり視線を上げてくる。
怖がらせちゃった。
ブランコのスペースにいたその子に近づいた。小動物を相手にするように、ゆっくりと。
ピンク色の髪色、来ているジャージもピンクの女子。履いてるスカートがたぶん学校指定のもので、同世代だと直感した。
少しうつむき気味な視線。努めて優しく、声をかけた。
「それってギターだよね。弾けるの?」
「……!?」
「あれ? おーい?」
返事がない。さすがにいきなり過ぎたのか。そりゃそうか。
女子との対話だ。同級生みたく適当にはできない。少しだけ佇まいを直してから、改めて口を開いた。
「突然ごめんね! 僕は下北沢高校二年、伊地知虹夏!」
「あっえ、と、
年下だ。日本には飛び級なんてまずないし、僕も留年はしてない。
たった数口の会話で変なくらい挙動不審になってるけど、別に逃げようとしているわけでもない。お願いしない手はない。
「僕、バンド組んでドラムやってるんだけど、ひとりちゃんはギターどのくらい弾けるの?」
「あっそこそこかと……」
上々の返事が返ってきた。
「そっかー、すごいね。それで、なんで急に話しかけたのかなんだけどね」
「あっはい」
「ちょっと今少し……いやそれなりに困ってて、無理だったら仕方ないんだけど……大丈夫なんだけどちょっと困っててさ」
ええい、ままよ。思い切って言ってしまう他に道はない!
日本人として恥じない45°の礼で頭を下げ、頭の上で手を合わせて拝みのポーズ。そして決まりは──
「お願いします! 今日だけサポートギターしてくれないかな!? ギターが突然バンド辞めちゃって……!」
もうこの際、下手とか上手とか関係ないんだ。ある程度弾けるなら、今日弾く曲は簡単にできるくらい。男子が女子にこんなお願いするなんて、なんだか本当にみっともないけど。
ちらりと、顔を上げてひとりちゃんの様子を伺ってみる。毎度毎度ここから断られたのだけど、彼女は特に否定の態度を示さない。というより──目が文字通り泳いでる。あれ、なんか物理的に動いてない?
沈黙が走った。繰り返すけど、否定はない。
「ありがとう!! それじゃあ早速ライブハウスへGO!」
本当にいいかどうか聞いてないけど、なんかいいや。時間もないし。