プロローグ 伽藍堂の月
人の気配がない山間に水底まで透き通った湧水池がある。池には空に登る月が綺麗に浮かび上がっている。凪ひとつない水面に反射した月は、まるで天と地の境がなく暗黒の中に月が二つあるような神秘的な光景。
そんな池の辺りには二つの影がある。ひとつは空の月に照らされた魔法使い。ふたつは池の月に照らされた少年魔術師。魔法使いは汗一つ、汚れ一つもなく、平穏無事健康息災な様子で眼前の少年魔術師を見下ろしている。
一方の少年魔術師は、体を泥で汚し、汗と泥が混ざり合り満身創痍疲労困憊の様子だが、どうにか体を起こそうと体をもがいている。
「う、はぁ、はぁ…まだ、ぐっは!」
少年魔術師は倒れた体を起こそうと必死に両腕に力を入れるも、体に流れる魔力の回路がオーバーヒート状態の体は少し起きただけですぐに体勢を崩し、地面にこんばわした。
それでも魔法使いへの敵意を失わない少年魔術師はどうにか顔だけを動かして眼前の魔法使いを腫れた目で睨みつける。睨みつけた魔法使いの目は、湧水池のようにどこまでもどこまで底が見えないような綺麗で澄んだ色をしているが、同時に終わりの見えない恐怖を少年魔術師に与えた。
その視線に応えるかのように、魔法使いは口を動かした。
−−−−天才魔術師って、こんなもの?…大分拍子抜け、とは言っても年相応か−−−−
少年魔術師は魔法使いの声が聞こえなかったことではじめて、自分の鼓膜が破れていることに気がついた。そんな状態でも不思議と魔法使いの言葉の意味だけは頭の中に響くように理解できた。
ただ、少年魔術師にとって魔法使いの言葉は意外そのものだった。
鼓膜が破れた少年魔術師はつい先程まで魔法使いと魔術の決闘を行っていた。結果は見ての通り少年魔術師の完敗で幕を閉じた。少年魔術師は生まれて初めて、完全敗北を味わった。過去にも敗北に膝を折ることはあったが、それでも次の勝ち筋は見えていた。だが今回はそんな未来の可能性すら見えないほどの完敗だった。
「ハァ、ハァ。うるさい、です…年相応?それなら、大人の、あなたは、もう少し、加減してくださいよ!」
少年魔術師は息も絶え絶えながら、せめての抵抗を試みる。
−−−−わかっていないわね、少年。鼻持ちならない子供の鼻を折るのも大人の義務というものよ。しっかり覚えておいて。見聞を広く持って、自分の実力を正確に把握できてこそ、おと…。いや、それはできているわね、君。むしろ、広い世界を若干十歳で理解しすぎている。こんな時分から未知がなくなってしまってら、探究心、生きるための原動力が決定的に不足してしまう。そうね、君はそっちのタイプだ。ブリキの木こりみたいで面白みがない−−−−
反発芯を持ちながらも、その言葉がスッと心の中に溶け込んだような気もする。少年魔術師は改めて魔法使いの言葉を反芻してみる。
少年魔術師は子供にして、世界の広さと世界の仕組み、人間社会の醜さを理解している。魔術師の家系にして、政を裏で支える家に生まれた彼は、生まれてすぐに魔術師として名家の子供として英才教育を受けてきた。そして、その尽くを周囲の期待以上の結果を残してきた。ただ才能があったわけではない。彼はそれに応えないといけない環境にいたから、ただそれに答えてきただけだ。人並み以上の努力も彼にとっては、生きるために必要な普通のことだった。耐久度と忍耐強さ、短い人生ながらそんな生活が彼に経験を与え、そして効率性を考えるようになる。結果、彼は天才魔術師に、権謀術数を操るそんな子供になってしまった。
その年齢で見る必要のなかった世界まで見て知ってしまった彼は自分がどれだけ優れているのかを、客観的に理解してしまった。驕りでもなく、慢心でもない、俯瞰的に見た結果自分が優れている存在だと気がついてしまった。そして世界の広さを理解すると同時に、世界への興味も失ってしまった。先の見えた世界に、それ以上探求する価値はなく、子供にして未知を無くした彼は周りが理想とする彼を演じるただの機械人形へと成り下がってしまった。
生への渇望、未来への野望、愛する人への想い、そんな誰でも持っている人としての原動力だけをなくしてしまった彼の目は、魔法使いの澄んだ瞳とは違い、黒く暗く濁った色をしていただろう。
しかし今夜、少年魔術師は魔法使いに出会えた。
魔法使いは気づいていた、少年魔術師のその歪なあり方に。だからとあるパーティー会場から彼を連れ出して、この山の中まで連れてきた。そして問答無用に、魔法使いとしての力を振るって、彼を壊した。壊すことしかできない魔法使いだけど、壊すことで始まる何かを知っている魔法使いだからこそ、破壊した。
