そういえば、私の部屋の天井にも……。
いや、気にしすぎだろう。
仕事関係の知人S氏から、こんな話を聞いた。
単刀直入に言って、その部屋はいわゆる『よくない物件』だったそうだ。
短期契約のマンションは一般的なそれと比べて賃料が高いのが常だが、くだんの部屋は相場の半額以下であったらしい。
その部屋の話となると、仲介業者はとにかく渋る。これは冗談抜きに危険な話だと、柄にもなく興奮したという。
S氏は極道関係の取材も数多く経験してきた豪胆なルポライターで、危険なのも怖いのも一等賞はいつだって人間だ、と常日頃からうそぶいている。
そんなS氏だからこそ、というのも妙な話かもしれないが、仲介業者がこれほど渋る事故物件とはどれだけ危険なものなのか、好奇心が刺激されたらしい。
何が起こっても自己責任であるとの念書まで作成して、その部屋の契約を交わしたそうだ。
カメラマンを伴って出張してまで、体当たりで取材を試みたという。
東京での雑務を終えたS氏が現着したのは、十五時を過ぎたころだった。
玄関のドアを開けた最初の感想としては、部屋の中は至って普通で、ただ、嫌なにおいがしたらしい。
嫌なにおいといっても、悪臭だとか腐臭だとか、そういったものではない。ただなんとなくそう感じるという、とても抽象的な話だった。
とにかく、ここは普通の部屋ではない。
それだけは、一歩足を踏み入れてすぐに理解できたそうだ。
部屋の中に三脚つきのビデオカメラを設置して、動画撮影の準備をする。
S氏が駆け出しのころは、そんなふうにして、いわく付きの廃墟での心霊取材などもよくやったらしい。
確かな証拠が撮れるはずもなく、名ばかりの憶測と怪談話の切り貼りばかりで品のない記事にしかならないが、糊口をしのぐには欠かせない仕事だったそうだ。
ビデオカメラは三台とも暗視装置を使用しているから、暗闇でも何が起こっているのかを動画に撮影するのはたやすい。
なにより、緑のフィルターがかけられた映像というのは不気味さを感じるにはうってつけで、あとはオーブでも飛んでいればそれだけで三本は記事が書けるという。
そんな具合で、いつもの、というよりは初心にかえっての心霊取材が始まった。
カメラマンは室内を歩き回り、構図を相談したりして何枚かシャッターを切ってはS氏に確認をとる。幽霊というやつがどこに現れるかは不明であるから、記事にする以上、不気味に見える画はいくつあっても構わなかった。
細々とした作業の最中に、カメラマンがS氏を呼んだという。
なにを話したのか詳細は忘れてしまったものの、天井にあるシミが、都合よく顔認識されたということは覚えているという。
自分の目で見ても確かに顔に見えてくる天井のシミは、言ってしまえばシミュラクラ現象というやつで、人間に備わっている本能のようなものだ。
S氏も慣れたもので、その錯覚さえも記事のネタにできると手帳に書き留めておいた。これは私も見せてもらったが、その話は本筋と外れてしまうのでひとまず後に回しておこう。
S氏が取材の準備を終えた頃には、もうすっかりと日も暮れてしまって、窓の外は暗くなっていたそうだ。
腕時計の短針は、もうじき二十時に差し掛かるところだった。テレビ台の上にぽつんと置かれた電波式のデジタル時計も、同じ時間を表示している。
都会と違ってこの辺りでは夜も開いている店がなく、辛うじて見つけたコンビニエンスストアの弁当が、二人の夕食となった。
部屋の中で、カメラマンと雑談をしながらの夕食。不思議なもので、S氏はこのときの会話に関しても、にぎやかしとしてつけていたテレビ番組の内容ばかり覚えているという。
食事を終えて撮影した動画を確認し、あとはことが起こるまで別の記事を推敲する。
このときは仕事に余裕があったことも相まって、S氏の心境的にも気楽なものであったという。
柱時計が鳴ったのは、そんな矢先のことであった。
きりきりきりきり、ぼーん、ぼーん、ぼーん。
祖父母の家などで過ごした経験がある方なら、あの音を想像しやすいかもしれない。独特の音色からボンボン時計だなんて名前で呼ばれることもあるほど特徴的な音なのだ。
ぼーん、ぼーん、ぼーん、と古ぼけた感じのなんとも言えない音が、きっかり十一回、連続して鳴り響く。腕時計はまだ二十一時になる前で、柱時計の方がずれているのだとわかる。
そこでS氏は、異変に気付いた。
この部屋にある時計は、柱時計ではない。電波式のデジタル時計で、それきりのはずだ。
とたんに、ぶつんと音を立てて部屋の明かりが消えた。
S氏も、これにはさすがにおどろいた。
部屋の中は真っ暗な闇に包まれて、手を伸ばせば触れられる位置にいるはずのカメラマンの姿もまるで見えないまま。
ぱしゃり。
S氏がテーブルに置いたままのスマートフォンを探そうとしたところでシャッター音が響き、一瞬、部屋の中がフラッシュによって照らされる。
ぱしゃり。ぱしゃり。ぱしゃり。
ボタンを押しっぱなしにしているのか、シャッターを連続で切る音とフラッシュの閃光が、断続的に部屋の様子を暗闇の中で浮かび上がらせる。
光源にほど近いカメラマンは、どうやらその場に立ち尽くしているようだった。それから、カメラマンのすぐ上に、誰かがぶら下がっているのが見えたという。
ぱしゃり。
カメラマンと、ぶら下がるなにか。
ぱしゃり。
S氏は首吊り死体を連想したが、詳しくはわからない。
ぱしゃり。
ただ、黒い髪が長くて、女性に見える。
ぱしゃり。
真っ白な手が、カメラマンに伸びていく。
ぱしゃり。
S氏はそこで気付いた。
ぱしゃり。
女は首吊り死体ではない、天井から逆さまにぶら下がっている。
それきり、シャッター音も聞こえず、フラッシュは焚かれなかった。
少しの間をおいて部屋の中にあかりが戻ると、まるで何事もなかったかのように、さっきまで付けっぱなしにしていたテレビ番組の音声が聞こえてくる。
きつねにつままれたような気分とはまさにあれだろうと、S氏は笑っていた。
それ以上の異変は起こらずに、S氏は翌朝、すべての機材を撤去して部屋を後にしたという。
残り六日間の契約は残っているものの、とてもではないがあの部屋に残る気にはならなかったらしい。
S氏と共に部屋を訪れたカメラマンは、それきり消息不明のままだという。
ビデオカメラの映像を確認してみたものの、天井の女はどこにもおらず、カメラマンが窓を開けて飛び降りるところだけが映されていたらしい。
外には誰かが飛び降りた痕跡もなく、窓の内鍵も開いていなかったのに、だ。
それからS氏は周りの人間に確認しているが、誰ひとりとしてカメラマンのことを覚えている人間はいないらしい。
そもそもそんな人物はいなかったのか、それとも、記憶ごと丸ごと消えてしまったのか、それはS氏にもわからない。
最近では名前も顔も思い出せなくなっていて、カメラマンと呼称する他にないのだとS氏はぼやいていた。
この話を聞いたあと、S氏に尋ねてみたことがある。
今でもまだ、危険なのも怖いのも、一等賞は人間なのか。
私の質問に、S氏は笑って答えた。
「消えたカメラマンをネタにする自分もそうだし、渋ったくせに契約させるやつだって恐ろしい。だから、まだまだ順位は変わらないよ」
S氏はまた、くだんの部屋を取材してみたいと言っている。
次は私も一緒に来ないかと誘われているのだが、行ってもよいものかは疑問が残るところだ。
最後になるが、私も見せてもらったS氏の手帳には、不可解な言葉が残されているだけであった。
くだんの部屋の詳細な描写と、走り書きのメモの合間。
そこだけ別の取材をしてきたように、もしくは他人が書き込んだように、筆跡もまるで異なっている。
天井 お借りしています
私の部屋の天井にも、そういえば。
嫌なことを思い出したが、確かめる気にはなれなかった。