少年魔術師が知っている世界のさらに外側にいる、人と世界の理から外れた魔法使いという存在が彼に未知という名の敗北を与え、生きるための原動力である心を見つけさせた。
「井の中の蛙大海を知らず、って言いたいんですか?はいはい、そうですね。あ〜痛い…」
−−−−だから逆よ。君は大海の鯨。でも私たちみたいな自分と世界を切り離した異常者は大海にはいなくてね、井の中にいるってこと。あと君、さっきから口が悪いわね。そっちが素顔か…生意気な子供ね−−−−
なるほど、と少年魔術師は思った。表の世界、裏の世界、それぞれの世界に生きる彼にとって常識的に考えれば彼自身は優れた人間であり、魔術師であることに変わりはない。しかし常識の外側にいる、明確な自分の世界を持つ異常者たちにはまだ遠く及ばない。自分はまだ世界の軛の中にいる小市民でしかなかったのだと理解した。
「口が悪いのは、あなたの上から目線が鼻につくからです。それが嫌なので、いつかは超えますよ、あなたをね」
少年魔術師は口に出して、自身でも驚いた。まさか自分がこんなに感情的な声を無意識に出したことに、そして初めて先の見えない無謀な賭けに人生を投じようとしていることに。
それは今までの彼の人生ではあり得ないことだった。
−−−−ええ、できるものなら−−−−
短く返答した魔法使いだったが、内心は満足感で一杯だった。
決闘前の少年魔術師の目は濁った汚い目をしていて、人生つまらなそうにしている顔もどこか気に障った。でも今の彼の目は、その瞳の奥底には魔法使いに対する執着による黒い深淵が覗き見える。それにどこか俯瞰して、客観的に、まるで機械のようだった魂と肉体と精神も、生意気だが人間的になっている。
魔法使いは少年魔術師の変化に大変満足していた。もちろん、魔法使いは少年魔術師のために一連のことをしたのではない。自分が彼の態度に我慢がならずその気持ちを発散させたかっただけ。理の外にいる魔法使いは世の大人みたく、良識で子供の面倒をしたりするはずがないのである。
−−−−えっい−−−−
満足した魔法使いはおもむろに少年魔術師の体を抱きあげて、そいっ、と空中に放り投げた。
「ちょっ、ちょいちょいちょ!」と少年魔術師は何が起きたのかわからないまま、空を舞って透明な池に投げ捨てられた。
バッシャン!と大きな音が、夜の森の静けさを破り去った。
少年魔術師は全身が水に沈み、満足に動かせない体では足をついて立つこともままならない。少年魔術師はしっかり沈んだ後に、浮力に任せて自然に体が浮上するのを苦しいながら待つしかなかった。やっとの思いで顔だけ水面から出して大きく空気を吸い込む。空気が口を喉を肺を心臓を通り、身体中に送られる。水中でだらしなく勝手に浮いている四肢にも新鮮な酸素が行き届いているのが、よくわかる。
「ぶっは!はぁ…はぁ…っく、はぁ、はぁ…」
少年魔術師は魔法使いへ抗議の言葉をあげようとするが、久しぶりに見た空に浮かぶ月の綺麗さに心を奪われた。
敗北してから地面しか見つめていなかったが、水没したことで初めて仰向けになり空を眺める余裕が生まれた。その空には無数の星々と夜の地球を照らす大きな満月が支配していた。
これまで何度も見てきた月がこんなにも綺麗に感じるとは。いや、それだけではない。さっき取り込んだ空気ですら美味しく感じ、生きるために必死に鼓動する心臓の振動をこんなにも感じたのは生まれて初めてだった。
−−−−やっと顔を上げたわね。うん今の方がいい顔をしているわ。さっきまではブリキの木こりみたいに下しか向いてないんだもの。その顔もよく見えなかった−−−−
ブリキの木こり。それは魔女と愛する人によって体と心を亡くして、ブリキの体となってしまった『オズの魔法使い』の登場人物。
「ブリキの木こりですか…いい例えですね。まるで僕みたいだ」
−−−−そうね。ブリキの木こりもあなたも、いつの間にか心をどこかに忘れてしまい、下を向いてつまらなそうに生きている。でも大変素敵な魔法使いに出会って、心を与えられる−−−−
素敵な魔法使いというところは訂正させて欲しいと、少年魔術師は心の中で思った。かたや壊し屋で、かたや詐欺師だ。
−−−−人間と魔術師には、心がある。人を愛する心、人を恨む心、頂きに辿り着きたいという向上心、世界を知りたいという向上心、より良くなりという野心。そういった理屈を抜きにした原始的な心が唯一人が持つものよ。成熟した世界で、その心を持てなくなってしまうと人は人でなくなってしまう。まるで、さっきまでの君みたいにね−−−−
少し前の少年魔術師ならば歯牙にも掛けない言葉が、今の少年魔術師の心には刺さった。
少年魔術師には間違いなく才能があった。しかしそれは全能の才能ではなく、万能の才能だ。生まれた時から何でも上手くできた訳ではなかった。敗北も失敗もしたが、それらも一つの経験として自己昇華し、次にはそれを克服できた。
魔術だけでなく、政治家の家系としての人心掌握も同様だ。様々な人間に出会い、多くの人を許容してきた。
故に彼にとって、魔術も学問も学べば手に入れられるただの知識でしかなく、祖父や父のように心血を注ぐ価値を見出せなかった。故に彼に友人はおらず、好きな人も嫌いな人もいなく、親族他人問わず人間の価値は等価だった。
物事にかける思いも、人に対する思いもない彼にとって、この世界はただ退屈な無色の世界でしかなった。自身の願望で何かをしたことなんて、一度もないのが彼のこれまでの人生だ。
要するに人が生きる上で絶対的に必要な「心」というものが欠けていた。
それは彼自身、認識していた。父や祖父が見せたような好奇心に取り憑かれた笑顔も、復讐を抱く知り合いのような苦しそうな顔も、彼に取り入ろうとする大人たちの下卑た顔も、近所の子供の浮かべる無邪気な笑顔も、自分にはできないと。でもそれが嫌だと思ったこともなかった。
ただ、「心」ないからなのか日々つまらなそうだった。そして周囲の人間も一人を除いてその退屈を感じる取ることもできなかった。
唯一、ここにいる魔法使いだけがそれに気づいた。そしてその顔を見ていると苛立ちを覚えたから、こうして若者に対する教育を行なった。先にも述べたが、魔法使いは彼のためにしたのではなく、自分の気持ちが良くなるためにしただけ。
今夜、魔法使いという運命に出会った少年魔術師は「心」を手に入れた。
今の自分でも未来の自分でも、魔法使いに勝てるビジョンが一切湧かなかった。彼にとってはそんな経験初めてで、困惑した。それと同時に魔法使いに勝ちたいと「心」から思った。
手の届かない空の星に手を伸ばすような無謀な行為、どうすればそこに到達できるのかもわからない、手段方法のない無謀な願望。客観的に考えると無駄なことだけど、今の彼にとっては心を焦がすほど求めてやまない願望が生まれた。
少年魔術師は生まれてはじめて「心」を手に入れて、人になった。
「あぁ…月が綺麗です。水が気持ちいい、爪に挟まった泥が煩わしい、森の空気が美味しい。あと、あなたがとても憎たらしいです。こんな気持ちになるのは生まれて初めてだ」
少年魔術師は独言る。
魔法使いはそれを聞いて、満足そうな笑顔で水面に足を伸ばし、そのまま水上を歩き出す。踊り子のような軽やかな足取りで少年魔術師に向かって歩き出す。水面には波紋ひとつ起きない神秘的な光景を少年魔術師はどうにか首だけ動かして見つめてる。不思議と目が惹きつけられる。
魔法使いは少年魔術師の顔上までやってきた。少年魔術師は魔法使いを見上げて、魔法使いは少年魔術師を見下ろして、その構図は敗者と勝者の構図。でも、それだけではない。
少年魔術師から見える魔法使いの姿は勝利者でなく、月光を一身にに浴びた輝ける自分の超えるべき存在者がただ気高く、美しく、まるで天から降りて来たかぐや姫のように。
−−−−うん、やっぱりいい顔をするようになった。その「心」は与えられたモノじゃない。「心」なんてものはね、魔法使いでも与えることができない代物よ。ブリキの木こりもあなたも、魔法使いからきっかけをもらっただけで、その「心」は紛れもなく、あなたから生まれものよ−−−−
そういうと魔法使いは、すーっと水面から少し浮かび上がった。かぐや姫が月に帰るようにそのまま月に消えそうな光景に少年魔術師はただ釘付けにされた。
満足した魔法使いは、自分がいるべき場所である自分だけの井の中に帰ろうとするが、最後に一つだけ、人になった少年魔術師に別れの言葉を刻みつけた。
−−−−さぁ、待っているわ。いつか君が私を殺しに来ることを。衛宮逸針(えみや いっしん)くん−−−−
これは少年魔術師だった衛宮逸針の幼き頃の記憶。彼がブリキの木こりから人として再誕した夜の短い出来事のお話。それでも彼にとっては生きるための原動力「心」になった。
心を手に入れた衛宮逸針は、魔術に対して、人に対して真摯に、真剣に、執着するようになれた。